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再会

作者: 原 恵

ー0ー


「先生、まだ、席替えせえへんの?」

中学3年の春、朝のホームルームの時間、教室から、声が上がった。

「みんなが静かにしたら、って約束やったやろ。席替えは、来月やな。」

あちこちから、えっ〜、と残念そうな声。


私は、何も言わなかった。


隣に座っている、男子の出席番号3番の内田航くんが、気になっていたから、席替えはしたくなかった。


私は、江藤葵。女子の出席番号3番だから、新学期が始まった時から、右端から2列目、前から3番目の席と決まっていた。

もちろん、右端の3番目は、内田くん。


内田くんの名前は知ってたけど、今まで、同じクラスになったことがないから、話した事もなかった。

ただ、サッカー部の彼を、私はよく知っていた。


運動場にある、サッカーの練習コートの周りに、陸上のトラックがあった。

陸上部の私は、トラックを走りながら、いつも、サッカーの練習を見ていた。

7番のトラップすごい。9番ドリブルで3人抜き。6番のセンタリング上手い。

5番の内田くんは、オフェンスみたいに目立つことはなかったけど、ミッドフィールダーとして、的確な動きでピンポイントのパスをよくフォワードに出していた。


身長は、私と同じ165cm位。日焼けした肌に、大きな目。少しエキゾチックな雰囲気の内田くんには、ファンが多かった。


「江藤、消しゴム、貸して。あっ、シャーペンの芯も。」

「ちゃんと、返してくれるんやね。」

「おまえ、そんなセコい事、言うなや。」

「貸すんやから、返してもらわんと。」

「じゃ、江藤ちゃん、ちょうだい。」

「あほ。」


「さっきの数学のノート、後で写させて。」

「前もやったやん。」

「サッカーで、右手、痛めてん。」

「サッカーで右手ねぇ。」

「鉛筆、持たれへん。」

「じゃ、私のノートも写されへんやん。」

「堅いこと言わんと。ええやん。」


内田くんに、ファンが多いのが、よくわかる。

エキゾチックな顔に似合わず、ひょうきんで、気さくに、よくしゃべりかけてくれる。


「内田くん、サッカー選手、誰が好き?」

「俺は、ストイコビッチやな、やっぱり。」

「ピクシー、私も好き。」

「えっ、江藤、サッカー観るん?」

「観るよ。好きやもん。」

「マラドーナとか?」

「上手いけど、ちょっと違うかな。」

「じゃ、誰?」

「私は、前より、真ん中が好き。だから、マテウスか、攻撃的なバッジョかな。」

「なんや、めっちゃ気合うな。」

「内田くんも、真ん中やもんね。」

「知ってんの?」

「まあね。」

「上手いやろ、俺。」

「自分でよう言うなぁ。」

「俺も、知ってんで。おまえ、陸上部で、短距離やってるやろ。」

「えー、ばれてた?」

「他にも、知ってんで。走ってる時、転んだやろ。」

「なんで?見てたん?」

「見てた。目の前やった。」

「うそ。」

「本当。」

「なんで、見るん。あほ。」


内田くんと、一気に、距離が縮まった瞬間だった。


「江藤、昨日、イタリアの試合、観た?」

「観た。バッジョのアシスト、すごかったよね。」

「そう、あれで試合、決まったよな。」

「私も、サッカーしたかったな。」

当時は、女子サッカーはまだまだマイナースポーツで、女子がサッカーをする機会などほぼ皆無だった。

「おまえやったら、足も速いし、できたかもな。」

「女子サッカーチームが近くにあったら、行くのになぁ。」

「真ん中で?」

「もちろん。私にとっては、真ん中が一番かっこいいもん。」

「俺も、真ん中やけど。」

「そやね。」

「なんや、江藤、俺のこと、かっこいいって思てたんや。」

「はぁ?」

「モテる男は、辛いなぁ。」

「あほ。」



それからは、何かある毎に、江藤、と呼ばれた。

女子だけの調理実習の時は、

「江藤、俺の分のおにぎりも作ってや。」

体育祭の時は、

「江藤、自分ではちまき作れんの?俺のも作ってや。」

文化祭で、男子が女装することが決まった時は、何人かの女の子から、私の貸してあげる、と言われても、

「ええわ。江藤のん、借りるから。江藤、おまえのセーラー服、俺に貸してや。」


クラスに少なくとも5人はいた、内田くんファンから、

「いいなぁ、葵は内田くんと仲良くて。」と恨めしそうに、よく言われた。



新学期当時は、気になるだけの存在だったけど、夏休みが始まる前には、好きになっていた。


自分の気持ちに気づいた頃、

「私、内田くんが好きになってん。葵、内田くんと仲のいいんやから、応援して。」

と頼まれた。

クラスで一番仲のいい友だちからの頼み。


私も内田くんが好き、なんて絶対言えなかった。

友達関係が壊れるより、自分が我慢する方がいい、私は考えていた。



夏休みに、3年生は、クラブを引退する。

陸上部は、8月最初の大会が最後。サッカー部は、8月末に引退試合があるという。

内田くんのサッカーしている姿がもう観れなくなる。


サッカーしている内田くんが一番かっこよかった。

そして、クラスでしゃべっている内田くんが一番好きだった。



夏休み、最後の地区大会予選でどうにか3位には入れたが、タイムで、決勝には進めなかった。


終わった。2年半の陸上生活が、この瞬間、終わってしまった。

グランドを出るとき、グランドに向かって大きくお辞儀をした。ありがとうとさよならなの気持ちを込めて。


もう、夏休みに学校に行くこともない。

だけど、内田くんの引退試合はどうしても見たかった。

そこで、私は策を練った。

3年生の持ち物は、試合が終わった後に、全て持ち帰らなければいけないことになっている。

でも、私は、部室にスパイクを置いて帰った。

引退試合の日に、取りに来るのだ。

よし、これでいこう。



引退試合の日。

OBやサッカー部員の友達などが結構、たくさん来ていた。

女の子のギャラリーも多い。

内田くんを筆頭に、サッカー部の男の子が目当てだ。


最初は、後ろの方で観ていたけど、試合が面白くなり、内田くんの活躍を見届けたくて最後には一番前にいた。


ホイッスルで我に返った。

やばい、いつの間にこんな前に来てたんだろう。


帰ろうと歩き出した時、内田くんが私の方に走って来た。


「観てくれたんや。」

「う、うん。スパイク部室に忘れたから、取りに来たついでに。」

「本当に、ついでか?」

「えっ、なんで。」

「ついでにしたら、えらい真剣に観てたよな。」

「それは。それは、試合が結構面白かったから。」

「ふぅーん。」

「ほら、先生、呼んでんで。」

「おう、じゃあな。」


内田くんが私を見つけてくれたのは嬉しかったけど、あんなに堂々と来られると、ちょっと恥ずかしい。

周りの女の子達の視線も感じる。


スパイクが入っている小さなスポーツバッグをみんなが見えるようにわざとらしく肩にかけ、その場を去った。



新学期が始まった。

6月にした席替えで、内田くんと離れ離れになってしまったけど、9月の席替えで、また隣同士になれた。


「おう、また隣やな。」

「えー、なんで内田くんやのん?」

内田くんを好きだと言う、友達を意識した言葉。

本当は、飛び上がるほど、うれしかった。


「また、シャーペンの芯、ちょうだいな。」

「あんね、今度は、私がもらう番。」

「ええで。なんでも言いや。」


短い始業式が終わった後、「引退試合、来てくれてありがとう。」と言った。

素直にありがとうなんて言われると、なんて返したらいいのかわからなくなる。


「どうやった?俺。」

「どうって。試合は良かったよ。」

「俺は?」

「バッジョよりヘタ。」

「お前なぁ、当たり前やろ。」

「だって、木下くんに出したセンタリング、ずれてもん。」

「あれな、そやねん、全然頭に合ってなかったよな。」

「ドリブル、きれいに柴田くんに取られてたし。」

「俺のあかんとこばっかりやん。ええとかもあったやろ?」

「あれ?ボレーシュート?」

「そうそう。あれは、文句のつけようないやろ。」

「なんて言って欲しい?」

「かっこよかったとか、あるやろ。」


一瞬、周りを確認した。


「あれ?誰もおれへんやん。」

「ほんまや。みんな帰ったんかな。」


話が弾み、結構、時間が経っていた。

ふたりとも夢中で話していたから、みんな帰ったことに全く気がついてなかった。


「私らも、帰ろ。」

「なんでや。ええやん、ふたりでも。さっきの、まだ聞いてないし。」


広い教室に、内田くんとふたりきり。

照れ臭くて、なんだか恥ずかしい。


「帰り道で、教えてあげるから。」



ふたりで、肩を並べて歩く。

同じくらいだった背が、伸びている。


「内田くん、背、伸びた?」

「うん、なんか、夏休みの間に5cm以上伸びたみたいや。」


顔を内田くんの方に向ける。

内田くんもこっちを見る。

同じくらいだった目線が、少し見上げないといけない。

視線が合う。大きな目が、まっすぐに私の目を見ている。

慌てて、前に向き直した。

心臓がバクバクしている。


「さっきの、聞かせてや。」

「えっ?なんやったっけ?」動揺してる。

「ボレーシュート決めた俺が、かっこ良かったって話。」

次の角で、私だけ曲がる。

「シュート、すごい良かったよ。内田くん、見直したかも。じゃ、私こっちやから。バイバイ。」


一方的にしゃべり、小走りで、角を曲がった。後は、振り向かなかった。



友達は、卒業式の2週間前に、後悔したくないから、と、内田くんに告白した。

「好きな子がいるから。」

振られた友達は、好きな子って、誰やと思う?数人の名前を出し、最後に、葵やったりして、と詮索した。

今日は振られたけど、絶対、諦めない。だって、内田くん、男子高校やもんね。



内田くんは、サッカーの強い私立高校に進学する。私は、普通科の公立高校。

もうすぐ、離ればなれだ。


内田くんが好きな子って、誰だろう。もしかしてって、淡い期待をしていたけど、内田くんから、何も言われたことはない。

もちろん、私から、告白する勇気もない。


もう、会えないのかな、と思うだけで、胸が苦しくなった。



卒業式の日。

男子と女子が出席番号順に並ぶ。

横にいる内田くんが、話しかけてきた。


「江藤は、絶対、卒業式で、泣けへんやろうな。」

「なんで?」

「おまえ、強いからな。」

「強くなんかないわ。ボロボロ泣いてしまうわ。」

「サッカー選手になりたい女の子なんか、強いに決まってる。」

「あほ。」

「おまえによう、あほって言われたな。」

「聞き納めに、もっと、言うてあげよか。」

「あほ。まだ聞けるわ。」

「なんで?」

「賭けよか。もし、おまえが泣いたら、なんでもおごったる。」

「いいよ。じゃ、私が泣いたら、チョコレートパフェ、おごってよ。絶対やで。」

「ええよ。」


卒業式で、私は泣かなかった。違う、泣けなかったんだ。

式の間、内田くんに好きって言いたくて、どうしたら、伝えることができるんだろう、そればかり考えていたから。


下級生に送られて、会場を出るとき、 内田くんと目が合った。笑っていた。勝った、と口が動いた。


私が泣いたのは、校門で、友達たちと別れる時だった。

仲のいい友達と別れるのは、やっぱり悲しかった。

何人かの友達と、別れの挨拶を交わした後、内田くんを探した。

内田くんも友達と別れたとこだった。


「私、泣いたからね。」

「俺、卒業式って、言えへんかったっけ?」

「内田くんの、負け。」

「しゃあないなぁ。」

「賭けに負けたん、そんなに悔しい?」

「全然。なんでも、おごったるわ。」

「約束やで。」


もし、内田くんとふたりで会えたら、その時は勇気を出して、好き、って伝えよう。



ずっと、ずっと、待っていたけど、 内田くんからの連絡は、どれだけ経っても、なかった。




ー1ー


「ほら、早く。もうすぐ始まるよ。」

「ちょっと、待ってよ。ストッキング、まだ履いてない。」

「もう、いつまでもテレビ観てたからでしょう。」

「もうちょっとだから。」


水曜日の夕方のいつもの風景。


小学6年生の娘、夏が所属しているのは、車で15分位のグランドで練習をしている、サッカーのクラブチームだ。


チームの6年生は15人。女子は2人。

練習は、水曜日と金曜日。土、日は、ほとんど試合が入っている。

結構、強いチームで、他県への遠征にも、よく出掛けている。


夏は、女の子だけど、レギュラーで、ポジションは、ミッドフィールダーだ。

