Ask
五時で直帰できるような職場につきたかった、という俺の怨嗟の念を呑みこんで、時の流れは留まることなく刻々と進んで今現在七時。ようやく帰って行った生徒に後ろ手を振って、帰り支度をはじめることにした。
やたら前髪の長いその生徒は職員室のドアをかららと開けて、こちらに一礼すると片手で拝むようなポーズをとる。
「数多さんごめんね。こんな遅くまで」
「仕事だ、気にするな目取真」
「……いやそこで仕事とかドライなこと言っちゃうのはどうなの」
「なんでもいいだろう。早く帰れ、友人を待たせてるんじゃないのか」
「あー、うん。じゃ、さよーなら」
「はいさようなら」
などとやり取りをして、そいつの影を追うように俺もすぐ職員室を出る。やっと向かうことができる……安息の我が家ではなく、魔窟への入口へ。
バスに揺られて二十分ほどすると着いたのは、「安楽苑」という個人経営の居酒屋だ。看板の文字は店のオヤジの手書きらしいのだが、行書体であるためかぱっと見、「安楽死」に見えなくもない。縁起でもねえ。
がららと引き戸を開けて、俺は右手に見えたカウンター奥の先客の横に座った。先客は着物姿で短い黒髪の中、頭頂部のあたりではねている妙な癖っ毛をいじりながらグラスを傾けていた。俺に気づくと、妙に色香のある表情で――もっともこれは特別俺に対してというわけではなく、誰にでもなのだが――笑いかけてきた。
「遅かったね」
「中間で数学落とした奴らの面倒見ていた。大半は五時過ぎにはなんとかなったんだが、一人だけ七時まで残った」
「学の教え方が悪いんだと思うよ、あたしは。――オヤジ、赤霧島ロックで」
「うるさい瀬古、教員二年目のぺーぺーにこれ以上何が出来る。――オヤジさん、生中で」
それぞれ頼んで、俺は適当なツマミをテンコからもらおうとして手を叩かれ、仕方なく自分で枝豆と冷奴を頼んだ。「あ、冷奴は鰹節多めで」「はいよー」オヤジさんとのやり取りにもだいぶ慣れてきたものだ。
……あーあ。夢にまで見た、サシ呑み、下の名で呼ばれるという素晴らしき状況だというのに。
まさかこんなに殺伐としているなんて、一か月前の俺には想像すら出来なかった。泣けるぜ。
「どうしたのガク、目がしら押えて。あたしが叩いたのがそんなに痛かったの?」
「そんなわけないだろう。それにとうに涙なんか枯れている」
「泣いてるかどーかなんて訊いてないでしょ……んでも、泣きそうなら慰めてあげよか?」
ライターを取り出してジタンに火を点け、肺深くまで煙を吸い込みニコチンを吸入。その間に競馬新聞を右手で広げ、自分の読みが当たっているか目を通し、左手の親指と人差し指で煙草をつまんでぷはー、と煙を吐き出す。
贔屓目に、それこそ「好きな人」というこの世でもっとも分厚く、そして歪んでいるフィルターを通して見ても、テンコは人を慰めようとする態度ではなかった。冷たいものである。
でも俺はこいつを、好きなのだ。
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――ある秋の日曜日、出くわした瞬間から彼女のことは気になっていた。
何しろ私服が着物の奴なんてそうそう居やしない。うら若い乙女ならなおのことだ。ゆえに、最初に感じた胸の高鳴りは間違いようもなく、普通じゃない奴に対する危険信号だったのだろう。通学路近くの狭い道の向こうから、彼女は風景に全くそぐわない格好で歩いて来ていた。
俺は肩を縮めて存在感を消し、何事もなくすれ違おうとした。ところが彼女はじーっと俺に視線を送ってきた。どころか、軽く手を上げて俺に挨拶のような素振りさえ見せた。やべえ奴に絡まれたと思い一層身を縮める俺。彼女は一直線に、俺の前まで身を進めてくる。
「こんにちは、数多」
