十話
「おはようございます。」
クラスの全員が、教壇に立つ教員に向って頭を垂れた。一月に入って、初めての授業だ。
「着席ー。」
椅子に座ると、どこか椅子が小さく感じられた。成長期の男子である。
「で、あるからー・・・。」
教師はカツカツと音を立てながら板書をしている。不意に、右の脇腹をツツっと指された。右を向くと、折った紙を片手に、
「(お願いっ)。」と、手を立てた女子。どうやら隣に回せということらしい。
「菊池に。」小声でその女子は唱えた。
慶人の席は一番前の行、入口から三つ目の列だ。左隣の菊池は教壇の真ん前である。仕方がないなと思いながら折った紙を受け取り、隣へ回そうと思った時、
「よし、斑鳩っ。答えてみなさい。」
教員に名指しで当てられてしまった。起立する慶人。しかし答えはわからない。話を聴いていないものだから。
「広島だよ。」菊池が小声でフォローする。
あれ?なんかデジャヴが・・。と思いつつも、
「広島です。」と答える正直な生徒。
「何言ってるんだー斑鳩。寝ぼけてるのかー。ここはifです。」
英語の授業中じゃないかっ!ドッと笑う教室。その隙に、左手に持ってあった折れた紙をサッと掠める菊池怜。なんというやつだ。ハメられた。何食わぬ顔で教壇の影にその紙切れを開いて置いた菊池は、OKのサインを手紙を出した生徒に送る。
「もういいぞー、斑鳩。座ってなさい。ちゃんと聴いてなさいよ。」
嘲笑の中、席に沈む慶人。ああ、やられたと思っても、怒る気力も出ない。菊池怜は女子の中では可愛い方で、ひょうきんな性格から男子の人気も高かった。方より少し上の黒いストレートの髪は歩く度にサラサラと揺れ、良いもん食ってんのかなーと思わせるお嬢様のような外見であったが、話せば意外と面白いやつだ。
休み時間。
「菊池、さっきのあれは無いわー。」
慶人がぼやくと、
「ごめんごめん、斑鳩見てるとなんかちょっかい出したくなっちゃって。」
などと無責任なことを言う。そして片手を立てて謝りながら、大きな目をウインクしてみせた。自分の可愛さを自覚しているような姑息な表情だ。
その日の午後の授業は美術だった。美術は嫌いじゃない。木工の匂いが、美術室付近から漂っていた。
「わたし、美術ってきらいじゃないんだよねー。」
後ろから菊池が声をかけて来た。ぞろぞろと教室移動の生徒達が美術室の方に向って歩いて来ている。
「そうだな。俺も嫌いじゃないよ。」
慶人は答える。菊池はニコッと笑い、そのまま慶人を追い抜いて美術室に入っていった。
慶人の学校では、美術は二時間の枠でひとつの授業だった。結構長い時間を一度に費やしている。今日は、ペアで互いの顔をデッサンするという授業内容だった。教室は全部で六班に分かれていて、一つの班に三人ずつ男女がいた。
「じゃあ、各班の中で男女でペア組んでー。」
菊池怜は慶人と同じ班だった。班の中でも、仲の良い者同士で組むから、慶人は菊池と組むことになった。グーチョキでペアを決めてる班もあった。
「うごいちゃだめだよー。」
「わぁってるよ。」
「わたしの絵の点が低かったら、斑鳩の顔が面白い所為にしよう。」
などとまた無責任なことを言ってる。よくそんなに喋りながら絵が描けるなと思う。だが、ザッザッザッと鉛筆を走らせる菊池の目はどこか真剣で、ただならぬ集中力を感じたのも事実だ。四十分ほどたっただろうか。
「でけたー。」
菊池が言った。
「ふうっ。あー、疲れた。どれどれ、見せてみ。」
慶人が言うと、
「だめー。うそー。ほれ。」
ぱっと絵をひっくり返して見せた。
「うまっ。うまっ。なにこれ。・・・でも、なにこれ。鼻毛でてるじゃん!」
鼻を気にする慶人を見て、ケタケタと笑う菊池。
「あー、おもしろい。冗談、冗談だって。」
と言いながら絵を修正する。
「なかなか男前でしたよ。斑鳩くん。」
などとかしこまった素振りをして言った。
数日経って、美術の課題作品が十点ほど、職員室の前の廊下に掲示された。その中でも、菊池の作品が優秀ということで金色のシールが貼られていた。また、沙雪の作品も飾られているのを見て、ああ、やっぱ、絵が好きだったんだなぁと慶人は思った。
その日の午後。斜陽が職員室前の廊下を照らしている。運動部の声が遠くに響いている。沙雪はジャージ姿のまま職員室の前に来た。トイレをするついでに、自分の作品の評価を見ていこうという算段だ。ふと、目についたのは、自分の作品ではなく、慶人をモデルにした菊池の作品だった。高い技術もさることながら、モチーフにかける親愛の情のようなものが絵から滲んでいた。そこに、イキイキとした描き手の感情と、モデルの表情が交わっているみたいで、沙雪は感心した。そして同時に、少し悔しく思った。私だって、斑鳩くんがモデルならもっといい絵が描けてた、そんな負けじという気持ちが自分に湧いたのを察して、沙雪は少し自信が出た。自分の気持に対する自信である。
「(よしっ)。」
そう自分に言い聞かせて、沙雪はグラウンドに戻っていった。
その様子を、菊池は外から窓越しに見ていた。
「(マネージャーさんか・・。)」
そう心に呟いて、菊池は寒そうに学校を後にした。
運動部の声が小さく、校舎に反響していた。
