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さよならまでの万有引力

作者: 冬野 暉

 たまたま、外へ出ようと考えたのは数十分前のことだ。

 家の外へ一歩出ると、ねっとりとした熱い空気が全身にまとわりついた。これから季節は涼しくなっていくというのに、まだ暑苦しさが残っている。

 額から頬にかけて流れ落ちる汗を乱暴に手の甲で拭う。

 そのまま手を下に下ろすと、少し先に誰かが立っているのに気付いた。

「やぁ」

 挨拶代わりに軽く片手を上げてみせた少年は、場違いなほど爽やかな足取りで近づいてきた。明らかに季節外れの黒いスーツをすっきりと着こなしている。

「まったくどうしようもない暑さだね」

「……台詞と格好が一致してないよ」

 呆れるしかない僕に、少年は汗の玉ひとつ浮いていない白い顔で「私のこれは制服だからね」と笑った。

「きみこそ、こんな炎天下に出かけるのかい」

「暇だから、図書館に」

「わざわざ歩いて?」

「……自転車がパンクして修理中なんだ」

「それは不運だね」

 少年は柳眉を曇らせて同情を示した。

 そんなことよりも僕はアスファルトから立ち上る熱波に耐えきれず、相槌を打つ前に歩き出した。すると、少年は当然のように隣に並んでくる。

「……仕事中なんじゃないの」

「今日の分はもう片づけてしまったよ。だからこのあとは自由時間さ」

「なら、いいけど」

 一見すると少年は僕と同じ年頃だが、実際には計り知れない年月を過ごしてきた存在だ。本人も「百を超えたあたりで数えるのをやめたからよく憶えていない」らしい。少年、と表現するしかないのは、僕が彼の名前を知らないからである。

 僕と少年のつき合いはかれこれ十年近い。幼い頃、僕は川で溺れ死にそうになったことがある。一度は心肺停止にまで陥ったらしい。我ながらよく息を吹き返したものだと思うが――少年によれば、僕はそのとき生と死の境界線を踏み越えてしまったのだという。

 死後の世界に触れて現世に帰ってきた者は、多かれ少なかれよからぬ影響を受けてしまう。見えないはずのものを見てしまったり、そうしたものを引き寄せてしまったり――なかには、引きずりこまれてしまう人間もいるらしい。そうなってしまっては、二度と現世には戻ってこれない。

 少年は、僕がそういう末路をたどらないように守ってくれたボディガードだった。子どもは七歳まで神のうちとよくいうが、幼くか弱いほど連れて行かれやすいのだという。僕が初潮を迎えるまで、少年はいつも手の届く場所で穏やかに微笑んでいた。

 僕が高校生になった今では、こうして仕事の合間に顔を見に来る程度だ。少年の本来の役目は『葬儀屋』――死神のようなものらしい。僕は彼が喪服以外のものを着ている姿を見たことがない。

「暇潰しに図書館とは、きみは本当に優等生だね」

 おかしそうに言う少年に、僕は帽子のつばを深く引き下ろした。

「別に、図書館なら冷房が効いているし……静かだから」

 人混みは苦手だ。たくさんの人間が無秩序に群がる猥雑さだけでなく、余計なものが聞こえてきてしまうから。

 どうやら僕は悪い方向に耳がよくなってしまったらしい。だれもいないのに足音や話し声を聞いてしまうことなんてしょっちゅうだ。ときには、ラジオの電波のように他人の心の『声』を拾ってしまったりする。

 少年は微かに顔を歪めると、「すまないね」と呟いた。僕は首を横に振った。

「気にしてない。それに、あなたのせいじゃない」

「……きみは優しいね」

 どうしてそんな結論になるのだろうか。僕は不運ではあるけれど不幸ではない。厄介な体質があるからこそ、少年は僕のことを気にかけてくれるのだ。

 兄のようだった少年はいつしか外見が並び、すぐに僕は彼を追い越してしまうだろう。結末はわかりきっているからこそ、この想いに明確な名前をつけるつもりはない。

 少年は決して名前を教えないことで、どんなに近くても二度と越えてはいけない線があるのだと突きつけている。僕がこんな一人称を使うようになったのは、身を守る術として性別を偽ることを彼が教えてくれたからだ。少年の前で僕が『僕』であり続けるのは、言葉にできない願いであり約束だった。

 不意に、冷たく骨張った手が僕の汗ばんだ手を握った。顔を上げると、少年は黒い瞳をやわらかく細めた。

「デートしようか」

「……え」

「私がいれば余計なものは近づいてこないから、図書館に引きこもらなくても好きなところへ行けるよ。せっかくかわいい支度をしているのだから、きみが楽しめる場所に行こう」

 僕は堪らなくなって俯いた。買ったばかりの真っ白なチュニックワンピースに、もしかしたら少年に見てもらえるかもしれないという期待が含まれているのは事実だった。自転車がパンクしてしまったのは嘘ではない。

 少年はゆっくりと指を絡めながら行き先を尋ねてくる。僕はおそるおそるその手を握り返し、勇気を振り絞って口を開いた。

 夏休みが終わって、季節が移ろい、どうしようもなく僕の時間は流れていく。地球と月のように遠ざかっていく少年との距離を、僕はいつか淡い絶望と愛しさとともに受け入れるだろう。彼のいない日常で、別のだれかに恋をして、愛するかもしれない。

 それでも、きっとこの夏の日の熱を忘れることなどないのだと、僕は知っている。

この作品は、『同じ書き出しでどれだけ違うストーリーを作れるか(同書出違物語)』企画に参加させていただいたものです。冒頭の書き出し部分を企画元よりお借りしました。

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