十四話
慶人は落ち着いて、ゆっくり語った。京は、沙雪の手を握ったまま、二人の顔をぽかんと見上げている。恐る恐る、沙雪の目が、右目、左目と順番に開いていった。その顔には驚きが隠せない。
「え、誰?」
沙雪は尋ねた。
「先輩。」
はっきりと答える慶人。慶人はもう迷っていることはできないと思った。今、答えを出そうと決意した。
「好きな先輩が、いるんだ。」
びゅあっと一陣の風が、川下から駆け上がって、二人の髪を揺らした。そして、
「花火はこれから、フィナーレに入ります。」
と、拡声器でアナウンスが流れる。
平常心を取り戻した慶人は、やさしく笑った。
「俺って馬鹿なんだけど・・。」
そしたら急に、なんか悲しさが泉みたいに沸き上がってきて、慶人の目をうるませて、そして溢れた。ポタリポタリと、しずくが落ちる。
黙ってそれを見つめる沙雪。
「でも、変えられなくて・・。好きって気持ちが変えられなくてな。」
悲しみを振りきって、落ち着きを取り戻す慶人。少し鼻水まで出てきた。グスリとそれを吸い込み、涙を拭いて、沙雪に向き直る。
滝のように打ち上がる花火。
「でも俺、振り向かないからっ。」
ニッと笑ってみせた慶人を、光が照らしだしている。沙雪は思った。ああ、だから私は好きになったんだなって。
「でも私、きっと振り向いてもらうからっ。」
沙雪の目も潤んでいる。白い浴衣が、慶人のTシャツ以上に光を反射して、綺麗だった。
「なんで、泣いてるの?」
京が手を引っ張る。
「何でもないの。ね?」
沙雪は笑ってみせたが、どうしても悲しみを越えることができなかった。ポロポロと、おちる大粒の涙。
「斑鳩くん・・、ゴメン。しばらくこのままでいさせて?」
慶人は、黙って頷いて、沙雪の肩を抱いた。見上げると、火の雨が降ってくるみたいだった。震える肩と、えっ、えっ、とえづきながら泣く沙雪の声が、寂しく、温かかった。
翌日。
部活に出ると、昨夜、カップルが成立していたらしかった事を、耳にした。一瞬焦ったが、どうやら石丸と千咲が付き合うことになったらしい。後輩に先を越された先輩たちが、石丸を突っつき回していた。
「おいー、石丸どうゆうことなんだよ。」
五十嵐が半ば起こり気味にちょっかいを出す。
「いやだから、金魚が・・。」
「ぎんぎょぉ?金魚がなんなんだよ。」
「金魚すくいで掬ったんですが。。」
「そんなことは聴いてないんだよぉ。」
いびりが長く続きそうだったので、放っておいて部室に入ると、アキラが靴を履いて準備していた。
「さすがに暑いな。」
声をかけると、
「あぁ。」
と返事が帰ってきた。
この時期、順々に予選を消化していき、秋のはじめには全国大会への切符をかけた県内の決勝戦が控えている。一つ一つの予選を通過するたびに、後輩たちの実力も、チームとしての結束もレベルが上がっていっていた。
「昨日・・。」
アキラがなにか言い出した。
「昨日?」
慶人が応える。
「いや、昨日・・田中となんかあった?」
ズバリ良い質問である。なんでこいつはこんなに勘がいいのだろう。沙雪は今日は休んでいる。昨日の今日だ、仕方ないと思っていた。
「なんで?」
慶人は逆に尋ねた。
「いや、今日来てねぇし、昨日、なんか様子がおかしかったっていうか。」
ほんと良く見てるなー。慶人ははぐらかすのはもうめんどくさいと思っていた。
「なんかあったら、なんかあんのか?」
鞄の中を探りながら、慶人は答えた。もはや何かあったと言っているのと同じだ。
「いや。ならいい。」
アキラは足を地面に叩いて慣らし、
「じゃあ、先出てるぞ。」
と言って、部室を出て行った。あの顔は、何かを決めた顔だと慶人は察した。
一週間ほど後、沙雪が、高校は街の学校に行くという報せを聞いた。アキラからだ。
アキラは沙雪に告白するにあたって、ずっと側で応援して欲しい、みたいなことを言ったらしい。しかし沙雪は、それは出来ないと言った。気持ち的にもアキラが好きなわけではないということと、母親が再婚するにあたり、自分は横浜の父のところへ行くことにしたと言ったのだ。
「今更、新しいお父さんなんていらないし、仲良くなんて出来ないよ。」
ということらしい。
中学が終われば、三人はばらばらの方向に進んでいくということが、この時点で確定した。長いような、短いような中学生活だった。いや、まだ半年残ってるんだけど・・。特に沙雪と出会ってからは、なかなか有意義な学生生活を送らせてもらったと思う。マネージャーが居たことで、部が強くなったと慶人は感じていた。それ以上に、学生生活に平穏と彩りを添えてくれた田中沙雪個人が、慶人は好きだった。それが恋愛感情なのかどうかは分からないが、沙雪の存在が様々な内省をもたらして、慶人自身に、自身の気持ちを明らかにさせてくれたのは確かだし、その過程で、少し大人になれたのも事実だ。平凡な、マネージャーとしても役に立ちそうな立たなさそうな、何をやっても目立たない、そんな印象の女の子だったが、慶人の中ではとても大きな存在になっていた。心のなかに、なにか量感のある、あたたかいものをくれたような気がする。
紗雪と出会った日のように、高く、抜けるような、冴えた青の、秋空だった。ホイッスルが鳴り響いて、慶人たちは敗退した。あと一歩、届かなかった。神奈川県大会の決勝戦、観衆をも巻き込んで素晴らしい熱戦を繰り広げたが、制し切ることができなかった。イレブンはその青空を仰ぎ見る。汗とも涙とも分からないしずくが、喉を伝って冷たく胸に降りてくる。上気した息が激しく胸を突く。横目にベンチを見た。涼しい風が額を滑り、少し視野をクリアにした。沙雪は笑っていた。非凡にも、笑っていた。満面の笑みだった。素晴らしい試合だったよと。初めて慶人の瞼に涙があふれた。目尻からこぼれだしたそれはこめかみを伝って肩に落ちた。今の今まで、悔いのない試合をしてきたから、悔いのない練習をしてきたから、負けても涙は流さなかったと自負してきたチームなのに、今回だけは違ったみたい。限界を超えて走った。足がもつれるまでピッチをかけた。クールな振る舞いは捨てて、努力を超えたポテンシャルを出し切った。でも、だからそれだけで泣けたわけじゃない。思いもよらない結果として、他者にそれが伝わったことで、なぜか泣けたのである。沙雪だけではない。観衆がみな拍手を送っていた。最後の試合で、初めて試合をした。そんな不思議な感慨におそわれていた。人が本気になるということは、こういうことだったのだと、振り返って思う。あの時が、今も、これからをも、自分たちの歩みの基礎になっていることを、実感している。三人はそれぞれ別の高校に進んだが、今も胸の奥でつながっていることを、誰もが実感していた。