トレンチ2 本当のはじまり
「いやあ、良平君、この前の論文はけっこう良かったよ」
かつての母校、高麗川大学考古学教室の並河さんはにっこりと笑った。
「はは、ありがとうございます」
良平は素直に喜んだ。
黒いタイトなパンツにTシャツ、そこに申し訳程度にサマーコートを羽織っている並河さんは、高麗川大学考古学教室のマドンナだ。化粧っ気の薄い少し地黒な肌、好奇心いっぱいのどんぐり眼、さらにはボーイッシュにまとめた髪の毛。そのどれをとっても“かわいらしい”という形容がよく似合う。僕の二歳上だからまだまだ若いのに、既に並河さんは准教授の地位にあり、研究室まで持っている。
並河さんに与えられた研究室は、縄文時代の土器編年の資料がうず高く積み重なってさながら地層のようになっている。きっと並河さんはこれをすべて読んだはずだ。あの人は学生時代からそうだった。研究会の飲み会の時でも、皆とビールを飲んでいるその手には考古学の本が開かれていた。可愛くて、とてつもない勉強家。それが並河さんの研究会での評判だった。
二歳上の先輩の仕事ぶりを思いながら本の山を見上げていると、並河さんは座っていたぼろくさいスチール椅子を軋ませた。
「ねえ、良平君は次の二年、決まった?」
次の二年か……、聞きづらいことをあっさり聞いてくるなあ。
とは思ったものの、あまりにその聞き方に毒気がなかった。このあっけらかんとした態度もこの人の美点だろう。そんなことを思いながら、良平は正直に答えた。
「いえ、決まってないんですよ」
良平はポストドクターだ。文学部の歴史学科の考古学専攻。こんな専攻で博士号まで取ってしまった人間に用意された道は研究者になるか物書きになるかしかない。けれどまるで文才がなかった良平は研究者の道へと進むことを決めた。一般的に研究者は大学や研究機関に研究員という形で所属する。しかし、この肩書きはたいてい二年更改の仕組みになっている。もし良平が目覚ましい研究成果を残せたら良かったのだろうけれど、いまお世話になっている研究所からは『更改なし』の通告がなされている。もちろんこのままでは研究者として行き詰ってしまう。なので、いまは就職活動と称して知り合いのつてを巡っているところだ。
母校の高麗川大学の考古学教室にこうして顔を出したのは、もちろん就職活動のこともあった。でも、純粋に並河さんに逢いたかったというのも大きかった。一年ぶりくらいなのに、並河さんはまるで変わっていなかった。大学時代、首に手を回されて『おらー、若いのがなんで飲まねえんだー』とビール瓶を突き付けてきた並河さんそのままだった。
「そっか、決まってない、か」
並河さんはちょっと意地悪げに口を伸ばした。
「なんか嬉しそうですね」
「いやいや、そんなことはないよ。――でも」
「でも、なんです」
「もしも、さ。出戻りが嫌じゃなかったら、私の研究室に来る?」
「へ?」
意外な申し出だった。並河さんの研究室はかなりの人気だった。もちろんそれは並河さんの姉御肌を慕ってというのもあるだろうけれど、並河さんは考古学の世界では“期待の新星”扱いされている。こんな教室に僕ごときが紛れ込めるはずはない、そう良平は決めてかかっていた。正直この訪問は、就職活動にかこつけて並河さんに会いたかったというだけのことでしかなかった。
なのに――。
「なんでですか。僕は大したもんじゃないし」
「いや、もっと君は自信を持った方がいいよ」並河さんは言い訳っぽくこう言い添えた。「それに、考古学っていうのはどうしても仲間が大事じゃない?」
言わんとするところは分かる。ずっと考古学一筋だからほかの学問はどうか知らないけれど、考古学ほどチームワークを必要とする学問はそうない、そんな自信がある。考古学は一人では研究ができない。なぜなら、考古学は発掘がつきもので、結局のところは発掘することでしか新しい知見は得られないからだ。発掘は一人ではできない。仲間たちと手を取り合い、たまには衝突しながらも発掘を終えなくてはならない。
その並河さんの言い方に、人に言えない苦労を感じ取った。並河研究室はきっといろんな人たちの集まりだろう。大学の研究会みたいに密な紐帯を築き上げるのが難しいのだろう。
良平は聞いた。
「いいんですか、僕なんかで」
「いいって言ってるじゃない。私は君のことを買ってるよ。――もし、行くところがなかったら、私が引き取ってあげる」
なんかこれじゃ、意味深に聞こえちゃうね。そう並河さんは笑った。
でも、実はもう、この瞬間には腹の内で決めていた。並河研究室に入ろう、と。
けれど、そんな良平の決意は粉々に打ち砕かれることになった。
数日後の夜、その報せはやってきた。
並河さんと一緒に仕事ができる喜びに胸をいっぱいにしながら、良平はカップめんの蓋を開いた。この貧乏アパートにはお似合いの貧乏飯だ。だが、月に十五万くらいしか金の出ない研究員からすればこれでも豪勢な食事だ。蓋の上で温めていた液体スープを入れてかき回すと、豚骨のジューシーな香りが鼻をくすぐった。
そんな時、万年炬燵の上のケータイが鳴った。割り箸を置いて出る。電話口の向こうに出てきたのは、大学時代の考古学専攻仲間で、今は運送会社に勤めている(余談だけれど、考古学専攻生は卒業後に肉体労働系の会社に勤める傾向がある)中村だった。
いつもなら軽口から入るはずだった。だが、この時の中村はとかく焦っていた。なにかあったのだろうか。挨拶もそこそこに話を聞くと、中村はこう切り出してきた。
『おい、並河さんが自殺を図ったって知ってるか』
え? 並河さんが、自殺?
