五話
「(うぉい!パスでか過ぎっ)」
そう思いつつ全力疾走する慶人。すんでのところでボールには追いつけず、ボールはエリアの外に出てしまった。
「ナイスラン!慶人!」
ミッドフィルダーの谷川が声を飛ばす。谷川は攻守の要になるチームメイトだ。
「スローイン!赤!」
審判の声が響き渡る。紅白に別れての練習試合は、後半も終わりに近づいている。日も暮れかけて、あたりにはコウモリが飛んでいた。思い切り汗をかいた肌に、冷たい風がひしひしと冬の足音を感じさせる。
「ヘイっ。」バックスの五十嵐から、前方へと長い縦パスが渡る。受けるのはアキラ、阻止するのは慶人だ。
「くっ。」身長の高いアキラがヘディングで競り勝つ。追う慶人、戻る谷川。しかし赤チームの波状攻撃を止められず、あえなく追加点を許した。この日の練習試合は、2対0で赤の勝ちだった。
「残念でしたー。でもナイスランだったよ。」
沙雪が慶人に声をかける。
「ばーか、おめでとうだろ。」
アキラが割って入る。相合傘の件も一ヶ月ほどで忘れ去られ、部活は今日も無事に終わろうとしている。
サッカーは、冬のスポーツだと思っている。小学生の頃から寒風吹き荒ぶ中を走り回り、転んだ時には相応に痛いが(冷たい空気が一層痛さを加算する)、張り詰めた空気に負けず動き回る選手たちからは、蒸気が立ち上り、運動してるぜっという感じが、慶人は大好きだった。
小学校の頃はよく、アキラの姉さんも応援に来てくれていた。涼先輩、と慶人が呼んでいた彼女と、親しくできることが慶人のちょっとした自慢だった。涼もまた、慶人を自分の弟のように可愛がってくれた。
慶人の家は、母親が留守がちだった。慶人の母親は持病のため、度々入院することがあった。特に慶人が小学生の頃は、それが頻繁にあり、父子家庭のようでもあった。慶人は一人っ子だ。父親も仕事が遅くまでつづくことも少なくなかった。ひとりで過ごす夜は、静まり返っていて、どこか異国のように思えたものだ。そんな時、本間姉弟が家に来てくれることが度々あった。それも、夕飯のおかずを携えてである。本間家も両親が不在のことが多い。慶人の両親とアキラの両親も仲がよく、度々話し合っていたのだろう。
「けいとーっ、来たよーっ。」
明るい声がノック代わりの涼だ。涼はいつもこうやって、人の心の隙間を照らしに来てくれる。涼の側ではアキラはいつもより大人しい。何かあれば叱られる、というのもあるが、それよりも安心していられるからだろうと思う。
子犬みたいにドアに駆け寄る慶人。ドアを開けると、鍋ごとのおかずを持って涼とアキラが立っていた。
「今日は肉じゃがー。」
嬉しそうに涼が言う。
「肉じゃがー。」
アキラが反復する。この二人には、本当に助けられた慶人であった。夕飯を一緒に食べる時は、大体六時ぐらいに二人は来た。そして九時くらいに慶人の父親が帰ってきて、本間姉弟を本間家まで自動車で送っていった。歩いても十分くらいの距離だったが、父親は、自動車を使うことを好んだ。そして本間姉弟を送って帰宅すれば、そのまま、
「慶人、ドライブに行くか?」
と声をかけた。
夜のドライブが慶人は好きだった。お腹いっぱいになってから、車中で揺られていると、必ずと言っていいほど眠くなる。どこを走っていたのかは定かではないが、少し都市部、横浜の方まで足を伸ばしていたようである。煌めく人造の星々が、車窓を駆け抜けるのを、夢現に眺めていたのを覚えている。
「アキラぁ、今度の日曜、街、行かない?」
谷川俊は、部の中でもいち早くおしゃれに目覚めたファッションリーダーだ。月に一度は横浜やら東京に出ては、都会の空気を吸っている。俊の着ている私服はもちろんのこと、制服もどこか皆と違う生地のものを着ているようだった。
「慶人どうする?」
アキラは慶人の意向を伺う。
「そうだな、久しぶりに行ってもいいかな。」
サッカーシューズの紐をほどきながら、慶人は答えた。
「決まりだな。」
ユニフォームの上着をモゾモゾと脱ぎながら、俊が言った。
慶人達の住んでいる町は、紅葉の名所でもあった。市花川という川の上流に淨善寺という大きなお寺があり、そこから神子山という山へのハイキングコースに入ることができる。その一帯に、イロハモミジや銀杏、ガマズミといった紅葉する木々が繁っていて、この季節、休みの日ともなれば都会から大勢の、主に壮年、老人、家族連れが紅葉狩りにやってくる。車両からぞろぞろと降りてくる彼らと行き違うようにして、三人は乗り込んだ。三両編成のディーゼルエンジンで動く機関車だ。
「あれ、田中じゃん?」
アキラが目ざとく見つけたのは、先頭車両の一角に座る沙雪の姿だった。何処か余所行きの服装をしている。白いワンピースにジャケットを羽織った彼女は、いつもの地味子から少しグレードを上げているように見えた。
「どうする?」
俊が皆に訊いた。沙雪に声をかけるかどうかといったところだろう。
「ほっとこうぜ。」
慶人はそっけなく言った。だが、冷たさからそう言ったのではなく、事情があろうから放っておいてやれ、という意味だった。
「そうだな。」
同意する俊とアキラ。電車が少し動き始めて、三人は三両目の片隅に腰掛けた。秋の香りというものを思い出せと言われたら、このディーゼル列車の排気ガスの混じった清澄な山の空気を挙げるだろうと、慶人は思った。