ローザンブルグの白薔薇
茶褐色の髪を持つ青年は、熱心に一枚の絵を見上げていた。
灰色の瞳は、まるで祈るように真剣であった。
絵の中の貴婦人は、燦然と輝く金の髪と灰青色の瞳を持ち、柔らかな微笑をたたえ、父なる神に祈りを捧げているところだった。
梨の花を思わせるような楚々とした横顔で描くのは、ローザンブルグ地方独特の画法であった。
このエレアノール王国で知らぬ者などいない聖王妃アネットの少女時代の絵である。
マイルーク子爵の娘であった頃の絵姿に、現マイルーク子爵は聖句を捧げる。
「全てが光で満ち溢れますよう」
レフォール・ジェイド・ローザンブルグの声は、礼拝堂のようにがらんとした中で響く。
銀の騎士のみに許される瑠璃色のマントをひるがえし、青年は歩き出そうとして、立ち止まる。
「もう、行くのか。
まったく、親不孝ものめ」
ローザンブルグ公爵は、大げさなためいきをついてみせる。
「父上」
「王命とはいえ、そう急く必要はないだろう。
朝のお茶を共にしたところで、かまうまい」
「大切なお役目ですから、父の願いとはいえ、お聞きするわけにはいきません」
レフォールは言った。
「母の願いも、無視するのだな」
「母上が王都にいらっしゃるのですか?」
それは異なことを、と灰色の瞳の青年は眉をひそめる。
マイルークを含むローザンブルグ地方は、王都よりもずっと北に位置する。
生粋のローザンブルグ娘の母は、土地から離れることを嫌がっていた。
それは父である現公爵が王宮に伺候し始めても変わらなかったし、レフォールが成人し騎士として王宮に上がってからも変わらなかった。
「国王陛下たっての願いに、結婚して二十五年目にしてようやくの社交界デビューだ。
私はようやく従弟殿に、最愛の女性を紹介できるというわけだ」
国王とは従兄弟同士にあたる公爵は笑った。
「それはよろしかったですね」
「ラメリーノも来ると言っていた。
今のうちに覚悟しておくんだな」
「ラメリーノ姫までですか……。
どんな風の吹き回しですか?」
気の強い従姉姫まで王都に来るとは、レフォールはいぶかしがる。
「懐かしかろう。
もう半年も会っていないのだからな。
話は簡単だ。
ラメリーノは、身なりにうるさい娘だから、王都の流行を知りたいと思った。
我が妻は、一人で王都に来るのが嫌だった。
わかりやすい利害の一致だ。
……聖王妃の肖像は、こちらの方が多いからな」
公爵は祖母に当たる女性の絵を見上げる。
「ローザンブルグ城には、数枚しかありませんでしたね」
生まれ育った居城を思い出し、レフォールもまた絵を見上げる。
聖王妃の生まれ育ったマイルーク城と、嫁いだ王宮の二つの城には肖像が多い。
次いで多いのは、ローザンブルグ公爵の王都の居城。
つまり、この城だった。
初代ローザンブルグ公爵は、娘の肖像をかき集めて、この城に飾ったという。
公爵が娘と共に王都に上ったまま、故郷には帰らなかったため、結果的にローザンブルグ城には肖像が少なくなってしまったのだ。
「一番美しかった時代の聖王妃を見るとはりきっていたよ」
「母上がですか?」
「聖王妃の次に美しい、と言われるのに飽きたそうだ」
「それは父上が悪いのではないですか?」
「私の口は、なにぶん正直でな」
けらけらと公爵は笑う。
「もし、私に最愛の女性ができたら、そのような失礼なことは言いません。
この世界で一番美しい、と言います」
真面目な青年は言った。
「おお、それは楽しみだ。
早く孫の顔を見せておくれ。
その前に、相手だな。
どんな相手を連れてくるか、楽しみだよ。
お前が成人してからというもの、来る日も来る日も待ち続けているというのに――」
公爵はいかに楽しみにしているかというのを、切々と訴える。
「妻帯するには、まだ早すぎます」
レフォールはこの春に、19になったばかり。
「そんなことはないだろう。
私がお前ぐらいの時には、プロポーズをしていたよ」
「それはお二人が幼なじみであったからでしょう」
「マイルーク子爵夫人は、ローザンブルグ娘ではないのか。
まあ、それもかまわないが、苦労するぞ」
公爵は言った。
「それは、まだわかりません」
「お前が心動かす姫ならば、私たちは反対はしないよ。
だから、早く――」
「父上、そろそろ」
レフォールは父の話の腰を折る。
「おお、そうだったな。
銀の騎士レフォール、光がそなたと共にあらんことを」
公爵は指で祈りの形をつくり、厳かに言う。
「父上にも、光がありますように」
レフォールは立礼した。
◇◆◇◆◇
エレノアール王国は、ここ四代ほど賢明な君主に恵まれ、平和であった。
国王には二人の王子と三人の王女がいた。
子どもたちは健やかに育ち、争いごともない。
それは、国王の一番初めの子である第一王女の功績だ、と言われている。
一歳の誕生日を待たずに神殿の巫女となった王女は、日々を祈りの中で過ごしている。
かの王女の祈りが、エレアノールを包み、人々から争いを奪っているという。
その第一王女が神のかんなぎの役目を終え、唯人に戻る日が来たという。
無論、父たる神は新しいかんなぎを選んでおり、神殿の方は何の滞りもない。
エレノアール王国では、10年から20年に一度起こる、盛大な祭りのようなものだった。
国王夫妻にとっては、ほとんど抱くことのできなかった我が子の帰還である。
その喜びは、とても大きいものだった。
華やかに馬車を出し、行列を作り、堂々と我が子を迎えたかったに違いない。
けれども、父たる神は清貧を旨とする。
重臣たちは何度も話し合い、神殿とのやり取りをし、信頼できる騎士を迎えとして出すことにしたのだった。
その役目を仰せつかったのは、銀の騎士レフォールだった。
王女と曾祖母を同じくし、現マイルーク子爵。
勤勉実直であったことから、諸侯は納得したのであった。
この日も、少女は祈りを捧げていた。
神殿で育った少女にとって、祈りを神に捧げるのは、とても自然なことであった。
くるぶしまでのベールを被り、祈りを捧げる姿はまさしく神の愛娘。
