第1話 枝垂桜に恋をして
私には小春という幼馴染の女の子がいた。
生まれながらに心臓が弱かった彼女は、それでもいつも太陽のように笑っていた。
ほかの多くの子が外を走り回って遊んでいる間、彼女は病院のベッドの上から動くことができなかった。
みんなが勉強や部活、それに恋愛といった青春と呼ぶべきものに興じている間、彼女はたくさんの管や機械を身体につけていた。
それでも毎日、病気であることなんか一切感じさせないくらいに笑顔を絶やさなかった彼女に、私はいつからか恋をしていたように思う。
これは私、瑞樹とその幼馴染の小春との物語である。
*
高校三年生の三月の末、無事に第一志望の医学部に合格した私は、半年ぶりに小春のもとを訪れていた。
去年の九月にあった部活の引退試合に大敗して以来、私は後悔や自己嫌悪といった負の感情を糧に、狂ったように勉強をし続けた。
そのかいもあって志望校には合格することができたものの、私の心には大きな穴がポッカリと空いたままだった。そしてその理由は小春にあると思う。
いや、理由だなんて言っちゃいけない。一丁前にそんなことを言えるような立派なこととは、むしろ真逆のことをやってきたのだ、私は。
「半年ぶり、ねぇ……」
昔から小春が入院するたびに毎日欠かさずお見舞いに行っていたというのに、この半年は一度も彼女に会いに行っていない。
昔から入退院を繰り返していた彼女だったが、特に高校に入ってからはその頻度が上がったように思う。
そうして小春はほとんどの時間を病室で過ごしていたので、私がお見舞いに行かなければ例え幼馴染同士で家も隣とはいっても会うことなんかない。
だからこうして大学受験も無事に終わった今、ようやく彼女に会いに来ているわけだが……。
「正直、気が重いな……」
ゆっくりと上昇するエレベーターの中で、小さな声でそうぼやく。
今日私が病室に行くということは彼女には伝えていない。というか、この半年間は小春と一度も言葉を交わしていない。直接もそうだし、メールなんかも一切していない。
送ってないし、送られてきていない。
それが小春なりの受験生である私への気遣いなのだろうが、しかしそうは言ってもさびしいものがある。
まあ、連絡しなかった私が悪いと言ってしまえばそこまでなのだけれど……。
「小春、怒ってるかな」
なんせ半年ぶりだ。
小さいころからどこへ行くのも何をするのも一緒だった彼女と、半年も関わらないなんて、私にとっても小春にとっても異常事態であることに間違いない。
一体なんて言えばいいのだろう?
一体どんな顔をして会えばいいのだろう?
病院にまで来ておいて、今更そんなことを考えてしまう自分に思わず苦笑してしまう。
けれどすぐにそんなことは考えても仕方がないと割り切る。
会ってみないとわからない。
と、ピンポーン、とエレベーターが無機質に彼女がいる階への到着を告げる。
「私は会いたい」
怒っているかもしれない。
薄情な奴だと思われているかもしれない。
嫌われているかもしれない。
それでも会いに行くのは、きっと私が小春に会いたいと思っているからなんだろう。
だって彼女は、私にとってたった一人の幼馴染で、それでいて初恋の人だから。
*
昔から小春のお見舞いに行くと、きまって私はベッドの端に腰かけて彼女とくだらないことを話していたものだ。
それでも病気についてはなんとなく聞いてはいけないような気がして、いつも極力その手の話にはならないようにしていた。
けどやはり子供心に興味はあったのだろう。一度だけ小春本人に、病気のことを聞いたことがあった。
すると彼女はいつものように笑ったまま、快く話してくれた。
心臓のなんとかっていう部分がどうだ、とか、移植がどうだ、云々。
正直、その時の私が彼女の話を完全に理解できていたかと言われれば怪しいものだけれど、漠然と事の重大さだけは理解していたように思う。
「わたし、どれくらい生きていられるかな?」
ひとしきり話し終わった小春が、聞こえるか聞こえないかくらいの声でそう言ったのを覚えている。
窓の外の景色を眺めながら彼女の話を聞いていた私は、いつもとは違うその言葉に驚いてゆっくりと小春の方へ振り返った。
「小春、ちゃん?」
彼女は、泣いていた。
いつも笑顔の小春の泣き顔を見たのは、これが最初で最後だった。
*
「小春……?」
いつも彼女がいる病室の前に着いた私は大きく息を吸い、覚悟を決めてドアをノックする。
「はーい?」
中からは聞きなれた、それでいて懐かしい声が返ってきた。
「えっと、私。瑞樹」
「瑞樹ちゃん……?!」
ゆっくりとドアを開けると、そこにはいつも通りの光景が広がっていた。
「ひ、久しぶり」
そして窓際のベッドに彼女はいた。
