第一章ノ三
ルーインの国は、母神樹がある首都ユグドラシルがちょうど国のど真ん中に位置しているので、街道はその王都を中心に放射状に伸び、それぞれの道を横道が編み目のように繋いでいた。
治安の良い国で女の一人旅を見かけることがさして珍しいことではない。都や、町、村々の間にはきっちりと舗装された街道が通り、道なりに商いを営んでいる姿もよく見かける。宿場も豊富だ。荷車を引く馬やロバの姿や、行李を手下げた男や、背に荷を背負って歩く女の姿がよく見かけられた。行商人や旅芸人、野菜を隣村まで売り歩く農家夫人、ヤギや牛を連れた旅の乳売り、貸本屋、中には他国の旅行者や商人の姿も見受けられ様々だ。街道が旅人や商人達で賑わうのは、国が豊で繁栄しているからだとルーシュは本で読んだことがある。その通り、ルーインの国は永らく戦乱から遠ざかり平和に落ち着いていた。
しかし、もしかすれば破軍はその火種の一端になることもあるのだとルーシュはよく知っていた。歴史の奥で、破軍が関わったがために国全土に振り落とされた災禍の数々。破軍そのものが禍を望んでいなくとも、人の欲はともすれば女神の嘆きを己の欲望で塗りつぶそうとするのだ。
道が別れるたびに、ルーシュはあの木の棒切れを取りだして、破軍の位置を確認した。街道の縁に座り込んでなにやらぶつぶつと木の棒と睨み合っている娘の姿を、ときおり奇妙そうな顔で人々は通り過ぎてゆく。
「まだ、西だな」
そうルーシュが呟いたとき、ミズルの山を下りて五日が過ぎていた。ようやっと旅のコツを掴み始めたところだった。起伏のない道を歩くこと、紐や鎖で繋がれた獣達、なだらかな田園風景、見知らぬ誰かとすれ違うときに交わす挨拶、背後から追い抜いてゆく他人の気配、見知らぬ誰かの笑顔や、笑い声や、気安い話し声。それらにいちいち気を張りつめたり無意識に身構えなくてすむようになった。それまで、ルーシュはほとんど山を下りたことがなかった。華々や老巫女以外の人間に会ったことも会話を交わしたこともほとんどない。くっきりと俗世と断絶した生活を送っていた。ルーシュにとって世界は、あの小さく穏やかな山一つきりだったのだ。
本物の世界は自分が想像している以上に広大で分厚く猛々しい。見る物すべてが珍しく、ルーシュの興味を引いた。もちろん、知識は持っていた。社はたいそう貧しかったが、こと本だけは何故か大量に所蔵していたのだ。なにしろ拝殿のなかがまるまる一つ本で埋まっているのである。あそこは、ルーシュが物心着いたときからとっくに拝殿としての機能を放棄していた。ただの書庫であったが、おかげでルーシュにも人並みになんとか生きる知識を得ることができた。
しかし、見ると聞くと体験するとでは、大違いである。山を降りるのは面倒だと思っていたくせに、いざ殻から抜け出てみると、はしゃぐ子犬のような有様でルーシュは世界を受け入れて喜んだ。かといって自分は遊興の旅に出ているわけではなく、ついふらりと足が止まりそうになるのを叱咤しながら西へ西へと歩き続ける。
(破軍を見付けて帰るときに、帰るときにきっと!)
