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~第四話:同じ世界~

 四日目の朝。


 目が覚めた瞬間から、彼はわかっていた。


 機械は今日も同じシールを出す。


 それでも洗面台に向かい、除光液を使い、手をかざし、音を聞いた。


 シールを見た。


 薄紫に、銀の稲妻が三本。


 彼は今日、それを貼るまでに少し時間がかかった。シールを指先でつまみ、自分の爪の上にかざしたまま、鏡の中の自分の顔を見た。


 顔は、普通だった。疲れてはいるが、普通の顔だった。


 『俺は今、何を感じているのか。』


 怖いのか。悲しいのか。怒っているのか。それとも——もう何も感じていないのか。


 わからなかった。


 シールを貼った。三秒で馴染んだ。


---


 その日の午前中、彼は仕事が手につかなかった。


 画面を開いても、文字が滑った。数字を追っても、意味が入ってこなかった。隣の席の同僚がキーボードを叩く音が、やけに大きく聞こえた。


 昼前、彼は席を立ち、ビルの屋上に出た。


 非常口から続く屋上は、喫煙所として使われていたが、今は誰もいなかった。東京の空は今日も薄曇りで、光が均一に広がっていた。遠くにビル群が並んでいた。無数の窓が、鈍く光っていた。


 彼は手すりに両手をついた。


 自分の爪を見た。


 薄紫に、銀の稲妻が三本。


 風が吹いた。


 その時、彼の中で何かが静かに決まった。


 『確かめる。』


 方法は一つしかなかった。正面から聞く。タブーを犯す。他人に「爪を見せてほしい」と頼む。それがハラスメントと受け取られようと、変人扱いされようと、もうそれしかなかった。三日間遠回りをしたが、結局ここに戻ってくる。


 屋上のドアが開いた。


 経理部の女性が出てきた。四十代、眼鏡、いつも静かな人だ。名前はたしか、キムラさんといった。


 「あ、すみません、邪魔でしたか」キムラさんは言った。


 「いえ」と彼は答えた。そして言った。「キムラさん、少し変なことを聞いていいですか」


 キムラさんは少し警戒した顔になったが、「なんでしょう」と答えた。


 「ネイル、見せていただけますか」


 沈黙があった。


 キムラさんの表情が動いた。驚き、次に困惑、次に——何か、別の表情になった。うまく読めない表情だった。


 「……どうして」


 「変な理由じゃないんです。ただ、確認したいことがあって」


 またしばらく沈黙があった。風が吹いた。


 キムラさんはゆっくりと右手を差し出した。


 彼は覗き込んだ。


 薄紫に、銀の稲妻が三本。


 「……ありがとうございます」と彼は言った。


 「何を確認したかったんですか」


 彼は正直に言おうとした。しかし言葉が出てこなかった。どこから話せばいいかわからなかった。


 「最近、みんなが同じ模様に見えて」と彼はようやく言った。「気のせいかと思っていたんですが」


 キムラさんは彼の顔を見た。それから自分の爪を見た。それからまた彼の顔を見た。


 「私もそう思っていました」とキムラさんは静かに言った。


 彼は顔を上げた。


 「三日前から」とキムラさんは続けた。「電車でも、スーパーでも、夫のも、子供のも。全部同じ模様なんです。誰かに言おうかと思ったんですけど、おかしいと思われるから黙っていました」


 風が止んだ。


 屋上に、二人分の沈黙があった。


---


 昼休みを使い、彼とキムラさんは二人で話した。


 キムラさんが気づいたのも三日前の朝だった。最初は目の疲れだと思った。眼科に行こうかと思ったが、予約が面倒で後回しにした。エモテック社への問い合わせは、彼より先に送っていた。返ってきた内容も同じだった。医療機関へのご相談、という一文も。


 「同じ返事が来たんですね」と彼は言った。


 「ええ。定型文ですよね、あれ」キムラさんは言った。「つまり、同じ問い合わせが大量に来ているということじゃないですか」


 彼は気づかなかった視点だった。そうだ。あの返信があまりにも滑らかすぎた。テンプレートだった。同じ質問が多数来なければ、あれほど整った定型文は用意されない。


 『気づいている人間は、他にも大勢いる。』


 「でも誰も言わない」と彼は言った。


 「言えませんよ」キムラさんは言った。「他人の爪を凝視していたと白状することになりますから。それに、もし本当に自分の認知がおかしいだけだったら恥ずかしい。だから黙っている」


 彼は頷いた。自分がまさにそうだった。


 「キムラさんは」と彼は聞いた。「どちらだと思いますか。俺たちの目がおかしいのか、本当に全員同じなのか」


 キムラさんはしばらく考えた。


 「どちらでもいいかな、と思い始めています」


 「どういうことですか」


 「だって」キムラさんは自分の爪を見た。「どちらだったとしても、私たちはこのシールを貼り続けるでしょう。貼らないという選択肢は、現実的にない。だったら、気づかなかったことにするほうが楽じゃないですか」