細い身体だけど、同い年の男の子には、負けない位の身体能力とサッカーセンスがあった。


夏が赤ちゃんの頃から、色んな国のサッカーの試合のビデオを一緒に観ていた。

妊娠中から、男でも女でも、サッカー選手になってくれればいいな、と勝手に夢見ていたのだ。

自分の夢を押し付けて、かわいそうかなと思ったけど、夏は、サッカーを好きになり、どんどん、のめり込んでいった。

そして、男子ばかりのチームに入り、メキメキ頭角を現していった。



グランドの外で、練習を観ていた私に、チーム監督が近づいて来た。


「夏、また上手くなりましたよ。」

「ありがとうございます。」

「中学生になったら、夏、どうしますか。」


今のチームは、中学生になったら、女子は所属できない決まりだ。


「地元の中学には、女子サッカー部がないから、今、悩んでいるところです。」

「ナショナルトレセン、知ってますか?」

「はい。」

「この夏、女子のセレクションがあるんですけど、夏を参加させてみませんか?」

「そんな実力、ありますか?」

「夏は、まだまだ伸びます。チャレンジしてみる価値はあると思いますよ。」

「ナショナルトレセンなんて、夢のまた夢ですよ。」

「まあ、ダメ元でもいいじゃないですか。上手い子ばかりが集まる所に行くだけでも、勉強になります。」


一緒に練習を見ていたママ達は、夏ちゃんすごい。夏ちゃんなら大丈夫よ。応援しているから、頑張って。と口々に言ってくれる。


ナショナルトレセンに合格すれば、寮に入り、勉強の他はサッカーに明け暮れる生活を送る。将来の女子サッカー日本代表になる、一番の近道だ。

夏に言えば、絶対セレクションを受ける、と言うだろう。

だけど、中学から親元を離れて、夏はやっていけるのだろうか。

それよりも、本当に夏にそんな実力があるのだろうか。



夫と、話し合わないといけない。

考えるだけで、憂鬱になる。



練習が終わり、自宅で遅めの晩御飯を食べている時、夫が帰って来た。


食卓についた夫に、監督から聞いたはなしをした。

夏は、やった、と喜んでいるが、夫は黙ったままだ。みるみる内に、顔が歪んでいく。


食事を終えた夏をお風呂に行かせた。


ふたりになった途端、無言で、夫が、テーブルをドン、と叩く。

そして、乱暴にドアを閉め、2階に上がって行った。

やっぱり、怒っている。



夫は、サッカーが好きではない。というか元々、全く興味がないのだ。

ワールドカップの日本の試合の途中でも、チャンネルを変える。夏が文句を言うとチャンネルを戻してくれるが、私が言っても聞いてはくれない。

本田圭佑や香川真司がどのポジションかなんて全く知らないし、区別だってついていない有様で、いつも夏からバカにされていた。


夏が小さい頃は、パパが大好きだった。

けれど、小学校入学と同時に、サッカーをするようになって、夏の興味は、パパからサッカーへと移っていった。


夫は、自分から夏を奪ったサッカーが嫌いになった。そして、サッカーを夏に勧めた私が嫌になった。

簡単な、方程式。

夏がサッカーを好きになっていくのと同じ速度で、私を嫌いになっていったのだ。



関東出身の5歳上の夫は、私が勤めていた会社の取引先の人だった。

上司から、夫を勧められ、数回のデートで結婚を申し込まれた。

美術館巡りが趣味の、思いやりのある人だった。


私の両親は、私が中学生の時、離婚した。

小さな夫婦げんかを繰り返していたのを見ていたせいか、私の結婚の条件は、穏やかな人、だった。


結婚は焦ってなかったけど、親や上司が、早く、早く、とうるさかったから、出会って1年も経たずに、一緒になった。

それから1年後に、夏が生まれた。



トレセンのセレクションまで、夏はがんばった。練習のない日は、家の外でリフティングを続け、近所の男の子を誘っては、公園で日が暮れるまでボールを蹴っていた。



夏休みに、セレクションが実施された。

全国から集まった女の子たちは、想像以上に、サッカーが上手かった。

市内では、定評のあった夏だったが、セレクションでは、緊張したのか、散々な出来だった。

ドリブルでは、ボール簡単に取られる。シュートは、枠をはずれる。

もちろん、いいところもたくさんあった。

相手の動きを読み、的確なパスを出す。ここしかない、というところに上げるセンタリング。

だけど、 失敗が続いたことにより、自分のプレーに、自信を失くしていた。


帰りの車の中で、夏は泣いた。実力を出し切れなかった悔しさだろう。


でも、夏。声に出さないで、心の中で話し掛けた。選ばれる子は、どんな時でも、実力を出し切ることができる子なんだよ。

もう少し、夏の心が強かったら、どんな状況でも、いつもの夏のプレーができる。だから、頑張れ。母はいつも応援しているから。



セレクションは、見事に落選した。

だけど、監督の推薦もあり、大阪市内にある、サッカークラブの女子チームからオファーがあった。


実際、トレセンに合格して、寮生活をさせるのには、不安があった。

夫も、どんなことをしても、行かせなかったに違いない。

だけど、大阪のクラブチームなら、通うことができる。


監督から、一度、見学してから決めてもいい、ということなので、練習グランドまで、夏と2人で出掛けた。



グランドは、車で30分のところにあった。

サッカークラブチームのエンブレムが看板になっている。


受付に、見学を申し込むと、奥から、ポロシャツを着た、男性が出てきた。

阿部夏さんですね。案内しましょう。


日焼けした小麦色の肌、大きな目、少し日本人離れした雰囲気。見覚えがある。


「内田くん?」

思わず、名前が出た。

「えっ?」

びっくりした、顔で、私を見る。

徐々に、笑顔が広がっていく。

「江藤?」

「そう。」

「えっ?本当に、江藤?」

「そう。なんでここに?」

じゃ、と夏を見て「江藤の子供?」

「びっくりやな。」

「こっちも、びっくりしたわ。」


夏が待っているのに気付き、内田くんは、歩いて施設内を案内してくれた。


ママの知ってる人?夏がこそっと聞いてきた。そう、中学の同級生。パパと違って、かっこいい人だね。



グランドでは、中学生の女の子たちが練習していた。

コーチの指示が飛ぶ。俊敏な動き。ハードな練習だけど、みんな、サッカーが好きでたまらない、という顔をしている。


そんな光景に魅入っていた夏に、内田くんが、やってみる?と声を掛けた。

はい。やってみたいです。

じゃあ、あっちの更衣室で着替えて、練習に参加してみればいいよ。


夏が勢いよく、駆け出して行った。



グランドの脇のベンチに、内田くんと並んで座った。


「江藤、久しぶりやなぁ。」

「うん。卒業してから会ってないもんね。」

「そしたら、25年振りか。」

「内田くん、変わってないね。すぐにわかった。」

「江藤も変わってないよ。」

「変わったよ、名前。」

「そっか。阿部さんか。」

「江藤でいいよ。」

「標準語?東京とかに住んでた?」

「主人が、関東の人やから、なんか混じってるよね。」

「変な感じや。」

「やっぱり?」

「江藤がここにおんのんが、変な感じや。」


サッカーをしている子供たちを目で追いながら、昔と同じように、少し照れながら、笑った。


「夏ちゃん、さすが、江藤の子供やな。」

「なんで?」

「上手いな。動きがいい。」

「サッカーしか、興味ないみたい。」

「江藤も、サッカー選手になりたいって、言うてたやろ。」

「覚えてた?」

「あの頃、サッカーの話ができる女の子なんか、江藤くらいしかおれへんかったし。」

「今も、毎晩、娘としてる。」

「何回か、同窓会してたのに、なんで参加せえへんかった?」

夏を指差し、「あの子が小学生になってから、土日は、ほとんどサッカーの試合で、本当、時間なかったから。」

「そしたら、まだ当分は、同窓会には、来れそうにもないな。」

「みんなに、会いたいなぁ。」

「みんなも、江藤に会いたがってた。」

「覚えていてくれてるのかなぁ。」

「覚えてるって。」

「で、内田くんは、何してんの?」

「女子チームのトレーナー。」

「すごい。」

「大学までサッカーしてたけど、膝痛めて、続けられへんようになってん。でも、サッカーから離れたくなかったから、このクラブに就職したってわけ。」

「内田くんも、頑張ってんねんね。サッカー離れんで、よかったよ。」

「なんやねん、それ。」


夏が、活き活きと、ボールを追ってる。

今まで、男の子の中でしかサッカーをしたことがなかったから、女の子たちとできるのが、楽しいのだろうか。


きっと、このクラブチームに入る、って言うだろう。

内田くんがいる、ここなら安心して通わせることができそうだ。


少し、ほんの少し、25年前の気持ちを思い出した。




ー2ー


夏が、中学生になって、本格的にサッカーの練習が始まった。

練習は、週3日。

行きは、1人で電車で行くことと、宿題はどんなことがあってもちゃんとすることが、クラブに通う条件。

帰りは、遅くなるので、車で迎えに行くことにした。


学校から帰宅して、軽い食事を取る。 電車に乗るまでの時間で、できる限り、宿題を済ませる。


夏は、このハードなタイムスケジュールを文句も言わず、こなしている。

強い心をものにするのも、そんなに遠い話ではないかもしれない。



今日は、学校の懇談会とPTAの総会、その後に町内会の会議かあり、帰りが、かなり遅くなった。

これから買い物をして、夫の晩御飯を先に作り、夏を迎えに行かなければならない。

急いで家に帰ると、夫が帰っていた。


「どうしたの?」

「熱があるから、早退した。」

「大丈夫?」

「大丈夫じゃあないから、帰って来たのに、どこ行ってた。」

「学校と町内会の用事で、遅くなって。」

急いで、晩御飯の支度をする。

「夏は?」

「今日は、サッカー。」

「いい加減にしろよ。」

「なにが?」

「サッカー、サッカーって、夏は女の子なんだそ。」

「今更、そんなこと言っても、夏がサッカーを好きなんだから、仕方ないじゃない。」

「おまえが、引き込んだんだ。」

「そんな。」

「毎日、毎日、サッカー。なでしこにでも、入れるとでも思ってるのか。」

「好きでやってるんだから、それで、いいじゃない。」

時計を見る。もう、夏を迎えに行かなければならない。

「迎えに行くね。」

「いい加減にしろ。」

不意に、夫の手が、顔に飛んできた。

手は、頬ではなく、左眼に当たった。


そのまま、黙って、家を出た。


夫が、私に手を上げたのは、今日が初めてだった。

でも、今日の夫の顔は、今まで見たことのない、憎悪に溢れていた。どうして、こんなことに、なったんだろうか。

熱があるって言ってた。しんどいから、今日は、仕方なかったんだ。


自分に言い聞かせたけど、涙がこぼれてきた。


車のミラーで、顔を見た。左眼の周りが赤くなっている。明後日あたり、紫色に変わるかもしれない。

夏に、なんて嘘をつこう。



クラブに着いて、建物の中に入った時、江藤、と遠くから呼ばれた。

振り向くと、内田くんが手招きをしているのが見えた。

近づいて行くと、

「その眼、どうした?」と聞かれた。

転んで、テーブルの角にぶつけちゃって、と誤魔化した。

「そういえば、陸上のトラックでも、転んでてたよな。」

「嫌なこと、思い出さないでよ。」

「昔から、結構、どんくさいとこあったもんな。」

「もう、その話忘れてよ。それで、何か用だった?」

「そうそう、夏が、ちょっと、人と当たって倒れてしもて。」

チームの一員になってからは、ちゃん付けはなくなった。

「夏、大丈夫なの?」

「擦り傷だけ。でも、ちょっと血が出てたから、包帯巻いて大げさにしてるけど、大丈夫やから。」

「練習、休ませた方がいい?」

「いや、本人が大丈夫って言えば、心配ないよ。」

「ありがとう。」

「親子やなぁ。2人揃ってケガしてる。」

「私に似て、どんくさいって、言いたい?」

「そんなことないって。夏、運動神経もいいし、素直な子に育ってる。」

「本当に、そう思ってる?」

「誰かの中学時代より、かわいいしな。」

「私?、ひどい。そんなに可愛くなかったかなぁ。」

「江藤とは、言うてないやん。」

「どうせ私はサッカーが好きな男みたいな女の子でしたよ。」

「バッジョが好きな女の子やったもんな。」

「悪い?」

「いや、悪くない。」


練習が終わった。夏が、なに?その顔、とびっくりしている。転んだの。なんか殴られたみたい、と夏。そんな風に見える?困ったな、またファンが減るわ、ショック。笑いで誤魔化した。


