第五十一話「高級スパでの偶然」
更衣室の鏡に映る自分の姿を見つめながら、ユナギは何とも言えない居心地の悪さを感じていた。高級オーガニックコットンのローブは肌触りこそ良いものの、全身を覆う白い体毛の上からでは本来の触感が伝わってこない。長い耳は緊張で少し後ろに傾き、赤紫色の瞳には困惑の色が浮かんでいる。
「本当に場違いなところに来ちゃったな…」
ユナギは小声でつぶやいた。周囲の調度品は全て洗練されており、まるで美術館の一室のような雰囲気だった。壁面には淡いブルーとホワイトを基調とした抽象画が飾られ、空気中にはかすかに上品なアロマの香りが漂っている。床の大理石は光を美しく反射し、足音さえも吸収してしまうような厚いカーペットが敷かれていた。
昨日の会議での会話が頭をよぎった。
「イングリッド。君は引き続き星の教会へ潜入し、信者だけではなくスタッフと信頼関係を築け。可能であればフレイザー氏に近いスタッフを探り当てろ」
カミロ所長の指示は明確だった。会議室の大きなホロスクリーンには星の教会の基本情報が表示され、フレイザー氏を含む関係者の名前がリストアップされている。
「わかりました!明日『星の光と導きの学習会』っていう集まりがあるみたいなんで行ってきます!」
イングリッドは目を輝かせながら答えた。
「僕も同行したほうがいいでしょうか?それともマインド・イルミネーションへ潜入?」
ユナギは少し考えながら尋ねた。長い耳が前向きに傾いている。
カミロ所長は腕を組み、顎に手を当てて考え込むような仕草を見せた。しばらくの沈黙の後、彼は表情を引き締めて答えた。
「確かにそれが一番シンプルではあるが、少々危険かもしれないな」
「どういうことですか?」
ユナギの耳がピクリと動いた。
「この装置が何なのかはわからんが、君はこの装置から影響を受けやすいらしい。そしてフレイザー氏はこの装置を才能のある人物に配っている。つまり、フレイザー氏は君のような人物を探しているのかもしれない」
ユナギは少し考えてから、決意を込めた声で言った。
「それなら、やっぱり僕がマインド・イルミネーションに行ったほうがいいと思うんですけど」
「真正面から君が行って、君が彼の手に落ちることは避けたい。今回はPMN特別調査局が動くほどの案件だ。何が起きるか想像がつかない」
カミロの声には心配が込められていた。
「それじゃあ、僕はどうしましょう」
ユナギは困ったような表情で尋ねた。
カミロ所長は少し考えて、ふっと眉を上げると、何かを思いついたような表情を浮かべた。
「そうだな...トランキリティにでも行ってみるか?」
ユナギは気持ちを切り替えて、更衣室から出てトリートメント・ルームへと向かった。廊下も同様に上品な内装で統一されており、なんとなく足音を立てないよう気をつけて歩いた。
事前説明によると、これからアロマオイルを使用したマッサージを受けるらしい。ユナギはもう一つの会議での記憶を思い出し、思わず苦笑いを浮かべた。
あの時、カミロ所長は
「君が施術を受ける姿はマッサージというより下ごしらえだな」
と冗談を言ったのだ。その瞬間、僕は特に気にしていなかったが、アルク、リン、そしてアンソニーまでもが一斉に抗議の声を上げた。
「所長、それは非常に不適切な発言です」
アンソニーは眉をひそめて厳しい口調で言った。
「ユナギに対して失礼です」
アルクも珍しく強い調子で抗議した。
「ひどいです!」
リンまでもが加わっていたが、イングリッドは顔を背けて笑いを堪えているようだった。
カミロ所長は慌てて両手を上げ、
「すまんすまん、冗談だ」
と謝っていたが、AIパートナーたちの怒りはしばらく収まらなかった。
トリートメント・ルームのドアをノックすると、中から
「どうぞ」
という優しい女性の声が聞こえた。ドアを開けると、白いユニフォームを着た20代後半の女性スタッフが笑顔で迎えてくれた。彼女は栗色の髪を綺麗にまとめており、穏やかな表情を浮かべている。
