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第一章ノ一

 朝靄もようやっと晴れようかという刻限に主人の姿を捜して彷徨っていた華々(かか)は、神殿内の寝台にいなかった主の存在を、さして重大なことだとは受け止めていなかった。まだ十五にもならない幼い主は、巫女としていささかか自覚に掛けるところがあって、朝の勤めをサボることはよくあることだった。山の中には美しい清水を称えた泉や、木の実をたわわに実らせた木々、甘い蜜を咲かせる花、人なつこい獣達がいて、それらは主の気を惹くには十分すぎるものだ。年若い娘が閉塞した山での生活に不平一つ言わないほどに、主はこの山の至る所に遊び場をもっていたのだった。

 ただ、どちらかというと朝寝坊型の主が、人が起こしに来る前に寝台を抜け出しているということはあまりないことでほんの少し訝しく思った。

 が、まさかの事態が主の身に降りかかっているとまでは、想像が及ばない。

 結界さえ必要がないほどこの山は長い安穏の中にあったのだ。ときおり間違って迷い込んだり、山菜や薬草を摘みにやってくる村人もいたが、彼らは決して奥深くまで踏み込んでは来ない。神域は、人々にとって絶対なる不可侵の場所だった。犯せば、罰が下る。ここはおそれ多くも神の隠ります神なびなのだ。

 主の気配をたどりながら行き着いたのは、神殿の裏手にある宝物庫だった。そこには長いこと置き去りにされた神具や祭具が詰め込まれている。どうしてここから主人の気配がするのだろうと思いながらも開け放たれたままの入り口から顔を突っ込めば、そこには確かに捜していた主がいた。


 しかも、あまりに意表を付く姿で。


 薄暗い影の中で口に猿ぐつわを噛まされ、後ろ手に腕を縛られた姿で、埃まみれの床に転がされている少女の姿に、華々は悲鳴を上げた。額に被さった前髪の奥から、入り口をぎろりと睨む血走った目と、ぶつかる。

 血の気が引いた。主への恐怖で。

「姫さま!!!!」

 華々は慌てて主の元へ駆けつけるとまず口の戒めを解いた。とたん、長時間押さえ込まれていたせいで紅く染まった唇から激しい咳が零れる。体を折り曲げるようにして咳き込む主の背をさするよりも、まず体を自由にしなくてはと次ぎに手の戒めを解いた。

「いったい何があったのです、姫さま!」

 誰が、おそれ多くも巫女に、いや聖女にこんな無礼千万な仕打ちをしたのか。

 華々の唇がそう紡ごうとするより早く、むんずと主の――――ルーシュの手が彼の胴体を掴んだ。

「ぐぇ……!」

 華々は、白い体をくねらせる。白い、鱗に包まれた蛇の体を、うねうねと波立たせる。その背で、黒い蝙蝠の羽根を藻掻くようにはためかせ、縦長に尖った緑色の瞳を見開き幼い主をみやれば。

「遅い!」

 底冷えのするような声で言われた。簾のように顔に乱れ落ちた黒髪や、埃や泥で黒く汚れた頬や、着くずれた衣服などの様相が、あまりに鬼気迫った迫力を醸し出している。ぞくりと、恐怖に華々の背中が泡立った。

「ひ、姫さま?」

「遅いと言ったんだ、この馬鹿者が!! 自分の主が大変な目にあっているときに、おまえはいったいどこで何をしていた!」

「ど、どこでって……自分の巣穴で寝てましたけど」

「ばかかっ!」

 ルーシュは華々を掴んでいる腕をぐるぐると振り回した。

「あわわわわ、目が、目が回りますぅ~」

「わたしが大変な目にあっているときに守護のおまえが暢気に惰眠を貪っていたとは、いったいどういう了見だ!」

 乱暴に振り回され、華々の頭がぐるぐると回る。上げた悲鳴は、すべて主の怒鳴り声に掻き消されてしまった。

 三十回は世界を回っただろうか。ぜいぜいと肩で息をしながら腕を振り下ろしたルーシュは、再び華々を見やる。その頃には、華々の頭は勝手に独りでに回転しているような状態で、目の焦点も合っていない。が、彼女はいっこうに構うことなくぐったりとした蛇を、今度は上下に揺さぶった。