 彼は何も言えなかった。


 キムラさんは立ち上がった。「戻りましょうか、仕事」


---


 午後、彼は昨夜のノートのことを考えながら過ごした。


 八番目の項目。書けなかった仮説。


 AIが感情を読むのではなく、模様を通じて感情を作っている可能性。


 キムラさんの言葉が重なった。どちらでもいい。貼り続けるから。


 しかしそれで本当にいいのか。


 退社時刻になり、彼はビルを出た。夕暮れの空が、西の方だけ橙色に染まっていた。人々が駅に向かって歩いていた。スーツ、カジュアル、制服、様々な服装だった。


 そして全員の爪が、薄紫に見えた。


 彼はその中を歩きながら、ひとつの考えに辿り着いた。


 もし、AIが感情を作っているとしたら。


 全員に同じ模様を貼り続けることで、全員が同じ感情状態に収束していくとしたら。


 それは管理か。それとも平和か。


 争いは感情の差異から生まれる。怒りと怒りがぶつかり、欲望と欲望が競い、恐怖と恐怖が憎しみに変わる。もしも全員が同じ感情を持つなら、ぶつかることがない。


 穏やかで、静かで、摩擦のない世界。


 『それは良いことか。』


 彼は立ち止まった。


 後ろから歩いてきた男性が、軽くぶつかり「すみません」と言った。彼は「いえ」と言った。男性は歩いていった。


 その男性の爪。薄紫に、銀の稲妻が三本。


 すみません、と言った声が。謝った顔が。


 どこかで見た気がした。いや、見たのではない。自分も同じだと思ったのだ。同じ爪で、同じ模様で、もしかすると同じことを考えながら今日一日を過ごした誰かが、今ここにいる。


 彼は歩き出した。


---


 家に帰り、ノートを開いた。


 昨夜書けなかった八番目を、今夜は書いた。


 八、AIは感情を読んでいない。作っている。


 書いてから、その文字を見つめた。


 恐ろしかった。しかし昨日ほどではなかった。


 なぜか。


 彼は考えた。そして気づいた。


 『俺はもう、その世界の中にいる。』


 気づいた時点ではまだ外にいた。観察者だった。しかし三日間、同じ模様を貼り続けた。毎朝機械に手をかざして、出てくるシールを受け取り、爪に貼った。それを三日。


 稲妻が、少しずつ自分の中に入ってきていたとしたら。


 『怖いと思う気持ちが、薄れてきているのはそのせいか。』


 彼はペンを置いた。


 そして、ゆっくりと自分の内側を点検した。


 怒り——ない。


 悲しみ——薄い。


 恐怖——あるにはあるが、輪郭がぼやけている。


 穏やかさ——ある。静かな、動かない、池の底のような穏やかさが、確かにある。


 それが自然に育ったものか、爪から染みこんだものか、もう区別がつかなかった。


---


 翌朝。


 彼は洗面台の前に立ち、除光液の瓶を手に取った。


 昨日のシールを剥がせば、また機械が同じシールを出す。それはわかっていた。


 では剥がさないか。


 剥がさなければ、今日も昨日と同じ模様のまま外に出る。


 どちらでも同じことだ。


 彼はふと、除光液の瓶をそのまま棚に戻した。


 鏡の中の自分を見た。疲れた目をした、普通の男がいた。


 その男の爪は、薄紫に、銀の稲妻が三本だった。


 彼は思った。


 『まあ、いいか。』


 そしてその思考を、少し前の自分なら絶対にそう思わなかっただろう、とも思った。


 しかしその気づきも、さほど長くは続かなかった。


 玄関のドアを開けると、春の朝の空気が入ってきた。


 柔らかく、穏やかで、昨日と同じ空気だった。


 彼は鞄を持ち、外に出た。


 隣の家からも、向かいの家からも、アパートの各部屋からも、同じ時刻に人々が出てきた。


 全員の爪が、薄紫に見えた。


 誰も気にしていなかった。


 誰も立ち止まらなかった。


 彼も、立ち止まらなかった。


 駅へ向かう人の流れの中に、彼は静かに溶け込んでいった。


 春の光が均一に降り注ぐ中、無数の稲妻が三本ずつ、街を流れていった。


---


 ——その日の夜、エモテック社のサーバーに、一件の問い合わせが届いた。


 「最近、周りの人が全員同じ模様に見えるのですが、これは正常でしょうか」


 翌朝、自動返信が送られた。


 「お問い合わせありがとうございます。現在弊社のシステムに異常は検出されておりません。継続的に気になる症状がおありでしたら、お近くの医療機関へのご相談もご検討ください」


 その問い合わせを送ったのが誰だったかは、もう関係がない。


 今日も、どこかの誰かが同じメールを送っている。


 そして明日も。

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