十五話
世界には起伏があって、それは時間とか、季節とか。或いは立場とか、心とか言うものかもしれない。その起伏を僕らは転がりながらかけて行く。
上野原よりは少し開けた街道は、若者の買うような服屋はないが、揚げ物屋に豆腐屋、肉屋に魚屋、乾物屋に和菓子屋まで揃っている。街道の終わりにはリヨンモールがあり、そこの中には更にフードコートなどが入っていた。街道をそれた所に大きな公園もあり、休日には街の人がわざわざ訪れるくらいだ。星峰町は上野原町の東にある町で、人口は上野原の三倍ほど、面積は上野原とそんなに変らないから、こちらのほうが大分開けている。上野原では珍しかったマンションも、こちらではざらにある。上野原の自宅から駅で4つ。星峰高校へは電車で通っている。
「(あぁ、今日もきつかったなぁ、朝練。)」
星峰高校のサッカー部は、全国的には有名ではない。県内ではそこそこの強さだが、シード校になるほどの強さはない。それでも高校での練習は、体力的に中学校時代よりはきつかった。特にウェイトトレーニングが入ってくると、腕や足は一気にくたくたになる。腕をだらりと下げて、椅子にもたれかかる。基礎体力ができるまでのしばらくの我慢だ。また、星峰高校は、地元ではそれなりの進学校だ。中学時代のように、無邪気に浮かれて絡んでくる奴らはめっきり減った。朝練の代わりに、何の部にも属さず、朝勉をしている奴だって居るくらいだ。少しさみしいな、と思いつつ、うたた寝をする。四月のまだ少し冷たい風が、桜の花を舞い散らせながら、窓辺から教室にふわりと香ってきた。一年生か・・・。少し気怠く、午前の授業を受ける慶人だった。
入学当初、入学を快く祝ってくれた本間涼とは、高校ではたいした接点もなく過ごしていた。涼は三年生、大学受験に忙しい時期だ。もとより振り向かれることはないと覚悟していたから、それほど虚しくはなかった。たまに校内で涼を見かけるとそれだけで嬉しかったし、すれ違うときには声もかけてもらえた。ただ、三年生のクラスは一年生とは別の校舎にあったため、すれ違うことも少なかった。涼はテニス部だった。中学の時とは異なり、部長を務めているわけではなかったが、部内ではトッププレイヤーらしかった。しかしテニスコートは中庭の近くにあり、グラウンドとは離れていたので、部活中もサッカー部とはあまり接点がなかった。
春も進み、やや暖かくなった四月も中頃のこと。部活が休みだったので、いつもより早く、夕方の商店街を歩いていた。丁度買い物の時刻らしく、手をつないだ親子や、おばさん、おじさんなどが多く歩いていた。慶人はなんとなしに人気が嫌になり、道を一本外した公園の通りを行くことにした。平日の公園通りは閑散としており、春だというのにまるで秋のような佇まいだ。へぇ、こんな所もあったのかと、星峰公園の中を、ふらふらと暇つぶしに歩いた。一度行ったことのある、代々木公園程ではないが、散策路も整備されており、池なんかもあった。池の畔には長い椅子と、外灯が設置されており、また屋根のついた休憩所があった。少しのんびりしていくかと思い、慶人はその休憩所に近づくと、先客があった。肩ほどまでの栗色の髪に、水色のジャージ、遠くからでも美人と分かるような、凛とした佇まいだった。あのジャージ・・、どこの高校だろう、見たことないな。慶人は通り過ぎるつもりで休憩所に近づいた。そして、その前を横切ろうとした時、その人が声を発した。
「おっ?慶人か?」
振り返ると、ニコッと笑っているのは涼だった。
「涼センパ・・」
言いかけた所、涼の手元に目が行った。制服のスカートだったが膝を組み、その上にしなだれた細長い指にはさまれた白い煙草には、火が燻っていて、ゆらゆらと煙をあげていた。
「嫌なとこ見られちゃったなぁ・・。」
苦笑いしてポツリと呟く涼。その顔は乾いているが、どこか泣いているようだった。
「先輩・・。」
慶人は言葉をかけられなかった。なんて言ったらよいのか分からなかった。沈黙がしばらく続き、涼は。
「ま、そんな気分の時もあるのさ」
と、目を閉じ、涼しげに笑った。そんな気分とはどんな気分のことだろう、慶人には推し量れなかった。慶人は、コの字型になった椅子の、斜め向かいに座り、
「僕もそんな気分です。」と言って、煙草を自分にもくれるよう手を差し出して、涼を促した。涼は、
「なぁに言ってんだよ。子供には吸わせられないね。」
と言って笑いながら、休憩所の中央に置かれた灰皿で、トントンと、煙草を叩いた。
はったりを透かされて、慶人は悔しく、
「俺、もう子どもじゃないです。」
と言って、涼の目を見た。長いまつげの涼しげな目元が、昔と変わらなかった。
「そう。でも、大人じゃないだろ?」
そう言われたが、すかさず涼の言葉に被せて、
「先輩だって、大人じゃない。」
と言った。
「大人じゃない、か・・。」
涼はそう呟いて、また、煙草をくゆらせた。煙草の渋い匂いと、涼のイメージが辛く結びついて、慶人の脳裏を支配する。少しだけ、涼についてのピースが埋まった気がした。
「よし、帰るぞ、少年っ。」
ふぅっと最後の一息を吐いてから、涼は慶人を促した。
その日は二人で帰路についた。途中、母さんの話とか、アキラの話とかをして、あまり自分の話はしなかった。日も落ちる前、十分に明るい田舎道。田んぼには植えこまれたばかりの稲が頼りなさげに揺れている。軽く山吹色になった西の空に薄く雲がたなびいていて、烏が遠くに飛んでいた。ただ、涼と一緒に帰路についているということが、慶人にはこの上なく幸せだった。そんな気をどこまで知っているだろうか、涼は、
「慶人、最近どうなの?女の子の方は。」
などと聞いてくる。オヤジだな。
「最近も何も、過去にも一度もなかったよ、そんなことは。」
と言うと、
「またまたぁ。中学の時のマネージャーといい感じになってるんじゃないの?」
だって。俺は先輩を追っかけて星峰に入ったっていうのに、そんなことは全然気が付いてないんだな。まぁ、俺の成績なら星峰は妥当なところだし、何の違和感もないのも不思議じゃないか。
「田中は横浜だよ。もうそうそう会えないよ。」
と言っておいた。
「先輩こそ、彼氏といい感じなんじゃねぇの?」
と言い返すと、涼の言葉が一瞬、ピタと止んで、少し俯いたかと思うとまた前に向き直り、
「秘密。大人には事情があるのさ。」
なんてふざけてごまかされた。でも、何かあるのは分かった。あまりうまく行ってないのかな、と思った。風誘う春、少し色の抜けた先輩の髪は、煙草の煙によく馴染んだ。