第一章ノ二
社務所の入り口は、ささくれた御簾を下ろしただけの簡素な扉で、元あった木の扉はもうずっと前に腐って使い物にならなくなったので取り外してしまっていた。部屋は床がなく黒土に直にむしろを敷いている。二間の奥の部屋は巣穴のように狭く板と藁を敷き詰めた寝台が置かれ、脇には小さな棚が並びそこに細々とした生活用品が並んでいた。反対に戸口側の部屋は天井から薬草や乾物類がつり下がり、石かまどや鍋、土瓶などが並んでいる。今も暖かな湯気を上らせた大鍋がぐつぐつと音を奏でていた。
この部屋で寝起きをするのは老巫女一人きりだった。聖女であるルーシュの生活場所はもっぱら神殿であったが、彼女の食事はこの社務所で老巫女の手によって作られていた。もっとも、この社はどこもかしこも古く貧しいので、どの部屋もさしてここと大差があるわけではなかった。
新しい衣服に身を包んだ後、老巫女が入れてくれたお茶を啜りながら彼女は拝殿の濡れ縁に7腰を下ろしていた。ぶらぶらと地に届かぬ足を揺らす。足に絡み付く裾が心地よい。埃まみれの狭苦しい部屋に閉じこめられていた後だと思うと、例え今来ている服が何度も荒い晒して毛羽立ったボロ着であっても、清潔だと思うだけで心地よさを伴った。
この場所から社務所の入り口が良く見える。そこでは老巫女が、ルーシュのための朝食を用意していた。暖かな匂い。香草粥を作ってくれているのだと知る。ことことと煮込む音に、先ほどまでの怒りはずいぶんと冷めて落ち着き始めていた。傍らでは白蛇が、でろんとだらしのない恰好で床に寝そべっていた。ときおり指を伸ばして喉のあたりを撫でてやると、気持ちよさそうに緑色の瞳を細める。陽光にきらきらと反射する真っ白い鱗はまるで真珠のようだった。もっとも、ルーシュは生まれてこの方本物の真珠を見たことがない。老巫女が華々の姿を、真珠のようだと誉めるので、それを真似しているだけだった。ただ、本当に華々の体は美しい。
「姫さま」
華々が頭をもたげて、ルーシュを見る。
「破軍、どうさなるおつもりですか?」
「そうだな……。神の至宝とはいえど祈誓をしていない者にさしたる力はない。放っていても問題はないだろうが、そうもいくまいな」
「いくわけがない」
ぴしゃりとルーシュの言葉を打ち付けたのは、粥を運んできた老巫女だった。
「おババ」
「破軍は母神エル・シーアがルーナ女神にお与えになった神器。正当なる所有者でない者が携えて良い物ではないぞ。あれを手にして良いのはルーナの聖女に選ばれた者だけだ」
「わかっている」
ルーシュは渋面を浮かべ、老巫女から粥を受け取る。白い液体の中に細かく砕いた木の実が浮かんでいた。木匙を差し込みながら、彼女は老巫女の言葉を聞いていた。
「いくら祈誓の印を施してはおらぬとゆうても、破軍は破軍。その力の片鱗だけでも、絶大だからね」
「わかっているよ」
ルーシュは大きく溜息を付き、匙で粥ぐるりと掻き回した。
「捜してこいと言うのだろう、おババは」
「最初からそのつもりだろう、姫さまは」
老巫女は、皺に埋もれた顔を引っ張るようにして笑った。痩せた唇から欠けて不揃いになった歯が覗く。
最初からそのつもりだったのだろうと問われれば、そうだと頷くしかない。あの神宝の正当なる所有者はルーナの聖女を冠する自分の物であって、決してあの汚らわしい盗賊の手にして良い物ではないのだ。あれは人の世にあっては幸福を招くと同時に不和と闘争も招く。それを管理する義務が、ルーシュにはあった。
総じて義務とは、望まないのに肩にのし掛かってくる物を言うのだと、ルーシュは思う。
彼女はルーナの聖女である。この神山と社の主にして、白蛇と老巫女の主。が、それは彼女が望んでなりたがった物ではない。生まれると同時にその責務を、運命を紡ぐ星の女神によって与えられたものだ。ルーナは、母神エル・シーアが最後に生んだ末の女神だったが、実のところどの神々とも血の繋がりのない女神とされている。
創世の神話に綴られている言葉はこうだ。
世界はかつて、一つの混沌であったという。上も下も天も地もない、ただ蠢く黒く爛れた闇であった。その混沌の中から生まれたのが全能の女神にして、母神であるエル・シーアと、天空の支配者である弟のガール神であった。彼女達は、黒く汚れた世界を掃き清め、そこに種を植えて一本の木を育てた。木は見る見る間に大きくなり、根は混沌を支え枝は空を支えるほどの巨大なになった。
エル・シーアはこの木の上でガールと婚姻を結び次々に神々を生み育て、我が子達に世界を創る手助けをさせた。人間を作ったのはエル・シーアとガールである。この広大な世界に自分達一族だけが暮らすのは淋しいと思ったのだ。小さくか弱き人間は、もっとも母神樹の恵みを受けることの出来る、木の根方に国を作るようにと言われた。
