三話
シトシトと濡れた空気が皮膚にまとわりつくが、冷えた空気が妙に心地いい。もう日も暮れかけた午後、慶人は一人部室に残って、物の整理をしていた。
ガタゴトッ。ガタッ。
「あいつらちょっとは片付けろよな、まったく。」
一人ぼやきながら、黙々と片付けをする慶人。
「でも、床は綺麗だな。掃除機はかけなくていいか。」
ガチャリ。部室の鍵を閉め、濡れないように校舎際をヒタヒタと歩いて、正門に向かった。渡り廊下のところで、誰かが一人、立ち尽くしている。妙にしんみりした様子だったが、横をすり抜けて門へと急ごうとした。
「斑鳩くんっ。」
少し通りのいい声で引き止められる。振り向いて、
「田中?」
少し驚いたような表情の先には、田中沙雪がいた。肩が少し濡れているようだった。
「何してんの?こんな時間まで。」
慶人は尋ねた。
「傘、なくて・・。」
沙雪は力なく答えた。
少し、沈黙で間が空いた。
「でも、この雨、止みそうにないぞ?」
慶人は言う。
「う、うん。」
沙雪は弱々しく頷く。
雨は、ザラザラと、砂糖をこぼしたみたいに強く降り始めた。日はほとんど落ちかけていて、もう薄暗い。慶人は頭をクシャクシャとしながら、
「傘、半分、貸してやるよ」と言った。
「田中んちって、こっちだったんだな。」
沙雪の家は、慶人の家と同じ方角にあったらしい。
「ごめんね、斑鳩くん。」
「いいよ、これくらい。」
バラバラと、傘に弾かれた雨が、慶人の右肩を濡らす。右に下げた鞄も、グズ濡れになるだろうなと、思った。
降りしきる雨の音で、あたりは静まり返っている。ただ水を跳ねないように歩く二人の足音だけが、夕闇の影より遅れて付いてきた。
「あー、肩凝ったわ。あいつら全然片付けとかしねぇんだもん。」
「斑鳩くんは几帳面だね。」
何気ない話で、二人の距離は和らいできた。
「ごめんね、私、重い物運べなくって。」
沙雪が下を向きながら言う。
「いいよそんなの。いつもご苦労さまです、マネージャー。」
冗談めかし、少しかしこまった素振りで慶人が返す。
「え?いいよ、そんなの。」
驚いた調子でワンテンポ遅れて、沙雪も返す。
少しずつ、二人はしゃべるようになった。
「ふふっ。だよね。」
家のこと、兄弟のこと、学校のこと、鼻につく教師のこと。稲刈りも終わり、殺風景な田舎の風景だったが、慶人にはどことなく新鮮に見えた。いつもはひとりで帰る道が、妙に温かかったりした。
しばらくして、少し古いが、立派な門構えのマンションが見えてきた。
少し、話が途切れた時に、沙雪が言った。
「斑鳩くんありがとう。私んち、あのマンションなの。」
七階建てくらいだろうか。この地域では高層マンションの部類だ。
「そうか。まぁ、門の前まで行くよ。」
「うん。」
門の前に付き、また少し、間が空いた。間を埋めるように、慶人は言った。
「今度は忘れるなよ、傘」
「うん。」
沙雪は門を開いて中へ入っていく。
そして、振り向きざまに、
「また、忘れるからっ。」
と言った。冗談めかしてはにかんだ沙雪の笑顔は、花のようだった。そんな印象を受けたのは初めてだった。
恥ずかしそうに沙雪は階段をかけて、自動扉の中へ入っていった。
あっけにとられた慶人は、
「なに言ってんだか・・。」とひとりごとを言い、
「ばかやろう。」と、一人つぶやいた。
雨は元通り、シトシトと、勢いを弱めて降り続いていた。鞄から、ポタリと大粒の雫が落ちた。
濡れてよれよれになっている教科書の端っこをめくりながら、昨日のことを考えていた。(・・・・が)昨日の帰り道は、どこか懐かしく、温かなものだった。(・・・るがっ)それに、沙雪が最後にあんな笑顔を見せるとは全くの予想外だった。アキラは知ってい・・・
「斑鳩ッ。聞いているのか!」
沢田の声が響き渡った。沢田は厳格で有名な社会教師で、生徒によく疎まれている。
「はいっ。」
反射的に返事をしてしまった。
「じゃあ答えてみろ。」
「え・・・。っと。」
(広島だ、広島。)
アキラが小声でフォローしてくれる。
「広島です!」
喜んで助けられた慶人。
「よし、もうひとつはどこだ。」
「え?」
「話し聞いてたのか。」
「すいません・・。」
質問が二重になっていたとは。
「本間に感謝しておくように。」
しかもバレてるし。
「で、地方の特産は以上のような・・」
引き続き展開される授業の声が、また遠くなっていく。今日はまだ、曇り空だ。