名前を、知られていた。あれ? と首をかしげて眼前の人間をよーく見てみる。頭頂部あたりにくせ毛があるものの他はストレートのショートカット、眠気が溢れだしそうな大きな目。どっかで見たような気がして、頭ん中にある顔写真図鑑と照会してみると、あるクラスメイトに一致した。瀬古、典子。皆からはテンコと呼ばれていた。
「瀬古?」
「正解です。あのさ、数多、今日って学校開いてました?」
「いや……昨日から工事で入れなかったはず」
「そですか。近くまで来たからノート取りに行こうかと思ったんですけど、開いてないならやめとく。んじゃまた」
「おお」
てこてこと歩いていく瀬古、いやテンコは、俺が終始奇異なものを見るような目をしていたことにもまったく触れることなく姿を消した。
翌日、月曜日。普通に登校してきて普通のセーラー服姿を俺に見せつけたテンコに、なんとなく俺は近付いて行って話しかけてみた。奴は昨日と変わらない、淡々とした応対をとった。
俺は「茶道でもやってるのか」とか訊いた。テンコは「いやあの格好は単なる趣味です」と俺に返した。「友達と出かける時は洋服も着るよ」とも言った。
その後ちょくちょく会話するようになり、偶然にも三年生に上がってからもクラスが同じだったため、一緒に行動することが多くなった。後々当時の友人に聞いたが、周囲は進級した頃にはもう完全にカップルだと判断していたらしい。
しかし当時の俺はカップルよりコンビという呼称が相応しいと感じていた(なんらかの形で俺の半生が映像化されたら間違いなくここに「このことを後に俺は後悔することになる」とモノローグが入ったろう)。少なくとも、高校最後の学園祭までは。
とはいえ、その学園祭で何かが起きたというわけでもなく、周囲の目がどのように自分たちを見ているかを認識させられただけだった。だがその認識こそが、全てを変えた。俺は知ったのだ。
「おばけやしきに男女二人で入ったり、お互いが買ったクレープを食べかけで交換し合ったり、後夜祭で二人でダンスしたり。そういうことをしてるとカップルに間違われるのか……」
と。
しかし思い返してみるとあの日はやけに不運であった。後ろから押されたり何かにつまずいたり、回数にして二桁を越えるくらいに転んだ気がする。やたらと冷たい視線もそこかしこから感じた気がした。……なんか俺妬まれていたのか? いやそんなことはどうでもいい。
ともかくも単純接触の法則とやらの仕業か、俺はいつの間にやら彼女のことを好きになっていた。彼女はわりと可愛らしい顔立ちなものの、別にタイプではなかったのにハテなぜだろう、と考えてみると、やはり性格、というか性質のようなものが要因だ、と結論が出た。
テンコはノリはいいのにどこか楚々としていて、流行りものにも興味を持ちつつ自分の趣味は周りに認めさせていて、なんというか……よく出来た奴だった。流されすぎず尖がりすぎず、そんなテンコだから、近くに居ると落ち着いたのだろう。
だが明確に好意の理由を証明し、その上でそれが異性に対する好意なのだと判明したのはお互い受験勉強が忙しくなってからだった。おいそれと口に出して伝えられる状況ではなく、遂には卒業式の日にも「卒業証書の入ってる筒のフタを抜く時のポンって音いいよな」という比較的どうでもいい話題を二時間も掘り下げてしまった。軽く死にたい。
それっきり違う大学へ進んでしまいまったく会わなくなって、なんとなく後悔が尾を引いたまま、俺は四年間女っ気のない生活を送った。ついでに魔法使いへのカウントダウンも十を切った。別に気にしてはいないのだが、周りにそういうことにかけて何か言われると苛立つ。
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贔屓目に、それこそ「好きな人」というこの世でもっとも分厚く、そして歪んでいるフィルターを通して見ても、テンコは人を慰めようとする態度ではなかった。冷たいものである。
