第一章ノ四
二人と一匹の旅は、順調に進んで二日が過ぎた。あと一日も歩けばカーシウェルの都に着くだろう。ユファは随分と懐が暖かいらしく、ルーシュの分まで気前よく宿代や食事代を払ってくれた。おかげで、宿場を横目に脇道に逸れて木陰で野宿をする必要がなくなり、それがルーシュには一番嬉しいことだった。反面、彼に負担を掛けさているという申し訳なさも生まれる。きっと彼が払っているお金は、彼自身が働いて稼いだ金であるか、もしくは主から旅費にと授かった物に違いない。
ルーシュはくいくいと傍らを歩いているユファの服の袖を引っ張る。目線を下げた彼に、
「金は、必ず返す。い、今すぐと言うわけにはゆかぬが……。は、恥ずかしながらうちの社はものすごぉぉぉく貧乏なのだ」
ルーシュの頬が赤く染まる。
「なにしろ、社からして長年の風雨で傷みに傷んでいるのだが、修繕費さえも出ぬようなありさまで……。食うのがやっとなのだ。だが、必ず金は返す! 当てはないが……でも! わたしはちょっとだけ占いができるので、カーシウェルで目的を果たしなたら、なんとか金を稼いでユファに返すから!」
言い繕いながらも必至な顔をする少女を、彼は驚いたように見つめすぐに破顔した。
「いいえ。どうか気になさらないで。これはお布施と同じようなもので、あなたに施した物が神々への捧げとなるだけなのだから」
しかしと、ルーシュは思う。確かに巫女と一般の市民とならそんな関係ですむだろうが、少なくとも自分達はいずれ夫婦になるのだから。その間に、こんな貸し借りがあるような関係は良くないと思うのだ。
(やはり、金は必要だ)
山を下りてからも、その事は何度も思った。社での暮らしは、生活のほとんどを山の恵みに頼り切っていたが不都合はなかった。むしろその恵みだけでも十分やっていけたが、山を下りてはそうもゆかない。破軍捜しにどれだけの時間がかかるのかわからないが、今ルーシュが持っているだけの路銀では、すぐにでも立ちゆかなくなってしまう。かといって、つねにユファに頼り切るわけにもゆかないのだ。
彼がカーシウェルへ赴くのには、主からの命があったからだそうだ。それがなんなのかは、尋ねてはいない。ルーシュも「人と物を捜しに」とだけしか教えてはいない。そんな彼にこれ以上無駄金を使わせるわけには行かないだろう。
「姫さま、鐘の音が」
懐の中の華々の言葉に、ルーシュは顔を上げた。道の先に、三叉路がある。右手の道から黒い行列が見えた。
「葬列だ」
ルーシュもユファも足を止める。回りの旅人も足を止めて、葬列を見やる。彼らはじょじょにこちらへと近づいてきた。先頭を歩く男が打ち鳴らす鐘の音に混じっていくつもの鈴の音が響いた。
紫の掛け布を被せられた棺が近づいてくるのを見て、ルーシュは眉を潜めた。
啜り泣きの声が小波のように耳の奥を震わせた。ぽつぽつと道行く旅人達が膝を折り、冥福を祈って頭を下げ、葬列が通り過ぎるのを待つ。ルーシュ達もそれに習って街道に膝を付いた。馬を操っていた行商人も、旅芸人達もみんな車から降りて地に膝を折る。しばし道は粛然とした雰囲気に包まれた。からんからんと鐘の音だけが、空気を震わせる。淋しい音色だ。泣いている、とルーシュは思った。死者を悼んで、鈴を鳴らす空気や風が泣いているのだ。故人は多くのものに愛された者だったのだろう。
黒い衣服に身を包んだ男や女達が、街道を過ぎって三叉路の左の道へと進んでゆく。ふと視線を上げて列を見れば、先頭集団にいる人々の腰に巻かれた帯の色は紫が多い。その次の一団は、ほぼ赤だ。稀に白が混じる。紫は神職者、赤は一般の弔問者で、白は死者の親族を指す。親族よりも紫の帯を締めている者が多い。ましてや、棺の掛け布も紫。
「おかわいそうに」という声がすぐ側で聞こえた。まだ若い女が、ルーシュの右隣で膝を折って、棺を見送っている。日に焼けた頬にうっすらと涙の後が滲んでいた。竹篭を背負っており、そこに野菜の束が見える。どこかの農家夫人だろう。彼女はルーシュの視線に気付いて、ぱちぱちと瞳を瞬かせた。
「知り合いか?」
ルーシュは自分が肩から下げている襷の色を見せて、問うた。彼女は驚いたように襷とルーシュを見やり、深く頭を下げた。
「はい。お亡くなりになったのは聖女さまです」
「聖女?」
「そこの道を行ったところにある村の社にお仕えしておられた聖女さまでしたが、つい二日前社に賊が侵入して……」
女は喉を震わせた。
