七話
「(あっ、斑鳩くん達だ・・。)」
沙雪は列車の後方から入ってくる三人の男子に気がついた。でも、邪魔はしないでおこうと思い、気づかないふりをした。いつも沙雪はこんな風に、人との距離を中間に保っている。
車窓から見る山間は、錦のように彩られていた。沙雪は、このディーゼルエンジンの排気ガスの匂いになかなか慣れなかった。電車なのに電気で走らないなんて、と、最初は不服に思ったものだ。だが今ではどうしたことか、田舎の空気にも慣れ、どこかこの鼻を冷たく突くガスの匂いが、懐かしくも感じられた。沙雪がここ上野原に来たのは、小学二年生の頃だ。両親が離婚し、母方に引き取られる形で、母親の故郷である山間部に引っ越ししてきた。父親とは年に四回ほど会うことが許されている。色々とお金の面でも、父は工面してくれていた。幼い沙雪には事情はよく飲み込めなかったが、どうやら三行半を突き付けられたのは母のほうであり、母親の方に不貞があったらしいということを、今では理解している。沙雪には一人、四歳上の兄がいて、名を弘樹といった。弘樹は父方の方に引き取られ、沙雪とは別々に暮らすことになっていたが、来春、大学進学を機に家を出ることが決まっていた。
列車に揺られながら、沙雪は父のことを考えていた。弘樹兄がいなくなれば、お父さんは一人ぼっちだなぁ・・。沙雪はどちらかと言うと、母よりも父になついていて、別れの日にはギャン泣きをして父にしがみついた記憶がある。もうこの時に、沙雪は、進学先を横浜に決めていたのかもしれない。
桜木町駅につくと、彼女はさっと座席から立ち上がり、早足で改札へと下っていった。改札には、スラリとした青年が立って沙雪の到着を待っていた。弘樹だ。電光掲示板の下をくぐり、冷たい金属の改札機をすり抜け、沙雪は弘樹と落ち合った。
「お兄ちゃん、待った?」
「まぁ、十分ぐらいかな。大したこと無い。それより、鞄持たなくてもいいか?」
「うん、大丈夫。」
会う度に成長する妹の姿を見て、弘樹は満足感と寂しさを同時に味わっていた。だがどちらも嬉しさに結びついた感情だった。
「かぁさんは元気か?」
「うん、まぁね。変わらないよ。」
ワンピースの裾をヒラヒラとさせながら、沙雪は並んで歩き始めた。弘樹は歩幅はそのままに、ゆっくりと沙雪のペースに合わせてやった。
夏以来、弘樹は沙雪のことを考えてやる余裕などなかった。早稲田を受けるということで、相応の勉強量を強いられていたからだ。だが、こうやって会う時ぐらいには、沢山気を使ってあげてもいいと思っていた。自分と違い、ずいぶん幼いころに両親の離縁を体験した沙雪には、もっと持って然るべきものがあるだろうと、兄なりに思っていた。それを手渡せるかどうかは分からないが、思いついたことはなんでもしてやろうと思っていた。
「父さんは、お昼終わったくらいには合流できると思う。晩御飯は一緒に食べような。」
「うん。だったら私、お昼はカフェがいいな。お父さんと一緒だったら夜はいいもの食べれそうだもん。」
「そうか、でも、横浜のカフェは侮れないぜ?」
弘樹は嬉しそうに言った。
海岸通に出て、近代に建てられた石造りのビル、松下海運ビルヂングに入った。一階は吹き抜けになっており、ずいぶん開放感がある。そこに、シックなアンティーク調の家具が、王に仕える臣下のように居並べられており、空気まで暗く重厚感のある趣に塗り替えていた。
「(うわぁっ、高そう。)」
沙雪はちょっと座るのをためらったが、
「心配するな。そんなに高くないよ。」
という弘樹の声掛けにホッとして、気に入ったワインレッドの革のソファに深々と腰掛けた。彫刻の入った、立派な杢目のテーブルに立てられたメニューに手を伸ばし、開いてみると、写真はなく、只、メニューと価格が整然と並んであった。上から、ブレンドコーヒー¥550に始まり、パンケーキタワーフレッシュマンゴーのワインソースがけ¥1250に終わっている。サンドウィッチもあった。