でも俺はこいつを、好きなのだ。
……そう。あれから色々と考え続け、俺はテンコのことを未だ好きであるという結論に落ち着いた。最初は素のキャラの荒々しさに少々びっくりして取り乱したが、あのあと肩を並べて呑んでみると、物腰とか口調は違えども瀬古典子という人柄は高校の頃とさして変わりないと判断出来たからだ。とはいえ、情熱的な憧れを向けるわけではなくなったのも確かだ。
その証左として、「画像フォルダ:tennko」は外付けHDDの内部に納められ、情熱と共にだいぶ落ち着いた。後姿フォルダの中でも、特に身切れていたりするものは削除出来るだけの余裕が出来てきた。
もはやこの俺の落ち着き具合、貫禄を醸し出すまでに至っている。先日ノートパソコンの中の画像フォルダは空にしたと教えた時の現木など、俺を見る目が変わっていた。なにやら、人外を見るような目だった。おそらく俺は常人を超越したのだろう。
宿敵、俺はお前を凌駕した。
「はいよ、赤霧島と生中」
「きたきた」
「どうも」
「じゃ」「乾杯」
オヤジさんから受け取ったグラスとジョッキを、一応打ちあわせて乾杯する。これも現木には絶対に出来ないことだと思えば、素晴らしく価値あることだ。
現木の話ではテンコが呑むのは「カクテルとか可愛い系」だった。だが実際テンコに訊いてみると「カクテルとか甘い系のもんは、苦手。大学の吞み会ではキャラのために無理をしていた」とのこと。というかそんなもん呑んでたら完全に可愛いこぶりっ子だと思うんだが。お前大学でどんなキャラしてたんだ。尋ねても、テンコは答えなかった。
「はあ。高校、いや中学の時から作ってきたキャラの正体を暴くのが、まさかあんたとはね」
グラスを一気に半分まで減らしたテンコは、頭を押えてつぶやいた。
「……それ、まだ言っているのか。というかキャラを作ってたとか言うな、悲しくなる」
「あんたにゃ一生わかんないよ。うまく立ち回って、なるだけ敵を少なくして日々を過ごすことの大変さは。じっさい、ガクと仲良くしてたのも三割くらいはあたしの立場をうまく調節するためだったんだよ。あんたわりと女子に人気があったからね、防壁、というか抑止力として作用してくれてたの」
「知りたくなかった損な事実」
枯れたはずの涙がこんこんと湧き出してきそうです。……前向きに考えろ俺、そのおかげで傍に居られたんだから良かったと考えるんだ。逆に考えるんだ。利用されててもいいさ、と考えるんだ……自己暗示完了。ポジティブに定評のある俺、完成。
こういう暗示も、キャラ作りと言えるだろうか。
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大学の四年間は無為なものではなく、俺は目標だった高校教諭という職に就いて、卒業した高校に戻ってきた。……達成したのが夢ではなく目標であるという辺りが少々さみしいが、元来夢というのは届きにくいものなので仕方ない。
高校の中はあの頃と大して変わっておらず、眺めているとまたぞろ後悔の念が押し寄せてきて視界が歪んだ。失った青春を思うと過去の自分に謝りに行きたくなる。俺は眼鏡を外し、表面の汚れをぬぐうと共にさりげなく涙をふいた。そして眼鏡をかけた。
「こんにちは、数多」
「え」
しかし如何なる運命の悪戯か、神の気まぐれか。見覚えのある癖っ毛が俺の目線の下で踊っていた。見間違いかと思ったが、たしかにテンコが、スーツ姿で立っていた。
「お、おまえ、文学部に進んだんじゃなかったのか」
「あれ、そんなこと言いましたっけ。教育実習とか受けてたらここに着いたの」
――神が俺に青春のやり直しを命じたような気がした。