セルフィーユ・アウイン・ハーティンは昼の勤めを果たし、礼拝堂を後にした。
「とうとうこの日がやってきたんですね」
年のころは、17、8の乙女――ガルヴィが涙ぐみながら言う。
「ええ」
セルフィーユはうなずいた。
もうすぐ16歳になる少女は寂しそうに礼拝堂を振り返る。
「ご両親にお会いできますね」
「ガルヴィも、ようやく両親に会えるのね」
セルフィーユは言った。
侯爵家の末娘は年の頃がちょうど良いと、第一王女と共に大神殿に預けられたのだ。
実の姉妹のように、二人は支えあい、励ましあい、この日まで暮らしてきた。
「おめでとう」
少女は言った。
「王女さまと、お呼びしなければなりませんわね。
もったいないお言葉ですわ」
ガルヴィは泣き笑いする。
黒目がちな瞳から涙をぬぐい、乙女は告げる。
「さあ、もう着替えてしまいましょう。
私たちは俗世に戻るのですから」
「王都に行くまで、この格好ではいけないのかしら。
父たる神の娘であることを誇りにもちたいの」
セルフィーユはベール越しに首飾りにふれる。
三日月をかたどった金の金具の中央に、良質のルビーが揺れる意匠。
金の月はこの国を意味し、ルビーは忠誠を示すという。
何故、金ではなく、サファイアでもなく、エメラルドでもないのか。
神殿で15年暮らした少女にもわからなかった。
「それに……。
私には……痣があるでしょう。
迎えの方が、気を悪くしたらいけないわ」
「お髪をおろしてしまえば、わかりませんわ」
ガルヴィは言う。
「ドレスを着たら、髪を結い上げなければならないでしょう。
だから……」
少女はぎゅっと首飾りを握り締める。
「……王女」
ガルヴィはそっとためいきをついた。
それをすまなく、セルフィーユは思った。
自分が我を通せば、ガルヴィまで窮屈な巫女姿を続けなければならなくなる。
無駄な装飾のない長袖のローブ。
ゆったりとひだを取ってあるものの、生成りのそれは若い娘たちにとってつまらないものだった。
「セルフィーユ第一王女殿下、ガルヴィ侯爵令嬢」
巫女長が呼ぶ。
今朝まで「悩み深き妹たちよ」と呼ばれていたのに、今は称号で呼ばれるのだ。
とうとう時間が来たのだと、娘たちは思った。
「迎えの方が参りましたよ」
壮年の巫女長は、年若い騎士を紹介する。
「銀の騎士レフォールと申します」
若者の瑠璃色のマントが緩く広がる。
「王都までの道案内を申しつけられました。
以後お見知りおきくださいませ」
青年の言葉をセルフィーユはぼんやりと聞いた。
受難を意味する宗教画の聖リコリウスに似ていると、異性を初めて見た王女は思った。
「さあ、お行きなさい。
ここは俗世の者には、相応しくありません」
巫女長は言った。
「今までありがとうございました、巫女長」
セルフィーユは言った。
「さようなら、巫女長さま」
涙ながらにガルヴィも別れを告げる。
「父なる神は、いつでも傍におりますよ。
迷い深きときは、光をお探しなさい。
必ず、答えを示してくださるはずです」
巫女長はガルヴィに言う。
乙女は涙をハンカチでぬぐいながら、何度もうなずいた。
「王女。
神はありのままを良し、といたします。
それはよくご存知ですね」
「はい」
セルフィーユはうつむく。
ありのままであることは、難しかった。
ベールを被るのは、ありのままの自分を見られたくない。
そんな逃げの意識があるためだ。
「前を向きなさい。
光を見つめなさい。
賢いあなたならできるはずです。
父たる神の言葉を忘れぬように」
巫女長は微笑んだ。
そのまなじりに涙が浮かんでいた。
別れのときが来た。
セルフィーユの胸にも、熱いものがこみ上げてくる。
「ありがとうございます」
今生で最後かもしれない。
人の出会いと別れは、神の御手の内にある。
巫女でなくなり、王女に戻ったのだから、頭を垂れるべき相手は両親のみとなったけれども、セルフィーユはお辞儀をした。
「光があなたたちと共にありますように」
巫女長は首飾りの上に手を重ね、祈る。
二人の娘はそれにならい、聖句を共に祈る。
傍らに控えていた騎士も左胸の勲章に手を置き、同じ言葉を唱える。
異なる声質で、神に祈りが捧げられた。
大神殿から王都まで、馬車で3日。
天候に恵まれる初夏の頃であれば、楽しい小旅行であった。
国王の用意した四頭立ての馬車に、二人の娘は巫女姿のまま乗る。
神聖な衣装に、御者や世話係の者たちも敬虔な気持ちになり、一様に短い聖句を口にした。
四頭立ての馬車の横を銀の騎士が併走し、後ろを荷台が続く。
瑠璃色のマントの騎士がいなければ、良家の子女の物見遊山にしか見えないだろう。
王女と侯爵令嬢が乗っているとは誰も想像できない、質素な旅だった。
神殿暮らしが長かった二人にとっては、この馬車でもずいぶんと豪華に見えた。
「王女、この国は本当に美しいですわね」
ガルヴィは呟く。
大神殿を出てから、何度も同じ言葉を呟くものだから、セルフィーユもおかしくて笑い出す。
「ガルヴィはそればかりね」
「生まれて初めて、外を見るんですよ。
この感動、王女にはわかりませんの?」
表情豊かな乙女は笑顔を浮かべ、窓の外を指す。
「もちろん、美しさで胸の奥が熱くなっていきます。
これが私たちの故郷なのですね」
セルフィーユも流れていく景色を見つめる。
美しい青空、ただよう雲、黄金の太陽は、馴染み深いものだった。
なだらかに起伏する山々、舗装された街道、整然と並ぶ木立は、初めて目にするものだった。
どれもこれもが生命を高らかに歌い、美しかった。
「王都はもっと素晴らしいと、銀の騎士は言ってましたね。
こんなに素晴らしいのに、もっと素晴らしいなんて、想像がつきません」
ガルヴィは言う。
「私もできないわ」
セルフィーユは首飾りにふれる。
重苦しいような気分が膨れ上がってくるのがわかった。
家に近づいていくというのに、不安が大きくなっていく。
まるで、家から遠ざかっていくような気がするのだ。
日に日に強まっていくのは、どうしてなのだろうか。
環境が変わることに、怯えている……?
