税金や社会保険料を減らして手取りが増えたとして、浮いたお金を何に使うのか。
勤め人にとって月に一度給与明細を確認する日ほど感情を揺さぶられる日はない、というのは過言だが、わかりやすく一喜一憂のできる日ではあるだろう。総支給額を確認して、なかなかやるものだと自分を褒めたい気持ちになるのも束の間、振込額に目を向けると谷底に落とされたような気分になる。着膨れして筋肉隆々のナイスガイに見えた人間が、上着を脱いだ途端に貧相でだらしのない体を晒して恥ずかしい思いをするようなものだ。
税金や社会保険料の天引きが多くの人の悩みになっていることについて、異論は少ないだろう。故にそれらを減らして手取りを増やそうという声が上がり、多くの政治家がそれを進めることをアピールして選挙に打って出たのは記憶に新しい。
確かに、給料から一定の金額が勝手に引かれるのは面白くない。額面上はっきりと出ていることなので、そこを改善すると言えば多くの支持を得るのは想像に難くないし、それで選挙に勝った政治家も多くいると観察する。手取りが増えれば分かりやすく得をしたと感じることができる。だが、分かりやすいものほど、その近くに大きな罠があると考えた方が良い。悪魔だった最初は甘い言葉で人間を誘惑するのだ。
そもそも税金や社会保険料は何のために徴収されているのか。制度が複雑で多種多少なため個別の説明は差し控えるが、装飾を取っ払いその趣旨を突き詰めれば、「見知らぬ誰かが困っているのを助けるため、そして自分が困った時に見知らぬ誰かに助けてもらうため」であると考える。
災害救助や山や海などで遭難した人を助けるためにも税金が使われているし、集められた社会保険料のおかげで費用の全額を自己負担しなくても医療行為を受けることが出来ている。極端なことを言ってしまば、仮にこれらが無くなった場合、裕福でない人間は困った時に救助を求めることが出来ないし、必要な医療を受けることが出来なくなる。税金や社会保険料を率先して減らすという流れは、そのような社会に進む道に続いているように思える。自己責任の名の下に、人間の命に関わる部分に格差を設ける社会である。
天引きされるのが取るに足らない額とは言わない。物価の高騰などもあり、負担感が増えていることは確かだ。しかし、本当に困った時に助けてくれるシステムを支えるための金額としては決して高すぎるものではないと思う。
今のままでは日々の生活にも困窮しているという人もいるだろうし、そういった人の手取りを増やし、食費などの生活費に回すことが出来る額が増えるのは良いことだと思う。しかし、税金や社会保険料が減ったことによる負担の皺寄せは、そのような困窮している人にほど大きく押し寄せることになるのではないだろうか。医療費の自己負担額が増えれば、もともとが高額な医療費や薬代に必要な負担は、増えた手取り額を追い越してしまうことになる。
困窮しているとまでは言えない人でも、増えた手取りを何に使うのかという問題がある。税金や社会保険料を減らそうという主張には、浮いたお金を別の場所に回したいという思惑がある。行き着く先はギャンブルや投資かも知れないし、大して必要でもない嗜好品かも知れない。いずれにせよ、お金の流れる先を自分たちの有利な方に向けたいという政治家、関係企業、業界団体等の意図があると想像する。
ギャンブルや宝くじは大多数の損をごく少数の人間が巻き上げる仕組みであり、そのごく少数になるのは大抵、元々裕福な人間である。多くの金額をかけることが出来る人間が、より多くのリターンを得ることが出来る。もっと言えば、賭ける人間よりもそういった仕組みの元締めが一番得をすることになるのだ。ギャンブルや宝くじは人生逆転の手段ではなく、金銭による上下関係をより強固にするための仕組みと考えた方が安全だ。
人にお金を使わせようという誘惑は社会に満ち溢れている。手取りが増えたら、その浮いたお金を狙って様々な誘惑が襲ってくるだろう。人の無知につけ込んだ詐欺まがいの話もあるはずだ。そういったところに流れていくお金と、社会インフラや社会保障のために払うお金、どちらが自分のためになるかを考えてみる必要があるように思う。新たにお金が流れる先が、果たして本当に自分たちにとって有用なものか慎重に見極めなければ、将来的に首を絞める事態になりかねない。
何があって他人に頼らず自分の力で解決できる、心身は衰えないし、病気にもならないと信じている人間の目には、税金や社会保険料は無駄な出費として映ることになる。そして、そのように信じている人が一定数いることも観察されるが、残念ながら、自分でどうにもならない事態に陥らない人間も、病気にならない人間も存在しない。人間はどうあっても衰えていくのであり、全てを自己責任で解決することを強いられる社会で人間は健全に生きられるのか疑問だ。
株や不動産などの投資の失敗で損をすれば、自業自得と言って誰も手を差し伸べてくれないのが現代社会だ。それに比べれば、毎月いくばくかのお金を税金や社会保険料のために拠出する方がよほど将来の安心のための投資になると思うがいかがだろうか。 終わり