~第三話:同じ声~
その夜、彼は初めて人に話した。
相手は大学時代の友人で、今は別の会社でSEをしている男だった。便宜上、彼の友人と呼ぼう。週に一度、オンラインで雑談するのが習慣になっていた。画面越しに顔が映り、互いの近況を話す。他愛もない時間だった。
「なあ、ちょっと変な話をしていいか」
彼は切り出した。友人は缶ビールを片手に「どうぞ」と笑った。
「ネイルの話なんだが」
「ネイル?」
「ここ二日、周りの人間が全員同じ模様に見えるんだ。薄紫に、銀の稲妻が三本。電車の人も、会社の同僚も、コンビニの店員も。全部同じ」
友人は少し考える顔をした。「見間違いじゃないの」
「最初はそう思った。でも昨日今日で、数十人は確認した。全員同じだ」
「……それって、お前の機械が壊れてるんじゃないの。スキャンした結果が全部同じ模様で出力されてるとか」
「それも考えた。でも機械はエラーを出していない。それに、同僚の田中に聞いたら、自分でも『薄紫の稲妻系が出た』と言っていた。俺の目だけじゃなくて、田中本人もそう認識している」
友人は缶ビールを一口飲んだ。「田中さんに、『俺も同じ模様が出た』って言ったの?」
「言っていない。田中は気づいていないようだった。自分のストレスのせいだと思って納得していた」
「じゃあ確認できてないじゃん」
彼は黙った。
確かにそうだった。田中が同じ模様と言ったのは、あくまで田中自身の認識だ。田中のネイルが本当に薄紫の稲妻だったかどうか、正面から「見せてくれ」と確認したわけではない。
「明日、直接見せてもらえばいい話じゃない?」友人は言った。「『ネイル見せて』って言えば済む」
「それは……」
『それはタブーだ。』
彼は言葉に詰まった。現代において、爪を「見せてほしい」と頼むことは、精神状態を開示させることを強要するに等しい。プライバシーの問題だ。相手がよほど親しい間柄でなければ、ハラスメントと受け取られることさえある。
「そっか、難しいか」友人は苦笑いした。「まあ、でもさ。仮に本当に全員同じ模様だったとして——それってお前にとって何が問題なの?」
彼は少し考えた。
「なんか……怖い」
「何が?」
「わからない。でも怖い。みんなが同じ顔をしているみたいで」
友人はまた缶を傾けた。「ちょっと疲れてんじゃないの。睡眠は取れてる?」
「昨日はあまり」
「それだよ。寝不足のときって、脳の情報処理がおかしくなるから。色の識別とか、パターン認識とか、割と狂う。ちゃんと寝てみ、今夜」
通話を終えた後、彼はしばらくスマートフォンの暗くなった画面を見つめた。
友人の言葉は正しいかもしれない。しかし正しくないかもしれない。
そして彼はひとつ気づいた。
友人の爪は、画面越しにぼんやり見えていた。
薄紫に、銀の稲妻が三本だった気がした。
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三日目の朝。
機械から出てきたシールは、また同じだった。
彼はそれをテーブルの上に置き、しばらく眺めた。貼らなかったら、どうなるだろう。
現代において、ネイルシールをつけずに外出することは、感情の全裸に等しい。他者が「読めない人」と判断し、会話や関係の調整ができなくなる。あからさまな疎外ではないが、じわじわとした摩擦が生まれる。エレベーターで少し遠ざかられる。会議で発言を後回しにされる。飲み会の誘いが来なくなる。
しかし、同じ模様を貼り続けることには何か意味があるのか。
『同じ模様を貼るくらいなら、いっそ貼らないほうがましではないか。』
彼はシールを手に取り、また置いた。
結局、貼った。
習慣というのは、恐怖より強かった。
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その日、彼は意識的に「読む側」ではなく「読まれる側」として過ごすことにした。
つまり、他人の爪を見るのをやめた。自分の爪だけを意識した。
電車に乗っても、目線を床に落とした。オフィスに着いても、机の自分の手元だけを見た。会議では資料だけを追った。
昼、同僚の女性に「今日なんか元気ないですね」と言われた。
「少し疲れていて」と答えた。
女性は彼の爪を一瞥した。『ああ、そういう状態なんですね』という顔をして、「ゆっくり休んでください」と去っていった。
彼は思った。