心に固く誓いながら、旅芸人の一座が張った天幕の横を通り抜け、吟遊詩人の歌声に耳を塞ぎ、大道芸人の人輪から顔を背けた。
ただ前を向いてひたすら歩き続けていたとき、
「巫女さま、巫女姫さま」
ルーシュは男の声に呼び止められた。振り向くと、道の脇に一人の青年が立っている。年の頃は、自分よりも二つ三つ上だろうか。砂色の外套に、薄い常磐色のすっきりとした旅装姿の青年は、やや童顔気味なのか、まるで少女のように愛らしく整った顔立ちをしていた。商人とは一線を違えるように腰に剣を佩いているが、その剣も随分と細身のもので、まるで装飾用のようだった。
貴族か、それに仕える身分のものだろう。身に付けている物も質素そうに見えて良質だ。なによりも立ち上ってくる雰囲気が、育ちの良さを表して柔らかである。優しげな笑みを浮かべて見つめてくるその顔を、ルーシュはしばらくぼんやりとした仕草で見つめ返した。
ああ、と胸の内側で呻きが漏れた。
「巫女姫さま、どうか旅のご加護を頂けませんか」
青年はルーシュの側に近寄ると、その足元に両膝を折って頭を下げた。どこか、呆然とそれを眺める。
ルーシュはずっと巡礼者の衣装で旅をしていた。その方が、ルーシュにとって都合の良いことが多かったのだ。宗教大国であるルーインでは街道を行く者の中で、巡礼者が圧倒を占める。治安がよいとはいえど女の一人旅をするなら、巡礼者の振りをした方がずっと安全度が高くなるのだ。また、懐の薄いルーシュには、道々で巡礼者に施されるお布施を頼りにするしかない。巡礼者への施しは、そのまま神への捧げに繋がり、功徳を積むことになるのだ。宿場もずいぶん安価で泊まれ、まれに無料になることもあった。
通常の旅装は、最後に外套を羽織る。巡礼者は、さらにその外套の上から斜めに襷を掛ける。赤い幅広の布地に、縁で母神樹の葉と花の刺繍を施す。さらに襷のちょうど腰に来る辺りに、鈴を縫いつけるのだ。鈴には神霊を招き、邪を払う力があるとされて、神と人とを結ぶと信じられていた。鈴はいくつ付けても構わないので、十近く鈴をぶら下げ始終うるさくしている巡礼者もいる。ちなみにルーシュは三つ縫いつけていた。
巡礼者の中には、神職に身を置く者も少なからずいる。一般巡礼者と神職者を見分けるのが襷の色だった。神職者に限り、襷の布地は紫になる。神職者の中には男も女もいたが、特に巫女は尊ばれていて、道すがらに巫女の巡礼者へ出会うとお布施と共に加護の祈りを望む者もいるのである。この場合、礼儀としてそれを断ることは良くないこととされているので、紫の襷を下げているルーシュも、今までに何度か加護を乞われて施したことがあった。
加護と言っても、結局は彼らの祈りや願いが神々へと通じるように、共に祈り祝福してやるだけなのだが、神に最も近い場所にいる巫女に祈って貰えれば、なお聞き届きやすいと思っているのだろう。
この青年もそのつもりでルーシュの前に膝を折ったのだということはわかっていた。祈りの言葉を言わなければと思うのに、しかし、上手く言葉が出てこない……。いつまでたっても祈りの言葉を紡がない主に、不審がって懐の内側で華々が身動ぐ感触がした。
「あの……巫女姫さま?」
青年の方も顔を上げた。間近で見下ろした瞳は、青味を帯びた鈍い灰色で、曇の多い日の空と同じ色をしている。短髪ではあるが長めに切りそろえてある髪は、柔らかな栗色をしていて、指通りに心地よさそうだと思った。細く骨の浮き上がった首筋の骨格、顎の線。それらを眺めながら、ルーシュは胸の内に沸き上がってくる衝動に誘われるままに行動を起こしていた。
ぐわっしり!と音がたつほど勢いよく、青年の顔を両手で掴んで引き寄せたのである。
「わわっ!」
「おまえ名は? 歳は? 男だよな? 独身だよな? 剣を佩刀していると言うことは武器を扱えると言うことか?」
「あの?」
青年は矢継ぎ早のルーシュの問いに、目を白黒させた。
「巫女姫さま?」
「これは運命という物だ。運命。おまえ、運命を信じるか? わたしに加護を望むのだから、神々の事は信じているのだろう? 運命の糸を紡ぐ星女神のことは信じているか?」
「運命、ですか?」
「そう。男と女の縁は、星女神が紡いだ糸と糸を、さらに繋ぎ合わせたせいで起こるという」