昼時であったが、沙雪は迷いなくパンケーキタワーをチョイスしようと決めた。他のメニューに再考の余地はなかった。
「でもお前、これタワーって書いてるぞ、食べきれるのか?」
「まずはどんなのか見てみたいのよ。」
「あ、すいません。注文いいですか?」
・・・出てきたのは、25cmほどに厚く盛られたパンケーキだ。数えてみると、12枚重ねだった。
「うわぁ~・・・。」
色んな意味でうわぁ~だった。
お腹がもたついている。みぞおちのあたりには生クリームがフワフワとたまっている感触だ。コーヒーだけでは足りず、水もたくさん飲んだので、少しチャポチャポ言っている。
「お兄ちゃん、ちょっと休憩しよう・・。」
息をつきながら言う沙雪に、弘樹は笑いながら答えた。
「ふふっ、そうだな。」
二人は海際まで歩き、そこにあるベンチに腰掛けた。うみねこが、海へと吹き下ろす秋風に舞っている。羽よりも軽く形作られた巻雲が、青いキャンパスに勢い良く記された書のように棚引いている。風は自由だ。別れたり、また出会ったり、解けたり、絡んだり・・・。
主に学校のことなんかを二人話しながらであると、父を待つ時間もあっという間だった。沙雪はマネージャーを始めたこと、慶人とアキラのコンビのこと、告白されたことなどを話したが、相合傘のことは秘密にしておいた。沙雪の話を、云々と言いながら弘樹は聴いていた。相槌の間に、「やるじゃねぇか」などと感嘆の声を発した。三ヶ月分の話題を事細かに聴いてやるのが、弘樹にとっての安心でもあった。だが、母の話はあまり出なかった。それが少し弘樹の胸に引っかかり、弘樹自身の母との思い出を想起させるきっかけになった。弘樹にとって、母は決して只の悪者ではなかった。大学進学を前にして、男と女には色々あるのだということが身を以って分かっていた。母が退屈な日常から恋に逃げたのも、心情としてはわからなくもなかった。それはひどく傷ついたのは父の方であるから、母を弁護する気にもなれなかった。ただ、華やかで、元来奔放な母には、家庭生活は向いてなかったのかもしれないと、思うようにしていた。いつか沙雪にも、母を許せる日が来たらいいのにと、願うばかりだった。
そんなことを思いながら沙雪の話を聞いていると、幼く小さかった自分の手を引いて、母が母らしくふるまってくれていた頃までが想起されてきて、少し涙が出そうになった。
父は、三時頃にやって来た。
「やぁ、待たせたかい。」
パリっとしたスーツに身を包んだ男が、二人の頭の間の背後から、にゅっと出てきた。驚いて二人は、
「うわっ、やめて(くれ)よ。」
と笑った。銘柄はわからないけど、タバコの臭いがフッとして、秋の澄んだ空気をくすませた。
「いやぁ、寒くなったね、沙雪も母さんも風邪引いてないか?」
さり気なく気遣う父は温陽な性格で、誰に対してもこのようだった。母のことを、少しも恨んではいないらしく、むしろ母のきつい性格を心配している。母は脆く、父は強い、そういう印象を息子たちは持っていた。
三人はベンチを離れ歩き出した。
「少し寒いな。建物に入ろうか。」
父のすすめでみなとみらいのショッピングモール内を散策する。父はなにか欲しい物があればなんでも言いなさいと言ったが、沙雪にはこうして三人で散策しているだけで十分だった。だが、目についた木造の門構えのアクセサリーショップで、うさぎのイヤリングを買ってもらった。夕食までにはまだまだ時間があった。弘樹が、
「ノクターンって映画が気になってるんだけど。」
と言うと、
「ちょうどいい、時間もあるし、映画でも行こうか。」
と父。
「映画かぁ、それ、面白いの?」
と沙雪。
とりあえず映画館に行ってみようということになった。
ノクターンの映画広告は、セピア調でまとめられており、いかにも渋い感じの面長の俳優の、俯いた横顔を、街人の視点から切り取っているというものだった。暗い戦時中の空気が伝わってきて、辛気な映画だろうなと察しはついた。
「(これ、見るのか・・。)」