『今、彼女は俺のネイルを読んだ。俺の模様を見て、対応を決めた。』
それは普通のことだ。現代の普通だ。しかし今日初めて、彼は「読まれる側」の感触を意識した。自分の爪が、自分の言葉より先に相手に何かを伝えている。自分が何も言わなくても、爪が喋っている。
『これが、全員同じ模様だとしたら。』
爪が全員に同じことを喋っている。
全員が同じ内容を相手に伝えている。
全員が同じように読まれている。
彼は窓の外を見た。ビルの谷間に狭い空が見えた。
『それは、全員が同じ人間だということではないか。』
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夕方、エモテック社から返信メールが来た。
「お問い合わせいただきありがとうございます。ご指摘の件について確認いたしましたが、現在弊社のシステムに異常は検出されておりません。エモーション・プリント・システムは各ユーザーの生体情報を個別に解析しており、同一の出力が複数ユーザーに生じることは仕様上発生しない構造となっております。もし継続的に気になる症状がおありでしたら、お近くの医療機関へのご相談もご検討ください」
最後の一文を、彼は三回読んだ。
『医療機関へのご相談。』
つまり、問題はシステムではなく、見ている側にある——そう言いたいのだ。婉曲に、しかし明確に。
彼はメールを閉じた。怒りとも安堵ともつかない感情が、胃の下のほうで動いた。
怒りは、問題を突き返されたことへの反発だ。
安堵は——システムが正常だという言葉に、少しほっとした自分がいた。
『つまり俺は、「自分がおかしい」ほうを望んでいる。』
第二話の昼休みに公園で考えたことと、同じ結論だった。
自分の認知が壊れているほうが、まだいい。
なぜそちらのほうがいいのか。
彼はまだ、それを言葉にできなかった。
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帰り道、駅の手前にある横断歩道で、信号が変わるのを待った。
隣に、小学生くらいの女の子が立っていた。母親と手をつないでいた。
女の子の爪は——小さく、丸く、まだ子供の爪だった——薄紫に、銀の稲妻が三本だった。
彼の胸に、初めて違う種類の感情が生まれた。
これまでは「奇妙だ」「怖い」だった。
しかし今感じたのは、悲しみに近いものだった。
あの小さな爪に、あの模様がある。子供の、まだ世界のほとんどを知らない、小さな手に。
稲妻が三本。外部刺激への反応パターン。反復するループ状の思考。
『この子も、同じループの中にいるのか。』
信号が青になった。
母親が女の子の手を引いて歩き出した。女の子はランドセル代わりの小さなリュックを揺らしながら、駆け足で横断歩道を渡った。
彼はその背中を見送った。
渡り終えた女の子が一度だけ振り返った。こちらを見た。笑った。
彼は笑い返せなかった。
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その夜、彼はノートを取り出した。
デジタルではなく、紙のノートだ。何かを書き留めておきたかったが、スマートフォンやパソコンに残すのが嫌だった。理由はうまく説明できなかった。
ペンを手に取り、日付を書いた。そして箇条書きにした。
一、最初に気づいたのは三日前の電車。
二、以来、見た全員が同じ模様。
三、機械は正常。エモテック社も異常なしと回答。
四、友人も、同じ模様だった気がする。
五、小学生の女の子も同じ。
六、自分も何度スキャンしても同じ模様が出る。
七、「自分の認知がおかしい」ほうが「システムの問題」よりましに思える。
八——
八番目を書こうとして、ペンが止まった。
八番目に書くべきことを、彼は頭の中でずっと避けていた。
『もし全員が本当に同じ模様をしているとしたら、それは何を意味するのか。』
AIが全人類の感情を読み取り、全員に同じ結果を返している。
それは全員が同じ感情を持っているということか。
あるいは——AIが感情を読み取るのではなく、模様を通じて感情を『作って』いるとしたら。
貼るたびに、模様が人の精神に作用する。そういう設計がされているとしたら。
彼はペンを置いた。
『それを書いたら、戻れない気がする。』
ノートを閉じた。
窓の外は静かだった。
遠くで、救急車のサイレンが遠ざかっていった。