戸惑ったように、青灰色の瞳が揺れていた。美しい瞳だと、ルーシュは思った。胸に手をやれば、もごもごと動く着物の下で、熱く鼓動を刻む心臓の感触がする。ああと、また呻いてしまった。もう、だめだと思った。何に対してだめだと感じたのか、自分でもわからない。ただ、何かに囚われてゆく感覚がした。それは、しかしひどく甘い。
ゆっくりと口元を綻ばせ、ルーシュは胸の内のどうしようもない衝撃と熱を言葉に乗せる。
「おまえ、わたしと結婚する気はないか?」
「なぁぁぁぁんですってぇぇぇぇぇぇ!!!」
叫んだのは青年ではなく懐の内側から唐突に顔を出した華々の方だった。
「なななななな、いま、なんとおっしゃいました、姫さま!!!!!」
にゅろんと頭を突き出し、うねうねと身をくねらせながら華々がルーシュを見上げる。青年の方は、突然の告白よりも華々の大声と出現の方に面食らったらしく、大きく瞳を見開いて固まってしまっていた。
「しょ、正気ですか? ど、どこの馬の骨ともわからぬような、こ、こんな男を、伴侶に選ぶおつもりなのですか?」
赤い舌を出したり引っ込めたりして華々が叫ぶのを、ルーシュはうるさげに顔を顰めた。むんずと、喉元を掴み上げ尻尾を懐から引きずり出す。
「うるさい。大声を出すな!」
「これが大声を出さずにいられますか!」
蛇に表情はない。その分、華々の声は豊かな色が満ちている。もし、彼に今顔があったなら真っ赤に頬を染めて、瞳を見開き唾を飛ばしていることだったろう。
「しかも、女性から求婚をするなんて!」
「別に構わないだろう」
「か、構いますよ、はしたない!」
「おまえ、存外古くさいヤツだなぁ」
ルーシュは呆れて華々を眺めた。
と、ぷっと空気が吹き出すような音がして、くすくすと小さな笑い声が響く。見ると、青年がひざまずいたまま、口元に拳をあてて笑っているのだ。細められた瞳で、ルーシュと華々を見ている。
「あ!」
ルーシュは慌てて握っていた蛇を放し、青年を見た。彼は、こくんと小首を傾げるとにこりと微笑んだ。
「驚きましたが、とても優秀な神使をお持ちなのですね」
「ああ、ええと、優秀というか、口喧しいという方が正しいヤツだがな」
「神使を従えていると言うことは、ずいぶんと優秀な巫女姫であらせられる」
ルーシュは臆面もなく「そうなんだ」と頷いた。とたん、彼はまた笑った。しかし、嫌な笑い方じゃない。ルーシュもつられて微笑んでしまう。
「わたしの名はルーシュという。おまえは?」
「ユファと申します。ユファ・レイーズ」
「ふむ。良い響きの名だ」
「ありがとうございます。歳は十八になりました。ユグドラシルから参いりました」
「ほう、王都から」
ルーシュは頷き、「それで?」と先を促す。
「もちろん、独身だろう?」
ユファは苦笑して素直な仕草で「はい」と返事をした。
「では、問題ないな」
「ありますよっ!」
「華々は黙っていろ。これはわたしとユファの問題だ」
「むしろ道ばたで逢っていきなり求婚する方が大問題です」
ルーシュは顔を顰めた。おもむろに掌を振り上げて、ばしりと中を飛んでいた華々を叩き落とした。悲鳴を上げて華々が地面に墜落する。呆気にとられてそれを眺めていたユファに、ルーシュは詰め寄った。
「なぁ、わたしと結婚しないか?」
「あの?」
「ぜったい、幸せにすると約束してやるぞ」
「あの、それって、普通男がいう言葉なんじゃ?」
「細かいことは気にするな。いま一番問題にするべき事は、おまえがわたしと結婚するかどうかということなんだ。これは、世界の運命を担うほどの大問題だぞ」
突拍子もない例えを出してずずずいっとルーシュが顔を近づける。と、彼は困ったように身を仰け反らした。その肩を掴み「なぜ逃げる?」と問えば、「ええと……」と彼は微苦笑を浮かべた。
二人の間をひゅうるりと風が吹いて、ルーシュの長い黒髪を巻き上げる。畦に生えている草葉の匂いに混じって、彼女は不穏な匂いを嗅いだ。それは、ユファも同じだったらしい。彼は唐突に笑みを引っ込め、背を振り返った。
男が、四人立っている。漆黒の外套に目深にを被っていて顔は見えない。広い街道の端側に立っているルーシュ達を、まるで囲むようにして彼らはたたずんでいた。