沙雪は気が進まなかったが、外は寒いし、暖まれるかと思ってOKした。
赤と黒のツートーンの座席がズラリと並んでいて、上映前でも薄暗かったので、足元に気をつけながら席を探った。
「Hの14は・・。」
これか、と座席を見つけ、すぐに座る。思ったよりクッションが深く、包まれるような感触だった。沙雪は睡魔が近づいてくるのを感じた。
「(あぁ。これは寝るパターンかも。)」
上映時間になるまで、ツイッターに流れてくるくだらないアスキーアートでも見て過ごそう、そう思ってポケットからスマホを出そうとした瞬間、スマホが手から滑り落ち、カラカランと前の座席の下に落ちてしまった。幸い前の席にはまだ人が座っていない。あー、やっちゃったか、と思い、前の座席までスマホを取りに行く沙雪。Gの14の席の下に、スマホはあった。腰を曲げて拾い上げようとした時、聞き慣れた声がした。
「アキラ、こっちF列あったぞ。」
「(うわぁ、斑鳩くんだ。)」
別に隠れなきゃいけない理由はない。しかし、母のいない団欒を友だちに見られるのはどこか、隠れた刺に穿たれるような抵抗があった。
「うわぁ、やばい、絶対寝るわ、これ」
慶人のつぶやきがうっすら聞こえた。なにせ背もたれ一枚介しているだけの距離である。
「(ふふっ、わたしと同じこと考えてる。)」
沙雪は慶人にホッとする親近感を覚えた。
さり気なく自分の座席に戻った後も、後ろから三人の様子を眺めるのは少しなんというか、いい気分だ。
意に反して、映画が始まってしばらくしても、沙雪は眠くならなかった。2列前の三人のつむじを眺めながら、来年のことなんかを想像していた。新しく一年生が入ってくる。今の三年生は抜けてしまう。キャプテンはきっと慶人くんだろう。副キャプテンはその時の二年だから、石丸くんかな。どんなチームになるのかな。全国、行けたらいいな。ずっと応援してるから。
映画も中盤に入る頃、沙雪もうとうとし始めて、一つの夢を見た。夢というか、記憶だろうか。傘が3つ、青と黒と黄色の傘が並んでいる。沙雪は青い傘に、母と並んで入っている。弘樹が黄色い傘で、父が黒い傘だ。前をゆく父と弘樹。温かい母の手に引かれて、その後をついていく。沙雪にはかっぱも着せられている。赤い、ビニルのかっぱだ。ところがかっぱはほとんど濡れていない。いつの間にか、沙雪は父の背におぶされていた。母はその後ろを一人でついてきていた。そんな夢だった。
目が覚めると、物語はクライマックスだった。主人公のピアノ弾きと、恋人が再開するシーンだった。無理な願いだが、いつの日か、父と母が元通りの仲に納まればいいのに、そう思ってしまった。
実に色とりどりの蛍火が、地面を埋め尽くし、また立ち上がっている。蛍火は四角い牢屋に閉じ込められてはいるが、その窓から燦燦と光を漏らしていた。
観覧車に乗りたいと言ったのは沙雪だ。寝ぼけた目を覚ましたかったのと、ただ夜景を堪能したかったという二つの理由からだ。グイングインと、ときどき揺れる観覧車。気にせず夜景に魅入る沙雪。父と弘樹も感慨深く夜景を見つめている。父が、空気に静かな裂け目を作り、その口を開いた。その裂け目に流れこむように、昔話が花開いた。とうとうと話し始める父。母との出会いから、弘樹が生まれた頃のこと、沙雪が生まれた頃のこと、観覧車が一周する約十五分の内の、四分の三は話していただろうか。父にとって、離婚前の記憶は宝ものなのだということが伝わった。父はなんとかして伝えたかったのかもしれない。温かい家庭がそこにあったことを。弘樹の巣立ちを前に、気持ちに一区切りついた所為もあっただろう。街を眺めながら話す父の声は、少ししわがれていたが、どこか包み込むようで、沙雪と弘樹をその過去へと誘った。観覧者の回るわずかの時間だったが、母もそこにいるように感じられた。
「さて、何を食べようか?」
話し終えた父は、少し疲れもとれたようだ。明るく言った。
少し肌寒くなった季節の、ある夕暮れの事だった。