自分の心が不確かで怖い、と思った。
「どうかなさいましたの?」
「いいえ、なんでもないわ」
セルフィーユは首を横に振った。
「お気分がすぐれないのですか?」
気の利くガルヴィは、用件を銀の騎士に告げる。
水飲み場のある木陰で休憩を取ることが瞬く間に決まる。
申し訳のなさで、セルフィーユはうつむくのだった。
何度目かの休憩のときのこと。
涼しげな木陰で休んでいると
「そのようなベールでは暑くありませんか?」
銀の騎士が尋ねてきた。
「いいえ、もう慣れました。
私は、……顔に醜い痣があります。
幼い頃から、ベールで過ごしていたので……」
セルフィーユは途惑いながら、答える。
この場にガルヴィがいなくて良かった、と安堵する。
忠義者の幼なじみがいたら、どんな口論になっていただろうか。
セルフィーユが痣を気にしていることを彼女は良く知っている。
「……痣」
聖リコリウスに似た横顔が考え込むように伏せられる。
そしていると、本物の宗教画の受難のようで、セルフィーユは悪いことをしたような気分になった。
「では、王都についたら、ローザンブルグ地方伝統のベールを献上いたしましょう。
羽根のように軽く、朝靄のように美しいベールですので、そのベールよりは夏がすごしやすいでしょう。
これからの季節、外はまだ暑くなっていきます」
レフォールは真剣に言った。
好奇心からの詮索ではないと知れた。
銀の騎士は国王の側近く仕える騎士で、汚れなき光を意味する『銀』を冠する。
左胸に輝く銀十字勲章は、国王自らが授けられるという。
生まれ育ちよりも、その品性、知性をよく吟味され、騎士の中の騎士と呼ばれる。
「ありがとうございます」
暑そうにしていたのが見られてしまったのだろうか。
セルフィーユは頬を染めた。
こんなときベールがあって良かった、と思う。
表情から感情を悟られないですむ。
「それでは」
「あの、待ってください」
口に出してしまったことは、戻らない。
立ち去ろうとした青年を少女は引き止めてしまった。
特に理由があったわけではない。
もう少し話をしてみたかった。
感情的な自分の行動に後悔する。
以前の自分なら考えられない。
巫女でなくなった心のゆるみだろうか。
「あ、その……。
国王陛下のことを教えてくださいませんか?」
セルフィーユは何とか理由を見つけ出し、体裁を整える。
「はい。
私の知る全てのことをお話しましょう」
レフォールはうなずいた。
灰色の瞳を見つめながら、セルフィーユはホッとする。
馬車の中で感じた不安が嘘のように晴れていく。
ずっと前から知っているような気がした。
そんなはずはないというのに、親しみを覚える。
「王女の父君に当たるテーオドール国王は、大変優秀な君主として有名です。
私にとっては従兄弟叔父に当たる方で――」
「レフォールさまは、私の親戚なのですか?」
「はい。
曾祖母が、恐れ多くも聖王妃アネットさまですので、王女とは又従兄弟となります。
もっとも王女の又従兄弟となりますと、両手の数を合わせても足りないほどいるので」
「そんなにたくさん、私には親戚がいるんですのね」
セルフィーユは純粋に驚く。
神殿では、俗世のしがらみは関係ない。
親兄弟であっても、神の御前では等しい。
血族というものを知らずに、セルフィーユはこれまで育ってきたのだ。
「王女には、弟王子と妹王女が二人ずついらっしゃいます。
従兄弟も多く、親戚の名前を全て覚えようとしたら大変でしょう。
私は家臣の一人と、覚えていただければ十分です」
「ですが」
「銀の騎士レフォールとお呼びください」
「……はい」
少女はうなずく。
どこか懐かしさを覚えるのは、安堵するのは同じ血を持つためだろうか。
……血族。
見えない糸のようにつながっている。
「国王は大変家族思いの方で、王女のことをいつも気にかけていました」
「お父さま……?」
口に出してみて、セルフィーユは違和感を覚える。
父と言えば、父なる神を指す。
少女は首飾りをふれ、その信仰を思い出す。
大神殿のかんなぎとして、光にふれていた。
神を降ろすこともなく、その信託を聞いたわけでもない。
けれども、神のお傍にいた。
それが支えであり、土台であった。
「毎朝、必ずあなたのために祈りを捧げていました。
王宮の中にある礼拝堂に、絶えず捧げられる花は白薔薇です。
第一王女を意味する花です」
レフォールは言った。
「白薔薇は、白薔薇だと思うのですが……」
セルフィーユは首をかしげる。
「王家のしきたりで、第一王女は白薔薇、第二王女は白百合、第三王女は白姫菊と。
紋章が白の花と決まっているのです。
神に仕えていた方にとっては、不思議なことのように思えるでしょうが、それが俗世の決まりごとなのです。
これから白薔薇姫と呼ばれる機会もあるでしょう」
「そうなのですか」
セルフィーユは困惑する。
美しく咲く花の名で呼ばれる。
それは、罪なような気がした。
花には花の美しさがあり、それは人間が手に入れることのできない美しさなのだ。
神はあるがままを良し、とする。
巫女長の言葉を思い出し、少女は指で祈りを捧げる。
「あなたの帰りを待ちわびていました」
灰色の瞳が真摯にセルフィーユを見つめた。
「え?」
ドキッとして、少女は聞き返した。
「国王陛下も、王妃さまも、城中の皆がお待ちしております」
レフォールは言った。
「あ……はい」
心のどこかで落胆を覚え、セルフィーユはうなずいた。
◇◆◇◆◇
やがて、馬車は王都についた。
賑々しく出迎えられながら、王女の不安は増していった。
初めて見る城は、大きく、天をうがつようで、人間の驕りのように見えた。
城の内側は華美で、人間の欲望に思われた。
慎ましく生きてきた王女にとって、人工的な美しさは毒であった。
謁見の間は、贅の最たるものだった。
玉座には国王と王妃。
居並ぶ家臣たちはきらきらしい装いで、目がくらみそうだった。
恐怖で指先が凍りつく。
ここはなんて恐ろしいところなのだろうか。
誰も気がついていない。
それが恐怖に拍車をかける。
王女の気持ちを知らず、式次第は進んでいく。
「待ちわびたぞ、セルフィーユ」
テーオドール国王は玉座から降り、娘を出迎える。
「どうだ?
長旅で疲れていないか?」
「お気遣い、ありがとうございます。
ここまでの道中、とても快適でした」
セルフィーユは頭を下げる。
「ああ、こういうときはベールが邪魔だな。
顔を見せておくれ。
可愛い娘よ」
国王は親しげに言う。
その様子に、玉座に傍に座す王妃も涙ぐむ。
次の瞬間、王女の体がかしいだ。
「王女!」
すぐ傍に控えていたレフォールは、その細い体を支える。
ベールがするりと床に落ち、明るい灯燭の下、少女の容貌が明らかになる。
一瞬で閉じられた瞳はサファイアの青。
流れる髪は金の糸。
飾りのない衣装が清楚な容貌をさらに神聖なものへと変える。
素早くベールを拾い、レフォールは少女の姿を隠した。
ほんのわずかの間だったが、貴族たちの目には十分だった。
ざわめきが巻き起こる。
吟遊詩人が歌う聖王妃アネットのように、美しい王女。
この夏で16歳になる第一王女。
その価値はどれほどのものか、この場に居合わせた人間たちは良く知っていた。
「私がついていながら、申し訳ございません」
レフォールは王女を抱きかかえたまま、頭をたれる。
腕の中の存在は、まるで羽のように軽い。
このまま掻き消えてしまうのではないか。
そんな不安がよぎる。
「良い。
初めての旅で疲れたのだろう。
誰ぞ、案内を!」
国王の言葉に女官長がまろび出る。
「銀の騎士レフォール。
王女を部屋に連れて行ってもらえるだろうか?」
「はい」
国王の言葉に青年はうなずいた。
それから2日間、王女は熱で苦しんだ。
祝賀ムードは一気に崩れ、人々の顔には不安が浮かぶ。
どんなに国王が明るく振舞おうとも、話は漏れ広がる。
一刻も早いお披露目を、と重臣たちは焦りだした。
王都でのローザンブルグ公爵の居城にて。
「銀の騎士さまはどちらへお出かけ?」
襟の広がったドレスを身にまとった華やかな乙女が笑う。
「王宮へ」
レフォールは簡潔に答えた。
「私も連れて行ってくださる?」
ラメリーノは魅惑的な笑みを浮かべる。
「襟のつまったドレスを着るのなら、かまわないが」
「古風なドレスは、ローザンブルグだけで十分よ」
従姉姫の笑みは苦笑に変わる。
「では、ベールを」
「それも嫌。
何のために、王都に来たのかわからなくなるじゃない」
「母上は、どちらも着てらっしゃる」
自由気ままな従姉姫に、レフォールはためいきをつく。
「伯母さまは古風な方ですもの。
公爵以外の殿方の視線を受けるのは、嫌なんですって。
独身の頃は、どうしていらっしゃったのかしら?」
表情がころころと変わる乙女は、楽しげに笑みを唇にのせる。
「せっかく美しく生まれたんですもの。
たくさんの賞賛を浴びたいわ」
「将来の夫君に頼むと良いだろう。
百の心無い賛辞よりも、一の真摯な言葉、だと聞いたが?」
「残念ながら、私には真摯な言葉を捧げてくださる殿方はいないのよ。
あなたのせいでね」
象牙の扇子をもてあそびながら、ラメリーノは言葉を続ける。
「ローザンブルグのうるさ型は、私をマイルーク子爵夫人にしたがっているのよ。
あなた、知らなかったでしょう」
「初耳だ」
レフォールは驚く。
古き血を尊ぶローザンブルグでは、従兄妹同士の結婚は珍しくない。
年のつりあいも取れているのだから、周囲がそう願うのも不思議ではなかった。
けれども、レフォールには他人事のように思えた。
それは従姉姫も同じことだったらしい。
「でも、私はそんな退屈は嫌なの。
早く結婚して、私を自由にしてちょうだい」
ラメリーノはためいきをつく。
「そうは言っても……」
「相手なら、いるじゃない。
白薔薇姫をいただけばいいのよ」
名案だ、と貴婦人は言う。
「何を……!」
記憶と呼ぶには鮮明な輝き。
一重の白薔薇のように、清らかで、可憐な姿の少女。
ほんのひとときだけ絡んだ視線。
「騎士の中の騎士レフォールなら、国王陛下も意志がぐらつくかもしれないわ。
白昼堂々、謁見の間で姫を抱きしめたのでしょう?