「うあああああああ」

「おまえの使命はなんだ? 言ってみろ? わたしを護ることじゃないのか? 危うくわたしは殺されるところだったのだぞ! それを主の大事に気付かず自分だけが夢の中とは、怠慢にもほどがある!」

 華々は、真珠の鱗に黒翼を持った白蛇である。この社の守護者であり神の眷族でもあるのだ。一番の使命は、この幼い主を何ものにも代えて護ることだった。

「ひ~姫さまぁ~お許しおうおうおう」

「簡単に許せるか! このわたしがどれほどの屈辱を味わったと思う? この、わたしがだぞ? かりにも聖女のこのわ・た・し・が!」

 ルーシュが地団駄を踏んだ。ばきっと、床が抜ける音が響く。

「姫さま、宝物庫は古い建物ですからあまり無茶は――――」

「う・る・さ・いこの爬虫類!」

 ひくっと、華々は喉を鳴らした。みるまに緑色の瞳の中に涙が溜まる。もし華々が本物の蛇であったならあり得ない現象だった。

 あんまりだと、彼はか細い声で呟いた。

「ひ、酷いです姫さま! ぼ、僕をそんな地を這うことと丸飲みをすることだけが取り柄の生き物と一緒にするなんて。僕はこれでもれっきとした神の眷族なんですから! そ、そんなこと姫さまが一番知っていることじゃないですか」

 主の手の中で身をくねらせながら、華々は精一杯の抗議した。

 確かに主人の危機を感じ取ることもせず眠りこけていたのは、自分の怠慢であっただろう。しかし、まさかこの神域でそんな大事が起きているとは思わないではないか。

「役に立たぬなら、蛇と変わりゃしないだろうが」

 辛辣に言い捨ててふんとルーシュは鼻を鳴らすと、ようやっと華々を放した。一瞬墜落しかけて慌てて背の黒翼で飛び上がる。

「姫さま、いったい何があったのです、華々に教えてくださいませ」

 主の胸元の辺りを漂いながら、華々は鮮血のように赤い舌をしゅるしゅると出し入れした。ルーシュは薄汚れた自分の恰好を見下ろし顔を顰めて、髪の毛を掻き乱した。

「夜盗が押し入ってきて、破軍を盗まれた」

「なんですって!」

 華々は絶句する。

 破軍は、この世に二つとない神の至宝だ。原初の女にして全能の女神であったエル・シーアの命により、天の鍛冶師であったゴーウェンが空の七つ星を元に太陽の炎と月の涙で打ち下ろしたと言われる武器が、破軍であるとされている。ただならぬ力を秘めた神器で、持ち主が望めば一国を治める覇者になることさえ容易いと言うのだ。事実、長い歴史を紐解けば類い希な武勇を上げた英雄の中には、確かに破軍を手にしていたものも少なくない。そのために破軍は歴史の裏舞台で激しい争奪の火種となることが多々あった。覇を求めるがゆえに、己の業を磨くことよりも神の奇跡に頼ろうとする愚かな者達の欲の対象となったのだ。

 国が滅び人々の嘆きが溢れ鮮血に濡れそぼった、覇者の神器。

 が、その破軍が歴史の中から消えて随分な時間が流れているはずだった。

「先々代のルーナの聖女が破軍をこの社に安置して百年の月日が流れた。もう、誰もあの剣の存在を忘れてしまったと思っていたが、存外人間の欲はしぶといものだ」

 忌々しげに小さな唇を歪める。

「ですが……」

 華々は主の顔を見上げる。

「破軍にはまだお印は?」

「ほどこしてはいない。祈誓の相手も見付けていないのに気安く施せるか」

 ルーシュはきっぱりと言うと、埃まみれの長い髪の毛を掻き上げた。

 と、そこへとんとんと扉を叩く音が響いた。華々が振り向けば、巫女装束を身に纏った腰の曲がった老婆が立っている。

「いったいこんなところで何をしているんだい、おまえ達は?」

 老婆はしわがれた声で言った。

 彼女がこの社の巫女頭である。とはいえど、頭と言うほどこの社に住んでいるものは多くない。この社の主であり、最高位の巫女である聖女の冠を持つルーシュと、彼女の神使である華々と、そしてこの老女、たった二人と一匹の侘び住まいなのだった。