けれど現実は面倒なもので、一年目の新入りには自由に使える時間などほとんどなかった。生徒は言うこと聞かねえし先輩はいびってくるしで散々だ。ガッコの先生がうつ病になる率が高く、一年で辞める人も多いという世間の噂に納得できるほどに。
それでも週五日はテンコに会えるというメリットを糧に俺は頑張りぬいた。遠目に見ていてもテンコは相変わらず楚々としていて、でもノリの良い女性で、真面目さの中に茶目っ気をもちあわせたその性格は生徒にも人気であった。俺の中での人気は言わずもがな。
そうして、二年目に入るとようやく教員生活のやり方が染み付いた。身に付いたではなく染み付いた。刻まれたと言ってもいいかもしれん。
「たいへんな一年でしたけど、意外となんとか乗り切れるもんですね」
向こうもそれは同じようで、テンコはそんなことを言って笑った。余裕が生まれてきた。
俺はやっと、やっと青春のやり直しを始められそうだった。こっそりiPhoneで隠し撮りしたテンコの写真フォルダの整理も始められた。最初期のiPhoneは着信の音量を下げるとシャッター音も小さくなったのである。
とはいえ後姿が一番多かったのが嘆かわしい。しかし後姿からでも、実直さや誠実さが溢れだしているから大したもんだ。
「これからだ、これからもっと親しくなっていこう。そうすれば写真を増やすどころか、ツーショットすら可能かもしれん」そう俺は己を鼓舞した。春はなんとなく気分が浮き立つものなので、少しは運気も上向きそうな気がしていたのである。
だが現実は面倒どころか残酷な一面を見せつけてきた。四月のことだった。
「現木と申します。どうぞこれからよろしくお願いいたします」
と言ってやってきた背の低い新入りが一週間も経たないうちにテンコにべったりになっていたのだ。ぶっとばしてやりたい。しかも現木は俺の隣の席。ストレッサーが、隣。ダウンしかけた。
そもそも俺は存在というか概念レベルで、テンコに近付く奴は気に食わないのだ。というわけで呪う視線で常時じっと奴のことを睨んでいたら、養護教諭の伊建が「なにその熱視線、だれかに発情中?」とか言ってきたので目で人が殺せたらいいのにと俺は願った。
だんだん胃が痛くなってきた俺があくる日の朝ふと横を見ると、奴のいじくるケータイの待ち受けが見えた。飼い猫の写真とかか? と考えつつ興味本位でのぞく。
「……こいつは……」
テンコとツーショットの写真だった。ピースしてるテンコが軽く微笑んでいた。癒されると同時に、殺意の波動に目覚めた。この野郎貴様ふざけんな畜生め六道輪廻に堕ちろ。
そんなことを叫ぶ自分の心を必死に押し殺して、なるだけ平静を装って、俺は訊ねた。
「……ややや、やけにななな仲良さそうだが。現木は前からせせせ瀬古先生のし、し知り合いだったのか?」
「ええまあ。テンコ先生は大学の先輩なのです」
なるほどそれでか。多少殺意が薄まる。そういうことなら仕方ないだろう、うん。大体、ちょっと仲良さげで、物陰からテンコを盗撮してるのを見た程度でライバル扱いするのも大人げない話だ。俺は自分自身を落ち着かせることに成功した。
「ですが、じきにそれ以上の関係になってみせます」
なのに現木の次のセリフのせいで、平静と思われた心の海面が大シケに見舞われた。
「……待て現木。今のは俺の聞き間違いか?」
「いいえ間違いなど起こしてはいません、今のところは」
「なにを生々しいことを言ってるんだお前は」
「? どうかしたの、現木、数多先生」
「いえ」「なんでもないぞ、瀬古」
話しかけられて表面上は流したが、俺の中では宿敵に確定した現木。俺は即刻、奴が物陰から盗撮という人道にもとる行いをしていたことをテンコに報告しに行くこととした。
だがその時、俺は大き過ぎる凡ミスを犯した。あまりの怒りで周りが見えなくなっていたのか、整理中だったノートパソコン内の「画像フォルダ:tennko」を開きっぱなしにしたまま席を立ってしまったのである。あと数歩でテンコのところに辿りつきそうだったのに、そこで喜色満面な現木の顔を見たことで、俺は引き返さざるをえなくなった。