訳がわからず呆然としてしまった。しかし、電話口の中村がまくし立てるように言うには――。
並河さんは昨日、教授会である告発に遭った。『並河さんが大学の学長と不適切な関係にあり、その関係を利用して研究費を多くせしめていた』というものだ。これを問題視した教授会は、並河さんの『事実に相違する』という答弁を無視する形で並河さんを解雇する決定を下したのだが――。今日の夕方、自宅リビングで睡眠薬を飲んで昏睡している状態で発見されたのだという。
『遺書もあったんだとさ……』
中村の声も沈んでいた。そりゃそうだ。中村も、学部生時代には二歳上の格好可愛いボーイッシュな先輩にいろんな意味で憧れていたのだから。
その中村は、並河さんが一命は取り留めたものの昏睡状態で回復するかどうか見通しが立たないということや、並河研究室が閉鎖するといったことを教えてくれた。
そうして電話が切れた。
すっかり伸びきった豚骨ラーメンを呆然と眺めながら、良平はため息をついた。
並河研究室閉鎖。ということは、半ば口約束だった研究室入りの話はなかったことになるだろう。だが、そんなことはどうでもよかった。
並河さん――。
あの人は教授会では否定したと中村は言う。けれど、そうして自殺なんてしちゃったら自ら認めるようなものじゃないか。ってことは、研究費をせしめるために、学長と不適切な関係――不倫だろう――を結んでいたと認めるようなものだ。
つまり、あの並河さんは、今年七十にもなる学長の腕に抱かれた対価で研究費を得ていたということだ。
幻滅、ではない。けれど、自分が大事にとっていた宝の指輪が実はおもちゃにすぎなかったことに気づかされた子供の頃を思い出して、思わず肩を落とした。
伸びきったラーメンなど食べたくもない。目を外した良平はふらふらとした足取りで炬燵から離れると、パソコンラックに向かい、電源つけっぱなしのパソコンのマウスを握った。そして、数日前にダウンロードしたあるソフトのアイコンをクリックする。
“ブレインガルド物語”。
今お世話になっている研究室の学部生から教えてもらったゲームだ。その学部生は『たぶんこれ、良平先輩はプレイすると怒るんじゃないかなって思います。だってこれ、取材している先がてんでばらばらで、色んなモチーフが紛れ込んでいるんですもん』とけなしていた。
実際ひと月あまりプレイしてみてその意味がすぐにわかった。イギリスのアーサー王伝説やケルト神話や北欧神話、インドネシアの魔術体系であるマナ、かと思えばブードゥのイメージも紛れ込んでいる。それに、どうやら本作に出てくる国のモデルは中国の三国時代だ。いわゆる剣と魔法のRPG、おそらく多くのプレイヤーは気にしないだろうけれど、確かに節操がなさすぎる。普段なら『歴史警察』としてツッコミを入れて楽しんでいるのだけれど、今日はそんな気分にはなれなかった。
こんなことしている暇はない。そんなことはわかっている。けれど――。パソコンの画面を眺めながら、良平は心中で叫ぶ。
『だって、こうしていなきゃ、僕はどうしたらいいかわからないんだよ』
その時だった。パソコンの画面からありえない量の光が飛び出してきた。すぐに良平の目は白く焼き尽くされる。右も左も上も下もわからない。それどころか自分が座っているのか、それとも立っているのか、そもそもどこに居るのかもわからなくなるほどの光に包まれる。しかし、こんなありえない状況であるにもかかわらず、何にも怖いことはなかった。
と、そんな中、地鳴りのように響く低い声が、良平の鼓膜を揺らした。
『“旅人”よ。そなたは得る道を選ぶか。それとも、取り戻す道を選ぶか』
え? 何を言われているのかわからなかった。
『“旅人”よ。そなたは得る道を選ぶか。それとも、取り戻す道を選ぶか』
重ねて問われて、ようやく良平は己の心の内をそのまま答えた。
「そんなのわからないよ」
ならば――。その声は言う。
『ならば“旅人”よ、旅をせよ。そして、その小さな眼に広い大地を収めよ。その小さな掌に多くの人々の笑顔を掴め。その空っぽの心に、尊敬に足る智慧を詰め込んでゆけ。そして選べ。得る道を選ぶのか、それとも、取り戻す道を選ぶのか』
「え、それはいったいどういう――?」
しかし、その声はこれ以上の問答に答えてくれる様子はなかった。
そうして気づけば、良平は四方を見渡してもただ砂塵が凪の海のように広がる、荒野に一人立っていたのだった。アパートにいた時の格好である、くたびれたワイシャツに古臭いジーンズという姿で。