噂になっているわ。
そして、これからお見舞いでしょう?」
からかうように、ラメリーノは笑う。
「国王陛下の命だ。
やましいことなどない」
レフォールは断言した。
「そう、残念ね。
王宮へ行くのは諦めるわ。
魅力的な噂話を仕入れてきてね、従弟殿」
レフォールが王女の私室の一角に来ると、人々は手を止め、すがるように青年を見た。
張り詰める緊張感に、青年は眉をひそめる。
「マイルーク子爵」
女官長がほっとした表情で声をかけてくる。
「王女のご機嫌伺いに参りました」
「ええ、ちょうどよろしかったわ。
ガルヴィ侯爵令嬢もいらっしゃるの。
これで王女のご機嫌も麗しくなるでしょう。
どうぞ、こちらへ」
優雅な仕草で女官長は招く。
「まだ熱が下がらないのですか?」
レフォールは心配になった。
重い病人の元へ見舞いに行くのは、相手の負担を増やすだけだ。
日を改めたほうが良いのだろうか。
「いえ。熱の方は下がったんですが……。
どうにも、話を取り合ってくださらなくて」
年配の女官長はためいきをついた。
「……何故?」
青年は不思議に思う。
3日間というわずかな間で、交わした言葉も少なかったが、王女は人の話を聞かないような人物とは思えなかった。
言葉を選ぶように語る姿、真剣に耳を傾ける姿。
華やかな印象こそなかったが、穏やかな人柄が見て取れた。
神に仕えていた人だけあって、祈りを欠かさず、信仰に背かないように努力する姿は、好ましく思えた。
「この先ですわ。
陛下からお許しをいただいております。
どうぞ、お先にお進みくださいませ」
女官長は慇懃に礼をした。
尋ねたいことがあったのだが、レフォールは先に進む。
寝室にいたる控えの間に、見覚えのある女性が扉を守るように立っていた。
「ガルヴィ嬢、お久しぶりです」
レフォールは言った。
「銀の騎士レフォール」
王都の最先端のドレスをまとった貴婦人は、笑みをこぼした。
「お見舞いに参りました。
王女のお加減は、どうですか?」
「熱は下がったのですが……。
ここの女官たちは、王女のベールをすべて取りあげてしまったんです。
それどころか、髪を結い上げようとまでするのです。
何も知らずに」
ガルヴィの声は恨むように低く、小さかった。
青年は密やかに息づいた花のような痣を思い出す。
真っ白なこめかみに、真っ赤な痣があった。
「レフォールさまは……見てしまいましたか?」
「はい。間近でしたので」
レフォールは声をひそめる。
「生まれつきなのです。
あの痣のせいで、王女は王宮から遠ざけられたと、噂までされていました。
だから、王女は余計に……」
ガルヴィは言葉をつまらせる。
感情豊かな侯爵令嬢の双眸に涙が浮かぶ。
「王女に贈り物をすると約束したのです。
我が地方伝統の織物で、今の王女のお役に立つと思います」
レフォールは綺麗な包みをガルヴィに手渡した。
「これは?」
「王女が必要としているものです」
「あ、……ありがとうございます!」
ガルヴィは子リスのように、包みを抱えて扉の中に入る。
それから数分後、レフォールも中に招かれた。
ちょうど腰のあたりまでのベールをまとった少女が椅子に座っていた。
「ありがとうございます」
首飾りにふれながら、王女は礼を言う。
古風なローズベージュのドレスが白い肌を引き立て、わずかに見える指先が美しかった。
「お気に召していただけたのなら、光栄です」
レフォールの言葉に、微笑む気配を感じた。
重苦しいベールと違って、ローザンブルグのベールは貴婦人たちの表情をかすかに伝える。
「このベールは素敵ですね」
裾についた飾り玉に王女はふれる。
朝靄のようなベールの裾には、朝露を模したガラス玉がいくつもついている。
「とても軽いベールですので、そうして錘をつけないことには外へ出られません」
元気そうな姿に、青年は安心した。
「どうしてですか?」
セルフィーユは首を傾げる。
それに合わせてガラス玉が揺れる。
「ベールが風に飛ばされてしまうからです」
「大変ですわね」
少し考えてから、少女は呟いた。
「室内では、飾りのないものを身に着ける方々も多いです」
「ローザンブルグでは室内でもベールを被る方がいらっしゃるんですか?」
「私の母もそうです。
若い女性の中には、その習慣を厭う方も多いです。
だから、半々というところでしょうか」
青年は言った。
「レフォールさまの故郷へ行ったら、私は目立たずにすむのですね」
楽しげに少女は言った。
穏やかで静かなローザンブルグ地方。
多くの貴族の避暑用の別荘があり、王家の離宮もある。
その中でも、とりわけ美しいとされるマイルーク領。
そこで微笑をたたえながら散策する白薔薇姫。
夢見るように美しい光景だろう。
それを間近で見守る自分……。
「あの……?」
困ったような視線を感じ、レフォールははたと気づく。
不敬なことを想像した、と己を恥じる。
「そうですね。
王家の離宮もありますから、一度訪れてみるのも良いでしょう」
青年は無難な答えをひねり出す。
帰る間際、女官長から耳打ちされ、レフォールは国王の私室に急いだ。
あちらへ、こちらへと、ずいぶんと振り回されている。
王家に忠誠を誓った身だがここ数日の激動に、ややくたびれていた。
第一王女の帰還は、喜ばしいことのはずなのに、歓迎されていない。
王宮でも、天でも。
「娘は、どうだった?」
窓辺に立ち尽くしていた壮年の男性は、銀の騎士を手招きする。
国王の視線の先は、薄曇りの空。
「元気を取り戻したようにお見受けいたしました。
ですが、パーティなどにご出席するのは、難しく思われます」
レフォールは感じたことを正直に告げる。
「あと一度だけ、人前に出てもらおうと思っている。
それが終わったら、再び娘の自由を与えようと考えている」
「そうですか」
青年は安心した。
王女が何かに我慢するように、何度も首飾りにふれていたことが気になっていた。
「この2日間。
娘は泣きながら『帰して』と叫んでいたそうだ。
やはり、セルフィーユにとって、ここは家ではないのだな」
自嘲気味にテーオドールは言った。
レフォールは口を引き結ぶ。
清輝なる王女が泣くほどに乞う。
先ほどお目にかかったときは、己を律していたのだろうか。
気がつくことができなかった。
「大神殿を出て、まだ5日間です。
時期に慣れていくでしょう」
諦めるには早すぎる。
まだ何も始まっていない。
「いや、私にはわかってしまったのだよ」
国王は緩く首を振る。
「そなたがマイルーク子爵であることが救いだな。
娘をもらってはくれまいか?」
テーオドールは言った。
まるで政略のような結婚を勧める。
結婚とは、献身と互いへの愛で成り立つもの。
こういった場で、決められることではない。
「何をおっしゃいますか、陛下」
「ローザンブルグであれば、娘は目立たずにすむだろう」
「確かに、その通りでございますが。
ローザンブルグには王家の離宮もございます。
何も、私のような者の妻にならなくても――」
「ソージュに息子が生まれ、私に娘が生まれた。
ちょうどいい年周りだと私たちは笑いあった。
それが叶うのだ。
何の不満があるだろうか」
国王は言った。
自己欺瞞をしようとしている壮年の男性に、レフォールはかける言葉を見失う。
「お披露目をかねたパーティで、婚約を発表する」
テーオドールは言った。
「いくらなんでも、早すぎます!