小春一人には広すぎる病室。机の上に置かれた本、誰かが持ってきたであろう果物……。
そんな見慣れた光景さえも懐かしく感じてしまう自分に、心の中で、ああ、薄情だなと悪態をつく。
「久しぶり……! どうしたの、突然」
「いろいろ落ち着いたから、かな?」
幾分かやつれてはいるものの、変わらない小春のその笑顔を見てほっとする。
「大学合格、おめでとう!」
「なんで、知ってるの?」
「瑞樹ちゃんのお母さんから連絡貰ったの。瑞樹ちゃん、いっぱい勉強頑張ったんでしょ? だから、合格おめでとう」
「……っ!」
その言葉を聞いた途端、私の中で何かが弾けた。
「ちょっ」
そのまま小春に駆け寄り、思いきり彼女を抱きしめる。
「ど、どうしたの、瑞樹ちゃん……?」
戸惑いながらも抱きしめ返してくれる小春。
「ごめん」
「へ?」
「ごめん、会いに来なくて。ずっと会いたかったのに。……それなのに、それなのに私っ」
ああ、そうだ。
きっと私は、彼女を置いて自分だけ違う道に進むことへのうしろめたさがあったのだ。
試合に負けたからとか、私の夢だとか、そんな言葉で自分の心を誤魔化して、勉強することで小春へのうしろめたさを隠そうとしていた。
「いいよ、そんなの」
「でも、でも……」
「こうして会いに来てくれたでしょ? だからいいよ」
その言葉に、思わず正面から見据えると、彼女はいつもの笑顔のままで、それでも口の端が少し泣きそうになっていた。
平常心を保とうとしても感情はあふれてきてしまう。
いつも笑っていた彼女のそばにいたからこそわかるその小さな表情の変化。
そんな些細なことに気づけるのは、私だからこそだろう。
そう思った瞬間、私は思わずクスリと笑ってしまう。
「もう、笑わないでよ!」
「ふふ、ごめんごめん」
そんなことを言い合って、私は昔のようにベッドの端に腰かけた。
そうしてこれまた昔のように、くだらない雑談に花を咲かせる。
なんとかちゃんは今どうしてる、だとか、あの子は大学どこに行くの、などなど。
話していてわかったことだが、どうやら彼女は既に一二月から数え四ヶ月も入院しているとのことだった。
ここまでの長期入院はさすがに私も知る限り初めてだったので、思わず、
「病気、やっぱりよくないの?」と聞いてしまった。
「ううん。いつもよりちょっとだけ詳しく検査してるだけだよ」
彼女は笑顔のままそんな風に答える。
「そう」
そして小春は大学には行かないとのことだった。
なんとなくわかってはいたけれど、そう言葉にされるとやはりうしろめたさがある。
しかし案の定というか、彼女はいつも通り笑いながらこう言った。
「いいんだよ、瑞樹ちゃんは瑞樹ちゃんの生き方をすればいい。私を重荷に感じる必要なんてない」
「いや、それは」
確かに私はそうやってこの半年小春に会わずにいた。だけどそれは……。
「でもね」
「……でも?」
彼女ははにかんで言葉を続ける。
「そうなったら、やっぱり少しさびしいね」
「……!」
思いもよらないその言葉に、驚いてしまう。
「こ、この病室さ、景色いいよね」
初恋の相手にそんなことを言われたら誰だって照れてしまうだろう。
恥ずかしさをごまかすように話題を逸らす。
「あ、桜咲いてる」
病室の位置的に、窓からは五分咲きくらいの枝垂桜が見える。
窓の外は病院の中庭にあたり、芝生の緑と桜のピンクがコントラストになっていて、こんな殺風景な病室からでも春を感じ取ることができる。
「でも、毎日見てたらさすがに飽きちゃう?」
「そうでもないよ? 逆に毎日の変化が見れて楽しいよ」
「そう」
窓の外を見つめる彼女の表情はいつもと同じ笑顔なのに、なぜか小春の目が悲しそうだと感じてしまう。
「私、好きなんだ。枝垂桜」
「そう。なんで?」
「うーん……ずっと見てたから、かな?」
「ずっと、ねぇ?」
「うん。あと、花言葉だね」
「花言葉?」
「そう。……知ってる? 枝垂桜の花言葉」
「ううん、知らない」
窓の外から私に目線を向けて、彼女は言う。
「優美」
「へ?」
「優美。『優しい』に『美しい』で優美」
「あ、ああ。うん……」
いや、言葉の意味自体は分かっている。
けど、さっきから小春の様子が少しおかしいような気がする。
「綺麗だと思わない? 優美、なんてさ」
「確かにね」
いつも笑顔を絶やさない彼女が、こんなふうにセンチメンタルなことを言いだすなんて、おかしい。
「小春、大丈夫?」
気にしないように、と思ってもやっぱり気になってしまい、思わずそう尋ねる。
「ん? なにが?」
「なにがっていうか……小春が」
「私? 私なら大丈夫だよ。そりゃ、ずっと入院しっぱなしで辛いっていうのはあるけど……でも、少なくとも今日は大丈夫だよ」
小春はいつもとは違う、本当にうれしそうな笑顔を浮かべて言葉を続ける。