かくして現木の奴と俺は互いに互いの弱所を押えあった、二匹のウロボロスのような関係に陥ってしまった……いや、奴と身を齧り合うなど気色悪いので何か他の喩えを探しておく必要があるだろう。
いつか、いつの日か奴を地に叩き伏せ、俺の天下到来を目指すのだ。さてどうしてくれようか。考えを巡らしていると、授業に向かう途中のテンコが俺の肩に手を置き(このシャツは洗濯するのやめよう)、ふふふと含み笑いを漏らした(録音し損ねた)。
「なーんか、仲良さそうで安心しました。数多先生、現木と波長合うみたいね」
「そうか。……え? そうなのか?」
ぶつぶつと現木抹殺計画を練っていた俺にテンコは何を言うのだろう。というか、俺の横で現木が発している限りなく濃い殺気はどう説明する気なのだろうか。
「まあ(表面上は)仲良くやっていけるといいがな」
「仲良くしましょう数多先生。あははは」
「よかった。ではお先に。二人とも、授業に遅れないようにね」
「あいよ」「はーい」
テンコが去った後振り返ると現木は目が笑っていなかった。そして口の動きだけで「表面上は」と言った。こいつ読心術使いか。
ちなみに現木の最終目標は、テンコと結婚することだそうである。
しかしその目標はオランダにでも行かなければ達成不可能なので当面は大丈夫か、と俺は胸をなでおろしている。
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「キャラ作るのやめられないのか?」
「こちとらずっと昔からそうして生きてきてんだよ、いまさらやめられるもんか。バレたら今まで築いてきた立場とか人間関係とか、全部御破算になっちゃうでしょうが」
ぐいとグラスを傾けて、目が据わったテンコは店のメニュー表を凝視した。
高校の頃もキャラづくりを欠かしていなかったんだろうな、と思うと何やら複雑な気持ちが去来する。だがテンコは徹底していたというだけの話で、キャラを作るなど大多数の人が大なり小なりやっていることだ。もう俺は理想を押し付けるつもりはない。どんな風でもそれがテンコであるのならいつでもウェルカムだ。
「ま、なっちゃったもんは仕方ないと思って今は開きなおってんだけどね。数少ない、素で接してもいい人間である点についちゃあ、結構ガっくんにも感謝してるよ」
にっと笑って俺を見た。今の画を網膜に焼き付けることが叶うなら、たとえ目を犠牲にするとしても躊躇わず実行するであろう自分に俺は誇りを持てる。
しかしガっくんて呼び名もちょっと親しげでくらっときたが、それ以上に「数少ない素を晒せる人間である」という定義の方がストライクだった。これはもはや勝負あったのではなかろうか。我が宿敵が俺に大きく水をあけられて海底二万マイルに沈みゆく様が幻視えるようだ。
「てなわけで今日の支払いはよろしくね、と」
「まて前後の文脈に繋がりが見られないがこれはどうしたことだ」
「なにさ。数学教師のクセして文系女子のあたしの言葉に難癖つける気かよぅ」
「……わかった今日は俺が払おう。次の時は任せるぞ」
語尾をいじらしくされたら敵わない。二十半ばのくせに女子とか言ってしまってることにも目をつぶらざるを得ない。こんな感じで俺はいつも、手札の八割がジョーカーの相手と大貧民をやってる気分なのだった。ちなみにスペードの3は実家に帰ったらしい。
「やった、なんでも言ってみるもんだね。オヤジー、牛筋煮込みをメタ盛りで」
「あいよー」
「メガ盛りってお前、食いきれるのか」
「メガ盛りちがうよ。〝メタボ確定盛り〟略してメタ盛り」
最近はどうもこういうメニューが多すぎる気がする。
「半分こしてゆっくり食べようよ。それともなに、あたしの酒は呑めないっての?」