菊池怜は恵まれた家に生まれていた。両親は健在で、三人兄弟の二人目として自由に生きてきた。家は貧乏ではなく、むしろ少し裕福なくらいで、川の向こう岸に洋風の館を建てていた。犬も一頭飼っている。レトリバーだ。
怜は不幸に飢えていた。自分は恵まれていて、あまり人の痛みを知らない。もっと不幸を味わうべきではないのか、そんな倒錯した思いが怜の中にはあった。そんな中、怜には気になる人物が出来た。斑鳩慶人だ。斑鳩はサッカー部の主将でありながら厳格な節が微塵もなく、ひょうひょうとしていて気負いがない。顔もまぁまぁ悪くない。怜は自分と波長が合うなと感じていたし、実際、慶人と怜はいい友人関係を築いていた。ちょっときつい冗談を言い合えるくらいの中で、そんな仲を築けるのは、男女間では珍しかった。怜は寒空の下、慶人のことを考えながら帰路に着いていた。そして、その中にふとよぎる女子マネージャーの影を、あまり快く思わなかった。知らない生徒だったが、少し、対抗心のようなものを燃やす自分を見て、ああ、と落胆するのだった。なぜなら、怜は誰とでも仲良く出来る自分を好いていたし、敵対する人物を作りたくはないと思っていたからだ。少し複雑になった自分の人間関係を知って、溜息を付くのであった。
「おーい、斑鳩ぁーっ。」
サッカー部員たちが、校舎の際で一息ついていると、真上の教室の窓から呼び声がする。
「なにーっ?」
返事をする慶人。
「なんとなくーっ。」
窓からの声の主が答える。怜だ。
「めんどくさいことしてんじゃねーっ。」
「ごめーん。はははっ。」
何がおかしいんだか・・。呆れながら怜の相手をする慶人。それの側で黙々とボール拭きをする沙雪。屈託のない怜のコミュニケーションは、他の部員たちからの冷やかしの対象にはならなかった。ただ冬の晴れた空に映る、何気ない青春の像として、淡く記憶に残るくらいだったろう。しかし怜は決めていた。今年のバレンタインには、慶人にチョコを渡そうと。些細な日常を犠牲にすることはとてもためらわれたが、それ以上に、近づきたかったのである。チャンスは昼休み。
来る二月十四日。菊池怜はいつもより早く学校に来た。さりげない素振りで、教室の後ろに建て付けられているロッカーの前にきて、さらりと二番の扉を開けた。慶人のロッカーだ。その中に、目につくように大きめの折れた紙切れを投入し、ピタリと扉を閉じた。行為をなし終わった後に、神妙な気持ちになってしまった怜だった。今日でいつもの楽しい日常が終ってしまうかもしれないと思うと、恐怖だった。
朝練の終わったサッカー部の連中が、教室に入ってきた。
「ぉはよー。」
「おっす。」
挨拶が交わされる。慶人は後ろの扉から入ってきた。
「はよー。」
そして二番のロッカーをためらわずに開け、部活道具を入れようとしたが、少しその動きを止めた。紙に気づいた。紙を取り出すと、それは開けばA5サイズほどはあった。そこに、元気な文字で、
「昼休み、中庭に来られたし。菊池怜」
と書いてあった。
なんだ、決闘の申し込みか?とも思ったが、あながち外れでもないだろう。
慶人はこの手の手紙をもらうのは初めてではない。記憶では三回目だ。手紙を読んで、反射的に怜の方を向きそうになったが、黙って席についた。怜も怜で、黙って席に座ったままだった。怜は思った。どうせ顔を合わせても、笑うことくらいしか出来ない。なんだか恥ずかしくなった。
そして昼休み。
「ちょっとトイレ行ってくるわー。」
慶人は有用な嘘をつき、中庭に向かう。相手が怜だからだろうか、不思議とリラックスしていた。階段をタタタンッと駆け下りて渡り廊下を過ぎると、中庭に立つ一人の女生徒を見つけた。怜だ。
「よお・・。」
慶人は少し恥ずかしそうに片手を上げた。
「こっちこっち。」
怜は手招きして、自転車置き場の陰に慶人を呼んだ。できるだけ人の目を避けたかったみたいだ。
「ごめん。呼び出して。」
「いいよ。」
「わかってると思うけど・・。もらって欲しいものがあるんだ。」
と言って、怜が出したのは、黄色地に花模様の編まれているお守りだった。
「(あれ?チョコじゃねぇ?)。」
そう思った慶人は、不思議そうに首を傾げて受け取った。
しばしの沈黙の後、どちらともなく笑いがこみ上げてきた。
「ふふっ。なんでお守りなんだよ、お前。」
「なんとなくー。なんとなくだよ。」
恥ずかしそうに笑う怜。
「わたし、知ってるんだ。斑鳩に好きな人が居ること。」
「ほぉー。それはそれは、初耳だな。」
余裕を見せる慶人。
「なかなか健気な子じゃん。うんうん。」
一人で頷いている怜。何か勘違いしているのが一目でわかるアクションだ。
「わたしも、あれだけ近くに入れたらな~って思うよ。」
と、寂しそうに言う。そして、
「怪我するなよ、サッカー部員!」
「お前のおかしなお守りのせいで、怪我するかも!」
「ばかやろう。由緒正しいお守りだぞっ。」
そんなやり取りをした後、
「ありがとな。」
慶人はしっかりした口調で言った。
「・・。」
何も言わずにコクリと頷いた怜は、中庭を去っていった。
みんな、どんどん進んでいくなぁ。
校舎の壁や窓の反射に、四角く切り取られた中庭の青空が、檻の中にいるような孤独を慶人の胸に刻みつけた。俺はちっとも進めてない、そんな僅かな劣等感を、慶人は感じたのだった。