人間は神々のような長寿の命も強い奇跡の力も与えられなかった変わりに、広大な大地の至る所を好きに扱うこのできる権利と母神樹の実りを存分に与えられる地位を得た。また神々は、たくさんの祝福を人間に与えた。神にとって、人間は稚くか弱きものとして映ったのだ。
しかし、神々の中には決して良いものばかりではなく、不和や欲望を司る神もまた、人間に祝福を与えたがために人々は互いに争うことをするようになってしまった。そのことを見て憐れんだエル・シーアが瞳から零した涙が、地上に落ちて生まれたのがルーナ女神である。
エル・シーアの子宮から誕生することのなかった神は、唯一このルーナだけであるため、彼女はどの神々からの支配を受けることなく、またエル・シーアと同格ではないかとさえ言われることもあった。
ルーナ女神は、エル・シーアが人間を哀れに思ったために零した涙から生まれたことから、慈悲と平和と希望の女神とされている。人間を守護し、正しき道へと誘う光の導を携え、また、正しき者を勝利に導くため剣を携えているともいう。破軍の由来は、このルーナ女神の剣から来ているのだ。
この社は、そのルーナ女神を祭神に持ち、ルーシュはその女神の聖女なのだ。ゆえに、女神の剣を奪われた以上は取り返す義務がある。あの剣によって人間に禍が降りかかるとしたなら、それを払いのける義務があるのだ。
「破軍の行方を追えるのは、ルーナの聖女だけ。すなわち姫さまだけだからねぇ」
老巫女の言葉に、ルーシュは舌打ちを漏らす。すかさず華々が「行儀が悪い」と非難したが、右耳でさらりと聞き流した。
ふと前方の方に目をやれば、子狐が草の下葉の影から顔を覗かせてこちらを見ている。口にくわえているのは、赤い木の実だった。きょときょととルーシュ達を窺いながら、近づこうかどうしようか迷っている様子に、微かにルーシュの口元が綻んだ。柔らかな陽光に照り返す葉や草の緑は濡れそぼったような瑞々しさで、地に葉陰を作っていた。ルーシュは座っていた濡れ縁から勢いを着けて降り立つと、子狐の側まで歩み寄った。子狐はくりくりとした黒い瞳で見上げながら、大人しく彼女がやってくるのを待っている。ふかりとした尻尾をときどき右に左に揺らしまるで子犬のような仕草で喜んでいた。元来野生の動物は人間に懐かぬが、彼らはルーシュにだけは心を許してくれる。それは、彼女がこの山の主だからだろう。
「おいで」
手を差しのばせば、子狐は少しの躊躇いも見せず彼女の腕の中へ飛び込んできた。屈み込んで、耳元の毛を撫でてやれば、気持ちよさそうに瞳を細める。
「今日はおまえ一人なのだな。母はどうした?」
「その子は姫さまにお礼を言いに来たんですよ」
不意に背後近くで華々の声がした。振り向けば、彼は背中の黒い翼を羽ばたかせ中に浮いている。
「この間、村人が仕掛けた罠に捕まっていたのを助けてあげたでしょう?」
「ああ、そういえば」
ルーシュは頷く。五日ばかり前にそんなことがあった。怪我をしていたので、その手当もしてやった。ついでに、ルーナ女神の祝福もかけてやった。
「この山は神域だぞ。その山で狩猟など許せるわけがない。山菜取りまでは許そうが、殺しは法度だ」
ミズルの山に実る恵みは、木の実や山菜、獣に至るまでこの山の祭神の物である。特に、この地での狩りは鳥・獣・魚すべて重罰だ。血は神域を穢す。
くんくんと尖った黒い鼻をルーシュの掌に押しつけてくるので、なんだと掌を開けばそこにくわえていた木の実をことんことんと落とす。
「ああ」
ルーシュは小さく破顔した。さらに強く子狐の体を撫でてやる。
「ありがとう。おまえは優しい子だね」
用が終われば、子狐をすぐに背を向けまた草の中へ消えていった。掌の中の赤い実を見つめながら、ルーシュは微笑む。
「破軍がよからぬ欲を持った者の手に渡れば、また争いが起こる。そうすれば、小さな幸せなどひとたまりもないだろうね」
老巫女の声が風のようにルーシュの胸の中を通り抜けた。
「それ以前に、姫さまの御身が一番危なくなります」
華々は強く進言し、その言葉に老女も深く頷いた。
「行っておいで、姫さまや」
ルーシュは振り向いて育ての親を見た。
皺と染みに埋もれた顔は、彼女の身体の中を駆け抜けた時間の長さを物語っている。ふと、彼女はいつからこんなに老いたのだろうと、そんな疑問にかられた。物心着いたときから彼女は老女であったが、あの頃はもう少し皺の数も少なく背もしゃんと真っ直ぐだったような気がした。しかし今の老巫女は小柄なルーシュよりもずっと小さい。あの皺だらけの手で、老巫女はルーシュを抱き上げあやし育ててくれたのだ。