「そんなことは言わない」
テンコが差し出してくれるのなら工業用排水でもすすれる。そんな俺をよそに、テンコは何やら神妙な面持ちで頬杖をついていた。写真撮ったら怒られるかもしれんが、ほろ酔いの火照った表情といい何やら艶めかしい感じで、ぜひフレームに収めたい構図だった。
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現木による衝撃的カミングアウトでだいぶ心が傷めつけられた俺は、その日はまっすぐ帰宅せずに呑み屋に寄った。金曜だし明日のことは考えず、独りで呑みたい気分だった。とはいえ普段行くようなチェーンの安いところだと誰かに遭遇しそうな気がしたので、個人経営と思しき小さな店を自宅近くで見つけ、そこに入った。
左手に座敷、右手にカウンターという構造の店で、客はカウンターの奥でくだまいてるっぽいのが一人、あとは座敷に三人見受けられた。
とりあえず生中を頼んで俺は眼鏡を外し、手と顔をおしぼりで拭いた。熱いおしぼりはなんだか心を解きほぐしてくれるようで、知らず涙がこぼれそうになる。どうしてこう何もかもうまくいかねえのかなあ、と自問自答劇場が始まったが即座にカーテンを閉めて強制終了した。
やがて運ばれてきたビールを呑み込み枝豆かじり、さらにねぎまと砂肝、揚げ豆腐の田楽などを頼む。頭上に設置されたテレビが映し出す音楽番組から流れ出すバラードが己を慰めてくれるような気がして、俺は悲しみに浸った。
悲しみの向こうへと辿りつくのは、これからだったというのに。
「オヤジさん! テレビのチャンネル変えていい?」
「あいよー」
カウンターの奥から獰猛な声が走り、それに応える店のオヤジ。俺の頭上から流れる音が、バラードから哄笑に変わった。さほど好きなアーティストの歌でもなかったが、なんだか笑い声は俺を嘲っているような気がしてみじめになった。まあそれは、まだいい。
問題は音量だった。酔って耳が遠くなってんのか、先ほどの獰猛なる声の持ち主がやたらと音量を上げている。向こうは店の奥に居るからちょうどいいんだろうが、こちとら真下で聴かされているのだ、鼓膜がどうにかなりそうだった。おい、うちのテレビなら音量二十くらいがアベレージだぞ。これ間違いなく三十いってるだろ。
「ちょっと、すみません!」
「あ? なんか用?」
本当に耳が遠くなってるらしい。結構声張ったのにロクに聞こえてないようだった。俺は距離を詰めて息を吸い、煙草をふかしていたそいつに頼んだ。
いや頼もうとした、のだけれど。
「すいません! 音が大きいん、で…………」
「……ぁ」
近付いて行ってみると。
カウンターの奥で店のオヤジにくだをまき、テレビの音量をガンガン上げていた人物は。
――瀬古典子、その人だった。くわえたジタンをくゆらせ、灰皿は吸いがらで小山をなし、普段はきっちりしている着物をだらしなく着くずし、カウンターに乗っているのは俺と似たようなおつまみと、日本酒の徳利(倒れてるのに中身がこぼれてないから多分からっぽ)が四つ。スポーツ新聞。競馬新聞。
絶句した。停止した時が動き出すまで、おそらくは酒の酔いによるものではない頭痛とめまい、吐き気を催す。
「……あ、その、えと、数多?」
アルコールのせいで上気した頬をひくつかせて、テンコはおずおずと確認の声を発した。
泣きそうになりながら俺は頷いた。青春時代から今日まで抱いてきた「瀬古典子像」がドンガラガッシャンと崩れ落ちる。いや勝手にイメージ抱いといて幻滅するなんて自分でもドン引きする身勝手さだったが許してください。実に五年間温め続けてきたイメージだったのだから。
「あ、の、……えーと数多先生? いや今は就業時間外だからやっぱし数多って呼ぶよ?」
「……うん」