「だって、今日は瑞樹ちゃんがそばにいるんだもん」
その笑顔はとても美しく可憐で、それでいて簡単に壊れてしまいそうにも見えた。
「小春っ……」
その笑顔に、つー、っと涙が頬を伝っていく。
「瑞樹ちゃん? な、なんで泣いて」
「小春、小春はここにいるよね? どっかに行ったりしないよね?」
「……大丈夫だよ」
止まらない涙を隠すように小春の胸に顔をうずめる。
「私はここにいるよ」
まるで子供のように泣きじゃくる私に、小春はそう言って頭を撫でてくれる。
ぽんぽん、という感覚がとても気持ちがいい。
これが母性というやつなのだろうか?
とても安心して、落ちつく感覚だった。
「小春っ、小春っ……」
「春になったらさ、お花見しようよ」
「お花見?」
「そ。病室からでもいいからさ、二人で満開の枝垂桜が見たいなぁ」
「うん、私も。約束だよ?」
「うん、約束。……だから、泣き止んで?」
顔を上げると、彼女はどこか困ったように微笑んでいた。
そんな小春の言葉と裏腹に、私の涙は止まらない。
「じゃあ……こうすれば泣き止んでくれる?」
そう言うや否や、小春の顔が一気に私の顔に近づいてくる。
『ちゅっ』
離れていく彼女の顔をぼーっと眺め、何が起こったのかと数秒間考え、キスをされたのだと気づく。
「あはは、瑞樹ちゃん、面白い顔になっちゃってるよ」
「だ、誰の……せいだとっ!」
「ごめんごめん。ただ、こうすれば元気出るかなって」
「……っ!」
うっすらと口の中に甘い味が広がっていく。
まるで、叶わなかった私の初恋のようにじんわりと甘さが溶けていく。
「ほら、もういい時間だよ? そろそろ帰らなきゃ」
「……うん」
窓の外に目をやると、空がほんのりと紅く色づき始めていた。
「じゃあ、また来るね」
涙を拭きながら立ち上がり、小春に別れを告げて病室を後にする。
「ばいばい、またね」
去り際に見た彼女の笑顔を、私は今も忘れることができない。
そしてその三日後、小春はこの世を去った。
*
小春のお母さんから彼女の様態が悪化したと連絡を受けた私は、急いで病院へと向かった。
けれど、私は間に合わなかった。
小春の最期の瞬間に、彼女のそばにいてやれなかった。
そして、そのことが私に重くのしかかった。
「私、小春の為に何かしてやれたんだろうか……」
結局、私が最後に小春の元気な姿を見たのはあの病室が最後だった。
去り際の彼女の笑顔。
それが私の中の小春の最期の姿だったのだ。
「瑞樹ちゃんに、って小春が家族用とは別に遺書を残していたのよ」
小春が息を引き取った晩、私はおばさんからそんな風に言われた。
「ありがとうね、瑞樹ちゃん」
おばさんから差し出された封筒を見つめる。
「……なにが、ですか? 私は小春の最期の時、そばにいてやれなかったんですよ? ……小春の想いに、答えてやれなかった」
私はこれを受け取っていいのだろうか。
私に彼女の遺書を読む権利があるのか。
……いや、そうじゃない。私は怖いのだ。
その遺書に書かれているであろう彼女の胸の内をのぞき見るのが、とてつもなく怖いのだ。
彼女とのキスの味が思い出されて、怖い。
「いいのよ、それで」
しかし、おばさんは困ったように笑ってそう言った。
「だって小春にとってあなたは、私たち以上に家族だったんですもの」
「……私は」
無理をして笑うおばさんの笑顔がなんだか無性に辛くて、うつむいてしまう。
「瑞樹ちゃん」
おばさんは優しく私の手を握って、言葉を続ける。
「家族っていうのはね、どれだけ離れていても家族なの。例え最期の時にそばにいてやれなくても、小春にとってあなたは大切な家族の一人だったはずよ」
その言葉に、思わず一筋の涙が頬を伝う。
「小春は、あなたに会えて幸せだったと思うわ。ありがとう」
そう話す彼女もまた、涙を流していたのだった。
*
親愛なる瑞樹ちゃんへ。
まず最初にこれだけは言わせてください。
会いに来てくれてありがとう。うれしかった。
瑞樹ちゃんと過ごした日々は、とても幸せでした。
小さいとき一緒にたくさん、いろんな所に行ったの覚えてる? 本当に無茶をたくさんしたよね。
高校生になった私は、あんまり学校に行けなくなりました。けど、変わらずに接してくれてありがとう。
でも、瑞樹ちゃんと一緒に高校生になれたこと自体、私にとっては奇跡のようなことだったんだと思います。
きっと瑞樹ちゃんのおかげです。ありがとう。
本当に正直な本音を言わせてもらえるなら、最後の半年間は寂しかった。あなたがいないとこんなにも心細いのかと、とても驚きました。
寂しくて寂しくて、辛かった。
けど、あなたは来てくれた。
半年ぶりにあなたが病室に来てくれた時、本当にうれしかったんだよ?