よく視線をやれば、辺りには自分達以外人気がないことに、気付いた。
「なんですか、あなた方は?」
ユファが立ち上がってルーシュを背に庇いながら、男達と相対する。そのときになって、ルーシュは彼が自分より頭一半も高いのだと気づいた。さらに、彼の手がさも当たり前のように剣の柄にあることも。
「用があるのはおまえじゃない。娘」
男の人がルーシュを指す。彼女は眉を潜めた。もちろん知らない男だった。破軍を盗んだ男達だろうかと思ったが、雰囲気がまったく違う。彼らはもっと明け透けな気配がしたが、今目の前にいる男達は、酷く歪んで見える。
「娘、どこの社に仕える巫女だ?」
「なんだ、おまえ? それが人に物を尋ねる態度か? 不躾にもほどがあるだろう。礼儀を勉強して出直してこい」
ルーシュは苛々と言い放った。正直、男達に邪魔された気分だった。求婚の真っ最中に割り込んでくるなど、礼儀知らずにもほどがある。言語道断物だ。しかし、男共にはルーシュの心の機微などわかろうはずもない。
「答えろ」
「い・や・だ」
ルーシュはゆっくりと噛み含めるように拒絶の言葉を吐いて、ぷいと顔を背けて見せた。男達の気配が、鋭く薙いだ。
「では、力ずくで吐かせるまでだ」
ゆったりと紡がれた声は、荒々しさも刺々しさもなく歌うようであったのに、底冷えするほど冷たい。外套の下から、抜き身の剣が現れた。ルーシュが身構えるよりも早く、男達が動く。が、それよりさらに早くユファが動いた。ルーシュを突き飛ばし、男達に向かって身をひらめかせた。
「へぇ」
ルーシュは感嘆の言葉を吐く。
ユファは真正面から打ち込んでくる斬撃をひらりと身軽に体を傾けてかわし、相手の手首に強い手刀を打ち付ける。呻いて男が剣を落とすのを確認する間もなく背後から突き出してくる別の男の剣を腕を上げて交わし、反対に男の腕を脇に挟み込む。空になった腹に膝蹴りを食い込ませた。ずるりと男の体が崩れ落ちた。それを、ユファは軽々と抱え込むと、ぽんと他の男達に投げてよこす。まるで赤子のような扱いだった。
ざざっと残りの男達が後じさった。どすんという音を立てて、投げられた男が地に倒れる。それを柔らかな笑顔で見やりながら、ユファは始めて抜刀した。
「まだ、闘いますか?」
静かな声だった。しかし、ルーシュはその声にぞくりと背の毛が総毛立つのを感じた。それでいて、嬉しくなるような高揚感。今すぐにでも彼に抱きついてしまいたくなるような、そうゆう気持ちがした。
「行くぞ!」
倒れた仲間とユファを交互に見比べていた彼らは、分が悪いと悟ったのか仲間を抱き起こし、足早に立ち去ってゆく。ユファもルーシュも後を追わない。
「盗賊か何かですかね」
いつの間にかルーシュの腕に体を絡み付かせていた華々が呟いた。
そのとき、また風が吹いた。風は、男達の方角からルーシュへ向けて、ふわりと、まるで何かを招き誘うように駆けてきた。風は外套を巻き上げるにはいたらない。かわりに、彼らの体から香る匂いをルーシュに運んだ。まるで何かを伝えるかのように。
(沈香の香り……)
「お怪我はありませんか?」
「え? ああ。お陰様でな」
剣を鞘におさめ、ユファが振り返る。額には汗一つ滲んでいない。ルーシュはその顔をどこか誇らしい気持ちで見上げた。
「おまえ、強いのだな」
「いえ。ちょっと心得があるだけです」
はにかみながら謙遜してくるのも良い。が、腕は本物だと思った。身のこなしの素早さや、気配を読む早さ、威嚇の鋭さ。外見はおっとりとしているのに、身の内に潜む炎は強く雄々しい。
(ぴったりじゃないか)
ますますルーシュは思う。
「最近は、物騒な世の中ですからね。巫女といえど、一人旅は用心をした方が良いでしょう」
ルーシュを見下ろして、彼は顔を曇らせる。その言葉にひっかかりを覚えて、首を傾げた。
「どうゆう意味だ?」
「ここ数ヶ月ほど、社の巫女を狙った事件が相次いでいるようなのですよ。神宝を盗んだり、神殿に火を掛けたり、あまつさえ聖女まで殺してしまうそうで」
ルーシュは瞳を見開いた。
「聖女を殺す?」