夫のいる家に帰りたくなかったけど、夏の学校が明日もあるから、仕方ない。

夏に、パパが今日、しんどいって言ってるから、静かにしなさい、と釘を刺してから、家に入った。

夫は、リビングにはいなかった。2階の寝室でもう寝ているのだろう。

ほっと、胸をなでおろした。


夏が、自分の部屋に行ってから、和室の押し入れの中を探し始めた。どこかの段ボールにまだ入っているはず。3つ目に開けた段ボールの中に、それはあった。


中学校の卒業アルバム。

卒業してから、何回かは見た覚えはあるから、20年以上、この段ボールの中に入ったままだったんだ。


私のクラスは、3年4組。 ページを開くと、懐かしい顔が並んでいた。


男子の3番目、内田くんのにっこり笑った顔があった。

年は取っているけど、やっぱり、変わってない。エキゾチックな雰囲気も、昔のままだった。でも、最初の頃は私と同じくらいだった身長が、今は180cm位になっていた。

立派に成長したんだ、と考えると、笑いが込み上げてきた。


女子の3番目が、私。老けたな。肌の張りが全く違う。頬の肉が下にさがっている。シワも少しずつ目立つようになってきた。

40歳だもん、もう立派なおばさんだよね。


内田くんと仲よかったあの頃とは、もう違うんだ。容姿も、環境も、自分の家族も。


25年前、私が告白したら、何かが変わっていたのだろうか。



夏を迎えに行くたび、内田くんは、眼帯をしている私を心配してくれた。


「まだ、治らへんのか?」

「大分、ましになったけど、まだ紫になってるから。」

「本当は、どっかのおっさんと、殴り合いのケンカでもしたんちゃうか?」

「まさか。」

「気をつけや。江藤、思ってる以上に、どんくさいんやから。」

「でも、そのどんくさい私に、おにぎり作らせたり、はちまき縫わせたりしたん、誰だっけ?」

「そんなことも、あったよな。」

「感謝してもらった覚え、全然ないけど。」

「めちゃめちゃ、心の中で、感謝してたんやで。目でありがとうって言ってんの、わからんかった?」

「あほ。」

内田くんが、大笑いした。



目の痣は、10日程でなくなった。だけど、夫から暴力を受けた、心の傷は、消えなかった。違う、消えるどころか、傷は、日々、大きくなっている。


夫とは、ほとんど話しをしていなかった。


謝罪が欲しかったわけじゃない。でも一言でいい、私と夏を案じる言葉が欲しかった。


そんな空気を感じた夏も、夫を避けるようになっていた。


両親を見ていて、子供に辛い思いをさせない親になろうと思っていたのに、親と同じことをしてしまった。

悪い母親だ。


今なら、まだ、戻れるだろうか。

たった一回の暴力だ。


戻らないといけない。たった12歳の夏のために。



夫が帰って来た。

「おかえりなさい。」ああ、感情のない小さな声が聞こえた。


「今日は、忙しかった?」

「雨はもう、やんでた?」

「夏もいるから、晩御飯は、すき焼きね。」

何も言わない。


「そうだ、ねぇ、廊下の電気がつかないの。着替えたら、電球、変えてみてくれない?」

返事もせずに、2階へ行ってしまった。


私が、普通にしていれば、夫も普通にしてくれると、安易に考えていた。

だけど、夫を見て、思った。私が、なにをしても、なにを言っても無駄だ。


どうすればいいのか、全くわからない。


夏が、2階の自分の部屋から下りてきた。

「パパ、帰って来たの?」

「さっきね。」

「お腹空いたよ。早くご飯にしようよ。」

「じゃあ、パパ、呼んで来て。」

えっー、私が、と言いながらも、2階に行ってくれた。


しばらくして、夏が泣きながら、下りて来た。

「どうしたの?」

「パパが、サッカーやめろって。」

「そんなこと、言ったの?」

「もう、クラブには、行かせないって。お金も出さないって。」


料理に使っていた、菜箸を放り投げ、 2階に駆け上がった。寝室で、夫はベッドで横になっていた。

「なんで、夏に、サッカーやめろなんていうの?」

「‥‥」

「あなたが、なんで怒ってるのか知らないけど、夏に当たることないじゃない。」

「‥‥」

「親なら、夏の気持ち、考えてあげたらどうなの?」


夫が、ベッドから下りて、近づいて来た。

そして、うるさい、の声と同時に、また、手が飛んできた。

前よりも、強い衝撃。体が、ふらつく。壁に寄りかかり、なんとか倒れずに済んだ。


唇が、切れたみたいだ。口の中に血の味が広がる。



夏を連れて、すぐに家を出た。

私の顔を見て、夏はかなり動揺している。


車で、実家に向かったけど、こんな口で帰ったら、母が心配する。できれば今はまだ母に知られたくなかった。


一旦、落ち着つこう。動揺が夏に伝わってはいけない。どこかお店にでも入ろう。

夏の晩御飯もまだだった。


実家は、クラブの先にある。

クラブの近くを通った時、ファミリーレストランの看板を見つけた。


料理を注文してから、トイレに行った。

鏡を見る。今度は、手が頬から下に当たったみたいだった。切れた唇を中心に、赤く腫れ上がっている。

マスクだけでも、持って出ればよかった、と後悔した。

この顔を見て、母はなんて言うだろう。



うつむきながら、トイレから出た時、肩を叩かれた。

前を見ると、内田くんが立っていた。


「どうして、いるの?」

「夏が心配してる。行こう。」と夏のいるテーブルに、歩いて行った。


「クラブの連中とここに来てて、駐車場にいる時、江藤と夏が入るのが見えた。」

「クラブの人は?」

「もう、帰った。」

「そうやったんや。」

「夏から聞いた。ダンナに殴られたって。」

「うん。」

「この前の目も、そうやったんか。」

「‥‥うん。」

「トレーナー、ママを助けて。」

「大丈夫や、夏。心配するな。俺がついてるから。」

内田くんの言葉に安心したのか、夏は、運ばれてきた料理を食べ始めた。


「これから、どうするんや。」

「実家に帰るわ。」

「その顔見たら、親が心配するやろ。」

「たぶん、ね。」

「夏と、一旦、俺んとこ来い。」

「えっ?」

「一人暮らしやから、心配はいらんから。」

「奥さんは?」

「別居中。もう2年になる。」

「でも、迷惑やろうし。」

「気使うな。なぁ、夏。来るやろ。」

「行く。」




ー3ー


内田くんのマンションは、私の家とクラブの間くらいにあった。

20階立ての17階。部屋は、3LDK。

一人暮らしという割には、きれいに整頓してあった。


夏が、すごい高い。見て、見て、夜景が見えるよ。とはしゃいでいる。

そして、リビングにあるソファーに座った途端、寝てしまった。


内田くんが、夏を抱っこして、ベッドのある部屋に運んでくれた。


「ありがとう。夏も精神的に、疲れたんだと思う。」

「かわいそうに。母親が殴られて、子供がなにも感じへんわけがない。」

「どうしよう。夏に、すごい悪いことしちゃった。」

「江藤のせいと違うやろ。」

「でも。」

「今日は、もう考えるな。」

「‥‥うん。」


内田くんが、コーヒーを入れてくれた。

飲もうとしたら、熱くなったマグカップの縁が唇の傷に当たり、痛くて飲めなかった。

「せっかく入れてくれたのに、ごめんね。」

内田くんの優しさが、身にしみた。


「奥さん、帰って来るんじゃないの?」

「2年前に出て行ってから、一回も帰ってきたことはない。」

「でも、やっぱり、ここにはいられない。」

「大丈夫や、心配せんでええ。」

「奥さんにも悪しい。」

「だから、今は、なんにも考えるな。」

「ごめんね。」

「だから、ええって。そんなに謝るな。

もう寝ろ。お前も疲れたやろ。」


たぶん、内田くんの寝室だろう。

夏が寝ているベッドの横に、布団を引いてくれた。



翌朝、冷蔵庫にある物で、朝食を作った。

学校は、休ませることにした。

学校の用意ができないからだ。

夫がいる時に、家に帰りたくなかった。


内田くんが起きてきた。


「寝れた?」

「少し。」


内田くんの手が伸びてきた。

とっさに一歩、後退りしてしまった。

内田くんの手が、唇の傷を優しく触る。

「ひどいな。」

「鏡見て自分でもびっくりした。」

「心まで、傷ついてる。」

「大丈夫だって。」

「トラウマになるぞ。」


さっきの後退り。内田くんが暴力を振るうわけないのに、自然に身体が反応した。

これが、トラウマ?