かつて少年だったころのように従順に、俺は頷いた。テンコは、声量を落としつつ声を荒げながら声を震わせるという荒技を見せ、もう額がくっつきそうな距離まで近づいて歯を食いしばった表情を見せた。
女性とこんなに顔が近いの生まれて初めてだ、などと喜ぶ元気すら、既に俺にはなかった。
「…………言うな。ぜったい、ぜぇったいにっ! 職場の連中、特に現木にはこのこと言うな!! あいつ……あたしのことものすごく慕ってくれてんだ。イメージ、壊したくないんだよ!」
俺の幻想はとうに壊れた。――現実は、面倒どころか残酷な一面を俺に見せつけてきた。
こうして、俺の苦難の日々は幕を開けた。
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テンコは何やら神妙な面持ちで頬杖をついていた。写真撮ったら怒られるかもしれんが、ほろ酔いの火照った表情といい何やら艶めかしい感じで、ぜひフレームに収めたい構図だった。
「……実はねー。今晩は、帰りたくなくって」
「え」
事件が発生するぞ。……いや俺が何かするわけではなく。びっくりして心臓マヒで俺が突然死してしまうという難事件だ。名探偵を呼んでもまず間違いなく迷宮入りだろう。
「ま、実家暮らしは人手が足る分家事は楽出来るけど、喧嘩してくれる人手もいるってこと。帰りづらくってね」
「あ」
ああ。なるほど。
うぐう、テンコの奴め。そうそう思わせぶりなセリフを吐くな。五年間溜めこんだ思いが色んなところから溢れだすところだった。この野郎、生殺しの達人だ……本人は俺の熱視線などまったく気付かない様子で着物の袂を探っているが、そのスル―具合もそれはそれで良し。
「ん?」
「どうした?」
「いや……そういや煙草切らしてるんだった」
ツマミもあらかた消化してしまったので口寂しくなったのだろう。ところがテンコが袂から出したジタンの箱は逆さにして重力を作用させても、何も出て来なかった。
見ただけで仏すら絶頂に達しそうなツラ、略して仏頂面で箱を握りしめたテンコは、あからさまに不機嫌になった。職員室に居る時は「背骨=ステンレス定規」と揶揄されるほどに凛とした佇まいであるはずなのに、背を丸めて深く腰掛け椅子の前足を浮かせたりしている。真面目さ勤勉さはカケラも見受けられない。
「と言ってもジタンなんてそこらの自販機では売っていないぞ」
「けっ、そうしてマイナー派は常にマジョリティに駆逐されるわけだ。いやーな世の中。一箱千円台にでもならない限り、あたしゃ絶対に煙草やめないかんね」
「誰も煙草税の話などしていない。それに日本はまだマシな方だ、オーストラリアなど本当に一箱千円近くするものもあるからな」
「うわ、哀れだねえ。豪州民に深い同情を覚えるよ」
牛筋煮込みが届くまでの間繋ぎに、俺もマルボロを取り出した。マッチで静かに火を点け(ライターは便利だが粋でないというのが俺の美学だ)、深く芳しい煙を吸い込んだ。頭にニコチンがまわっていった。
そして煙で乾いた喉を潤せるのは酒だけと相場が決まっている。スコッチウイスキーなんぞが欲しくなったが、あいにくとこの店では置いていなかった。で、残波の白を頼んだ。残っていた赤霧島を呑み下したテンコは、蛇のように俺を睨んでいる。
「もうマルボロでいいから一本くんない?」
「……こだわりを失くしたスモーカーほど寂しいものはないだろう……」
「こだわりなんてないもん。好きなミュージシャンが吸ってるからって理由だけだよ」
家帰ったらジタンを吸ってるミュージシャンを検索してアルバムを全部借りてくるとしよう。話題合わせは何よりも大切だと俺は思う。
「ああもう! 食後の一服が出来なかった時の辛さ! 酒呑んで煙が無い不安感! どんな美味い食事でもねー、終わり悪けりゃ全て悪しでしょ!」
「微妙に古典教師らしく言ってくれたところで悪いが、俺もこれで最後の一本なんだ」