信じられない言葉を聞いた気がした。それは天空の神、ガールの血を引く人神であるとされる王族を弑逆するにも等しい、大罪だ。聖女は、人の身でありながらもっとも神のお側近くに侍ることが許された神々のだ。それを、殺すことは神々の怒りに触れることを言う。
「なんて、罰当たりな」
「ええ、まったく」
ユファも頷く。
「聖女殺しは、破軍を盗んだ奴らの仕業でしょうか?」
ぽそりと小さな声で華々が囁いた。どちらも社の神宝を狙っていたのは、同じだ。しかし、ルーシュは緩く首を振る。
「いや。違うだろう。奴らはそんなことをしそうにない気がする。むしろ……先ほどの男達の方がずっと怪しい」
「ところで、巫女姫さまはどちらまで?」
「西だ」
「西?」
漠然とし過ぎた返事に、彼は首を傾げる。
「西と言えば、カーシウェルの都ですね。そちらへ?」
「ああ、たぶん」
「たぶん」と、もう一度、その言葉を繰り返す。たぶん、そのカーシウェルに禍があるのだろうと、ルーシュは強く感じた。西の空へ視線を向ければ、緩やかな山の尾根の向こう側から覗く空の色が、ひどく暗く見えた。澱みうねるように、大気が震えて泣いている。ああ、とルーシュは心の中で呻き声を上げた。破軍が、よからぬ火種になっていなければ良いが。あれは、人を傷付けるためにある武器ではないのだ。女神エル・シーアが、唯一身を削って生んだルーナ女神に与えた、希望の杖なのだ。人々の嘆きや苦しみを薙ぎ払い癒せるように、と。
――――禍の袂に破軍はきっとある。
「巫女姫さま」
心の内側に囚われ掛けていたルーシュは、その声にハッと我に返る。ユファが笑みを浮かべて自分を見下ろしていた。
「実はわたしもカーシウェルへ向かっている途中なんです。もしよろしければご一緒致しませんか? また同じ事がないとも限りません。これでも用心棒代わりにはなれるでしょう。尊い巫女姫の御身にもしものことがあってはなりませんから。もちろん、ご迷惑でなければ、ですが」
控えめに言葉を添えて笑うユファに、ルーシュの頬は達まち赤く染まった。それと同時に、唇に大きな笑みが広がる。先ほどまで自分の胸を重く塞いでいた破軍の事も、あっという間に彼方へ吹き飛んだ。
「もちろんだ! おまえが側にいてくれるならどれほど心強いことか!」
叫ぶように言うと、むんずとルーシュはユファの手を掴む。
「これは、結婚に対して良い返事が貰えたということだろうか?」
「え? あ……いや、それは……」
「いや、そうに違いない。わたしが心配と言うのだから、それだけわたしが愛おしいということだろ?」
「姫さま、一応僕もお側で姫さまの御身をお守りしているんですけど?」
華々の言葉は、ルーシュの耳には届かない。
「あの、巫女姫さま?」
「ルーシュで良い。敬語もいらない。」
「はあ」
戸惑ったように瞬きを繰り返す青灰色の瞳をひたと見つめ、ルーシュは微笑んだ。
「運命だよ、ユファ、これはな。逃げ出すことのできない絶対的な、運命。星女神が紡いだ糸は、星女神でしか断ち切ることはできない。その糸でわたし達は結ばれているんだ。わたし達の糸が切られるときは世界もひずむだろう。それが、わたしにはわかる。惹かれあうべくして、出逢ったんだ」
恍惚としたようにルーシュはが言葉を紡ぐのを、気圧されたようにユファが瞳を見開く。うっとりと、まるで遠い世界にある夢を語るように唇を綻ばせた彼女の顔は、まるで祭壇の前で神託を受ける神懸かった巫女の姿そのままだった。しかし、その表情も刹那のこと。すぐにいつもの明るい笑みに戻ると、ユファを見上げる。その表情に、彼はほっとした顔をした。そして、今度は少し困った顔をして、ルーシュの前にひざまずく。赦しを乞うように首を反らし、
「わたしにはすでに忠誠をと誓う方がいるのです。この命は我が主に捧げてしまったもの。巫女姫さまのお申し出はありがたく思うのですが」
「主の命令なしに勝手は出来ぬと?」
深く頷く彼に、ルーシュの瞳が細まる。
その顔を見上げて、華々もまた緑の瞳を細めた。こんな顔をしているときの主は決して諦めないのだ。どんな手を使っても彼を手に入れるだろう。いや、手管など使う必要などない。彼女には未来が見えているのだろう、その聖女の力故に。彼と己の未来が。
ルーシュは婉然と微笑む。
「なら、おまえが主に誓ったというその忠誠、わたしに誓わせてみせよう」