王女のお気持ちはどうなるんですか?
父に捨てられた、と思い込まれるかもしれません。
お待ちになってください。
今しばらく、家族らしい思い出をお作りになってからでも、遅くはありません」
レフォールは意見した。
「王命だ」
国王は振り返り、臣下を見据えた。
「……謹んでお受けいたします」
苦い気持ちを飲み込んで、レフォールは言った。
◇◆◇◆◇
王宮はとても息苦しかった。
泣いても、泣いても、涙は枯れることがない。
「そんなにお泣きにならないで」
ガルヴィは言う。
「とても、辛いの」
セルフィーユは寝台の上で、親友に助けを求める。
姉のような乙女は、セルフィーユの手を強く握り返してくれた。
真っ白な光に包まれたような気がして、少女は淡く微笑んだ。
「礼拝堂へ行って、神に祈りを捧げたい」
「もう少し元気になったら、行きましょう。
王宮の礼拝堂もとても美しく、清らかだったわ。
大神殿には負けるけど」
ガルヴィは力づけようと微笑む。
「帰りたくて仕方がないわ。
こういうのを旅愁病というのかしら?」
初めて感じる苦しみ。
父たる神が与えられた試練だろうか。
心弱い自分は、聖リコリウスのようには乗り越えられそうにない。
「帰るも何も。
ここはあなたの家なのよ」
「違う。
ここは私の家ではありません」
確信を持って、断言した。
家がこんなに重苦しくて良いのだろうか。
もっと、心休まる場所を家と呼ぶのではないか。
神殿以外を知らない王女は思う。
「どこへ帰るというの?
神殿は、もうすでに私たちの家ではないのよ」
寂しそうにガルヴィは言った。
どこへ……?
それはセルフィーユにもわからなかった。
ただ、一刻も早くここから立ち去りたい。
何かに急かされているような気がした。
「神よ」
セルフィーユは、空いている方の手で信仰の証である首飾りにふれた。
「光はどちらにあらせます。
迷い深き娘をお助けくださいませ」
涙を流しながら、少女は呟く。
「迷い深き妹よ。
光はなんじと共に。
いついかなるときも、父たる神はあなたを見守っています」
ガルヴィは厳かに言う。
まるで神殿のようだ、とセルフィーユは思った。
ほんの数日前に別れた世界へ戻りたい。
帰る場所がないというのなら、時を戻してしまいたい。
「礼拝堂へ連れて行って。
今、神に祈りを捧げたいのです」
セルフィーユは懇願した。
「では、ベールを被りましょう」
白薔薇ばかりが捧げられた礼拝堂は、華やかであった。
それでも、神の御前だと思うと少女の心は休まった。
礼拝堂の入り口で、セルフィーユは崩れ落ちた。
冷たい床にペタンと座り、色ガラスの窓を見上げる。
聖王妃アネットが、国王に王冠を授けている場面が見事に再現されている。
襟のつまった古風なドレスとベールは、白。
足元の咲く花々も白で、聖王妃はほとんど色を持たない。
白は聖王妃の神聖を表している。
逆に、跪いている王は豊富な色を持つ。
「王女」
慌てて、ガルヴィが助け起こす。
「神の御前では、身分は何の意味も持たない。
どこでも、礼拝堂は清らかだわ」
手を借りながら、セルフィーユは立ち上がった。
首飾りと同じ意匠の彫像に、少女は笑みを浮かべる。
ようやく息がつける。
セルフィーユは無心で祈りを捧げた。
◇◆◇◆◇
初夏だというのに、空はぐずつき、人々の不安は濃くなっていった。
神の怒りにふれたのではないか。
そうささやき交わす。
違うと誰かに否定して欲しかったのに、誰も否定しない悪循環。
ローザンブルグの華と謳われた公爵夫人の登場でも、それは払拭できなかった。
ベールの貴婦人は、一時的に話題になったものの、暗い影は消えなかった。
社交界すら混迷していた。
王都へ帰ってきた王女が健康になることはなかった。
日に日に悪化する容態に、国王は決断した。
夏のある日。
第一王女とマイルーク子爵の婚約が発表された。
健康がすぐれない王女は、ローザンブルグでの休養が決まり、実質的な足入れ婚となった。
王女が王都に戻って、37日目の朝のことであった。
◇◆◇◆◇
馬車は一路、ローザンブルグに向かっていた。
避暑地として名高いローザンブルグ地方は、王国創成期の時代、王都があった場所だけあって、美しく古典的であった。
ローザンブルグ的と言えば「保守的」を意味するほど、化石のように時が止まっていた。
ベールを被り、慎ましいやかな娘たち。誠実で、生真面目な男たち。
『エレノアール王国の大聖堂』と呼ばれるほど、この地方は神に程近かった。
「ソージュさま。
レフォールの結婚が決まって、嬉しいですわ」
ローザンブルグ公爵夫人のミルラは言う。
薄物のベールを被らずに、のびのびと微笑する貴婦人は年月を感じさせない。
「聖王妃の血を引く王女だ。
ローザンブルグ娘と同じようなものだな」
機嫌よく公爵ソージュは言った。
「19にもなって、のんびりしているのですもの。
本当に心配していましたわ。
これで孫の顔が見られますのね」
「はて、どうだろう。
親の決めた婚約のようなものだ。
すぐに打ち解けるのは、難しいかもしれないな。
第一、王女は御病気だ」
公爵は言った。
「ローザンブルグは良いところですもの。
あっという間に治りますわ。
それよりも、王都は嫌な空気が溢れかえっていて、眩暈を起こしました。
ソージュさまったら、平気なお顔をしているんですもの。
私、目を疑いましたわ」
ミルラはためいきをついた。
生粋のローザンブルグ娘である公爵夫人は、今の王都が嫌いであった。
生まれ育った場所を出るということに嫌悪感を強く覚えた。
夫たっての願いであったため、叶えたが二度めはない。
「きっと、私が男だからだろうな」
ソージュは左手首を押さえる。
公爵夫人の灰青色の瞳はそのクセを確認して、笑む。
「ああ、だからレフォールも平気なのね。
王都はもうこりごりです。
早く、ローザンブルグ城へ戻りたいわ」
慕わしくも美しいローザンブルグ城。
そこで、ミルラとソージュは育ち、恋を知った。
「御者は急いでいるよ」
「そうそう、聖王妃の肖像を見ましたわ。
……ソージュさまの美的感覚は優れていますのね。
二番目でも仕方がありません」
ミルラは言った。
聖王妃は美しいだけでなく、清らかであった。
悔しいけれども、事実を認められないほど心が狭いと思われるのは、もっと嫌だった。
「レフォールは、好きな娘ができたら、世界で一番美しい、と言ってやるつもりだそうだよ。