赤丸の描かれた空箱をカウンターの上に乗せて、もくもくとあがる紫煙を眺めた。店の天井の黄ばみ具合が、いい感じに居心地の良さを演出していた。
「もう一本あればくれてやれたんだが残念無念といったところか」
「じゃあ残り半分でいーよ。よこせ」
すげえ勢いでむせた。煙が目鼻にしみるなんていつ以来だろう。
「……や、吸いかけの品を人に渡すなど人道に反する」
「何言ってんの。ほらよこせ」
奪われた。なにやら気にしている俺の方がひどく間抜けで、クール気取らなくてはいけない場面のように思われたので、咳払いだけして正面に向き直った。でも気になるので横目でちらちらと窺うと、二吸いくらいで残り半分を灰にしてしまっていた。最後の一本なんだからもっと大事に吸ってほしいものだ。
わずかにルージュのついた吸いがらを灰皿に落としこみ「ごちそうさまー」と煙を吐く。こちらこそごちそうさまですと返しそうになったが慌てて口をつぐんだ。俺は変人との陰口を真正面で叩かれることこそあれど、変態と呼ばれた覚えはないのだ。……現木も似たようなことを述べていたが奴の場合は記憶野に問題があるに違いない。
「ところでガク、あんた帰らなくていいの」
名残惜しそうに最後の煙を吐き出しながら、テンコが言った。こっちも記憶野に問題アリか。
「さっきお前が言ったんだろう、『あたいの酒が呑めないのか』と」
「あたいってあんた、あたしはスケバンか。そうは言ったけどさー、門限とか」
「俺は独り暮らしだ。自分のことくらいは己で管理出来る」
「ええー? 牛勿先生と呑んでた時に吐き歩いてたって聞いたけど?」
おのれ牛勿あとで覚えていろ。黙れと言っておいたのにあの野郎口が軽すぎる。
「ちゃんぽんしたのがまずかっただけだ。普通の呑み方をしていればあんなことにはもう二度とならん」
「へえーそう。ま、酒は吐いて強くなるって言うもんだし。今日は呑み比べでもしよっか?」
「お前の眼前で醜態をさらすのは勘弁だ……偽電気ブランの用意でも出来たら呼んでくれ」
了解、と呟いて、テンコはまた徳利をひとつ空にした。
しかしうわばみのごとく酒を呑む奴だ。そういえば職員室では八岐大蛇とか酒天童子とか奇妙な二つ名で呼ばれてたこともあった気がする、が、そのどちらも酒飲まされた挙句殺されてる気がするんだが。美人薄命とはよく言うものの、縁起悪いのでやめてほしい。
「よーし、そんなら今日はひさびさに朝まで呑もうかな。ああ、でもそれだとやっぱり煙草が足りんくなるか……オヤジ、ちょっと煙草買ってくるから席空けといて」
「はいよー」
「オヤジ、俺の席も頼む」
「なにあんたついてくんの?」
マフラーを首に巻きつけていたテンコは、俺の方に向き直って言った。俺は毅然として言い放つ。
「当然だ。夜道は危ない。女性は特に危ない。そしてお前は女性だ」
「あっそう、ならいいけど。ただジタン売ってそうなとこなんて遠いんじゃないかと思うわけ」
「ついていこう、どこまでも」
「あはは、あんたストーカーか」
ぎくっ!
……いや落ち着け俺。俺は別にストーカーなどではないはずだぞ。ならばなんと言えばいいのか、うまい言葉は見つからないが。ただ断じてストーカーではない、ストーカーとは休日にもテンコの家に押し掛けていると言う現木の方にこそ当てはまる。
そうだ。ストーカーではない。
「……伝わらないのが悪いんだ」
現実はいつも、面倒どころか残酷な一面を俺につきつける。
お前が俺の好意に気付かないから、うっかりストーカーという呼称に反応しかけるのだ。
テンコから公認になれば、どうだ。俺の行動はストーカーなどとは呼ばれまい。
「なーにー? なんか言ってた?」
「いや、いい。聞かなかったならそれでもいい」
いつかどこかにそうある自分がいることを願い。
俺は椅子にかけた背広を羽織って、テンコの後ろについた。