「姫さまにとっても、破軍はなによりも必要なものだ」
「それは、神託か?」
「聖女と破軍は切ることの出来ぬ一筋の紐のようなもの」
ルーシュは息を吐き出す。
「わかっている」
「ついでに祈誓の相手を見付けてくるのも良いね」
老巫女が笑った。華々も頷く。
「ああ、それは本当にその通りです」
「なに勝手なことを」
苦々しくルーシュは呟いた。
「破軍だけが側にあっても意味がないのは真実だろうて」
「そのこともよくわかっている。ルーナの聖女はわたしなのだから、おババや華々にあれこれ教えられる必要はない。ただ、山での生活には破軍も祈誓も必要はないだろ? そもそもわたしには神使の華々がいるんだから」
「昨日までならそれですんだろう。だが、破軍は世に出てしまったのだよ、姫さま」
諭すように言われて、ますますルーシュの嘆息が深くなる。気鬱な顔でもう一度辺りの景色を見回した。
「ああ、まったく面倒臭い……」
山を降り、夜盗を追いかけ破軍を取り戻し、祈誓の相手を見付ける。それらすべての事を考えると、ルーシュの気持ちは「面倒だ」の一言に集約されるのだった。
面倒だ面倒だと言っても、破軍を探し出せるのはルーナの聖女であるルーシュしかいない以上は、彼女は山を下りて旅に出るしかない。長いこと人が通ることのなかった山道は、半分獣道と化しつつある。生い茂る草木を掻き分け、追いすがって来る獣達に別れを告げてルーシュは山下にある山門まで辿り着くと、さてどちらへ行くべきかと考えた。懐に潜んでいた華々が首だけを出して、器用に捻りルーシュを見上げる。
「破軍の気配は?」
「さてな、微かにならなんとか掴めると言うところか。しかし、弱すぎる」
虚空を睨み、ルーシュは言った。
青い空のずいぶん低い所を千切れた雲が流れていた。季節は春の終わりに差し掛かっており、これから水の季節である、夏が来る。旅にはもってこいの季節とも言えた。特にルーシュのような貧乏旅には。
「どうするのです?」
「ん~」
ルーシュは曖昧に頷きながら、空から視線を地に落とし、うろうろと足元や木の下を探った。しばらくして「あったあった」と嬉しげな気色を浮かべて大きな樫の木の傍らに掛けより、手首から人差し指ほどの長さの棒きれを拾い上げる。どこにでもあるような木の棒だった。所々白茶く汚れている。彼女はそれをいつの間に取りだしていたのか紐の先端に結びつけ中にたらすと、もう一方を指で抓んだ。
「できたできた」
「姫さま?」
「これで探ってみる」
ふらふらと紐を揺らしながら、華々に良く見えるよう胸元まで掲げてみせる。白蛇は胡散臭そうな声を出した。
「……本気ですか? それ、呪具じゃないですよね?」
「即席のだ」
「ただの棒切れですよ、それ」
「そんなの見りゃわかる。さっきわたしが拾ったものだ」
「それで破軍の行方を占うおつもりですか?」
「そのおつもりだ」
ルーシュはうやうやしい所作で頷いた。
「本気で?」
「やってできないことはないと思う」
ルーシュはこれから小汚い木を使って、破軍の行方を占うつもりなのだ。が、普通巫女が占いを行うには、それに適した場所や時刻といった制約が付きまとう。また、占いに使用する道具も、きちんと穢れを落とし清められた神聖なものを使うのが普通なのだ。占いとは、神々や精霊の力の一部を借りることなのだから敬意を持って行うべき物だとされているである。
「別に構わぬだろう」
しかし、あっさりとルーシュは占いの神聖性を無視してしまうのだ。
「破軍の行方を掴むのはわたし自身であって、諸神にお伺いをたてるわけでもないのだから」
「まあ、そりゃそうですが。なんか神聖もへったくれもありゃしませんね」
仮にも神職の筆頭たる聖女という地位にいるというのにと、華々がぶつぶつと文句を垂れた。そう言っている間にも、ルーシュはしゃがみ込んで、棒切れを眼前にたらした。もし、このとき誰かが彼女の前を通りかかったなら、ひどく不可解な顔をして足早に通り過ぎただろう。
紐の揺れが静まるのを見届けて、瞳を閉じ意識を集中させる。心が、体の一点を目指して集結ゆくのがわかった。胸の内側が熱い。熱は力だ。力は、心だ。心は魂だ。魂とは、すなわちルーシュ自身を指す。己の身の内と向き合うようにして、意識を研ぎ澄ましてゆく。一点に集中していた力が、今度はじょじょに拡散されてゆくのがわかった。それは、風よりも軽く、花粉のように空へと舞い上がりながら、遠駆ける。
ほどなくしてルーシュは瞳を開けた。
「西だ」
太陽が没する方角を見つめて、立ち上がる。ついでに、びしりと人差し指を突き出して西の空を指差した。かあと、のどかな声を上げて鴉が空を過ぎる。
「いざゆかん、破軍を求めて!」
高らかにルーシュは宣言したのだった。