トレンチ9 勅任文人試験2
その声の主は群臣の列からしずじずと現れた。しかし、他の群臣たち(おそらくは、文人として政治に参画しているのだろう)とは姿からして一線を画している。ジュを初めとする者たちは、装飾の薄いローブに四角いメダルのようなものをぶら下げた、きわめて質素な恰好をしている。しかし、その男だけは違う。首に金色の飾りを巻き、腕には赤や青の宝石のついた腕輪をいくつもはめ、さらには指にまでごてごてしい指輪をはめている。冠こそしていないものの、玉座でつまらなそうに座る王よりもきらびやかかもしれない。
その男は決して年嵩ではない。しかし、他の群臣たちは嫌な顔をしつつも、突然割って入ったことに表だって反論できない様子だった。その狐めいた鋭い目を、最初はジュに向け、良平、最後にはユエに向け、ニタニタと笑った。
ジュが顔を少ししかめた。
「どうなされたのですかな、コウコウ殿」
コウコウ? 良平は心中で声を上げた。前、ユエが言っていた要注意人物だ。
なるほど確かに悪人面だ。
もちろん狐目であることもそうにせよ、このコウコウなる男、どうも身にまとうオーラがいけない。俗に『人を何人か殺っている顔』というものがあるけれど、コウコウの場合、『何万人も騙しているような』そんな真っ黒いオーラを全身から放っている。
そのコウコウは、ユエに向けていた視線をジュに向け、そのドブの底のような色をした瞳孔を開いた。
「いやいや、言うたままにございまする。少々、お待ちくだされますよう」
「何か? 文人試験においては、我ら文人の合議により決まるのが筋のはず。コウコウ殿が割って入られるのは少々越権ではございますまいか」
「何をおっしゃいますやら」コウコウは顔をしかめた。「私もまた、この文人試験の見守り人としての立場がありましてな。確かに学問上の可否については貴殿ら文人に判定をお願いしておりますが、されど、これを官人として登用するかどうかについては、我ら政の側が考えねばならぬ問題と存ずる」
「むう……。よろしかろう」
ジュは半ば匙を投げるようにそう言い、群臣たちの列に加わる。
それを眺めて顔を歪めるように笑ったコウコウは、じゃらじゃらと首飾りを揺らしながら、玉座の横に立ち、良平を睨みつけてきた。
「さて、“旅人”よ。どうやら貴殿が異世界より運んできた学問は、この世界ではそなたに頼ることなしに発展することのない学問であるということは疑いがないようじゃ」
む? 一応考古学については認めてくれるのか?
しかし、そんな喜びにつかるのは束の間の事だった。
「されど、為政を担当する者として、二つばかり気がかりがあってな」
「それはいかなるものですか」
「まず一つ」コウコウは指を一つ折った。「その学問が、果たして我が国にとって資するものであるかどうか。ここを考えねばならぬ。“旅人”よ、この問いに答えることができるか」
「え、えっと……」
答えることは難しい。
そもそも、現実世界ですら『文系大学不要論』などの形で歴史学の属する人文科学が槍玉に挙げられているくらいだ。もちろん、歴史学も考古学も人類に資する研究だという大義名分はずっと昔から歴史学者たちが作り上げてきた。しかし、そうやって生まれた大義名分は極めて長期的視点かつ迂遠なもので、このコウコウのように短期的成果を求めてくる手合いに対しては有効な理論武装なり得ない。
答えられずにいると、コウコウは、ふん、と鼻を鳴らした。
「まあいい。むしろ、この問いは大した問いではない。――では二つ目。そのコウコガクなる学問が、この乱世を生き残るための学問なり得るのか? 答えよ」
お手上げだ。
乱世を生き残るために必要なのは工学であったり軍事学であったり農業であったり……つまりところ実学だ。非実学というものはものの役に立たぬがゆえに非実学なのだ。
やはり答えられずにいるのを、コウコウは答えと取ったらしい。
「ただでさえ、軍費がかさみ国中が悲鳴を上げておる中、糞の役にも立たぬ学問など必要ない。それに、ジュ殿はコウコガクなる学問に意味を見出しておるようであられるが、歴史学者であるジュ殿がコウコガクを推すというのは、従来の歴史学の不備を自らお認めになられたのと同じではありませぬか。それならば、史部の役人たちが究極まで歴史学を突き詰めれば良いだけではないですかな。仮にも勅任文人を四人も輩出しておる史部の代表にあるまじき態度であるように思われるが、いかがであろう、ジュ殿」
問われたジュは、群臣たちの間から、悲鳴にも似た声を発した。
「さよう、ですな」
「はは、ならば決まりにございますな」
パンと手を打ったコウコウは、椅子に座る良平を見下ろした。
「ということである。よりて“旅人”よ。此度の勅任文人試験は不合格である。次の試験が控えておるゆえ、早くここから去ぬがよい」
思わず呆然としてしまった。
いや、普通あれまで専門家が押してくれていたのに、上の人間の鶴の一声でここまでひっくり返っちゃうものかよ! しかも考古学のユニークさを認めた上で、『けれどお前らに払うものなど一銭もない』とばかりの対応だ。
しかし、これが王政のやっかいなところか……。
結局、このコウコウの決定をひっくり返すことはできず、結局試験に落第してしまったのであった。
「完敗、だったなあ……」
宿舎のベッドに腰掛けた良平は、ふうとため息をついた。
しかし、穏やかでないのがユエだ。椅子に乱暴に腰かけたかと思えば、机を思い切り蹴って毒づいてみせたのだ。
「ええい、あれほどコウコウの奴には注意しろと言っておったろうが! なのにまんまとのせられてからに……!」
