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あめお

 ここ一週間ばかりずっと雨が続いていて、世界は灰色に濁りたっぷりと水分を含んでぐずぐずに濡れていた。窓を叩く雨音は一定のリズムなど持たないようでいて規則正しく、遠くの拍手や誰かの歌う声などに喩えられて耳に届く。

 そろそろ移動しようと思うんだ、と雨男が言ったとき、わたしは雨の音楽を聴いていたので返事が遅れた。

「行こうと思うんだよ」

「――どこに? 旅行?」

 付き合い始めて三ヶ月も経っていない雨男は、それが本名なのか偽名なのか知らないけどわたしにその名しか告げていない。色の白い男で、線が細く、体力もなさそうなのにセックスだけは驚くほどいい。

 わたし達は月曜日の仕事を共にサボってベッドの中にいた。雨の日のシーツは湿っている、見えない水分で静かに空気ごと濡れそぼっている。

「旅行じゃないよ、僕は雨男だから」

「なに言ってんの、お腹空いてる? 昨日七種類の野菜のパスタセット貰ったけど、食べる? 作ろうか?」

「僕がいると世界が雨でずぶ濡れになるだけだから。七種類って?」

「まだちゃんと確認してないけど、たしかトマトとブロッコリーがあったよ、で、どこに行くの?」

「うん、遠く。どっか、遠くに」

「ふうん、わたしはどうするの、連れてく?」

 ううん、と雨男は首を振る。少し長めの黒髪がうなじのところでさらさらと揺れて、こいつは男のくせにいい髪してるな、と思う。

「駄目だよ、人間はお日様の当たる所にいなきゃね」

「雨男と居るとお日様に当たれないの?」

「知らなかった? 僕が雨を降らせてるんだよ」

「嘘、じゃあ雨男とずっと一緒だと二度と太陽見られないの?」

「そうだよ、現にこの一週間僕と君は会いつづけているけど、君はその間太陽を一度でも見た?」

 そういえば見ていない、一度も晴れなかったからだ。だけど、一週間雨が降り続くのだって多少の異常気象くらいの話で、雨男が雨を降らせているなんていう馬鹿げた話があるのだろうか。

「じゃあ、台風とかは? あれも雨男?」

「ううん、あれはうちの父と祖父」

「なにそれ。じゃ、雨男とセックスするとシーツが締めるのも、雨男のせい?」

「それは僕が降らせる雨じゃなくて、僕の精液と君の分泌液のせい、だと思う」

 雨男は膣外射精がへたくそだ、いつもわたしのお腹に出せなくてシーツの上に出してしまったり顔まで飛ばしてしまったりやたらと量が多かったりする。わたしを潤すための分泌液が多いのも雨男のせいだ、彼はわたしを気持ち良くさせすぎる。

「最後の話だけ真実だと思う」

 わたしは裸のままベッドから出て、そのまま裸足でキッチンへ行った。昨日母親から送られてきたパスタセットは、ブロッコリーのクリームソースとトマトのミートソース、ナスのミートソースとオニオンソースと南瓜とじゃが芋のクリーミーソース、人参のクリームソースだった。七種類の野菜セットでも、七本缶が入っているわけではなくてがっかりする。六本缶セットだった、じゃが芋と南瓜を別にすればいいのに。

 家の中で一番大きな鍋にお湯を沸かす。塩を入れておいて、パスタセットから一緒に入っていたフィットチーネという太いパスタを取り出す。クリーム系のソースとよく合うらしい、ちゃんと説明書きがあった。

「君を悲しませるとは思うけど、」

 雨男はスリッパを履いてパタパタとやってくる。上半身は裸だけれど、下はパジャマのズボンを穿いていた。うん、とわたしは思う。男が裸なのはお風呂とベッドの中だけで充分で、フルチンでぶらぶらされているのは好みではない、そこには美しい欲情もないし間抜けな弱い雰囲気しか漂わないからだ。

「僕はもう行かなくちゃ」

「行くってどこへよ、パスタだけで足りる? パンも出そうか?」

「炭水化物ばっかりになるね」

「そうだね、だけどあとは漬物くらいしか買ってないしな」

「ご飯食べたら出てくよ」

「馬鹿じゃないの、どこ行くってのよ」

 乾燥して丸まっているパスタをそのまま鍋の中に放り込む。茹で時間が書いてあったか、パスタの空き袋をごみ箱から拾いなおして確認する。

「なに、わたしと別れたいの?」

「別れたくなんてないよ、」

「でもさ、ご飯食べたら出て行くなんて、だって出てったら帰ってこないんでしょ? それって、わたしにもう会わないってことでしょ? 会わないってことは別れたいってことよ」

