~第二話:同じ朝~
翌朝、彼は目が覚める前から夢を見ていた。
夢の中でも、爪があった。どこを見ても、誰を見ても、薄紫に銀の稲妻が三本。夢の街を歩く人々が、無言で両手を差し出してくる。彼はその爪を一枚一枚確認して歩いた。全部同じだった。最後に自分の手を見た。同じだった。
目が覚めると、天井が白かった。
時刻は六時十四分。いつも通りだった。
彼はしばらく布団の中で天井を見つめた。昨夜の思考がゆっくりと戻ってきた。夢と現実の境目が、しばらくの間、曖昧だった。
『確かめなければ。』
洗面台に向かった。歯を磨きながら、鏡の中の自分の爪を見た。昨夜除光液で剥がしたあと、もう一枚貼り直していた。それが今もそのままある。
薄紫に、銀の稲妻が三本。
一晩経っても変わっていなかった。
当然だ、とも言える。シールは専用の除光液でしか剥がれない。それがこの製品の売りのひとつだった。防水・耐摩耗・二十四時間密着保証。朝に貼れば翌朝まで持つ。だから「一日一回スキャン」が現代人の習慣になった。
彼は除光液を手に取った。
剥がす。スキャンする。見る。
結果が違えば、昨日は何かの誤作動だったということになる。そうであってほしかった。
シールを剥がした。機械に手をかざした。ランプが点滅した。音がした。
シールを見た。
薄紫に、銀の稲妻が三本。
彼は静かにそれを爪に貼り付けた。三秒で馴染んだ。いつも通りの三秒だった。
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朝食を食べながら、彼はスマートフォンでニュースを流し読みした。経済。政治。スポーツ。天気。どれも普通だった。世界が異常をきたしているような記事はひとつもなかった。
エモーション・プリントに関するニュースもなかった。
『ということは、気づいているのは俺だけか。』
あるいは、気づいていても誰も言わないのか。
現代において、他人のネイルを「じっくり見た」と公言することは、ある種のタブーに近い。見ることは許されている。しかし凝視は失礼にあたる。「読んだことを悟られてはいけない」という不文律がある。だから仮に誰かが同じことに気づいていたとしても、それを口にする場がない。
SNSを開いた。「ネイル 同じ 模様」で検索した。
ヒットしたのは、お揃いネイルを自慢するカップルの投稿と、「今日のネイル」報告の写真たちだった。どれも様々な色と模様だった。みんな違う模様をしている。
『俺の目がおかしいのか。』
あるいは写真では判別できないだけで、実際に見れば全部同じなのか。
彼は朝食の皿を洗いながら、今日一日どう過ごすかを考えた。
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通勤電車に乗った。
意識して、最初の一分間は爪を見ないようにした。窓の外を見た。流れていく住宅街。電線。踏切。空は薄曇りで、光が均一に拡散していた。
一分が経った。
彼はゆっくりと車内に視線を戻し、目の前に立つ男性の手元を見た。
薄紫に、銀の稲妻が三本。
深呼吸した。
隣の女性。薄紫に、銀の稲妻。
向かいの席の老人。薄紫。稲妻。三本。
予想していた。それでも、実際に見ると胃のあたりがひんやりとした。
彼は目を窓の外に戻した。流れる街並みが、昨日よりも少しだけ遠くに見えた。
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オフィスに着くと、同僚の田中が「おはよう」と声をかけてきた。
「おはよう」と彼は返した。
田中の爪。薄紫に、銀の稲妻が三本。
「なあ、田中」と彼は言った。「今日のネイル、どんな模様だった?」
田中は少し意外そうな顔をした。同性同士でネイルの話題を出すのは珍しかった。「ああ?」田中は自分の手を見た。「なんか、薄紫っぽいやつ。稲妻みたいな線が入ってる。なんか最近ずっとこれ系が出るんだよな。ストレス溜まってんのかね、俺」
彼は笑った。「そっか。俺も似たような感じだよ」
「察してくれよな」田中は笑いながら自席に戻っていった。
彼は田中の背中を見送りながら思った。
『田中は気づいていない。昨日も同じだったかもしれないのに、「最近ずっとこれ系」で片付けている。』
あるいはそれが正解なのか。気づかないほうが、正常でいられるのか。
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午前中、彼は仕事をしながら同僚たちの爪を観察し続けた。
営業部の女性三人。全員同じ。
経理の中堅男性。同じ。
新入りのアルバイト。同じ。
会議室に呼ばれ、十二人で資料を囲んだ。全員の手が会議テーブルの上に出た。彼は資料を読むふりをしながら、全員分を確認した。
十二人、全員同じだった。
『これはもう、俺の目の問題ではない。』
確信した。見間違いや思い込みで十二人が全員一致するはずがない。脳が都合よく情報を歪めているとしても、限度がある。
『では、何が起きている?』
会議が終わり、自席に戻った。彼はエモーション・プリントを販売している会社——「エモテック社」の公式サイトを開いた。問い合わせフォームを探した。
「現在、複数のユーザーで同一の模様が出力されているように見受けられますが、これは正常な動作でしょうか」
文章を打った。送信ボタンを押した。
自動返信メールがすぐに来た。「お問い合わせありがとうございます。通常三営業日以内にご返信いたします」
三営業日。
彼は画面を閉じた。長い。
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昼休み、彼はひとりで公園のベンチに座った。
弁当を食べながら、行き交う人々を眺めた。ジョギングする女性。犬を散歩させる老人。ベビーカーを押す母親。スーツ姿でスマートフォンを見ながら歩く男。
全員の爪が、薄紫に見えた。
彼はふと思った。
もしこれが「見え方」の問題だとしたら——つまり、実際には全員バラバラの模様なのに、彼の目がそれを全部同じに変換して見ているのだとしたら——それは目の病気ではなく、脳の問題だ。認知の歪み。精神科の領域になる。
しかしもし、本当に全員が同じ模様を出力されているとしたら——それはシステムの問題だ。AIが、全人類に同じ結果を返している。
どちらが怖いか、と考えた。
『自分の脳がおかしいほうが、まだましかもしれない。』
そう思った瞬間、彼は自分の考えに驚いた。自分の正気が崩れているほうがましだと思った。それはつまり、もう一方の可能性——システムが全人類に同じ模様を貼り付けているという可能性——が、それ以上に恐ろしいということだ。
なぜ恐ろしいのか。
まだうまく言葉にできなかった。
ただ、弁当の白米が、いつもより味がしなかった。
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夕方、退社前にトイレに立った。
洗面台の鏡に映る自分の手を見た。
薄紫に、銀の稲妻が三本。
彼はしばらく鏡の中の自分の目を見た。疲れていた。昨日より少し目の下が暗かった。
となりの洗面台で手を洗い始めた男性がいた。別の部署の、名前も知らない社員だった。
その男性の爪を、彼は見た。
薄紫に、銀の稲妻が三本。
男性は何も気にする様子もなく、ハンカチで手を拭いてトイレを出ていった。
彼は鏡の前に残された。
自分の爪と、今消えた男性の爪と、朝の電車の乗客たちと、昼の公園の人々と、会議室の十二人と。
全部重なった。
『みんな、同じ顔をしている。』
爪が、顔になった気がした。
模様が、表情になった気がした。
彼は蛇口を捻り、冷たい水で顔を洗った。鏡を見た。水が滴る自分の顔があった。
そしてふと、考えた。
自分の顔は、昨日と同じ顔をしているか。