なかなかロマンチックだと思わないか?」
ソージュは言った。
「素敵ですわね。
きっと、王女もお喜びになるでしょう」
自信たっぷりにミルラは断言した。
◇◆◇◆◇
病床で自分の婚約を聞いた。
王都から離れられると聞いて、セルフィーユは喜んだ。
不満を持つ余裕はなく、そのまま馬上の人となった。
侯爵令嬢ガルヴィは、親の反対を振り切り、セルフィーユに付き従った。
高熱にあえぎながら第一王女は、ローザンブルグ地方マイルーク領へと入った。
季節は、夏。
北方に位置するこの地方が、一番美しい季節だった。
晴天に恵まれ、良風に恵まれた旅は、順調そのもので予定通りであった。
まるで、神が望むような状況に、王都の人々の不安は緩やかに解消され始めた。
マイルーク城に入城して1週間後には、セルフィーユはすっかり快復して、床払いをした。
「すっかり、元気になられて嬉しいです」
ガルヴィは、ニコニコとセルフィーユの支度を手伝う。
神殿で暮らしているときからの習慣だったので、少女は何も疑問を持たない。
マイルーク城の女官たちも、これと言って何も言わない。
王宮とは違う、とセルフィーユは何度も思う。
「さあ、こちらを」
ガルヴィは鏡を取り出す。
金の髪をおろした少女が鏡面の中、微笑んでいた。
襟のつまった深緑のドレスは、飾りが少なく、清潔であった。
袖に小さく刺繍があり、美しいドレープを描くことから、丁寧な針仕事がうかがえた。
王宮で薦められたドレスの何倍も好ましく思えた。
「元気そうに見えますか?」
セルフィーユは尋ねる。
鏡の中の自分は、健康的には見えなかった。
長いこと床にいたため、肌は白く、心なしかくすんで見えた。
「ええ、もちろんですわ。
きっとレフォールさまも驚きますわよ」
「どうして、レフォールさまが驚くのですか?」
「王女の婚約者ですもの。
驚いて、お喜びになります。
そうに違いありません」
ガルヴィは言った。
「私、心配をおかけしているのですね」
セルフィーユはうつむいた。
「それも、今日でおしまいですわ。
さあ、ベールを。
レフォールさまがご機嫌伺いに参ります」
ガルヴィは、朝靄のようなベールを少女にかぶせる。
身支度がすっかり済んだ頃、ラメリーノ嬢がやってきた。
城主のレフォールよりも先に、その婚約者に会ったのである。
不満げに、ガルヴィは退室した。
「初めまして、白薔薇姫。
今日は、あなたに感謝を伝えに来たんですの」
涼しげに透けるベールを被った貴婦人は言った。
燃え上がる炎のような真紅のドレスに、黒繻子の手袋。
形の良い指先がもつ扇子は象牙製で、細かな透かし彫りがあった。
王都で好まれる装い。
贅の極みというものだというのに、不思議と嫌悪感がなかった。
「私、ラメリーノと申します。
レフォールの父方の従姉に当たりますわ。
曾祖母に聖王妃を持つので、私たち又従姉妹になりますわね。
レフォールとは、本当に親しくお付き合いさせていただいてましたのよ」
ラメリーノは笑む。
セルフィーユは状況が良く飲み込めないでいた。
名を覚えきれないほどの親戚がいる。という状況に、未だに慣れないでいる。
「仲良くしていただけるかしら?
あなたがローザンブルグ娘だと、聞いたのよ」
真紅のドレスの貴婦人は言う。
「ローザンブルグ娘、とはどんな意味なのですか?」
気後れしながら、気になった言葉の意味を問う。
セルフィーユが第一王女であること、大神殿の先のかんなぎであったこと。
それらは変わらない事実だが、ローザンブルグの娘という言葉に馴染みがなかった。
「私たちのような女を指すの。
それで、感謝しているのよ。
あやうく、レフォールと結婚させられるところだったんですもの」
「……え」
少女は身をすくませる。
「勘違いしないでくださる?
私とレフォールはただの従姉弟。
思い交わす仲じゃなかったわ。
伯母さまのように、流されやすくなくってよ。
ですから、感謝していると何度でも言いましょう。
ありがとうございます。
そして、おめでとうございます。
我が従弟殿だけれども、レフォールは文武両道の素晴らしき騎士であり、領主よ。
ゆくゆくはローザンブルグを継ぐ公子でもあるわ。
品性も、身分も、第一王女の伴侶としては申し分ないの。
おわかりになるかしら?」
淀みなくラメリーノは言った。
聖典を歌う巫女たちのように、なめらかで音楽的な口調に、少女は親しみを感じた。
物腰は茨のようだけれど、その奥には優しさやいたわりが秘められている。
芯の強い女性だと思った。
「ありがとうございます」
婚約の祝いを述べにきてくれた。
その心遣いが嬉しく、セルフィーユは習い覚えたばかりの礼をする。
ドレスの裾をつまみ膝を折る。
「あら、可愛らしい方。
オマケですわ」
ラメリーノはベールを取った。
大輪の華を思わせる美貌と、豊かな体があらわになる。
広く開いた襟に、セルフィーユは目が釘付けになった。
あらわになりそうな胸でも、豪奢な首飾りでもなく、一点が気になったのだ。
首元に、薄紅色の痣を見つけたのだ。
色こそ違えど、自分のこめかみにあるものと同じ痣。
「これはローザンブルグ娘の証。
私たち一族の中には、こうして印を持って生まれる娘が稀にいるのです」
ラメリーノは痣にふれる。
少女は動揺して言葉が見つからなくなる。
まったく同じ形の痣。
偶然ではない……。
「だから、ここでは襟の高いドレスが喜ばれ、ベールが好まれるの。
まったく聖徴を持たない娘も多いし、聖徴が薄い娘もかなりの数いるわ。
でも、私はきちんと目に見える形で生まれたのが不幸ね」
にこりと笑うと、ラメリーノは再びベールを被った。
「おかげで不便な生活だわ。
では、ごきげんよう。
そろそろ従弟殿が来るでしょうから」
優雅に貴婦人の礼をしたところに、レフォールが訪れた。
「ラメリーノ姫、何故ここへ?」
子爵という身分に合わせた装いの青年は、尋ねる。
銀の騎士の姿が高潔であったのなら、今の姿は典麗。
従姉弟同士ということもあって、二人が並び立つと調和が生まれる。
けれども、セルフィーユは純粋に美しいと思えなかった。
「あら、やだ。
せっかちね。
もっと時間がかかると思っていたのに。
まあいいわ。
ごきげんよう」
陽気な貴婦人はそう告げると、勝手に部屋を出て行った。
しばしの沈黙の後。