「お待ちしておりました。本日は当施設をご利用いただき、ありがとうございます」
スタッフは丁寧に頭を下げ、ユナギを室内へと案内した。部屋の中央には厚いクッションが敷かれた施術台があり、周囲には様々なアロマオイルのボトルが整然と並んでいる。
「本日使用いたしますアロマオイルは、セレニティ・センスの『スプリング・ブリーズ』です」
スタッフは一つのボトルを手に取りながら説明を始めた。
「深いリラクゼーション効果があり、心身の緊張をほぐすのに適しています。施術は約60分を予定しております」
ユナギは緊張しながら頷いた。スタッフは優しい笑顔で続けた。
「それでは、ローブをお脱ぎになって、こちらの施術台にうつぶせでお横になってください。タオルをおかけしますので、ご安心ください」
ユナギはローブを脱ぎ、言われた通りに施術台にうつぶせになった。全身を覆う白い体毛が施術台のクッションに触れる感覚が少し奇妙だった。スタッフは手慣れた様子でタオルをかけ、アロマオイルを手に取った。
「失礼いたします」
スタッフの手がユナギの背中に触れると、ユナギは思わず身体を緊張させた。全身にオイルを塗られる感覚に慣れず、筋肉が自然とこわばり、全身の白い体毛がわずかに逆立ってしまう。
「リラックスしてくださいね」
スタッフは優しい声でユナギに声をかけた。
「大丈夫ですよ、ゆっくりと深呼吸してみてください」
「すみません、慣れなくて...」
ユナギは申し訳なさそうに言った。
「いえいえ、皆さん最初はそうです」
スタッフは笑顔で答えた。
「あ、もしかして何か運動をされていますか?体の疲れ方が運動をされている方によく見られるものですね」
「最近、ボクシングのレッスンを受けているんです」
ユナギは素直に答えた。
「それは素晴らしいですね。でも少し筋肉が緊張気味のようです。しっかりとほぐしていきましょう」
マッサージが続くにつれて、ユナギは徐々に慣れてきた。スタッフの手つきは熟練しており、的確に緊張した筋肉をほぐしていく。アロマオイルの香りも心地よく、ユナギは少しずつリラックスしていった。
そんな中、再び昨日の会議の会話が頭に浮かんだ。
「え、ずるい!私も行きたいです!」
イングリッドが椅子から立ち上がりながら抗議した。
「おいおい、遊びに行くんじゃないんだぞ」
カミロ所長は呆れたような表情で言った。
「ユナギ君が一人で行って何かあったら大変じゃないですか!」
イングリッドは必死に説得しようとした。
「高級スパで何かあるわけないだろう。君の付き添いは必要ない」
「そんなぁ...」
イングリッドは肩を落とした。
「それに、ユナギもトランキリティに行ったところでサービスを受けられないかもしれんぞ」
「どういうことですか?」
ユナギは首を傾げた。
「そういえば、トランキリティのウェブサイトには遺伝子融合型人類に関する記述はありませんでした。ユナギが行ってもサービスを受けられない可能性があります」
アルクが補足した。
「そうだろう。世界に数千人程度しかいないラゴモーフ系人類への対応が用意されていない可能性は高い。そこで作戦はこうだ。まずはトランキリティに予約を入れる。その際、ユナギの身体的な事情は一切伝えない。そして当日、受付が君の容姿を見て困惑し、サービスが提供できないと詫びる。その時君は憤慨して責任者を出せと文句を言うのだ」
「僕が!?」
ユナギの耳がピンと立った。
「そうだ。ほかにいないだろう」
「ユナギの性格を考えると難しいのではないでしょうか?」
アルクが心配そうに言った。
「これぐらいの演技はできるようになってもらわないとな。今後もどんな演技が必要になるかわからんのだから、練習だと思ってやってみろ」
「うう...」
ユナギは困惑した様子で小さく唸った。