「いろんな選手、見てきたから。でも、俺がついてる。名トレーナーやからな。」

「内田くん。ありがとう。でも、私は大丈夫やから。」


殴られたくらいで、心に影響するなんて、信じられなかった。

ショックは大きかったけど、そんなことに私が負けるなんて。

私は、大丈夫。そう信じ込むことにした。


「夏は?」

「まだ、寝てる。内田くんのベッド、ごめんね。」

「俺は、どこでも寝れるから。」

「朝ごはん、食べて。」

「何年ぶりかな。家で朝ごはん食べるの。」

「冷蔵庫、勝手に使っちゃった。」

「なんでも、好きにしていいから。」


「夏、学校は?」

「今日は、休ませる。学校の用意、何もないから。」

「今日、取りに行こう。」

「いいよ、内田くんにそんなことまで、させられへん。」

「もし、家におったら、会えるんか?」

「今は、会えない。」

「夏は、会うてもええんか?」

「あかん。夏に暴力振るうかもしれへん。今は、絶対、会わせられへん。」

「会わんでええ。」


「でも、内田くん、仕事は?」

「午前中、顔を出せば、後は夕方から出ればいいし。」

「本当に、いいの?」

「なに、遠慮してんねん。」

「たぶん、お昼頃なら、いないと思う。」

「じゃあ、夏も、ゆっくり寝れるな。」

「今日くらいは、そうしてあげたい。」


内田くんが出掛けた後、 母親に電話した。ケンカしたから、夏と家を出た。今は友達の家にいるから、心配しないで、と。

葵が悪いなら、早く謝って、家に帰りなさい。もし、帰るのが嫌なら、ここに帰って来なさい。

わかった。どうするかわからないけど、また報告する、と電話を切った。


口の周りの腫れが引くのに4日くらい、これから紫になっていく痣が消えるには2週間くらいかかりそうだ。

まさか、内田くんの家に、ずっといるわけにはいかない。

どうするか、どうすればいいのか、早く、考えないといけない。


夏が、起きてきた。

よく寝れたようで、すっきりとした顔をしている。

「ママ、大丈夫?」平気、ママは強いんだから。



今から家に帰って、当分暮らすための荷物を取りに行くこと。

おばあちゃんが心配するから、傷があるうちはおばあちゃんの家にはいけないこと。

お父さんにはまだ会いたくないこと。


子供だけど、もう中学生だ。

今の状況を理解してもらうために、全てを話した。


「パパと離婚するの?ママがそうしたいならいいよ。」


考えていた以上に、夏はお姉ちゃんになっていた。

だけど、夏が受けた心の傷は、大人の私より、深いに違いない。


昼前に、内田くんから電話があった。

下で車を止めているから、下りて来て。



3人で、家に戻った。

内田くんだけが車を下りて、玄関のチャイムを鳴らす。誰もいないようだ。


家の中に入り、服や靴、身の回りの物や化粧品など、最小限の必需品を鞄に詰めた。

内田くんは、夏の荷物作りを手伝ってくれている。

その間に、昨日のままになっていた、台所を片付けた。


夏の荷物を持って内田くんが下りて来た。

身の回りの物、学校の制服や、教科書、そして、サッカーの荷物。

私の荷物の3倍はある。

夏は?と聞くと、まだ持って行きたいものがあるから、先に行ってと言われたらしい。

しばらくして、学校の鞄と大きな紙袋を持って下りて来た


悪いことをしているわけではないけど、後ろめたさがあり、早く家を出たかった。


帰り道、お昼を食べるために、ショッピングモールに行った。

食事を終え、スーパーでは、カゴ2個分の食料品を買い込んだ。


内田くんが、傷が治るまで、出て行く必要はない。夏のことを考えれば、少しでも、落ち着ける場所がいると思わないか。

江藤も、これからのことをじっくり考える時間がいるだろう、と。


内田くんに、もう少しだけ、甘えることにした。



ちょうど4日で、唇の傷は治った。もう痺れもない。だけど、口の周りは、悲惨だった。出掛ける時には、マスクをしないと、小さな子どもが見たら、泣いてしまうほどだ。


学校と、クラブの送り迎え、掃除、洗濯、食事の支度が、私の仕事だ。


夜は、遅くなるけど、3人で食事をした。

一番盛り上がるのは、やっぱり、サッカーの話題。

夏は、一押しは、ネイマール。顔で選んでるんじゃないか、と内田くん。それもあるかもね。だって、サッカーが上手くて、かっこいい方がいいに決まってるやん。


夏は、ずいぶんと落ち着いた。ここに来た頃は、私のことを考えて、用もないのに話しかけたり、無理に笑ったりしていた。

でも今は、普段の夏に戻りつつあった。

それは、夏が 信頼している、内田くんがそばにいてくれることも、大きな要因かもしれない。


夏のために、ここにいてよかった。



心の奥底でずっとくすぶっていた、遠い昔のかすかな火種が、私の中で、燃え上り始めている。

いけないとわかっているのに、また、私は内田くんのことが好きになってしまった。



1週間が経った。痣は、日に日に薄くなっている。

夏が寝た後、内田くんが、飲もうと、ワインを持ってきた。


ソファーに、並んで座った。


「飲める、やんな?」

「うん、弱くない。」

「やるねぇ。さすが、江藤や。」

お疲れ様、とグラスを合わせる。

「口、もう大丈夫みたいやな。」

「本当、内田くんには、感謝してる。」

「ほっとけるわけ、ないやろ。」

「そやね、同級生やもんね。」

「違う。中学の頃、好きやった女や。」

「私を?」

「あの頃、絶対、気がついてくれてるもんやと思っててんけどな。」

「知らんかった。私とは、思ってなかったから。内田くんを好きな子多かったし。」

「そんなことないわ。江藤以外に、話しできる女の子なんか、おれへんかったで。」

「そうなん?あんなに、ようしゃべってたのに?」

「女の子、苦手やってん。」

「あれで?」

「そやから、江藤だけやったんやって。」


「江藤は?俺のこと、どう思ってたん?」」

「私?聞きたい?」

「俺のこと、好きやったやろ?」

「あほ。」

内田くんが、笑う。

「クラブで、その、あほ、を聞いた時、めっちゃ好きやったこと、思い出した。」

「そしたら、内田くん、なんで、なんの連絡もくれへんかったん?」」

「えっ、何回も、電話してんで。」

「うそ。」

「本当やて。でも、繋がれへんから、振られたんかな、って思ってた。」

「本当の話?」

「本当や。ずっと気になっててんけど、高校のサッカー部が、ほんまにきつかったから、電話、できへんようになったんや。」

「卒業した途端、忘れられたんかなって、思ってた。」

「俺は、ずっと、おまえにもう一回会いたいって、思ってた。」

「本当?」

「やっと、誤解が解けたみたいやな。」

「25年経って。」

「あの時、おまえが好きやって、言えばよかったな。」

「私も、同じこと思った。あの時、私の気持ちを言えば、何かが変わったのかなって。」


内田くんが、わたしの肩に手を伸ばし、引き寄せる。

心臓が高鳴る。


「でも、また江藤と会えた。」

「うん。会えたね。」

「一緒にいて、やっぱり、おまえが好きや、ってわかった。」


江藤くんの顔が近づく。

「あかん。痣、あるし。」

口を押さえた手を、江藤くんが握り、下に下ろした。

「ええねん。」

目の前に、内田くんの顔。目を閉じた。

初めてのキスのように、ぎこちない私を内田くんがリードする。そして、優しく抱きしめてくれた。


おまえの力になるから。




ー4ー


自分の中では、もう答えは出ていた。

ただ、私を好きだと言ってくれた、内田くんのそばにいたから出た答えだと、思いたくなかった。


今回は、私と夫の問題だ。もちろん、夏の存在も忘れてはいけないが、決めるのは、2人なのだ。


実家に、戻ることにした。

傷も治った。内田くんのところにいる理由がなくなった。


ここに来て、2週間が経った日、内田くんと夏に、実家に帰ることを伝えた。

内田くんは、なにも言わないでいてくれたけど、夏は、大反対だった。よっぽど、ここの居心地がよかったに違いない。


実家でおばあちゃんが待ってるから。これからおばあちゃんとパパと話し合わないといけないから。説得して、渋々だけど、納得させた。


その夜、食事の後片付けをしているところに、内田くんが、

「原因を聞かせて欲しい」と言ってきた。

後片付けを終え、ダイニングテーブルの内田くんの正面の椅子に座った。


内田くんが、ビールを持ってきてくれた。

グラス、いる?いらない。じゃ、乾杯。何に?25年振りの2人に。

内田くんが、照れ臭そうに笑った。



10ヶ月前、クラブで偶然、内田くんに会った。もし、夏がトレセンに合格していたら。

2週間前、ファミレスに入るところを偶然、内田くんが見つけてくれた。もし、後3分でも入るのが遅かったら。


たくさんある中の歯車が、ひとつでもずれていたら、偶然は、なかったんだ。

この時間を与えてくれた、奇跡に、感謝した。


「なんやったん?」

私が、考えていると、

「いややったら、ええねんで。」と内田くんが焦ってる。

「違う。原因を考えてた。」

「考えなあかんほどのもんなんか?」

「私も、よく、わかってないから。」

「原因、ないんか?」

「強いて言うなら、サッカー。」

「サッカー?」

「サッカー、嫌いな人やから。」

「そんなんで、殴るんか?」

「夏に、サッカーさせたから。最初は、それが気に食わなかったみたい。」

「それで?」

「土日に試合があるから、どこかに出掛けたりすることもなくなった。たぶん、孤独だったのかもしれない。」

内田くんが、あごを上げて、話を促す。

「試合を見に来たことも、一回もなかった。意地張ってたんだと思う。だから、余計に私が頑張ちゃって、あの人のことを、二の次にしてしまったの。」

内田くんが、うなづく。私は話を続ける。

「中学生になって、クラブに入って、夏と私は、ますます忙しくなった。

あの人は、普通に娘を育てたかったんだ。毎晩、一緒にご飯を食べて、休みには遊園地なんかに行って。夏のそばに、いたかったんだと思う。

でも、できなかった。私が、させてあげなかった。たぶん、それが原因だと思う。」

「夏は?」

「見ての通り。なによりもサッカーが大好きな子。そうさせたのは、私。」

「どうする?」

「私と夏を受け入れてくれることは、サッカーを続けていく限りないと思う。

私は殴られてもいい。私が、原因を作ったのだから。でも、夏に手を出すことだけは、許さない。

だけど、サッカーをやめたら、もしかしたら、元に戻れるかもしれない。夏を優しいお父さんのそばにいさせてあげられる。

ねぇ、そうしてあげた方が、いいの?」

「答えは、出てるやろ。 」

「うん。」

「そしたら、聞くな。自分で考えた通りにしたらええ。」

「自分勝手でもいいと思う?」

「ちゃんと、夏のことも考えてるんやろ。」

「実家に帰って、きちんと話し合う。」

「ちゃんと、ケリつけて来い。」


翌日、夏と実家に帰った。



母に、殴られたこと以外は、全て話した。

離婚したい、と言うと、離婚したお母さんがあかんって言えるわけがない。

夏がいるから、と考えるのだけはやめなさい。自分が決めたことの責任は、全部自分にあるのだから。


夜、母に夏のことを任せて、家に帰った。

遅くても、待ってるつもりだったけど、明かりが点いていた。


帰っている。私を殴った時の、夫の顔を思い出した。怖い、と思った。

トラウマ。内田くんの言葉を思い出した。


覚悟を決めて、家の中に入る。

リビングのドアを開けると、夫が、ソファーに横になって、テレビを観ていた。


振り向いて、ドアのそばに立っている私を見た。無表情、というより、表情は冷たかった。

やっぱり、この人とは、もう暮らせない。


「勝手に出て行って、ごめんなさい。」

家を出て、 1か月半、夫から電話一本なかった。実家に訪ねて来たことも、もちろんなかった。


「話をしたくて。」

「こっちは、話なんかない。」

「いろいろ、考えたの。」

「‥‥」

「離婚して下さい。」

「‥‥」

「なんにもいらないから、家を出ます。」

「‥‥」

「一緒にいるのが、怖いの。」

「殴ったからか?」

「それも、ある。」

「僕のことを無視して。」

「無視なんてしてない。」

「僕の気持ちを理解しようとしたことが、あるか?」

「理解は、してるつもりだった。」

「あれでか?」

「あなただって、」

「自由に、させない。」

「えっ?」

「お前らだけ、楽しい人生を送るなんて、許さない。」


どうして、この人は、こんなに変わってしまったのか。思いやりのある、心の穏やかな人だったのに。

私が、変えてしまった?こんなに卑屈な人に、私がしてしまったのか?


「今日は、帰る。でも、あなたなら、離婚してくれるって信じてるから。」


家を出た。どっと疲れが出る。

あと何回、ここに来ればいいのだろうか。




夏休みに入った。

夏の、学校の送り迎えは、大変だった。片道45分。朝は渋滞でもっと時間がかかる。

サッカーでの練習で疲れていても、朝は、いつも起きていた時間の1時間前に起きなければならなかった。


もう、あの家に戻ることは、ないだろう。

今はまだ、どこに住むか決めてないけど、

夏の転校のことも、考えないといけない。

できれば、夏休み中に、引っ越しをして、新学期から通わせたい。


まずは、夫に会い、離婚を承諾してもらわないことには、何も前に進めない。


なぜだか、私は焦っていた。どうにかしなければいけない。早く、早く、と。


今夜、また家に行こうと考えていた時、内田くんから電話があった。


クラブで会うこともあるけど、見学している他の保護者の目もあるから、挨拶を交わすくらいで、実家に帰ってきてから、ろくに話もしていなかった。


「今晩、空いてる?」

「家に行こうと思ってたんだけど。」

「付き合うよ。」

「でも、帰り、何時になるかわからへん。」

「かめへん。何時に迎えにいったらええ?」


夜、内田くんと家に向かった。

電気は、付いていなかった。

家の中でひとりでいるのが嫌だったので、近所のカフェで待つことにした。


「ごめんね。」

「謝るなって。」

「そうや、ねぇ、チョコレートパフェ、おごって。」

「ええけど、なんで今、チョコレートパフェやねん。」

「やっぱり、忘れてる。」

「なんか、言うたっけ?」

「卒業式で、私が泣いたら、パフェおごってくれるって、内田くん約束したのに。」

「思い出した。いくら江藤でも、卒業式くらいは泣くやろな、と思ったから。」

「えっ、泣いたら、内田くんの負けやったんちゃう?」

「中学生の頭で、考えてん。どうしたら、江藤とデートできるか。」

「へんなの。」

「けど、江藤、泣けへんかってん。」

「式ではね。」

「普通は、卒業式くらいは泣くやろ。どんだけ強い女の子やねんって。せっかく考えたのに、あほらしなって、笑ろたわ。」

「回りくどいなぁ。デートしよ、て言ってくれたら、素直に、うん、っていうのに。」

「その頃は、恥ずかしかってん。」

「内田くん、そんなに純情やったん?」


1時間後、家に戻ったら、電気が、点いていた。

大きく深呼吸して、行ってくる、と車から降りようとしたら、腕を引っ張られた。振り向いた時には、内田くんの顔が、もうそこにあった。

優しい、長いキス。


頑張ってこいよ。

内田くんが、もう一度、短いキスで、送り出してくれた。


内田くんが、私をトラウマから救ってくれる。


家に向かう足取りが、いつもよりずっと軽かった。




ー5ー


「何回来ても、無駄だ。 絶対、離婚はしない。出て行っくれ。」


夫は、私の顔を見るなり、言い放った。

返す言葉が、ない。

その場に立ち尽くした。

「うっとうしい。帰れ。」

夫の顔を見る。怒りの表情だ。

身体が一瞬でこわばる。

また手が飛んでくるがしれないという恐怖を感じた。


「また、来る。何回でも、来るから。」

出て行こうとした時

「男か。」と一言。

びっくりして、振り返った。

「男の車で、来たのか。」

「違う。友達。送ってくれただけ。」

「出て行く前からか。」

「だから、違うって。」



玄関のドアを出たところで、メールした。

先に、歩いて帰ります、と。


車は、角を曲がった所に止めていたから、家から見えるはずはなかった。

最初に、来た時。車を走らせながら、明かりを確認した、あの時。家の近くまで、夫は帰ってきてたのだ。


家から駅までの道の途中で、車は、私に追いついた。


内田くんが、車の中から助手席のドアを開けた、早く乗れ。


うつむいて、黙っている私を乗せて、内田くんは、車を走らせた。


車が止まった。内田くんがサイドブレーキをかけた。どこ?俺のマンション。

2人で、部屋に入った。


「座れ。」と、ソファーを指差す。

冷蔵庫から缶コーヒーを持って、内田くんが横に座る。

缶コーヒーを不意に、私の首に押しつけてきた。

「キャ、冷たい。」

「油断してるから。」

「もう、何すんのよ。」

今度は、頬に。

「冷たいって。」

「隙だらけや。」

「もう。あほ。」

「ちょっと、戻ったな。」


「話してみ。」


「怖かった。」

「殴られそうになったんか?」

「そうじゃない。」

「じゃあ、なにが?」

「全部。」

「全部か。」

「夫に、内田くんと車に乗っているの、見られた。」

「そうか。しゃぁないな。」

「もっと、頑なになって、絶対、離婚なんかしてくれない。」

「焦るな。」

「こんな中途半端で、どうしたらいいの。」



「江藤、俺の話、聞いてくれるか?」

うん、とうなづく。


「2年前から別居している妻は、心の病気なんや。」


「大学の時から付き合い出したけど、なんていうか、弱い子、やった。すぐに心配して、不安になって、泣き出すような。だから、守ってあげないと、って気持ちになった。」


「でも、クラブに就職して、最初の担当が、うちのトップチームやったんや。J1チームのトレーナーの忙しさは、尋常じゃなかった。 試合に同行するから、大阪におれへんことも多い。