大学受験に合格したって話を聞いた時もうれしかったけど、あなたの顔を見た時にはその何倍も何十倍もうれしかった。
絶望の中にも希望はあるんだって思いました。
入退院を繰り返してたせいもあって、あなたにとっては私と過ごした時間はそんなに長くなかったかもしれない。
けど、少なくとも私にとっては瑞樹ちゃんが私の一番だったよ。
あなたに出会えてよかった。
あなたが私の初恋の人で、よかった。
最後に、あなたに謝らないといけないことがあります。
私は瑞樹ちゃんに黙っていたことがあります。
実は私、去年の九月にお医者さんから余命が半年だということを聞いていました。
黙っていてごめんなさい。
でも私、半年以上生きられました。これも瑞樹ちゃんのおかげです。ありがとう。
多分あなたに直接だと自分を抑えられなくなりそうなので、ここに少しだけ本音を書きます。
怖かった。
自分がいなくなっちゃうってことがを考えると怖くて、毎晩毎晩泣いてました。
そしてなにより、瑞樹ちゃんにもう会えないのかと思うと、胸が締め付けられて辛かった。
生きたいって思った。
なんで私が、とも思った。
けど、もう後悔はしていません。
だって大好きなあなたの顔を見れたんだもの。
小さいころから病気ばかりしていた私のそばに、いつもいてくれてありがとう。
私のことを忘れないでいてくれてありがとう。
最後に会いに来てくれてありがとう。
本当に、言葉にしきれないくらい感謝してます。
瑞樹ちゃん、私はあなたのことが大好きです。愛しています。
だから私は、あなたには笑って生きてほしい。
笑いながら私の分も生きてください。
さようならは言いません。
代わりにまたね、と言っておきます。
いつかまた、あなたに巡り合えると信じているよ。
またね、瑞樹ちゃん。
P.S.約束、守れなくてごめんなさい。
*
「小春っ……」
涙が止まらなかった。
言葉にならない嗚咽があふれ出す。
「約束、守らせなさいよっ……一緒にお花見をするって、言ったのに!」
彼女への想いが、彼女との思い出が、まるで滝のようにあふれ出す。
「私の想い、知って……っ」
小春は知っていたのだ。
私の初恋の人が彼女だということを。
小春はわかっていたのだ。
彼女の初恋の人が私だということを。
「でも、だからこそ笑わないとね」
そう、小春は私が笑って生きることを望んでいる。
私があこがれ続け、そして恋をした彼女のような笑顔は浮かべられないけれど、それでも笑っていよう。
笑って生きよう。
「そういうことでしょ、小春?」
だから私は、泣くことを、後悔することをやめた。
*
あれから一〇年。
私は彼女のような病気の子たちを救うため、医者になっていた。
これが多分、昔から私の中でくすぶり続けていた私の夢というやつなのだろう。
私は今でも時々彼女の遺した遺書を眺め、そして自分に言い聞かせている。
笑って生きよう、と。
小春の分まで生きよう、と。
そして桜の季節には、小春とのキスの味を思い出す。
「枝垂桜。綺麗だね、小春」
あれからもう一つ分かったことがある。
枝垂桜には優美の他にもう一つ花言葉があったのだ。
「全く、わかりにくいっての」
枝垂桜のもう一つの花言葉は、『優しいウソ』だった。
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よろしければ他のお話も見てみてください。
ではまたどこかで!