九話
病室は、アルコールやその他薬品の匂いで反射的に非日常を思わせるような空気を漂わせていたが、母親にとってはもうこれが、日常だった。
「慶人、あなた、部活もいいけど、勉強も頑張ってるかしら?」
母いつも慶人の心配をする。それが親心なのだとは思うが、自分の将来の暗さを見越した遺言のようで、慶人はそんなセリフが好きではなかった。
「斑鳩さん、お採血の時間ですよー。」
一人の、おかしな日本語を使う看護婦がやって来て、母の腕をまくった。白く、静脈が浮き出ていて、しかも細い。もう何年も、入退院を繰り返している。食事はとれているのでしばらくは大丈夫だとは思うが、慶人の一番の心配事は母の事であった。
「アキラくん、元気にしてるかしら。」
次に出てくるのはアキラの話題だ。これも決まったパターン。
まぁ元気にやってるよ、と答えながら、看護婦の脇を避けて枕元の花瓶を取る。
「水換えてくるよ。」
「あら、ありがとうね。」
採血をしながら、看護婦がお礼を言う。慶人はそのままドアの前まで行き、ガラリと引き戸を引いて部屋を出て、洗面台に行った。
「優しいお子さんですねぇ。」
看護婦が小さめの声で言う。
「ええ、心配ばかりかけていますが、よく耐えてくれてます。」
「たしか、サッカーをおやりになるんですってね。」
「ええ、小さいころからボール遊びが好きでね。小中学校とサッカークラブに入っているんですよ、おかげで友だちもたくさん出来たみたいで。」
「思いやりも育まれているんですね、ほら、チームプレイだから。でも、優しいのはお母さんの血かしら、ふふふっ。」
看護婦は笑顔でそう話した。
ガラリと引き戸が開く。慶人が少し水滴のついた花瓶を持って戻ってきた。
枕元に置く際に、
「アキラがさ、好きな子ができたって、言うんだぜ。」
と、さり気なく報告した。
「あら、アキラくんに?それはいいわねぇ。どんな子なのかしら?」
慶人は話の流れに任せて話した。沙雪の平凡さ、アキラの単純さ、沙雪のどんくささ、アキラの拙さ。
「あらそう、でも、母さんは意外には思わないわ。アキラくんって甘えん坊だから。」
そういえばそうだった。アキラには涼という姉がいるのだ。
「あなたはどうなの?」
嬉しそうに母が問う。
「俺は、いないよ。」
短く慶人が答えた。
「やっぱ涼ちゃんは超えられないか。」
母が何でもお見通しかのように、窓の外を眺めながらつぶやいた。
慶人は何も言わなかった。
窓の外から陽光だけが病室に入り込んで、部屋全体がぼんやりと白く浮かんでいるようだ。
自宅前。焦げ茶色の空気が屋根に重くのしかかり、外灯に照らされた入口だけがぽつと佇んでいる。正月の夕方のこと。病院から帰ってきた慶人と慶人の父が家に帰ってきた。
「慶人、手っ取り早く鍋にしよう。鯛もあるしな。」
「わかった。」
飾り鯛を使って、晩は鯛鍋で温まろうという寸法だ。
オーブンで鯛を温めてから、鍋に投入すると、じゅわっという音とともに鍋に沈む。なかなかこうばしい香りが部屋に立ち込めた。二人だけというのは淋しいが、もう慣れた。病室で一人過ごす母のほうが淋しいだろう。
「餅、入れるぜ。」
ぱちぱちと裂ける焼きたての丸餅を、鍋に投入するとまた、じゅっという音がして、とても美味しそうだ。
「年賀状、年賀状。」
鍋を囲みながら、クラスメートや他の友人から来た年賀状を見る。
でかでかとあけましておめでとうの文字だけ書かれていて、隅の方に”今年もよろしく。”と添え書きしているのは五十嵐だ。声も大きいが、年賀状の文字まで大きい。意外というか、そうでもないのが、かわいいウサギの写真と添え書きをしているのが本間家の年賀状。写真は涼が選んだのだろう。おじさんおばさん、アキラ、涼の添え書きがそれぞれ書かれている。”風邪引くなよ!少年!”これは涼の文字だ。”今年もよろしく頼むぜ!主将!”これはアキラだ。今年からは慶人がサッカー部の主将になる予定だ。”昨年はお世話になりました。本年も本間家を宜しく願いします。”とはおじさんだろう。前置きがあり、”また貴子様のところに寄らしていただきますね。”とはおばさんからだ。そしてはじめて届く年賀状があった。沙雪からだ。可愛らしい雪うさぎのイラストと共に、少し眺めの挨拶文が沿えられている。文面を読むと、自然と笑みがこぼれた。
”斑鳩くん、今年は主将だね。チームを率いて戦わないといけない大変な立場だけど、斑鳩くんならできると思います。だって、斑鳩くんはいつもひょうひょうとしててプレッシャーとかなさそうだから。”事実、慶人はプレッシャーをあまり感じない。サッカーを遊びとしてしか捉えてないという、どこか覚めた部分がある所為かもしれない。”みんな斑鳩くんを見て、リラックスできると思います。”おいおい、それはこっちのセリフだろうとおもいつつ読み進めると、”どんくさいけれど、わたしも一生懸命がんばるね。今年もよろしく。”お前はいつも頑張ってるよ。そう思った慶人だった。