会われへんかったから、不安になったんやろうな、結婚したいって言い出して。」


「結婚した後も、仕事が変わるわけでもないから、なかなか家におられへんかった。言い訳かもしれへんけど、病気になってたことに

全然、気付けへんかったんや。

結婚して、5年ぐらい、1人で我慢してたんやろな。その内、リストカットが始まった。自傷行為が何回か続いて、入院した。」


「それから5年、入退院を繰り返してた。4年前に、女子サッカーチームを作る話が出た時に、ちょっとでも時間が作れたらと、部署を

移動してもらった。けど、結果、何にも変われへんかった。

2年前に、向こうの親が、もう迷惑かけられへんからって、実家で暮らすようになったんや。」


「大変なんは、俺と違う。向こうの親は入退院し始めた時から、離婚してくれていいって言ってくれてたけど、俺の責任やから、そのままにしてた。」


「けど、江藤と、やっと会えた。今度は、25年前みたいな後悔はしたくない。江藤を幸せにしたい、と思った。

そやから、離婚することにしたんや。」


「自慢やないけど、俺は、離婚を決めるまで7年かかった。

ゆっくりでも、ええやん。気持ちさえ、決まってたら。」


内田くんの話を聞いて、自分を恥じた。

7年という長い時間、内田くんは、どんなに辛い思いをしていたのだろう。


涙が出てきた。自分が情けなかった。


うつむいている私の顔を上げ、指で涙を拭いてくれた。

「私、なんにも知らなかった。内田くんが、そんなに辛い思い、してたこと。」

「なんにも言うてないねんから、知ってたら怖いわ。」

「私ばっかり、内田くんに迷惑かけて。」

「迷惑ちゃうって。」

「泣き言ばかりで、呆れたやろ?」

「呆れるか、あほ。」

「ほんま、あほやね。私の方が、内田くんよりずっと、あほやわ。」


「守ったる。何があっても、おまえを守ったるから、もう泣くな。」

「内田くん、なんでそんなに、優しいの?」

「何回も、言わすな。恥ずかしいやろ。」


照れ隠しに、私を強く抱きしめる。

「内田くん、ありがとう。」

内田くんが小さくうなずく。




もうすぐ、夏休みが終わる。

夫に何度も会いに行ったけど、なんの結論も出ていない。


内田くんと、クラブ以外で会うことも控えた。どこで見られるか、わからないから。


でも、徐々に、夫の表情が変化している。

黙ってしまうことも、無視することも少なくなった。

なにがそうさせたかは、わからないけど、怖いと感じた、あの夫はもういなかった。



9月の日曜日。

私は、朝早く、家に帰った。


今まで、夫に会いに来たのは、夜だった。

仕事から帰って、疲れている時に、離婚などというややこしい話を聞くのは、誰だって面倒臭いはずだ。機嫌だって悪くなる。

自分が働いていないから、なんて言い訳に過ぎない。夫のことを、思いやってあげてなかっただけだ。


自分の鍵で、家の中に入った。

静まり返ったリビング。まだ残暑も厳しいのに、そこには、冷んやりとした空気が漂っていた。


キッチンに行ってみた。

シンクには、汚れた食器一つない。きれいに洗ったふきんがシンクの縁にかけてある。

こんなにきれい好きだったなんて、今まで知らなかった。


14年間、一緒に暮らしていたけど、一体どれだけ夫のことを見ていたのだろう。

結婚前から、夫に、ときめいたことは一度もなかった。夏がサッカーを始めるまでは、波のない、まるで凪のような、平穏な日々だった。

そして、後の7年は、夫を、見ていなかったかもしれない。

夫は、7年間で少しずつ、不満を募らせていったのだろう。


夫が、あの穏やかな夫が、怒りを爆発させた。

術を知らなかったのだ。怒りを爆発させる術を。


冷んやりとした、誰もいないリビングで、考えていた。


夫が起きてきた。


「来てたのか。」

「寝てる時に、ごめん。」

「いや、いい。」

キッチンで、コーヒーを淹れた。

ダイニングテーブルに、向かい合って座った。

ここに来て5回目で、初めて腰を下ろした。


「夏は、元気か?」

「うん。とっても。」

「サッカー、してるのか?」

「相変わらず、サッカー漬け。」

「そうか。」

「あなたがきれい好きなの、全然、知らなかった。」

「葵は、僕に興味なんてなかった。」

「そうかもしれない。」


長い時間、2人は黙ったままだった。


「離婚、するよ。」

「えっ?」

「10月に、東京本社へ行くことになった。」

「そうなの。」

「こんな状態でなくても、ついて来くることはなかっただろう。結婚してても、してなくても、どうせ、ひとりだ。」

「ごめんなさい。」

「慰謝料はなしだ。」

「あまり前よ。私が悪いんだから。」

「この家は、どうする?」

「あなたが、決めて。」

「住まないのか?」

「うん。自分で、探すから。」

「慰謝料の代わりに、家を売って、折半にする。」

「いらないから。」

「家を探すのにも、お金がいる。」

「私のことなんて、考えなくていい。」

「夏のためだ。」

「夏は、ちゃんと育てるから。」

「養育費も、できる限り出す。」

「あなた。」


「夏に、なでしこに、なってくれるよう、伝えてくれ。」



もう住むことのない、家を出た。

初秋の太陽の日差しは柔らかく、そして、暖かかった。




ー6ー


夕方、遠征から戻る夏をクラブまで迎えに行った。


バスが着く。バスから降りてくる女の子たちの顔は、一様に明るい。試合に勝ったのだろう。

最後にスタッフたち、その一番最後に内田くんが降りてきた。


私を見つけて、微かに微笑んだ。

疲れてなかったら、今晩会いたい、とメールで伝えている。


夏と実家に帰ってきた。

母が、夕食の用意をしてくれていた。


2日間で6試合をしたこと。そのうちの2試合に出れたこと。負けたのは1試合だけだったこと。宿泊施設のご飯が美味しかったこと。初めてまくら投げをしたこと。

夏は、楽しそうに、遠征の話を聞かせてくれた。


食事の後、今度は私が2人に話をする番だ。


「夏、お母さん、ごめんね、パパと離婚することになっちゃった。」

「マジ?」

「ほんとなの?」

「今日、パパと話してきた。」

「承諾してくれたの?」

「ママもバツイチだね。」

「もう、真面目に聞いて。」

「はーい。」

「東京に転勤になったんだって。」

「寂しいね、パパ。」

「そうだね。」


「夏に、なでしこになれって。」

「なでしこ、知ってたんだ。サッカー、嫌いなのにね。」

「夏、大丈夫?」

「なにが?」

「パパ、もういなくなってしまうんだよ。」

「もう何か月も、一緒にいないし。」

「ごめんね。夏。親の勝手で。」

「仕方ないよ。」

「ママが、夏を守るからね。」



メールが来た。今、クラブを出た。迎えにいくよ。


「久しぶりやな。」

「顔は見てるけどね。」

「急に、どうしたん。」

「話したいことがあって。」

「どっか、行こか?」

「落ち着けるとこがいい。」

「わかった。」


車は、内田くんのマンションで止まった。


「ごめんな。どっか行きたかっけど、車やったら飲まれへんし、クラブのポロシャツやしな。」

「ええよ。一番落ち着けるわ。」



「ビールでええか?」

「うん。」

ビールを両手に持った内田くんが、そばに来た。

「あかんで。」首をすぼめた。

「せえへんって。今日は、江藤、凹んでないし。」

内田くんやったらまた、と言った瞬間、首の後ろにビールがきた。

「キャ。」

「引っかかった。」

もう、と内田くんを叩こうとした手を取り引き寄せる。

「ええ笑顔や。」

「怒ってんねんで。」

「怒るなよ。」


優しく、抱きしめられた。

耳元で、会えてよかった、と内田くんがささやく。

もう、離さないで。


2人で、ソファーに倒れ込んだ。


もう何年も、夫と同じベッドで寝たことはなかった。

奥さんの看病をしていた内田くんも、身体を触れることは、なかっただろう。


2人は、お互いを求め、愛を確かめ合った。



いつしか、内田くんの腕の中で眠ってしまっていたようだ。

目を開けと、内田くんの顔がすぐそばにあった。


「目、覚めたか?」

「ごめん、寝てたね。内田くんも?」」

「いびき、うるさかったから、全然、寝られへんかった。」

「うそ。本当?」

「うそや。」

「もう。」

「江藤、見てた。」

「恥ずかしい。すごい、おばさんになってもうたから。」

「25年前、俺に勇気があったら、もっと早くに、おまえと一緒になれてたのにな。」

「戻りたいな、あの頃に。」

「そしたら、もっとピチピチやったか?」

「あほ。」


「離婚、してくれるって。」

「今日か?」

「そう。朝、帰った時。」

「頑張ったな。」

「私は、なんにもしてへん。」

「じゃ、ダンナが、頑張ってんな。」

「本当は、優しい人やってん。私が、あの人を変えてしまった。」

「2人とも、悪ない。いつの間にか、別の方角向いて、歩いてたんや。」


「 ビール、忘れてたな。」

「内田くんが、いらんことするから。」

「飲むか?」

「うん。」


乾杯。今日はなにに?なにってひとつしかないやろ。言うて。やっと一緒になれた今日の記念に。


冷たいビールが、火照った身体の中に真っ直ぐに入っていく。

今まで生きてきた中で、一番美味しいビールだった。



夜明け前、実家に戻った。


夏の様子を見に行く。

珍しく、ぬいぐるみを抱いて寝ていた。

オレンジ色のクマ。

夫が、夏の誕生日に買ってきた物だ。夏には不評だったけど、愛嬌のある表情をしていた。

なんで?家から、持ってきてたっけ?

部屋の隅に、大きな紙袋がある。荷物を取りに行った時、最後に持ってきた、紙袋だ。

中を見る。

ぬいぐるみが、いくつか入っている。全部夫がプレゼントしたものだった。


寝ている夏のそばに座った。

パパは、夏にはいつも優しかった。夏は、文句を言いながらも、パパのそばが好きだった。


2人を、私が引き離してしまったんだ。


口では生意気なことを言ってたけど、本心じゃなかったのね。

ごめんね。わかってあげられなくて。


これからは、ママが、守るから。パパの分まで、幸せにするから。


夏の頭を、いつまでも撫でていた。




ー7ー


不動産屋で、いくつかの条件を伝える。

転校はさせたくないから、今の校区内で。女2人暮らしだから、できればオートロックのマンション。端部屋だとうれしい。間取りは、最低でも2LDK。収納は多い方がいい。築年数は問わないので、できるだけ家賃を抑えたい。


担当の人が、頭を抱える。


「ありませんか?」

「もう少し、条件、減らせませんか?」

「これで、探してください。」

「うちでは、ちょっと。」


これで、断られたのは3件目。

やっぱり、条件が多いのかな。



内田くんから、メールがあった。

いいとこ、見つかった?

全然。

今度は、付き合うわ。

ありがとう。

明日、休みやけど、空いてる?

空いてるよ。

昼飯でも、食えへんか?

了解。



翌日、内田くんとランチを一緒にした。

クラブのマークが入った、黒のポロシャツとジャージのイメージしかなかった内田くんが、今日は、アイボリーのシャツに黒のスリムなパンツというシックなコーディネート。


「内田くん、別人みたいやね。」

「そうか?」

「いつもより、ずっと素敵に見える。」

「まぁ、毎日、ポロシャツやしな。」

「うん、かっこいいよ。」

「で、部屋は、見つからんか?」

「不動産屋さん3件回ったけど、希望通りの部屋は全然ない。」

「条件、厳しんちゃうか?」

「不動産屋さんに言われた。条件、減らせませんか?って。」

「そやけど、不動産屋回るより、ネットで調べたほうが早いんちゃうか?」

「そうか、そうやね、ネットや。」

「おまえ、いつの人間や。」

「でも、実家にパソコン、ないし。」

「見るんやったら、俺のとこ来るか?」

「ありがとう。内田くん、すごい。」

「どこがやねん。」



内田くんの部屋で、パソコンを開く。

「で、条件は、なんや?」

不動産屋に伝えた条件を言う。

内田くんも、頭を抱えた。

「あかん?」

「あかん。」


パソコンに入力している内田くんが、言った。

「江藤、2年半だけ、我慢し。」

「2年半?」

「2年半したら、夏は高校や。高校には、ここから通たらええ。」

「夏と、ここに来るの?」

「そやから、高校行くまでの間だけの部屋と思たら、条件、落とせるやろ?」

「同棲すんの?」

「あんな、高校生の子連れで、同棲とは言わんやろ。」

「一緒に、暮らすの?」

「江藤と夏が、よかったらの話やけど。」

「でも、奥さんとの思い出とかあるところに私たちがいていいの?」

「言うたやろ、ほとんど家におれへんかったって。」

「考えてみる。」

「冗談ちゃうからな。」

「夏に、話してみる。」

「まだまだ先の話やから。焦らんと、機会みて話ししいや。」



パソコンの前に座っている内田くんを後ろから抱きしめた。


「ありがとう。内田くんの気持ち、すごいうれしい。」

内田くんの座っている椅子を回転させる。

座ったままの内田くんに、少しかがんで、キスをする。私からの、初めてのキス。



いくつかの物件をピックアップした。

不動産屋に行く前に、自分でチェックした物件を見たかったから、夏を迎えに行く途中で、寄ってみることにする。


エントランスを出た時、女の人が前から歩いて来た。

通り過ぎてから、後ろから、お兄さん、と声を掛けられた。

内田くんが、振り向く。私もつられて、そっちを見た。

美沙ちゃん?内田くんが、名前を呼んだ。


内田くんに妹はいないはずだ。中学時代、兄弟は、お兄さんだけだと聞いた。


内田くんが、女性の元に行き、何かを話していた。


「ごめん。ちょっと急用で。」

「いいよ。ひとりで行けるから。」

「悪いな。また連絡する。」

女性に軽く会釈して、その場を離れた。


振り返ると、内田くんと女性が、エレベーターに乗っていくのが、見えた。


内田くんの妹ではないなら、奥さんの妹だろうか。

スタイルのいい、きれいな人だった。



プリントした物件の資料を見ながら、家を見て回った。


結婚してすぐこの街に引っ越して来て、14年も経つのに、知らない場所がたくさんあったのには、驚いた。


小さな公園の横に建つ7階建のマンション。少し古いけど、レンガ造りの落ち着いた外観が気に入った。

資料を見ると、南向の2LDKで、家賃は築古いからか、考えていた予算より安かった。


夏を迎えに行き、2人で不動産屋に行った。


さっきのマンションに、担当の人と向かった。

玄関は、オートロックではなかった。夏は古いから仕方ないよ。の一言。

エレベーターで5階へ。

担当の人が、鍵を開けてくれた。

ゆったりとした玄関。廊下の先にあるリビングには大きな窓があった。

2つの部屋にも大きな窓があり、近くに高い建物がないため、景色がよかった。

部屋を丸ごとリフォームしているということで、収納スペースは多く、壁は眩しいくらいの白だった。


夏に、いいと思わない、と聞いた。ここ気に入った。学校も近いし、ここにしよ。


仮押さえの手続きだけ済ませ、久しぶりに夏と外食することにした。


「あの部屋、よかったよね。」

「思ってたより、ずっとよかった。」

「今から、大変だ。」

「引っ越しが?」

「前の家を売るから、まず、向こうの片付けをやってしまわないと。」

「売るんだ、あの家。」

「パパも東京に行ってしまうし。」

「じゃ、ママと夏で住めばいいじゃん。」

「ごめん。ママは、あの家には住めない。」

「なんで?」

「思い出が、あり過ぎるから。」

「思い出、あったらいけないの?」

「いい思い出も、悪い思い出も、遠くにあるから、思い出なの。」

「わかんない。」

「夏は、これからもパパと繋がって行くんだから、まだ思い出じゃないけどね。」

「ふーん。」

「大切にしなさい。」

「なにを?」

「パパからもらった、ぬいぐるみ。」

「全然趣味じゃないけど、せっかく貰ったから。」

「引っ越し、手伝ってよ。」

「時間、あったらね。」



内田くんから、その日の夜も、次の日も、その次の日も、連絡はなかった。




ー8ー


夏を学校に送ってから、家で片付けを始める。


家具や電化製品などは、次の家で使う物と処分する物に分ける。

食器は、使う分だけ。本や雑誌などは、全て捨てる。服や靴、カバンなどの雑貨は、3年間で使った物だけを残して、後は処分。


自分で決めたルールに従って、作業を始める。

携帯が鳴った。メールだ。

時計を見る。お昼前。 あっという間に3時間以上も経っていた。

携帯を見る。内田くんからだ。


今、どこにいる?

家で片付け中。

どっかで、会えるか?

今?