「今日はお加減がいいと伺ったので、散策はどうでしょうか。
是非とも見ていただきたいものがあるのです」
レフォールは優しげな物腰で問う。
自分はこの人を心配させていた。
できるだけ早く健康を取り戻したい、と貪欲にも願った。
「はい」
セルフィーユはうなずいた。
連れられてやってきたのは、礼拝堂だった。
ガランとして、何もない。
豪華なステンドグラスもなければ、宗教画の一枚もない。
金で三日月をかたどり、ルビーの宝玉を持つ神の彫像――御印があるだけだった。
捧げられているのは可憐な野の花。
王宮の礼拝堂とはまったく違う。
「殺風景でしょう」
レフォールは言った。
「いえ」
セルフィーユは首を横に振った。
静かだった。
光が体の中に満ち溢れていくのを感じる。
少女はそっと息を吐く。
慕わしく思う。
懐かしい、親しい、まるで昔から知っているような気がする。
「大神殿に良く似ています」
セルフィーユは自分の言葉に目を瞬かせる。
だから、こんなに胸苦しくなるほど嬉しいのだろうか。
「この礼拝堂の歴史は古く、エレノアール王国創成期までさかのぼることができると言われています。
大神殿と同じ頃に、建てられたそうです。
建築様式が同じなのでしょう」
レフォールは言った。
穏やかで誠実な口調は、礼拝堂にふさわしい。
少女は、青年を見上げる。
明り取りの窓から差し込む光を浴びる青年は、聖リコリウスのようだと少女は思う。
聖リコリウスは、異国民だったという。
異教を信じ、蛮勇を振るっていた若き日のリコリウスは、突然神の啓示を受けたという。
神の言葉に耳を塞ぎ、逃亡の旅を続け、やがてエレノアール国にたどりついた。
初代ハーティン王に出会い、大いなる感銘を受け、やがて神の子として洗礼を受けた。
その後も、リコリウスは多くの試練を与えられ、リコリウスは苦難を乗り切ったという。
王国創成期の逸話であり、宗教画の題材として最適なため、聖リコリウスの受難絵は、どこの礼拝堂でも掲げられている。
けれども、この礼拝堂にはなかった。
生きた聖リコリウスがいるのだから、必要ないのかもしれない。
「ここには時間が積み重ねられているのですね」
セルフィーユは心地よい静けさを壊さないように、声を抑えて話す。
「お気に召したのでしたら、ご自由にお使いください。
この地には数多くの礼拝堂があるために、一族の者もほとんど祈りに参りません。
神もお喜びになるでしょう」
「ありがとうございます」
祈りの中で、15年間暮らしていた王女にとって、これ以上ない贈り物だった。
零れそうになる涙をこらえる。
嬉しくて、幸せで、この地に来て良かったと心から思える。
祈りの日々が帰ってきた。
マイルーク子爵の婚約者として、課せられたものは少なかった。
この地方の女性は、乗馬もせず、社交界も開かず、茶会すらしないという。
一族の者で集まるときも、ベールの貴婦人たちは飲み物も口にしない、という。
もともと神殿での教えもあり、マナーの基本があったことも幸いして、セルフィーユは貴婦人教育を課せられなかった。
ドレスの着こなしと刺繍、それと詩の読み解きが、貴婦人らしい勉強だっただろうか。
神学はすでに習い覚えていたので、外国語と歴史に古典。
学習にあてられたのは数時間で、残りは自由時間となる。
セルフィーユは好きなだけ、祈りを捧げることができた。
聖典を読み、神の言葉にふれ、過去の聖人たちの偉業を知り、また祈る。
静かな、セルフィーユが望んだ生活であった。
日差しが緩くなる昼下がり。
セルフィーユは礼拝堂の側にしつらえてある花壇の花を眺めていた。
野に花のない季節に神に捧げる花が絶えないように、と様々な花が植えられていた。
近くに実をつける樹木も植えられていて、いくつか花をつけていた。
いかに神を敬っているか、その篤い信仰が伝わってくる。
「ごきげんよう、白薔薇姫」
水色の日傘を差した貴婦人が言う。
又従姉はベールが嫌いらしい。
痣を気にすることなく、王都の最新流行のドレスを着こなす貴婦人に、軽い嫉妬を覚える。
自分らしく振舞う、それを羨ましいと思ってしまう。
「ラメリーノさまもごきげんよう」
セルフィーユは会釈する。
「ああ、いけないわ。
あなたは第一王女で、やがてはローザンブルグ公爵夫人になるんですもの。
自分より身分の低い人間に、頭を下げてはいけないのよ」
「……申し訳ありません」
「そうやって、謝るのも良くなくてよ。
もっと貴婦人らしく振舞わなければいけませんわ」
ラメリーノは言った。
「はい」
セルフィーユはうなずいた。
神の御前では誰もが平等であるが、俗世では違う。
意識していても、長年のクセは抜けないものだった。
「お一人かしら?
あの子リスのような忠義者はどちらへ」
「ガルヴィでしたら、城の外へ行きました」
姉のような乙女は最近、あちらこちらへ出かけていく。
セルフィーユに何から何まで合わせる必要はないのだから、良い変化だった。
今まで、ずっと縛り続けていた。
ガルヴィも自分のための時間を持つべきだと、以前から思っていた。
だから、セルフィーユはこの変化を喜びこそすれ、厭うたりはしなかった。
「まあ。
では、お一人で寂しいでしょう。
レフォールのところへ押しかけてしまいましょう」
「え?」
「今頃、書斎ですわ。
かまわなくってよ、あなたは婚約者なんですもの」
陽気な貴婦人は笑う。
「お仕事の邪魔になります」
慌ててセルフィーユは言った。
多くの迷惑をかけてしまっているのだから、これ以上の迷惑はかけられない。
「かまわないわ。
ローザンブルグが一番美しい季節に、部屋に閉じこもっているのは馬鹿ですもの」
強引にラメリーノはセルフィーユの腕をとった。
◇◆◇◆◇
レフォールはためいきをつく。
灰色の瞳の先には、華やかな従姉姫。
「ラメリーノ姫、またいらっしゃったんですか?」
「ええ、いけなかったかしら?」
水色のドレスをまとった貴婦人は、艶やかに笑う。
「ローザンブルグ城を頻繁に抜け出している、と叔父上から手紙が参りました」
紋章入りの手紙をレフォールは差し出した。
これを届けに来た従兄は、呆れたように笑っていた。
どうやら小言の一つも言われたようだった。
「あら、お父さまったら心配性ね。
そんなことはどうでもいいわ」
ラメリーノは手紙を一通り読んで、青年に返す。
「可愛らしい婚約者を放っておくなんて、どんなおつもり?