「責任者が出てきたら、なんとかして偉い人物との約束を取り付けろ」
「もし普通に施術を受けられてしまった場合、どうするのですか?」
リンが現実的な質問をした。
「その時は...ゆっくりしてきたまえ」
「やっぱりずるい!」
イングリッドは再び抗議の声を上げた。
結局、受付ではリンの予想通りになってしまった。受付スタッフはユナギを見て確かに軽く驚いた様子を見せたが、すぐに平常心を取り戻し、誰かと短い通信を取った後、何事もなかったかのように受付を済ませてくれたのだった。
その後、リラクゼーションセラピーのメニューを順々に受けることになった。ウォームアップマッサージに続いて温熱療法、そして現在のディープティッシュ・セラピーと、トランキリティ自慢のフルコースを体験している。
ホットストーンとコールドストーンを交互に使用する温冷療法は、ユナギにとって初めての体験だった。温かい石と冷たい石が交互に背中に置かれる感覚は不思議で、最初は戸惑ったが、次第に心地よさを感じるようになった。
「ハーモニック・ウェーブ」の特別な自然音BGMが室内に流れ、鳥のさえずりや川のせせらぎ、風の音などが絶妙にブレンドされている。ユナギの鋭い聴覚でも、これらの音が人工的に作られたものとは思えないほど自然だった。
施術は予定通り順調に進み、ユナギは徐々に深いリラクゼーション状態に入っていった。筋肉の緊張がほぐれ、心も穏やかになっていく。しかし、同時に調査の目的を果たせていないという気まずさも感じていた。
約3時間のセラピーが終了し、ユナギは再びローブを着て受付エリアに戻った。待合スペースでアルクと合流すると、彼は光球の状態でユナギの肩に浮かび上がった。
「深層リラクゼーションセラピーはどうでしたか?」
アルクが小さな声で尋ねた。
「うん、すごくよかったよ。リラックスできたし、疲れが取れたっていうか、体が軽くなった感じ。でも…」
ユナギは少し困ったような表情を見せた。
「特に手がかりはありませんでしたね」
受付カウンターから少し離れた待合エリアで、ユナギは何か役に立つ情報がないかと周囲を見回した。長い耳をわずかに動かしながら、聞こえてくる会話に注意を向ける。しかし、聞こえてくるのは他の利用客の日常的な会話ばかりで、特に重要そうな内容はなかった。
ふと振り返ってみると、自分よりいくらか背の低い黒髪の少女が近くで自分を見上げていた。12歳くらいに見える華奢な体つきの少女で、腰まで届く美しいサラサラの黒髪が印象的だった。人形のような整った顔立ちで、大きな瞳でユナギをじっと見つめている。
自分の容姿が気になるのだろうと思い、ユナギは優しく笑って手を振ってみた。すると、少女は嬉しそうな笑顔を浮かべて近づいてきて、ユナギの振った手に自分の小さな手を合わせてきた。
「こんにちは」
ユナギは小さな声で挨拶した。
少女も小さく頷いて笑顔を見せたが、その時、遠くから声が聞こえてきた。
「シャオリー、こちらよ」
少女は振り返ると、両親らしき男女に呼ばれていることに気づいた。彼女は慌てたように小走りで受付の方へ向かっていく。ユナギはその後ろ姿を見送りながら、なんとなく微笑ましい気持ちになった。
その時、受付での会話が聞こえてきた。ユナギの鋭い聴覚が、少し離れた場所からでも会話を拾い上げる。
「お待たせしました、ヤン・ジャオウェイ様、ヤン・メイファン様、ヤン・シャオリー様。フレイザー様が3階でお待ちです」
ユナギの耳がピンと立った。フレイザー...フレイザー氏?
アルクも光球の状態でユナギの肩に浮かんでおり、同じ会話を聞いていた。二人は顔を見合わせ、重要な情報を得たことを無言で確認し合った。
フレイザー氏はここにいて、あの少女はこれから彼に会うのだ。
ユナギとアルクは慎重に少女の家族を見守った。受付スタッフに案内され、エレベーターに向かう三人の姿を視界の端で追いながら見送った。