時間があれば、やけど。

どうかな。


返信がなくなったと思ったら、今度は電話がかかってきた。


「おまえ、男子高校生か。」

「ん?」

「絵文字って、知ってるか?」

「いきなり、なに?」

「メールや。」

「メールがどうかした?」

「素っ気なさ過ぎ。」

「そうかなぁ。」

「あるやろ、ハートつけたりとか。」

「内田くん、どうしたん?」

「メールにあまりにも腹立ったから、電話してもうた。」

「変なの。最初から電話してくれたらええのに。」

「まぁ、そやけど。」

「なんか、あった?」

「そや、腹立って、忘れてた。今から、会われへんか?」

「今から?」

「そっち、行くわ。着いたら、また電話するから。」


なんか、内田くん変だ。なにかあったのかもしれない。

この前、マンションであった女性を思い出した。


片付けの手が、止まってしまった。

なんだろう、どうしたんだろう。


家を出て、国道まで行ってみた。

クラブからなら30分、マンションからなら20分で着く。

車の流れをぼんやりと眺めながら、待っていたけど、来ない。

連絡してみようと、ジーパンのポケットに手を入れた。携帯がない。家に忘れて来たんだ。

急いで、家に戻ると、ドアの前に内田くんが立っていた。


「来てたの?」

「連絡する、言うたやろ。」

「国道で、待ってて。」

「携帯は?」

「家に、忘れてきた。」

「おまえ、本当にどんくさいなぁ。」

「ごめん。」

「出れるか?」

「ちょっと待って。バッグ、持ってくる。

あっ、もしよかったら、入る?」

「ええんか?」

「片付けしてるから、散らかってるけど。」


内田くんを、リビングに案内した。

コーヒーを淹れて、私もソファーに座る。

内田くんが、ここで暮してたんやな、と部屋を見回す。


「なんか、内田くんがここにいるの、へんな感じ。」

「俺も、落ち着けへんわ。」

「なんか、あった?」

「やっぱり、出よ。」

「なんか、服、あるか?」

「私の?」

「そう。」

「内田くん、女装すんの?」

「あほ。江藤が、着替えるんや。」

「なんで?ジーパンやったらあかんの?」

「ええから、早よ着替えて来い。」


内田くんと一緒に、久しぶりにワンピースを着て、家を出た。


「時間、ええか?」

「今日、夏、練習ないから友達のとこに泊まるって。」

「練習なかったら、遊び歩いてんねんな。」

「もっと、厳しくする?」

「今より厳しかったら、みんな辞めんで。」

「ほんまや。」

「けど、中学生には、中学時代でないと経験できへんことも、いっぱいある。」

「内田くんの初恋とか?」

「そや。いろんなことして、大きくならんと一流のサッカー選手にはなられへん。」

「内田くんらしい。」

「まぁ、そういう俺は、一流の選手にはなられへんかったけどな。」

「内田くん、なんか話が‥‥かる」

「それ、後にしよ。」


車で、神戸まで来た。

港のそばにあるホテルの駐車場に車を止めて、歩き出す。


「どうしたん?急に、神戸って。」

「なんか、デートしたなってん。」

「デート?」

「そう。変か?」

「面白い。この年になって、デート?」

「お互いに、いろいろあるやろ。そやから、今日はなんにも考えんと、江藤と楽しみたいなって思ってん。」


内田くんの腕に自分の腕を絡めた。

デートやったら、腕、組まんとね。内田くんが、笑った。


中華街での昼食。異人館の散歩。トアロードでのショッピング。夕方にはクルーズで海から神戸の街と夕陽を眺めた。


中学時代の話、お互いの学生時代の話、サッカーの話。会話は尽きることがなかった。


船から降りて、内田くんはどこかに電話していた。そして私に、今日は帰れへんって、お母さんに電話しとき、と言った。


車を止めたホテルに戻り、内田くんがチェックインする。

そのまま、最上階のレストランで、神戸の夜景を見ながらのディナー。


「だから、服、着替えさせたん?」

「ジーパンは、あかんやろ。」

「そやね。」

「中学生では、できへんデートやろ。」

「中学生やったら、ファミレスのデートでもうれしいと思うで。」

「でも、江藤をどこにも連れて行ってあげられへんかった。」

「25年分のデート?」

「そう。長い間、待たせたな。」

「でも、内田くんが、こうして目の前にいるの、まだたまに夢かなって思ってしまう。」

「俺もや。ほんまに、江藤か?」

「あほ。」

「その、口癖で江藤ってわかるな。」

「口癖、ちゃうし。内田くん以外の人に、言うたことないし。」

「俺にだけか?」

「うん。あほ、なんか絶対、言えへん。」

「おまえの口癖やと思ってた。」

「なんでやろ?なんで江藤くんだけに言うのか、自分でもわからへん。」

「おまえ、あほの意味、わかってる?」

「あほは、あほやで。」

「違う。おまえにとって、あほは好きや、っていう意味やろ。」

「‥‥そうかも。」


部屋に入る。

なんとなく、照れくさい雰囲気。

先に、シャワーしておいで、と内田くん。


シャワーを終えて、服を着ようか、置いてあったバスローブにするか迷ったけど、バスローブを着て、シャワー室を出た。


内田くんは、電話中だった。深妙な顔。

聞いてはいけないと思い、シャワー室に戻った。

ドライヤーで、時間をかけて、髪を乾かした。

もう一度、出た時には、電話は終わっていた。

「ごめんな、俺もシャワー、してくるわ。」


たぶん、仕事の電話ではないだろう。

お兄さんと言った女性に、関係があるのだろうか。だとしたら、こんな遅い時間に、なんの用が。


内田くんが、出てきた。

「気使わせたな。」

「いいよ。」


内田くんが冷蔵庫からシャンパンを取り出し、ベッドに腰掛けている私の横に座った。

テーブルに置いてあったグラスに、シャンパンを注ぐ。グラスを私に渡し、グラスを合わせる。


「今日、来てくれて、ありがとう。」

「どうしたん?改まって。」

「この前、2年半経ったら、一緒に暮らそう言うたやろ。」

「うん。」

「絶対、忘れんとってな。」

「忘れるなって、どういうこと?」

内田くんが、グラスのシャンパンを一気に飲み干す。

「何があっても、約束は絶対守るから。」

「意味、わかれへん。」


内田くんが、私をきつく抱きしめる。そして、激しいキス。

唇を離す。どうしたん?葵が欲しい。

初めて、名前を呼んでくれた。

航、好き。葵、やっと好きって言うてくれたな。


2人で、ゆっくりとベッドに横になる。今度は、優しく長いキス。

内田くんの手が、バスローブの紐をゆっくり、解いていく。


内田くんに全てを委ねた。




ー9ー


耳元で、声がした。葵。

耳がこそばくて、目が覚めた。耳を手で覆う。内田くんが、その手を取り、息を吹きかける。

「いやや、やめて。」その言葉を無視して、今度は耳たぶを噛む。

「あかんて。」

「もしかして、耳、弱いんか?」耳元でささやく。

「こそばいから、やめて。」

「朝からそんな色っぽい声出したら、興奮するやん。」

内田くんの鼻をつまんで、反撃する。

「興奮、おさまった?」

「全然。」


内田くんが、私の上に覆い被さる。

内田くんの背中に手を回し、耳元でささやいた。航、好き。そして、息を吹きかけた。

「あかんて。」

「航も、耳が弱点?」

「違うわ。我慢、できへんようになる。」


キスをしながら、内田くんが、

「さっきの、もう一回、言うて。」

「耳?」

「違うわ。」

「航、好き。」

「葵、好きや。」



昼前にホテルをチェックアウトした。

どっか、行きたいとこある?お腹すいた。内田くんが、大笑いする。そやな、朝から頑張ったもんな。あほ。


港近くのカフェで、昼食を食べ、 大阪に向けて車を走らせた。


内田くんが、誕生日を聞いてきた。

「教えてあげへん。」

「教えてや。」

「なんで?」

「俺より、お姉ちゃんかな、思って。」

「内緒。」

内田くんの誕生日は、1月23日。内田くんを好きだった友達が教えてくれた日を、今でも覚えていた。私の誕生日は、ちょうど1か月遅れの2月23日だ。


「俺の誕生日教えたるから。」

「いらない。」

「知りたないか?」

「知ってるもん。」

「なんで?」

「内緒。」

「いけずやなぁ。」

「秘密がある方が、ミステリアスやろ?」

「誕生日が秘密やなんて。もしかして、年ごまかしてる?」

「あほ。」


高速から見える大きな観覧車。

乗ったことある?ない。じゃ、行こう、と高速を途中で降りて、と観覧車に乗った。


「観覧車、久しぶり。夏が小さいときに乗って以来。」

「俺なんか、30年振りくらいやで。」

「なんか、おじさん。」

「こら、同級生や。」


「すごい、高いね。一番上の景色、楽しみやな。」


「葵、俺、広島に行くわ。」

観覧車に動き出した時、内田くんが、急に話を切り出した。

「広島?」

「理由は、2つある。ひとつは、広島のクラブが女子チーム作るから、トレーナーのレンタルを申し込んで来た。」

「レンタルって、どれくらい?」

「半年か、1年。」

「そうなんや。」

「もうひとつの理由は、広島の実家に帰った妻が、体調崩して弱ってるらしい、ということや。」

「えっ?」

「この前、マンションに来た女の人、覚えてるか?」

「エントランスにいた、きれいな人?」

「そう。妻の妹。その妹に、離婚する言うたから、体調悪なったって、怒られてな。」

「うん。」

「送った離婚届け見て、寝込んだらしい。」

「そんなことがあったん?」

「広島のチームの話もあったし、どうせ行くんやったら、もうちょっと見ててあげなあかんのかな、って思ったんや。」

「うん。」

「葵に離婚しろ、言うてた俺が、離婚できへんでいる。情けないな。」

「そんなこと、ない。」

「葵の離婚は誰のせいでもないけど、俺の離婚は、俺のせいや。」

「違う。航のせいじゃない。」

「こんな男とは別れる、言うんやったら、それでもええ。無理に待ってろとは、言わへんから。でも、昨日も言うたけど、葵と一緒に暮らしたいと思てる。」

「航が待ってろ、言うんやったら、待ってるから。」

「心の中におるのは、葵だけやから。」

「大丈夫。私、強いねんから。私のことは心配せんでええから。」

「ごめんな、そばにいてあげられへん。」

「航も、私のこと、待っててくれたやん。」


いつの間にか、観覧車は一周していた。


「せっかく乗ったのに、なにも見られへんかったやん。航、もう一回、乗ろうよ。」

「ええよ。葵の気がすむまで、何回でも乗ったる。」


2回目は、涙で曇ってなにも見えなかった。

3回目は、目を閉じてキスをしていたから、なにも見れなかった。

4回目は、2人で手をつないで見た。きっと一生忘れない、2人だけの景色を。



1週間後、内田くんを見送るために、新大阪駅に向かった。


「見送りなんか、よかったのに。」

「冷たい。」

「なんでや。」

「家まで、迎えに行ったのに。」

「クラブに挨拶せなあかんかったから、しょうがないやろ。」

「黙って行くつもりやってんやろ?私が聞かへんかったら、新幹線の時間も教えてくれへんかったし。」

「新幹線で、1時間半やん。永遠の別れでもあるまいし。」

「航が、ひとりで旅立つのは、寂しがるやろなって。」

「そっちの方が、寂しいくせに。」

「寂しないよ。引っ越しもあるし、仕事も探がさなあかんし。」

「仕事、すんのか?」

「バツイチで、子連れやで。これから、大変なんやから。」

「無理すんなよ。」

「わかってる。」

「たまに、帰ってくるから。」

「うん。」

「行ってくるわ。」


内田くんが、広島に旅立った。




ー10ー


新しい家に引っ越して2か月。

仕事を始めて1か月。

仕事は、まだまだ慣れなくて大変だけど、夏と2人の生活は大分、落ち着いてきた。


仕事は、ハローワークで見つけた、建築会社の事務。結婚する前も事務職だったから、コツさえ思い出せば、なんとかやっていけそうだった。勤務時間は9時から5時まで。夏に負担をかけることもない。


40歳で、これほど、生き方が変わるとは、思ってもいなかった。

たまに、本当にこれでよかったのか、と考えることもあるけれど、全部、自分で決めたこと、前に進むしかないのだ。


内田くんの声も長い間、聞いていない。

トレーナーの仕事は、ゼロからのスタートのため、かなり忙しいようだ。それに、奥さんの看病もある。

電話にいつ出れるかわからないから、メールしか連絡できない。


元気か?元気よ。

忙しいか?忙しい。

会いたいな。会いたいね。

好きや。好きよ。


前に、メールが素っ気ないって言われたから、いつも、ハートをいっぱいつけたメールを送っている。


正月には、大阪に帰るから、待っててや。


昨日、内田くんから届いたメール。

ハートが、24個もついていた。

後、半月、頑張れる力をもらった。



クリスマスの日、前の夫と内田くんから、宅配便が届いた。

前の夫の宛名は夏。内田くんのは宛名が私と夏になっていた。


夜、夏をクラブまで迎えに行った。

家には、クリスマスケーキと、前から欲しがっていたブーツのプレゼントを用意している。

車の中で、プレゼント何?としつこく聞いてきた。家に帰ってのお楽しみ。えっー、と頬を膨らませる。

口では生意気なことを言うようになったけど、まだまだ13歳。

夏に、愛してる、と伝えると、気持ち悪いと言われた。


いつもより、少しだけ贅沢な夕食の後、ケーキと一緒にプレゼントを渡した。

ブーツは欲しがっていだだけに、飛び上がって喜んでくれた。


次に、前の夫からの荷物を渡した。夏が

荷物を振る。この大きさでこの軽さはもしかして、と言いながら箱を開けると、赤のスポーツバッグだった。

ぬいぐるみじゃなかったね、と言いながらバッグを肩に掛ける。パパ、ちょっとセンス良くなったね、と生意気なことを言う。


最後に、内田くんからの荷物を渡す。ママの名前もあるよ。ママのも入ってたりして。


夏へのプレゼントは、サッカーシューズだった。ママ、これ、めっちゃ高いやつ。色も最高。ママ、トレーナーに、なんか言った?