流麗な弁解を聞かせていただけるんでしょうね」
ラメリーノはそう言うと、自分の背に隠れるように立っていた少女の肩を押す。
一歩分前に出たセルフィーユは困ったように小首をかしげる。
シャラシャラとベールの裾についた色ガラスが涼しげな音を奏でる。
「今日のお加減はどうですか?」
レフォールは尋ねた。
「おかげさまで、すっかり健康になりました」
控えめな声がささやく。
一度だけ見た姿を青年はベール越しに再現する。
流れる金の髪とサファイアの瞳。
透けるような白い肌に真紅の痣。
可憐で清楚な姿。
「日が暮れるまで、散策でもしなさい。
遠乗りは無理でも、城の森を歩くのはできるでしょう」
ラメリーノは怒りながら言った。
マイルーク城は森の中にたたずむ堅牢な城。
王城とは違う無骨なデザインは、この城が砦であったため。
王国創成期の名残だった。
四方の森が城壁代わりで、多くの小動物の憩いの場にもなっていた。
城主一族へ不敬にあたるということで、人はほとんどいない。
「豊かな森ですね」
セルフィーユは感心した。
「そう言っていただけて光栄です」
自分の肩ほどの身の丈の少女を見守りながら、レフォールは言う。
いつだったか、思い描いた夢がこうして形になるとは思わなかった。
深い緑の中、咲いた光の花のように、王女は美しかった。
華やかさや艶やかさはない。
心洗われるような美しさなのだ。
「素敵な場所ばかりで、マイルークがとても好きになりました」
嬉しそうに少女は言う。
「ずっと好きでいてくれますか?」
レフォールは尋ねた。
「ええ、もちろんです。
このように美しい場所は、大神殿とここだけです。
嫌いになったりはできません」
求婚の返事とも取れる言葉に、レフォールは息を飲み込んだ。
灰色の瞳をしばたかせ、それから自分の思い込みを正す。
国王の命で決まった婚約だった。
意志はどこにもない。
それでも、願わずにはいられない。
希望を持たずにはいられない。
「私、これからずっとここで、暮らしていけるんですね。
王宮へ、戻らなくても……」
少女の白い手が首飾りにふれる。
震える指先、心細さを訴える声。
「ローザンブルグ城へ移ってもらう日が来るかもしれませんが、この地方の外へ出る日は来ないでしょう。
あなたが望まないかぎり」
複雑な思いで、レフォールは言った。
王女の故郷は王都であり、家族のいるところは王宮なのだ。
二度と王女は、故郷の土を踏まないかもしれない。
この地を故郷として、これから暮らしていく。
人の子として、それは幸福なのだろうか。
父なる神はそれをお望みなのだろうか。
「ローザンブルグ城も素敵ですか?」
少女は尋ねる。
「私の生まれ育った城です。
マイルーク城によく似たつくりで、近くに大きな湖があります。
城の最上階から臨む湖は、大きな鏡のように天を映し出します」
青年は答えながら、王女の幸せについて考える。
一番の幸せを願うほどに、もう囚われていた。
たった一瞬だけ見たサファイアの光に。
「ぜひ、見てみたいです」
セルフィーユは言う。
その手は首飾りをふれていなかった。
◇◆◇◆◇
短い夏の間。
セルフィーユはいくつもの思い出ができた。
それはとても幸福なことと思えた。
誠実な男性が自分の婚約者であることを、幸運に思ったのだった。
やがて、妻になる日が来る。
そのことを楽しみとさえ、思うことができた。
けれども、セルフィーユは幸せになりきれなかった。
自分のこめかみにある痣。
このために、自分は遠ざけられた。
国王の娘であれば、大神殿の願いを拒否することができたはず。
長じるにつれて知りえた知識が、少女をさいなむ。
父たる神はそんなことをお望みではない。
そうわかっていても、人の心は縛ることなどできない。
痣など欲しくなかった、と強く思ってしまう。
思い、そして後悔して、セルフィーユは信仰にすがってしまう。
夏が終わろうとする頃、セルフィーユは16歳になった。
「おめでとうございます。
大人の仲間入りですね」
言葉と共に花束を贈られた。
今朝から届く花は、皆同じでセルフィーユはうつむく。
真っ白な薔薇は第一王女の象徴。
自分の花だと言われても、そうは思えない。
「ありがとうございます」
使用人に申し付けたのではなく、自ら運んできてくれた。
きちんとお礼をしなければ、という意識がセルフィーユに言わせた。
ふと視界に入った大きな手を見て、少女は小首をかしげる。
騎士の利き手には、白い包帯が巻かれていたのだ。
「どうなさったんですか?」
「……たいしたケガではありません。
大げさなだけです。
明日には、きっと治っています」
レフォールは歯切れ悪く答える。
白い薔薇と白い包帯を交互に見比べて、一つの考えにたどりつく。
セルフィーユは頬を染め、うつむいた。
「私のために薔薇をつんでくださったんですね。
ありがとうございます」
「野生の薔薇ですから、庭師を呼びに行くのもためらわれて……、お恥ずかしいことです」
青年は言った。
セルフィーユは優しい気持ちに包まれる。
ふわふわとして、居心地がいい。
このままたゆたっていたい。
「当家に伝わる家宝を見ていただきたいのです。
お時間をいただけますか?」
「はい」
マイルーク城に来て、2ヶ月経つが初めて訪れる場所だった。
ローザンブルグ家の一族のみに立ち入りを許されているという。
広い回廊を渡りながら、絵画を見上げる。
絵画のために作られた廊下というのだから、ずいぶんと大げさなものだった。
「ここから先は、他家に嫁がれた女性の肖像です。
見ていただきたいのは、この絵です。
当家の宝です」
レフォールは立ち止まった。
セルフィーユは絵画を見上げる。
石造りの壁に見上げるほど大きな一枚の絵があった。
絵の下には金属のプレートにタイトルがつづられている。
『聖王妃アネット』
横顔の少女は、祈りを捧げるようにうつむいていた。
襟の広いローブをまとい、金の髪を緩く編んでいた。
あらわになった首筋に、真紅の痣を見出した。
セルフィーユは驚いた。
自分と同じ痣だ。
「聖リコリウスをご存知でしょうか?」
「はい」
セルフィーユは首飾りにふれる。
心臓が早鐘を鳴らす。
視線を絵画から外すことができない。
「聖リコリウスが洗礼を受けたとき、父なる神は一つの印をくださりました。
以来、ローザンブルグ一族には御印と同じ形の赤痣を持つ子が生まれるようになりました。
色濃く出る女性は少ないのですが、そういった方々をこの地方ではローザンブルグ娘と、特に呼びます」
レフォールは言った。
ためいきが自然とこぼれた。
ようやく自分の居場所が見つかった。
ここに帰ってきたかったのだろうか。
鏡の中、痣を見つけて嘆く必要はないのだ。
聖王妃の肖像が肯定してくれるような気がした。
「ありがとうございます」
セルフィーユは言った。
「いえ。
その……マイルーク子爵夫人として、当然の知識ですから……。
覚えていただきたいと思ったのです」
レフォールは困ったように言った。
そっと伸びてきた腕が、傷つけないようにセルフィーユのベールを奪う。
「ここでは隠さなくてもいいんです。
あなたの痣を見て、不快に思う者はいません」
灰色に見えた瞳は青を含んでいたことを、初めて少女は気がついた。
肖像の聖王妃と同じ色の瞳だった。
「ありがとうございます」
どこかで見たことがある、と思ったのは当然のこと。
謁見の間で一度視線を交わしている。
セルフィーユは微笑んだ。
「あなたは世界で一番美しい」
大きな手がセルフィーユの手を包む。
鼓動が早くなり、耳が熱くなる。
顔を隠すベールもなければ、手もつかまれている。
少女はうつむいた。
「私の妻になっていただけませんか?」
レフォールは言った。
言葉が心にじんわりと染みこんでくる。
「……はい」
セルフィーユはうなずいた。
後世に謡われる聖王女セルフィーユ。
彼女の逸話は、マイルーク子爵夫人となってからの方が多い。
光のごとき美しさと清らかな人柄に、多くの詩が作られ、くりかえし謡われる。
その出だしはいつも決まっている。
ローザンブルグの白薔薇
そう謡われる。
『神の印』シリーズになります。
友人のガルヴィ嬢の恋愛模様は『ローザンブルグに響く歌』にて。
ブクマ、評価、ありがとうございます!
励みになっています。