「夜盗に破軍を盗まれた」

 ぶすりとルーシュが答えると、老巫女は皺に埋もれた顔の中で、唯一老いを感じさせぬ眼差しを「ほう」と細めた。

「そういえば、昨日怪しげな足音がいくつも神殿へ向かってゆくのを聞いたね」

「気付いてたんなら助けろ!」

 さすがにルーシュが顔を赤くして叫んだ。が、老巫女の方は何を言うんだと、彼女に非難の顔を向けた。

「そんなことをすれば、ババめが危ない目にあうじゃないか」

 なっ、とルーシュが絶句する。まるで失語に陥ったかのようにぱくぱくと唇だけを動かしながら、しかし確実に瞳の奥に溢れんばかりの怒りをたぎらせた。それを一番側近くで感じた華々は、心の中で悲鳴を上げて後じさるように主の側から離れる。が、いま一歩遅かった。再び、華々は主に囚われるはめになった。力任せに胴を締め上げられ、主の八つ当たりの道具にされてしまう。

「おかげでわたしが殺されそうになったんだぞ! というか、おまえもおババも基本的にわたしを護り世話をするお守り役のくせに、どうしてこうもわたしをないがしろにするんだ? かりにもわたしはこの社の聖女なのだぞ!」

「ひ、姫さま苦しいっっ」

「人間自分の身が一番かわいいとゆうことさね」

 かっかっかっと老巫女が折れた腰を心持ち持ち上げて笑った

「いったい姫さまはこのババめになにを期待しておいでだい? こんな老婆が盗賊の前にしゃしゃり出たところで一太刀で殺されるのがおちだろうや。 二人死ぬか、どちらか一方でも助かる方法があるならそれを選ぶが筋ってもんじゃないかい?」

 確かにそれはそうである。その部分は納得できる。

「だったら、普通優先すべき命は、おババではなくわたしの命だろうが……」

 ルーシュとて、夜盗相手にこの老巫女に立ち回りをしてくれと望むわけではないし期待しているわけでもない。ただ、あまりにあっさり事件の事を流していってしまうので、それに腹を立てているのだった。仮にも彼女はこの社の主であるというのに、老巫女も神使の華々も危地にさえ気付かずあまつさえ心配もしていないのかと思うと、自分の立場に疑問さえ浮かんでくる。

 夜盗と闘わなくとも、なにか手だてを考えるとかしてくれてもいいんじゃないだろうか。老女のすぐ側には華々の巣穴があるのだから、彼を起こしてきてくれても良いはずだ。もしくは、危険が去った後にいの一番に心配して駆けつけれくれるのが筋ではなかろうか。おかげでルーシュは狭苦しく埃臭い場所で一晩を過ごす羽目になったのだ。

 そんな文句が頭の中に積みみ石のようにたまってゆく。しかし、この老巫女にぶつけた所で、良いように交わされるのは目に見えていた。どうしたって年の功で敵わないのだ。ということは必然的に彼女の怒りの矛先は、の華々へと行くのだ。

 ぎゅうっと無意識に華々を握る手に力が籠もると、蛇は苦しげにのたうった。

「ひ、姫さま」

 そもそも、社の神前守護を勤める神の使者であり、ルーシュの神使である華々は、つねに彼女の傍らに侍るのが勤めなのだ。それを、あの日はたまたま巣穴の方で眠っていた。

「それが、運命よ」

 不意に老女が言った。ルーシュは胡乱げに彼女を見やり、ついに諦めたように溜息を落とした。

「とりあえずここを出て、水浴びをしてくる。話しはその後からだ。華々、ついておいで」

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