言うわけないじゃない。そうだよね、さすがトレーナー。


プレゼントを3つももらった夏は、大はしゃぎだ。

始めて2人で迎えるクリスマス、夏の笑顔が私へのプレゼントだ。


ママ、これ。夏が小さな箱を持ってきた。内田くんの荷物の中に入っていたらしい。

箱を開けると、オープンハートのペンダントが入っていた。

横から夏が、かわいい、でもなんでママにトレーナーからプレゼントがあるの?と聞いてきた。


まだ、離婚して4か月。真実は言えない。でも、うそをつくのはもっといけない。


内田くんは中学のとき同じクラスで、いつもサッカーの話をしていた仲のいい友達だった。

夏が入ったクラブで偶然、再会した。

夏の話やサッカーの話をしていたら、また仲のいい友達に戻った。

広島に行く時、時間があったから、見送りに行った。

話せることは、正直に話した。


なんだ、ママの彼氏だと思った、と夏。

彼だったら、どうする?冗談混じりで聞いた。

トレーナーか。パパよりかっこいいし、優しいし、サッカーのことを教えてくれるし。でも、パパが、可哀想かな。そうだよね。


夏が寝てから、ペンダントを付けてみた。

オープンハート。

そういえば、この前のメールに24個のハートがあった。このペンダントのハートで25個のハート。

内田くんは、25年分のハートを私にくれたんだ。


航、25個のハート、ありがとう。


一行だけ、メールした。


葵、25年かかったけど、愛してる。




「言い忘れたけど、お正月お泊りに行くからね。」夏が言い出した。

「お泊りって?」

「キーパーの咲のお父さんが、伊勢に初日の出見に連れて行ってくれるんだって。」

「迷惑じゃないの?」

「美希も一緒に行くし。」

「じゃ、咲ちゃんのお母さんに、明日あった時、ちゃんとお礼、言っとかないとね。」

「うん。31日のお昼に咲んとこ行って2日に帰ってくるからね。」

「もうすぐじゃない。なんで、早く言わないの。おばあちゃんのとこにもいけないじゃない。お年玉、なかっても知らないから。」

「ごめん、おばあちゃんに3日に絶対行くからって言っといて。」



12月31日。もう大晦日なのに、内田くんがいつ大阪に帰ってくるか、知らなかった。

メールで聞いても、まだ決まってない、の返事ばかり。


お正月をひとりで迎えるのは、やっぱりちょっと寂しい。実家に帰ればよかったかな。


夜、内田くんから、珍しく電話があった。


「なに、してた?」

「今から、お風呂に入るとこ。」

「そうなんや。」

「あっ、変な想像したらあかんで。」

「いや、した。すぐに抱きたい。」

「あほ。」


部屋のチャイムが鳴った。内田くんにちょっと待って、と言い、玄関を開けた。


内田くんが、立っていた。

「すぐに抱きたいって、言うたやろ。」

内田くんに、飛びついた。

「あほ。」


家の中に入って来た内田くんから

「玄関、すぐに開けたらあかんやろ。」と叱られた。

「ちゃんと、夏を守らなあかんやろ。」

「そうやね。ごめん。」

「心配なんや。葵のことが。」



リビングのこたつに2人で入った。

「こたつ、久しぶりやなぁ。」

「こたつ、大好きやねん。」

「お風呂、入るとこやってんやろ。入っておいで。」

「でも。」

「ええから。」


お風呂から上がったら、内田くんは、こたつで眠っていた。

大阪に帰って、一番に来てくれた。疲れているのに。ありがとう。


寝ている内田くんに、静かにキスをする。

航、会いたかった。耳元でささやいた。


「俺もや、会いたかった。」

「起きてたん?」

「耳は、興奮する言うたやろ。」



ベッドの中で、内田くんと除夜の鐘を聞いた。




ー11ー


家から少し離れた神社は、初詣での人で溢れていた。

朝の通勤ラッシュ並みの人混みの中で、はぐれないように手を繋いで参道を進む。


お正月は、毎年、前の夫の埼玉の実家に帰っていた。

無口な義父、厳格な義母、未婚の義妹。


空気の動きが止まっているような、とっても静かな家だった。

土地柄の違いと諦めたくはなかった。家族の一員となれるよう自分なりに努力もした。

でも、私と夏は、家にも家族にも、馴染めなかった。

大阪弁を話さなくなったのは、もう随分前だった。


「長いこと、願いごとしてたな。」

「航もね。」

「請求書きそうや。割があえへんって。」

「そんなにいっぱいしたん?」

「数とちゃう。深さや。」

「深いお願い?」

「今も、未来も、死んでも、天国でも、来世でも、葵と一緒にいられますように、お願いした。」



甘酒、ビール、ワイン、日本酒。

お正月だからと、たっぷりアルコールを買い込み、私の部屋で、2人で思いっきり飲んだ。

そして、こたつ布団に包まれて眠ってしまった。



喉の渇きで、目が覚めた。電気もテレビもついたまま。こたつの上には空の瓶の山。

航は、気持ちよさそうに寝ている。

片付けをしようと立ち上がった。

頭が痛い。完全な二日酔い。アルコール、ちゃんぽしたもんなぁ。

関節が痛い。こたつで変な体勢で寝たせいだ。

やっとの思いで、キッチンまでたどり着いた。冷蔵庫から500CCの水のペットボトルを取り出し、一気に飲み干した。


ダイニングの椅子に座る。

二日酔いなんて、何年振りだろう。

外で付き合い程度しかお酒を飲まない前の夫は、家ではほとんど飲まなかった。

冷蔵庫のビールは、私のお風呂上がり用。戸棚の中のワインは、料理の他に時折私の寝酒用となっていた。


今、いろいろなことを思い返すと、前の夫と、本当、合うとこなかったな。

笑いが込み上げてきた。私、最低だ。

こんな私に、文句も言わず、付き合ってくれた。辛抱強さに改めて感心した。


もう1本、水を飲み干した。

関節の痛みも治まった。気合いを入れて、片付けをした。


「ええ匂いやな。」

こたつから、内田くんの声。

「おはよう。二日酔い、大丈夫?」

「全然、平気。二日酔いか?」

「だいぶ、マシになった。」

「おまえ、ひとりで飲んでたからな。」

内田くんが、キッチンに来る。お鍋の様子を見ている私を後ろから抱きしめる。

「航が、飲め飲め言うから、無理して飲んでたんやで。」

「うそつけ。顔が美味しい言うてたで。」

「ばれた?」

「家で2人で飲むことなんかなかったから、葵と飲めて、面白かった。」

「面白かった?」

「酔っ払いの葵。」

「うそ、そんなに酔っ払ってた?なんか変なこと、言うてない?」

「言うてたで。」

「なんて?」

「内緒。」

「いけず。」

コンロの火を消す。

「出汁の匂いか。この匂い。」

「お雑煮、作るから、もう、あっち行っといて。」

怒るなよ、とキス。もう、しらん。



「うまい。」

「でしょ。江藤家、直伝。」

「これから、毎年、食べれたらええな。」


内田くんを実家まで車で送っていく。

離婚のことをまだ両親に話していないらしい。向こうには悪いけど、やっと肩の荷を下ろさせてあげられる、と。


夏の顔を見れなかったことを最後まで、残念がっていた。



夜になってようやく夏が帰って来た。

初日の出もバッチリ見えたし、お泊まりも楽しかった。

サッカー漬けだった夏が、同じ目標を持った友達と遊んでいることが、うれしかった。

いろんな経験をして、将来はサッカー選手ではないかもしれないけど、夢を持って生きていって欲しい。



一緒にお正月を迎えてくれて、本当にありがとう。

会えて、うれしかった。

夏は、とても素敵な女性に育ってます。


内田くんに、メールした。



1月23日。

内田くんから、電話があった。


「お誕生日、おめでとう。」

「びっくりしたわ。」

内田くんの誕生日に届くように、プレゼントのマフラーを送っていた。

「気に入ってくれた?」

「気に入れへんわけないやろ。」

「よかった。」


「まだ決定と違うけど、4月くらいには、帰れそうや。」

「本当?」

「チームもカタチになってきたし、俺の方もちゃんと進めてる。」

「頑張ったね、航。」

「しんどかったわ。」

「早く、帰っておいで。私が癒してあげるから。」

「そんなん言われたら、今すぐ帰りたなるやん。」

「4月なんか、すぐやん。」


「葵の誕生日、プレゼント待っときや。」

「誕生日、わかったん?」

「バッチリや。俺の情報網なめるなよ。」

「楽しみにしてる。」

「スケジュール、空けとけよ。」

「なんで?」

「葵の喜ぶ顔を直接見たいねん。」

「帰って来るん?」

「なんかクラブの用事作って、無理矢理でも帰るから。」

「待ってる。」




ー12ー


2月23日、航は帰って来なかった。



誕生日の2日前、深夜にメールがあった。


ごめん、帰られへんかもしれへん。

また、連絡する。


なにかあったんだ。なにがあったか知りたいけど、メールの文章が、返信を拒絶しているように感じた。

内田くんからの連絡を待っていよう、と決めた。


内田くんから電話があったのは、誕生日から2日が経った日だった。


「あいつが、死んだ。」

「えっ?」

「自殺した。」

「なんで?」


内田くんは、私の誕生日までに離婚するため、お正月明けに、離婚届の用紙を渡していた。

2月の最初に奥さんの実家に行っとき、ちゃんと名前が記入された用紙を受け取った。

必要書類と一緒に離婚届けを私の誕生日の1週間前に提出した。

その4日後、ご両親が親戚の法事に行っている時に、手首を切った。

病院に運ばれたけど、遅かった。


追い詰めたのは自分だ、と。

離婚が成立しているため、喪主でも親族でもなく、ただの参列者だった。

自分は、なにをしてきてのか、と。



電話を切って、すぐ母に電話した。

2、3日留守にするから、夏のことをお願いしたい。母は、任せなさい。こっちのことは心配しないでいいから。

やっぱり、母親だ。なにも話していないけど、わかってくれている。

私に大切な人がいることを。


夏にメールする。

今日は、電車で帰って来て。


適当に服を詰め、広島に行くために、家を出た。



夜の10時に広島に着いた。

タクシーの運転手に住所を見せる。15分ほどで、内田くんの暮らしているマンションの前に着く。

301号室。明かりが点いていた。


部屋の前に立つ。大きな深呼吸をひとつ。

チャイムを押す。

ゆっくりと、ドアが開いた。


「葵、なんでここにおるん?」

「航に、会いたくて。」

「入れよ。」


1LDK。ダイニングの椅子の背に、喪服が無造作に掛けてあった。

シンクには、何本ものビールの缶。ベッドの前の小さなテーブルの上にもビールの缶がいくつか置いてあった。


内田くんを抱きしめる。

「航、来たよ。」

「葵。」

内田くんが、抱きしめ返す。

長い時間、なにも話さない。

ただ、ただ、抱き合っていた。



「ご飯、食べた?」

「いや。」

「私も食べてないから、なんか、食べに行こう。」

「お腹空いてんのか?」

「めちゃめちゃ。」

内田くんが、少し笑った。

「行こか。」


ビールを飲んだと言うから、私が内田くんの車を運転して、近くにあったファミリーレストランに入った。


なんでもいい、と言うから、適当にメニューから選んで注文する。


「よう、来たな。」

「迷惑やった?」

「そんなわけない。心配かけたな。」

「全然。」

「誕生日、ごめんな。」

「航、辛かったね。」

「葵。」

「航を癒してあげるって言うたん忘れた?」

「忘れてへん。」

「そばにいさせて。」


料理が、運ばれて来た。

全然食べてなかったやろ。まあな。

ちゃんと食べるか見てるからね。

スープもサラダもハンバーグもご飯も、全部食べてくれた。



航の部屋に戻り、片付けを始めた。

「俺がするから。」

「じゃ、手伝って。まず、ビールの缶をゴミ袋に入れて。」

私は、脱ぎっぱなしの喪服をハンガーに掛け鴨居に吊るした。そして、Tシャツやトレーナーは洗濯機に入れて、洗濯を始める。

次に、散らかってるゴミも袋に入れて、とお願いする。

シンクにあるグラスや食器を洗い、最後に軽く掃除機をかける。


さっきとは、比べものにならないくらい、部屋はきれいになった。


「ありがとう、葵。」

「航、痩せた。」

「トレーナー、失格やな。」

「仕事は?」

「休暇中。5日間、特別休暇らしいわ。」

「航、ひとりじゃないから。」

少し投げ遣りになっている内田くんの手を取り、握り締める。


「葵、別れよか。」

「なんでそんなこと言うの?」

「おまえのそばにおる資格なんかない。」

「資格って、なに?」

「女ひとり、守ってあげられへんかった。」

「守るのに、資格がいるの?」

「俺だけが幸せになったら、あかんやろ。」

「航が、幸せになるために、自由にしてくれたって、私は、思いたい。」

「葵は、あいつを知らんから。」

「航が好きになった人やもん。優しい人に決まってる。」

「あいつは、一言も俺を責めへんかった。」

「うん。」

「俺はあいつを不幸にしただけや。」

「航、それは違う。きっと、航といれて幸せやったと思う。」

「俺はなんにもしてあげられへんかった。」

「ここに、来たこと、きっとわかってくれてる。だから、航に別れを告げたんだって、私は思う。」

「許してくれんのかな。」

「私がその人の分まで、航を幸せにする。」

「ええんか、こんな男でも。」

「航でないと、あかんの。来世まで一緒にいてくれるんやろ?」


内田くんの手を引っ張って、ベランダに出た。

朝焼けが、広がっている。

新しい朝が来た。


「ほら、もう、昨日から今日になった。」

「生きていくことが、あいつへの供養か。」

「きっと、天国で見守ってくれてる。」

「あいつのために、前向いて、歩いていかなあかんな。」

「2人でね。置いていかんといてや。」

「ちゃんと手、繋いどくから。」




ー13ー


7分咲きの桜が、街をほのかな薄紅色に染める頃、内田くんのレンタルが終わり、大阪に戻って来た。



クラブの帰り、車の中の夏は、上機嫌だった。


「トレーナー、広島から帰って来たよ。」

「よかったね。」

「みんなも大喜びしてた。」

「そんなに?」

「怖い時もあるけど、すっごく優しいから、すごい人気あるんだよ。」

「夏も?」

「クリスマスプレゼントくれたんだよ。私にだけ。好きに決まってんじゃん。」

「物で釣られたわけだ。」

「ほら、少しだけ、トレーナーの家にいたでしょ。その時、楽しかった。パパじゃないけど、パパみたいで。」

「パパいなくて、寂しい?」

「別に。」

「無理して。」

「でも、もし、ママが再婚する時は、先にチェックするからね。」

「厳しそう。」

「まず、かっこいい人。それと優しくて、強くて、面白くて、あんまり細かいことを言わない人。」

「それって、夏の好みじゃないの?そんな人いる?」

「それを探すのがママの仕事。」

「夏が、だめって言ったら?」

「諦めて、違う人探してもらう。」

「そんなにたくさん、彼氏できるかなぁ。」

「大丈夫。ママ、まだイケてるから。」

「夏?」

「ん?」

「なにか欲しい物、あるでしょう。」

「バレた?」



2人で会えたのは、内田くんが大阪に帰って2週間経った頃だった。


クラブで夏を迎えに行った時に挨拶をするくらいで、なかなか内田くんと2人で会う時間が作れなかった。


夏の土日の遠征に同行しなかった内田くんから連絡があった。


「今日、仕事が昼で終わんねんけど、時間ある?」

「夏が、滋賀に行ったから2日間、何しようって、考えてたとこ。」

「付き合うてくれへんか?」

「どこに?」

「俺の家。」

「マンション?」

「いや、実家。」

「なんで?実家?」

「まあ、ええから。昼過ぎにそっちまで迎えに行くわ。」


内田くんの実家?

車の中で待っているだけでいいのか。それもとご挨拶をするのか。

毎日、パンツしか履かない私だけど、念のために、何ヶ月振りかでスカートを選んだ。


「急に、悪いな。」

「全然いいけど、どうしたん?」

「葵のこと、紹介しようと思て。」

「いきなり?」

「正月に帰ったときに、おまえのこと話してん。そしたら、俺がきっちりしてから、会わしてくれって言われててん。」

「そんな。早過ぎへん?」

「この年になっても心配される身やで。早よ安心させてあげなあかんやろ。」

「親やもんね。」


内田くんの家には、中学のとき、大勢で遊びに行ったことが一度だけある。

明るいお母さんだった。

確か、内田くんのことを『こうちゃん』って呼んでいた。

その当時のことを思い出して、ひとりで笑った。

なに、笑てんの?なんでもないよ、こうちゃん。


「急にお邪魔して、すみません。初めてまして。江藤と申します。」

「あら?確か、こうちゃんと同じクラスやった?遊びに来たこと、あったよね。」

「そうです。覚えてるんですか?」

「そりゃ、こうちゃんがうるさかったから、ね。」

「もうええやろ。」と内田くん。

「こうちゃんがね、女の子が来るからきれいに掃除しといてや、とか言い出して。たぶん好きな子が来るんやろなって。女の子も何人か来てたけど、誰かはすぐにわかったわ。」

「もうええって。」内田くんが照れている。

「ええ子やなって、こうちゃんがこんな子と付き合ってくれたら、と思ってたんやで。でも、何十年振りに会えるとは、思ってなかったわ。」

「はい、お久しぶりです。葵です。」

「そうそう、葵ちゃん。うれしいわ、また会えて。」

「親父は?」

「中。お父さん、今の話、襖の向こうで、全部、聞いてるで。なあ、お父さん。」

襖の向こうで、咳払いが聞こえた。


お母さんが、お昼を用意してくれていた。

キッチンで手伝いをしているとお母さんが話しをし出した。

「葵ちゃんが来る言うてくれてたら、もっと豪勢にしたのに。」

「航さん、なんて言うてたんですか?」

「会わせたい人がいるから、連れて来る、しか言わへんから。」

「すみません。もっと早く言っとけばよかったですね。」

「あんなことがあって、こうちゃんも大変な思いしてたもんね。」

「はい。」

「葵ちゃんが、支えてくれたんよね。ありがとう。」

「私も、ずっとはそばにいてあげられなかったし。」

「葵ちゃんがおれへんかったら、あの子のことやから、いつまでもグズグズして、立ち直られへんかったかもしれへん。」

「航さんは優しいから。でも、そうかもしれませんね。」

お母さんと2人で、大笑いした。


比べてはいけないことはわかっている。だけど、私の居場所は、埼玉ではなかったことを、今、確信した。


夏のことは、内田くんが、話してくれた。

昨年離婚したこと。13歳の娘がいること。

クラブの選手でとても素直でいい子だと。


「まぁ、そうなの?」

「お父さん、孫ができるって。」

「ああ。これはびっくりしたな。」

「東京にこうちゃんのお兄ちゃんがいるんだけど、子供ができないのよ。だから、もう孫の顔は見れないって思ってたの。」

「すみません。」

「謝らることじゃないわ。こうちゃんと同じ年なら、いろんなことがあって当然だわ。」

「離婚の理由を聞かせてもらってもいいかな。」

「親父。」

「いいの。大切なことだから。きっちり、話します。いろんなことに対して、考え方がどんどん違ってきて、戻ることができないほど気持ちが離れてしまいました。子供のことも考えました。でも、離れた気持ちを戻すことはできませんでした。私の努力が足りなかったんです。」