「神宝を盗み聖女さまに手を掛けてしまわれたのです。とてもお優しい方でしたのに」
そう言って喉を詰まらせた女を、ルーシュは見る。
「そうか。……それは哀れだな」
「はい」
「しかし、それもまた星女神が与えた宿めだろう。誰しも宿業を背負って生まれてくる。その聖女もまた己の業に殉じただけ。しばし神の庭へと戻られ安らがれよう」
女は深く頷いた。嘆きは鈴と風の音に乗って人々の間を駆け抜けた。それを眺めて、ルーシュの胸の中にやるせない思いと、言い知れぬ苛立ちのような物を覚えた。
――――そんな葬列を、三度見送った。
暗い部屋に男が一人立っていた。彼は祭壇を眺めている。裾の長い衣服は引きずるほどで、濃い紫をしている。祭壇の上には小さな燭台とてらてらとした闇を映し込む鏡が飾ってあった。鏡の前には去年刈り取ったときのままの稲穂が数束飾られている。豊作祈願のためだ。水の女神カンナは豊饒の女神でもある。ゆえのカンナ女神に守護されたカーシウェルは豊かなのだ。
「祭主さま」
闇の奥から聞こえた声に男は振り返る。ぼうと浮かぶ顔は二つ。一つは少女で、その少女の傍らに男が跪いている。
「おまえたちか」
振り向いた男は、ずいぶんと若い。小柄な体に、紫と白を基調にした神官服を襟元まで詰めてきっちりと身に纏っている。両肩から金色の襷を下げ、縁には真紅の刺繍糸で母神樹の葉と花の模様が縫い込まれていた。祭主とは社に使える神官の長を指す。位で行けば聖女の次席になり、社の運営雑事を取り仕切る最高責任者のことだ。しかし、神官は能力優先の巫女とは違い派閥や年功制度を取り入れている事がほとんどで、この男は祭主と呼ぶにはあまりに若すぎた。女は傍らの男をそこに残したまま、祭主の元へと歩み寄る。蝋燭の小さな明かりの輪の中に入り込んだ少女は、祭主と同じ色調の服を着ていた。赤みがかった茶色い髪と瞳の、のっぺりとした表情の少ない顔をしている。
「これを」
男が闇の中から手を差し出した。その手に金環が一つ乗せられている。金環には赤い組み紐で金の鈴が二つ結ばれていた。祭主はそれを冷たく見やる。
「これがシリリアの村社にあった神宝か?」
男が頷く。それを見て、祭主は少女を振り仰いだ。彼女はちらりと男の手の中の金環を一瞥し、首を振った。
「霊威は感じられません」
「これも、紛い物か」
祭主の瞳に癇性の色が上る。男はそれを感じ取りびくりと肩を震わせた。怯える部下を祭主は一瞥し、傍らの少女に向かって口を開いた。
「次はどこを捜せばいい?」
「どこも捜す必要はありません」
淡々とした声で少女が言った。祭主がどうゆう意味だと視線で問えば、彼女は祭壇へと歩み寄って鏡を覗き込んだ。つるりとした鏡面は相変わらず闇があるだけだった。しかし、少女はそこに違う物を読み取ったのかもしれなかった。
「水が騒いでいる。慶びに震えている……」
少女は外見こそ無表情であるのに対して声は恍惚に震えていた。背に落ちる赤茶色の髪が、彼女の表に出ない心の興奮をなぞるようにうねうねとのたうって揺れている。
「女神のご来駕に水が祝福をしているのです」
「女神が?」
「破軍はすでにこの都にあるのでしょう。しかしそれは女神と共にはない。その為に破軍が女神を呼んでいるのです。ほどなく女神はこの都に参られます」
すうっと少女は鏡を指差す。
「眩い光が、東の方角からこちらへとやってくるのが見えます。それと同じように小さな光が、すでに都の中に」
「小さい光……それが破軍なのか?」
少女は頷いた。祭主は爪を噛んだ。
「では、破軍を我が物にする術はまだあるのだな?」
少女は瞳を伏せる。その小さな所作を、祭主は肯定と受け取る。声は独り言めいていた。
「いや、破軍などなくとも女神がこの手に入るだけでも、その意味は大きい」
破軍は奇跡の神宝であり覇者の武器だ。それを持つ者に栄光と勝利をもたらすという。が、その伝説は真実ではあるが正しくない。破軍の持ち主は、つねに一人きり。それは悠久より変わらない。破軍の正当なる所持者は、女神ただ一人なのだ。エル・シーアがただ一人地上を迷う我が子に与えた宝。破軍とは女神と共にあって覇者の武器となる。それを知らぬ愚か者は、破軍さえあれば己が覇王となれると思いこんでいるが、滑稽な思い違いだ。
富と権力が欲しいのなら、女神こそを手に入れるべきなのである。破軍は、つねに女神と共にあるのだから。
「女神さえこの手にできれば……」