「違う、会わないけど君のことは好きでいる、手紙を書くよ、電話もする」

 馬鹿じゃないの、と、わたしは繰り返した。

 手紙と電話でどうやって雨男の素晴らしいセックスを感じろというのだ、意味がない。触れていないと価値がない、わたしにとって雨男はそんな男だ。

「雨男が雨降らせてるんなら、砂漠とか行って雨降らせればいいじゃないの」

「そうしたいんだけどね、旅費がない」

「超アホ話みたい、馬鹿じゃないの、頭悪いよ、そんならわたしが旅費出してあげたら砂漠に雨降らしに行く?」

「駄目だよ、そんな、返せないお金は借りるべきじゃない」

 鍋に菜箸を突っ込んでぐるぐるとかき混ぜる。乾燥してカラカラに固まっていたパスタが、ほんの少しずつほぐれ始める。

「信憑性ないって、なさ過ぎだって、雨男こっちおいで、ちょっと、ほら」

 なに、と近付いてきた雨男の首に、右手には菜箸を持ったままわたしは抱きつく。目でも刺されるのかと思ったのか、雨男は小さく、おう、と言った。

 そんな雨男の唇をわたしは自分の唇でふさぐ。水の匂いがする、雨男の唇はぷっくりとやわらかいので温度が他の人よりも高い気がする。

「わたしと何で別れたいの?」

「別れたいなんて言ってないよ、ただ同じ場所にずっといるのが駄目なんだって、洪水を起こしちゃう、水害を起こしちゃう、雨が降らないのも駄目なことだけど、降り過ぎるのも駄目なんだってば」

「じゃあ、雨男はここに二度と雨を降らせないつもりなの?」

 だってわたしに会わないつもりなんでしょ、もう二度と。

「違うよ、もう、全然違う、僕はまた雨を降らしにここへ来たりもするけど、君には会わないだけ」

「そんなの、無茶苦茶『別れるから二度とお前の顔は見たくない』ってのと同じじゃないの、殴るよ?」

「せめて『ぶつよ?』くらいにしといて」

「じゃあ、ぶつよ?」

「……違う、ああもうさっきから僕は違う違うってそれしか言ってないじゃんか、馬鹿みたいだ。そうじゃなくて。君に会わないのは、君と離れるのがすごく嫌だから、そんな悲しいさよならをどうして何度もしなきゃなんないのさ」

 今のすごい愛の言葉に聞こえたけど、と言うと、雨男は照れたのかそっぽを向いてしまった。鍋が沸騰してお湯が吹き零れたのだろう、シュワー、ジャジャジャ、と音がする。

「あ、ヤバイヤバイ、パスタ茹でてる時にキスしたり話し込んだりするのは駄目だね、天ぷらの次くらいに駄目だね」

「そうだね、駄目だね」

 キッチンから覗く窓の外は相変わらず厚く灰色をした雲に覆われていて雨をザバザバと降らせている。世界中が雨でもそんなに困らないけどな、とわたしは思う。

「わたしのこと、好き?」

「嫌いだったら一週間も同じところに雨を降らせて、川を増水させたりしないし、太陽を待っている農作物をみすみす駄目にしたりしない」

「そういう遠まわしな言い方は駄目だってば、愛の言葉は真摯に直球じゃないと駄目なのよ」

「……うん、好き」

「よろしい」

 ふうん、でもわたしは雨男と別れるつもりなんてこれっぽっちもないのだし、もちろん離れているつもりもゴミくずほどすら持ち合わせていない。

「雨合羽買ってくるわ」

「僕なら別に傘があるから、」

「違うわよ、わたしの分よ」

 君は人の話を、と言いかける雨男の唇を今度は手でふさいで、人差し指を唇に当てる、シィー。シー、シィー。

「お日様よりとりあえず雨男だわ、わたしにはね。傘じゃ荷物持ったら両手がふさがるもの、手を繋いでおかなくちゃいけないのに」

「君は太陽に、」

「布団乾燥機を買うわ、お洗濯物はコインランドリー、わたしは農業で食べているわけでもないし、とりあえず雨の日々でも大丈夫よ」

 雨ばかりの中にいると憂鬱になってしまうよ、と困った顔をする雨男に、馬鹿じゃないの、とわたしはにっこり微笑む。

「じゃあ水の中の魚はどうするの、水なんかで人は憂鬱にならないわよ、あなたがいるなら尚更」

「すごい愛の言葉だね」

 窓を叩く雨音が和音を奏でるように続けてパタリパタリと鳴る、耳にそれは心地よく、わたしは雨男の裸の胸に耳をぺたりとくっつけた時のやさしい鼓動を思い出す。

「とりあえずご飯にしない? お腹空いてるの、わたしも一緒に行くから別に急がなくてもいいんだしさ、パスタ、全部食べてからでもいいんだし」

 キャンピングカーでも買って全国旅しようか、というと雨男が笑った。

「絶対晴れない土地にしか行かないキャンピングカーってすごいね」

「すごいよ、でも壁の厚いのにしようね、ほら、わたしってあの時の声大きいから」

 笑顔のままで雨男の頬が染まった、それはきっと彼が見たことのない夕焼けの綺麗な色をしていた。

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