「葵は、暴力を受けていた。」

「航、それは。」

「葵ちゃんも、辛い思いしてきたのね。」

「悪かった。思い出させて。」

「そうよ、お父さん。ごめんなさいね。」

「いえ、いつかは話さないといけないことだから。」

「早く、会いたいわ。夏ちゃん。」


食事中は、夏の話、近所の同級生の話や内田くんの学生時代の話などで盛り上がった。


無口に見えたお父さんも、時たま、親父ギャグをつぶやく。お母さんが、こそっと、でも周りに聞こえるように言う。図に乗るから無理して笑わなくてもいいから、と。


お父さんがいる食卓の風景は、もう私の記憶にない。

お母さんだけでも寂しくはなかった。でもお父さんがいる方がもっとよかった。

夏も、そう思ってるのかな。


最後に、お母さんが、

「親のエゴかもしれへんけど、こうちゃんが今まで辛い思いした分、幸せになって欲しいって願ってた。葵ちゃんが、そばにいてくれるんやったら、もう言うことないわ。」

そして、

「こうちゃん、初恋がやっと実って、よかったね。」と。

「葵ちゃん、航のこと、お願いします。」とお父さんから頭を下げられた。


素敵なご両親だね。帰りの車の中で内田くんに言った。葵のことを覚えてたのにはびっくりした。ちょっとは親孝行できたかな。


車は、内田くんのマンションで止まった。

「ちょっと、寄ってくれるか?」

「うん。」


内田くんの部屋は、初めて来た時となにひとつ変わってなかった。

変わったのは、2人。

最初は、2人とも結婚していた。いけない恋をしていた。

だけど今は違う。胸を張って、恋人だと言える。

それが、とてもうれしかった。




ー14ー


「今度は、夏と葵のお母さんやな。」

ビールを手に、ソファーに座る。

「お母さんは、もう薄々、私に誰かいることがわかってるみたい。」

首に、缶ビール。

「キャ。もう。」

「学習能力、ないなぁ。」

「どっちが。」

ビールを取り上げて、内田くんの頬に当て返す。

「子供やなぁ。」

「航の方が。初恋の人にこんなことしてもええの?」

「言うなや。恥ずかしいやろ。」

「面白かった。お母さんの話。」

「いらんことばっかり、言うてたな。」

「好きな人の家族に認めてもらえるって、こんなにうれしいとは思えへんかった。」

「認めてもろてなかったんか?」

「ちょっとね。私、こんなんやから。」

「こんなええ女、おれへんのに。」

「またぁ。お世辞?」


ソファーの横の棚から、内田くんが水色の小さなケースを取り出した。


「葵の誕生日に渡そうと思ってた。」

箱の蓋を開けると、ハート型のルビーの指輪だった。

「誕生日石でもよかったんやけど、葵には赤が似合うから。」

「もらっていいの?」

「2人が自由になった記念や。新しくスタートできる日に贈りたかった。遅なってごめんな。」

「きれいなハート。」

「俺の、心や。」


内田くんに抱きついた。

耳元で、キザ、とささやいた。 そして、ありがとう、と。

「耳はあかんやろ。」

「興奮した?」

「めちゃめちゃ、した。」


内田くんの甘いキス。

「もう、絶対、離せへん。」

「ずっと、そばにいて。」



翌日、私の実家に、行くことになった。

一緒に暮らすのは、夏が高校生になってからだから、母にはまだ言わなくていい、と反対したけど、行くと言って聞かなった。


実家に向かう車から、母に、今から行くから、とだけ告げた。

後で、絶対、怒られる。なんで先に彼を連れて来ることを話さなかったんだと。

でも、男の人を連れて行くなんて言ったら今度にして、と言い出しかねない。

怒られるのを覚悟して、実家に帰った。


「お母さん、今、お付き合いしている、内田くん。」

「すみません、急に。」

「まあ、中にどうぞ。」


母は、慌てた様子で、お茶を淹れている。

お茶菓子が何もないわ、とぶつぶつ言いながら、お茶を運んで来た。

「で、いつから、付き合ってるの?」

「いつから?いつからって難しいよね。」

「葵を好きになったのは、中学3年です。」「えっ、そしたら、葵と同級生やった、内田くん?」

「お母さん、知ってるの?」

「そうです。内田航です。」

「いやぁ、ほんまに内田くん?」

「はい。」

「クラスのお母さんたちと、内田くんってかわいいなぁって、よくしゃべったんよ。」

「そうなんですか?」

「葵もよう内田くんがどうしたこうしたって言うてたもんね。」

「お母さん。」

どこの家も、お母さんは昔のことをよく覚えていて、一言、多い。

「どういう経緯で、再会したの。」

「夏ちゃんのサッカークラブのトレーナーをしているのが、縁で。」

「そしたら、ちょうど1年?」

「でもその頃は、お互い結婚してました。」

「その頃から、私は離婚を考えていたの。」

「だったら、葵の離婚は、内田くんとは関係ないってこと?」

「うん、そう。」

「内田くんはどうなの?」

「2年以上前から、別居していました。」

「じゃあ、2人とも離婚の原因と違うっていうこと?」

「そうです。」

「それを聞いて、安心したわ。」

「心配かけて、すみません。」

「でも、偶然って、あるもんなのね。」

「中学3年のとき、葵さんが大好きでした。けど、勇気がなかっせいで、離れてしまいました。だから、今度は絶対に離したくなかったんです。」

「葵に好きな人がいることは、気づいていたけど、内田くんだったとはね。」

「お母さんには夏のことで、いろいろ迷惑かけて、ごめんね。」

「夏には、もう言ったの。」

「まだ。内田くんが、夏が高校生になったら3人で暮らそうって、言ってくれてるから、ゆっくり話すわ。」

「好き同士なんだから、夏がいいって言ったら、一緒に住めばいいじゃない。」

「夏ちゃんを転校させないように、考えたんですけど。」

「だったら、内田くんが、葵のところに押しかけちゃいなさい。」

「お母さん、なに言うの?」

「お父さんのことケンカしてたけど、好きだったのよ。でも事情があって離婚しないといけなくなった。好きなのに別れないといけないこともあるのよ。

好きなら、一緒にいなさい。どんなことがあっても。」

「ありがとうございます。」

「お母さん。」


「同窓会でも、ないかしら。お母さんも独身なんだからあなたたちみたいに、偶然の再会なんてこと、、、忘れてたわ、お母さんずっと女子校だったわ。」



内田くんと母の3人で、夏に告げるのが一番いうかを考えた。

結論は、夏休みに入ってすぐ。入籍は中学を卒業してから。


夏休みなら、もし夏が内田くんと暮らすことに反対した場合、おばあちゃんと言う逃げ道を作ってあげられるから。

入籍は、苗字が変わるタイミングを高校入学時が一番いいと考えた。


「いいお母さんだな。」

「そうかな。」

「葵とよく似てる。」

「顔が?性格が?」

「両方。」

「なんか、複雑。」


「お母さんに、背中押してもらえへんかったら、葵の家に行くことになんか、考えもせえへんかった。」

「そうやね。お母さん、強いわ。改めて尊敬する。」

「やっぱり、葵とよう似てる。」



ゴールデンウィークに、1日だけ、夏の休日がある。

その日に、3人で出かけようと内田くんが誘ってくれた。

夏が、ジェットコースターに乗りたがってたのを話すと、朝早めに迎えに行くから夏に言っといて。

簡単に言われたけど、こういう話は、結構照れくさい。


「夏、ゴールデンウィークの休みの日、遊園地に行かない?」

「行く、行く。」

「でも、ママと2人じゃないのよ。」

「誰と?おばあちゃん?」

「違う。びっくりするかな?」

「ママの彼?」

「彼だったら、どうする?」

「えっー。知らない人と、いきなり遊園地はきついなぁ。」

「知らない人じゃないから。」

「もしかして、トレーナー?」

「なんで?」

「夏の知ってる男の人って、学校の先生とコーチとトレーナーぐらいしかいないもん。」

「そうよね。」

「本当に、トレーナー?ママの彼氏なの?」

「仲のいい、友達かな。同級生だしね。」

「いいよ。トレーナーにいっぱい、おねだりしちゃおうっと。」



遊園地で、夏は3回もジェットコースターに乗り、いくつかのお目当のアトラクションにも行け、大満足の様子だ。


「遊園地なんて、連れて来てもらったの5年振りくらいなんだよ。ひどいでしょ、トレーナー。」

「行かなかったんじゃなくて、行けなかったんでしょう?誰かさんのせいで。」

「サッカーしてたら、しょうがないよな。」

「いつもさ、学校の友達が、いろんなとこ行ったっていう話を聞いてて、いいなって。」

「夏も、サッカーが嫌になった時もあったんだな。」

「嫌っていうより、もっと遊びに行きたかった。」

「そうよね。」

「でも夏、お母さんが一生懸命夏をサポートしたから、クラブに入れる実力がついたんとちがうか?」

「そうかも。どんなとこでも送り迎えしてくれた。」

「お母さんだって、サッカーがあったから、同窓会にも来れへんかったんやぞ。」

「ママも我慢してたんだ。」

「我慢じゃないから。私がしたかったことを夏がしてくれてる。夏がママの夢、叶えてくれてるの。」

「中学の時から言うてたもんな。」

「ママと仲よかったんだ。」

「いや、いつも、あほ言われてた。」

「ママがあほ、なんて言うの?」

「そう、毎日。」

「そんなに言ってないし。もう、夏に変なこと言うたらあかんやん。」


遊園地を出た後は、夏の希望でバイキングのレストランに行き、夏と内田くんは、信じられないくらい、食べまくっていた。


帰りの車では、内田くんに買ってもらったキャラクターのぬいぐるみを抱き、楽しかった、を連発していた。


難しい年頃だから、と少し心配をしていたけど、内田くんに対して夏はそんな欠片ひとつなかった。

信頼と尊敬。夏が内田くんに対して抱いている感情が、この先、お父さんと言う立場になった時に、どう変化していくのかはわからない。

でも、きっと、夏なら大丈夫だ。

今日の2人を見ていて、そう確信した。




ー15ー


夏休みまでに、内田くんが何回か家に遊びに来た。

家に内田くんがいる、と言う違和感を少しでもなくすためだ。

だけど、そんな気を使う必要もなかった。


遊園地以来、3人でいるときには、選手とトレーナーという関係ではなくなっていた。

知らない人が見れば、仲のいい親子だ。

同じくらいに、よく日焼けした肌も、スリムな体型も一緒だ。



夏休みに入った、最初の練習の休みの夜。

3人で、食事に出掛けた。

内田くんから、自分が話すから、と言われていた。


食事が終わり、デザートが運ばれてきた時に、私はトイレに行った。


「夏、俺さ、夏のお母さんが好きやねんけどどうしたええと思う?」

「トレーナー、なに?いきなり。」

「25年前から、好きやってん。」

「同級生やった頃から?」

「この前、結婚して欲しい、って言うたら、夏がいるからって。」

「ママ、そんなこと気にしてたの?」

「夏の、お父さんになってもええかな。」

「えっー、トレーナーをパパって呼ぶの?」

「呼び方なんか、どうでもええ。夏がどうなんか、本心を聞かせて欲しい。」

「いいよ。ママがトレーナーを好きなこと、わかってたし。もうママに我慢してほしくないから。」

「夏、ええ子や。」

「いつ結婚するの?」

「結婚は、夏が高校生になってからと思うてる。」

「そんなに先?」

「苗字変わんの、嫌やろ?」

「そんなことまで、考えてくれてるの?」

「お母さんの大切な夏やからな。」

「ママとケンカしない?」

「約束する。夏が辛くなるようなことは、絶対せえへん。」

「ママを幸せにしてくれる?」

「ママも夏も一生、幸せにする。」

「パパはもういるから、お父さんでいい?」


トイレから戻った時、夏が、結婚おめでとう、と言ってくれた。

内田くんが、夏の横で笑っている。


どんな話、したの?

2人から、内緒、と言われた。




夏の中学卒業と、内田くんとの入籍のお祝いのため、家族が内田くんのマンションに集まった。東京から内田くんのお兄さんとお姉さんもわざわざ来てくれた。


今日から、私と夏もここで暮らす。そのための準備はもう終わっている。


もう何度か、みんなで一緒に食事をしているから、堅苦しい雰囲気は一切ない。


「昨日、夏の卒業の日に、入籍しました。

親父、お袋、そしてお母さん、今まで見守ってくれて、ありがとうございました。

今日からここで、本当の家族として新しいスタートを切ります。葵と夏は宝物です。いつまでも輝いてくれるよう、大切にしていきます。」


そして、夏が

「今日、中学を卒業しました。今日から内田夏です。おじいちゃん、おばあちゃん、おじさん、おばさん、家族になれて、すごくうれしいです。でも一番うれしいのは、お父さんができたことです。これからも、ママともども、よろしくお願いします。」


内田くんと夏の挨拶に、みんなが拍手をしてくれた。



「ママは、夏の年にはもう運命の人と出会ってたんだね。」と夏。

「それから、いろいろあったけど、ね。」

「そうやな。」

「でも、結婚できてよかったじゃん。」

「夏のおかげよ。」

「なんで?」

「夏がサッカーしてなかったら、クラブに行くこともなかったし。」

「クラブで再会した時は、本当、びっくりしたな。」

「夏が、キューピット?」

「そうよ。」

「そう。2人のかわいいキューピットや。」


3人の笑顔がここにある。

そして、周りには、3人を応援してくれるたくさんの笑顔がある。



幸せってなに?誰かに聞かれた時には、きっと、こう答えるだろう。


好きな人がいること。

守りたいものがあること。

そして、笑顔が集まることだと。



ー終ー








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― 新着の感想 ―
[気になる点]  ちょくちょく誤字があります。 [一言]  自分とその周りの状況を照らし合わせながら読みました。  親戚には身体の弱い妻がいました。その人は死ぬまで他の異性と付き合うことはなかったです…
2016/09/05 11:59 退会済み
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