~第一話:同じ模様~
二〇二七年の春。
山田ケンジ——いや、この話の主人公に名前は必要ない。便宜上、彼と呼ぼう——は、朝の通勤電車の中で、ふと隣の女性の爪を見た。
薄紫の地に、細い銀の稲妻が三本。
『プレッシャー系だな。』
彼は職業的に素早く判断した。現代人にとって、他人のネイルを読むのは挨拶と同じくらい自然な行為だった。AIネイルシール——正式名称「エモーション・プリント・システム」が普及して四年。今や爪のない人間は存在しない。いや、厳密には存在するが、そういう人間は社会的に「読めない人」として扱われ、会議では発言を遮られ、合コンでは空気になった。全裸で街を歩くようなものだ、とよく言われた。
稲妻模様は、外部からの重圧を感じながらも内側で反発するエネルギーを示す。つまりこの女性は、今朝何らかのストレスを受けながらも、それに抵抗しようとしている。
彼は一歩引いた場所に立ち直した。絡まないほうがいい。
これが現代の「察する」技術だった。
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オフィスに着くと、上司の佐藤部長がコーヒーを飲みながら資料を眺めていた。
彼は習慣的に部長の爪へ視線を走らせた。
薄紫の地に、細い銀の稲妻が三本。
『あれ。』
彼は一瞬、自分の目を疑った。電車の女性と、まったく同じだった。偶然か。いや、エモーション・プリントのパターンは理論上、数億通り以上ある。AIは体温・心拍・脳波・皮膚電気反応・その日の行動履歴・睡眠の質・前日の食事内容まで読み取り、「今この瞬間のその人」を模様に変換する。同じ模様が二人に出るなど、宝くじに二回連続当たるより難しい。
『気のせいだろう。』
彼は思考を打ち切り、「今日の部長はプレッシャー下にある。提案は午後に回そう」と判断して自席に戻った。
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昼休み、会社の近くのイタリアンに入った。
ランチセットを運んできたウエイターの手が、テーブルの上のグラスを置いた瞬間——彼の目は吸い寄せられた。
薄紫の地。銀の稲妻。三本。
フォークが皿の上に落ちた。
「お客様、大丈夫ですか?」
ウエイターが顔を覗き込んだ。彼は笑顔を作った。「すみません、ちょっと疲れていて」
ウエイターは微笑んで下がっていった。
彼はパスタを食べながら、さりげなく店内を見渡した。レジ打ちをしている若い女性スタッフ。厨房の入口に立つ店長らしき男性。窓際で食事をしているサラリーマン二人組。
遠くて細部まではわからない。でも、なんとなく。
なんとなく、全員が同じ色に見えた。
『疲れているんだ。』彼は自分に言い聞かせた。『昨日も残業だったし、睡眠も四時間だ。視覚が狂うことくらいある。』
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午後、コンビニで缶コーヒーを買った。
レジの店員——アルバイトらしき大学生——が釣りを渡してきた。
彼の手のひらに小銭が落ちた瞬間、その爪が目に入った。
薄紫に、銀の稲妻。
「……ありがとうございます」
彼は機械的に答え、店を出た。外の空気を吸った。三月の東京は、まだ少し肌寒い。
『偶然が四回続いた。』
確率計算が頭の中で走り始めた。一致が一回なら偶然。二回なら奇妙。三回なら異常。四回なら——
『何かがおかしい。』
彼はスマートフォンを取り出し、「エモーション・プリント 同じ模様 複数人」と検索した。ヒットしたのは、四年前のシステム導入時のバグ報告と、マニアのコレクションサイトだけだった。現在進行形の異常を報告しているページはなかった。
『自分だけが見えている、ということか。それとも自分だけが気づいていないのか。』
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帰りの電車。
彼は吊り革を握りながら、車内の人々の爪を片端から観察した。マナー違反だとわかっていた。爪の凝視は現代においてある種のプライバシー侵害にあたるという議論もある。だが彼は止められなかった。
向かいに座るOL。薄紫に銀の稲妻。
隣に立つ中年男性。薄紫に銀の稲妻。
ドアの横で眠そうにしている高校生。薄紫に銀の稲妻。
スマートフォンを操作している女性。薄紫に銀の稲妻。
週刊誌を読む初老の男性。薄紫に銀の稲妻。
彼は目を閉じた。
『全員が、同じ精神状態にある。それがありえるか?』
電車が揺れた。吊り革の輪っかが、規則的に左右に揺れた。彼はその動きを見つめながら、ゆっくりと深呼吸した。
窓の外に、夜の街が流れていった。無数の光。無数の人。
『それとも——俺の目がおかしい?』
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帰宅してすぐ、彼は洗面台の前に立ち、自分の両手を広げた。
エモーション・プリントの機械は洗面台の隣に設置されている。朝、歯を磨いた後にスキャンして、シールを貼る。それが現代人の朝の儀式だ。
今朝貼ったシールを、彼は改めてじっくり見た。
……薄紫に、銀の稲妻が三本。
『ああ。』
何かが、胸の中で音を立てた。
彼は今朝の自分の精神状態を思い出そうとした。特別なことはなかった。いつも通りに起き、いつも通りに朝食を食べ、いつも通りに電車に乗った。プレッシャー?反発するエネルギー?そんなもの感じていたか?
わからなかった。
ただ、一日中同じ模様を見続けたせいで、今は確かに混乱していた。
『剥がして、もう一度スキャンしてみよう。』
除光液を使い、シールを丁寧に剥がした。薄紫と銀の薄い膜が、綿の上に移った。
機械に両手をかざした。
スキャン中……のランプが青く点滅した。
プリントアウトの音。
シールを見た。
薄紫に、銀の稲妻が三本。
『同じだ。』
彼は機械を見た。機械は静かに光っている。正常動作のランプは緑だ。エラーではない。
『もう一度。』
また剥がした。また貼った。また剥がした。
四回目も、五回目も、出てくるのは同じシールだった。
彼はその夜、ダイニングのテーブルに座ったまま、長い時間を過ごした。テレビをつけた。夜のニュースが流れていた。キャスターが原稿を読んでいた。彼は画面のキャスターの手元に目を凝らした。
カメラは遠く、爪など映るはずがない。
しかし彼には、見えた気がした。
薄紫に、銀の稲妻が三本。
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眠れない夜だった。
天井を見つめながら、彼は考えた。
可能性は三つある。
一つ目、世界中の人間が今日一斉に同じ精神状態になった。これはない。
二つ目、機械が壊れている。しかし機械はエラーを示していない。
三つ目——
三つ目を、彼はなかなか言葉にできなかった。
三つ目の可能性は、こうだ。
『機械は正常に動いている。ただ、俺の精神状態が、「他の全員と同じ」になってしまった。』
それはどういうことか。
全員と同じ、とは。
彼はスマートフォンを手に取り、エモーション・プリントの公式サイトを開いた。模様の解説ページ。薄紫は「内向きの静寂」。銀の稲妻は「外部刺激への反応パターン」。三本は「反復するループ状の思考」。
反復するループ状の思考。
彼はスマートフォンを置いた。
窓の外で、誰かが話し声で笑った。夜の街はまだ眠っていなかった。
明日、また全員が同じ模様をしていたら。
明日、また自分も同じ模様が出てきたら。
彼はそう考えながら目を閉じた。そして気がついた。
『今まさに俺は、反復するループ状の思考の中にいる。』
薄紫に、銀の稲妻が三本。
それは今夜の彼を、正確に写していた。