「なんか、異様に悔しそうですね」
「そりゃくやしいさ! 私がこれはと思った“旅人”を、ああも理不尽に落とされるとは思ってもみなかった! くそう!」
机の上に両足を乗せて、どこから取り出したのか壜に入った液体をあおりはじめるユエ。見る見るうちに顔が真っ赤になっていく。さすがに良平はユエを押しとどめた。
「まってユエさん、そんなに酒を飲んだらまずい……」
「これは酒じゃない、エーテルだ!」
“ブレインガルド物語”の中で、スキルや魔法を使う際に使うMPを回復させる薬がエーテルだ。なるほど、こうやって使うのか。
と感心している間にも、ユエの顔は見る見るうちに赤くなり、呂律も回らなくなっていく。
「まったく、コウコウもコウコウなら君も君だ! なぜあそこで黙った!? あの野郎が『考古学など役に立たんのだー』とドヤ顔したときに、びしっと言ってやらなかったのだ!」
「いや、言いたかったんですけどね」
言えなかった。
そもそも、現実世界で『考古学がなんの役に立つか』なんて考えてこなかった。そんなことを考えてもいいのは、それこそ有名な学者さんだけだと思っていたのだ。
でも。
もしかしたら、並河さんだったら考えていたかもしれない。
あの人は昔から化け物だった。学部生時代から、ミクロな話題からマクロな話題までを見通して、後輩たちに『君たちは視線がミクロだよ。もっと広い視座で物を見ないといけないよ』とからかい半分に言っていたっけ。
はあ、とため息をつくと、アルコール臭のする吐息を吐き散らかしながら、ユエが良平の肩を掴んだ。
「聞いているのか君は! まったく、私の見立ては間違いだったのかな! 君は亡き父上に似ているものだから、つい期待をしてしまった私が馬鹿みたいではないか!」
「え、ユエさん、父親がいらっしゃるんですか」
と、その時だった。ドアの向こうから男の声がした。
「ええ、ユエ殿の父上はショウゲンといい、かつては勅任文人でした」
「だ、誰だ! 父上のことを勝手にしゃべり出すのは」
今にも殴りかからんばかりの剣幕でドアを開くユエ。しかし、ドアの奥から現れたその人物の顔を見るや、その勢いが一気にしおれ、ごにょごにょと口をごもらせた。
そこに立っていたのは、勅任試験試験官のジュだった。
おやおや、困りましたね。ジュはまるで詠うようにそう口にした。
「ユエ殿、それ、お酒ですが大丈夫ですか? 確かユエ殿はほぼ下戸……」
「馬鹿な、これはいつも私が飲んでいるエーテル……」
「あの、よく見てくださいね。ここのラベルに酒だと書いて……ってそうか、ユエ殿は文字が読めないのでしたね」
え? 思わず良平は驚きの声を上げた。
「ユエさん、文字読めないんですか!」
「悪いか」酒のせいか、目を真っ赤にしたユエは答えた。「武人は文字を読めなくても昇進ができるからな」
「さらには」ジュが付け加えた。「我が国には、特権階級以外に文字をみだりに読ませないという悪しき慣習がありますからね。ギ国やゴ国では識字率が髙いそうですのに、嘆かわしいことです」
「なんでそんなことに?」
その問いに、ジュが答える。
「ええ、あのコウコウのせいです」
言うには、コウコウは全く文字が読めず、そのせいで出世が滞った時期がある。普通なら文字が読めるように努力するところだが、コウコウはその努力をせず、ひたすら上への働きかけという間違った方向での努力を重ねた。それが実り、武人の出世には文字の読み書きは関係ないという法ができてしまった。
「その法が成立して早や三十年。本邦は武人が多い国となり、文人は非常に肩身の狭い国となったのです」
「なるほど、それで……」
嫌な国だ。しかし、これでコウコウがああも考古学に無理解な訳がわかった。
あれは学問そのものに対する無理解なのだ。自分が価値を置くもの以外の価値を一切認めない。そして、自分の価値判断からはみ出したものは知らんと言い切ってしまうような、浅はかな男。それがコウコウなのだろう。
ジュはコホンと咳ばらいをした。
「さて、夜分申し訳ありませんが、ちょっと私とゆるりと意見交換でもしませんか」
「意見交換、ですか」
「ええ、お話を聞いた限りでは、あなたの述べたコウコガクは歴史学と密接な関係にあることがわかりました。あなたの知見が私たちの学問に役立つことでしょうし、逆に私の知見があなたの学問に資することもあるかもしれません」
願ったりというものだ。
だが、ユエが騒ぎ始めた。
「おい、旅人! この男の言うことを聞いてはならんぞおぉー! こいつは父上の塾の塾頭時代、ドSのジュなどと呼ばれておった男だ、この男の言うことを聞くとドS病が移るぞ~!」
すっかり出来上がっているユエを眺め、ジュはあからさまに嫌な顔をした。かと思えば、口元で何か長い言葉を詠唱しはじめ、右手の指を使って中空で幾何学模様を描いた。その模様は光の軌跡となって中空に残る。そして、ジュの指が幾何学模様の完成形を描いたその時、その模様から光の矢が飛び出してユエの頭を貫いた。
「な、何をするんですか」
「大丈夫です」
ジュの言葉は正しい。ふらふらとした足取りで良平のベッドに倒れ込んだユエは、その上でぐーすかぴーひょろと盛大ないびきをかき始めた。
「これは睡眠魔法です。たぶん酒の効果も相まって、朝まで眠っていることでしょう」
「ああ、そうなんですか。ってことは、今夜僕は眠れない……」
「いいじゃないですか。一晩、私と歴史談義に花を咲かせましょう」
悪魔めいた笑みを浮かべるジュを前に、『ああ、確かにこの人はドSのジュかもしれない』と心の隅で良平は呟いた。




