第四十二話「星と氷の調和」
「ここだね」
イングリッドが指さした先には、ウィンターヘイブン区画の高台に建つ洗練された建築物があった。日が落ち始めた夕方6時頃、空はすでに深い紺色に染まり始め、街灯が次々と灯り始めていた。オーロラ・ホールは、まるで雪の結晶が幾層にも積み重なったような幾何学的な外観で、夕暮れの柔らかな光を受けて青と紫の神秘的な光沢を放っていた。
「これといって変わったところのない、普通の教会ね」
とイングリッドが呟いた。
「外にも看板があるし」
確かに建物の正面には「星の教会」というシンプルな文字が刻まれ、その下に「星と氷の調和」という今夜の集会名が記されていた。入口には六角形の雪の結晶が連なるモチーフの装飾が施され、静かな威厳を放っている。
「少しおさらいをしましょうか」
アルクが言った。
「今日の調査目的は?」
「まず、映像に異常な点はないか確認する」
リンが指を立てて説明を始めた。
「特に参加者の精神に影響を与えるような要素がないか」
「それと、参加者の様子も観察するのよね」
イングリッドが続ける。
「異常な感動や興奮の兆候がないか」
「最後に、運営スタッフの言動に不審な点がないか観察します」
アルクが締めくくった。
ユナギは頷きながら、今夜の任務の重要性を再確認した。幻影の雪景色と星の教会の関連性を探るための重要な一歩だ。
「それじゃあ行こう、教会に興味を持った普通の来場者として自然に振る舞うのよ」
イングリッドは明るく言って前進し始めた。
「こんばんは、初めてお越しでしょうか?」
受付では若い男女が参加者を迎えていた。ユナギたちが近づくと、二人ともほんの一瞬だけユナギのラゴモーフとしての特徴的な外見に驚いた様子を見せた。特に女性スタッフは、驚きの表情の後、何か親しみを感じたような優しい目で見つめてきた。
「はい、初めて参加します」
イングリッドが穏やかに答えた。
「ようこそいらっしゃいました」
男性が微笑んで応じた。
「今夜は『星と氷の調和』のセッションです。セラピーの後には隣のサロンで交流会も予定しています」
女性が二人に名札を手渡しながら言った。
「個別カウンセリングもご用意していますが、ご希望されますか?希望者が多いので、今日か後日の予約になります」
イングリッドとユナギは顔を見合わせ、
「はい、希望します」
と答えた。
「かしこまりました」
女性はタブレットに二人の名前を入力した。
「セッション後、サロンで順番に案内いたします」
二人が入場すると、親切そうな中年の女性信者が出迎え、席まで案内してくれた。
メインホールは驚くほど美しく、高い天井には巨大な透光セグメントがあり、夕方の星空が徐々に見え始めていた。壁面は特殊な反射素材で覆われ、雪原の中にいるような感覚を生み出していた。中央の床には大きな雪の結晶の形をした模様があり、その周りに同心円状に椅子が配置されていた。
ホール内にはふわりと心地よい香りが漂い、柔らかな音楽が流れていた。
「普通の教会より豪華ですね」
ユナギは小声で言った。
「宗教施設というより高級スパみたい」
イングリッドも静かに応じた。
アルクとリンは光球の形になり、それぞれのパートナーの肩に浮かび、ホール内の様子を観察していた。
「通常の音響設備と投影システムのみ確認されます」
アルクが小さな声で報告した。
「特別な装置は見当たりません」
「わたしも同様です」
リンが応じた。
「標準的な星座投影システムと調光設備のみです」
人々が続々と席に着く中、天井の照明が徐々に暗くなり始めた。
「皆様、本日はお集まりいただき、ありがとうございます」
柔らかな女性の声がホール全体に響き渡った。前方の小さな壇上に、優雅な佇まいの中年女性が立っている。彼女は穏やかな微笑みを浮かべながら、両手を広げた。
「私はエレーナ・ヴォルコフと申します。今宵の『星と氷の調和』セッションへようこそ」
天井に美しい星空が投影され、ゆっくりと回転し始めた。
「まずは目を閉じて、深く息を吸い、ゆっくりと吐いてください。今夜は皆様と共に、私たちの遠い記憶の旅へと出かけましょう」
エレーナの声に導かれ、参加者たちは目を閉じた。ユナギも警戒しながらも指示に従った。
「私たちの祖先が夜空を見上げたとき、そこには物語がありました。星々は単なる光の点ではなく、神話と伝説の舞台でした」
天井には古代地球の星座が映し出され、それに合わせて壁面にも神話の場面が優しい光で投影されていく。
「北欧神話では『ラグナロク』—すべてを覆い尽くす氷と雪の後に、新しい世界が誕生すると語られました。破壊ではなく、浄化と再生の物語です」
ユナギは目を半開きにして周囲の様子を観察していた。参加者の多くは穏やかな表情で話に聞き入っている。特に異常な反応は見られない。
エレーナは続けた。
「星は常に人類の導き手でした。北極星、オリオン座、プレアデス—これらは文化を超えて、人々の道しるべとなってきました」
天井の映像はゆっくりと変化し、様々な文化の星座が次々と映し出される。
「そして多くの文化は、困難な時代に現れ、人々を新たな楽園へと導く『救世主』の伝説を共有していました」
エレーナはゆっくりとホールの中央へ移動し、話を続けた。
「現在の地球は氷河期にあります。これを単なる気候変動と見るのは浅はかです。古代の知恵はこれを『浄化の過程』と呼びました」
ホログラムで氷に覆われた地球の美しい映像が投影される。青白く輝く姿は神秘的で、どこか懐かしささえ感じさせた。
「氷と雪は破壊ではなく、保存のためのものです。大切なものを守り、不要なものを洗い流す—自然の叡智の現れなのです」
エレーナは参加者の間を歩きながら、柔らかな声で語りかけた。
「皆さんの中にある、説明できない郷愁の感情...それは氷の下に眠る地球からのメッセージかもしれません。その感情を拒まないでください...受け入れてみてください」
ホールの照明が徐々に青白い光に変わり、微かな雪の落ちる音響効果が加わった。セッションはすでに二十分ほど続いていた。
「私たちの祖先は星の導きで地球から宇宙へと旅立ちました」
エレーナの声は響き続け、天井には輝く宇宙船が星々の間を進む映像が浮かび上がった。
「人類の偉大な宇宙開拓の物語は、単なる科学技術の勝利ではなく、魂の旅でもあったのです」
映像が変わり、美しい雪に覆われた風景が広がった。
「古い神話では、世界が終わり再生するとき、太陽は輝きを失い、長い冬が訪れると言われてきました。しかし、それは終わりではなく、新たな始まりの前触れだったのです」
しばらく様々な文明の物語や神話について語った後、エレーナはホールの中央に戻り、落ち着いた声で続けた。
「現代科学は宇宙の真理の一部しか捉えていません。星々の瞬きは単なる物理現象ではなく、古来より私たちの魂に語りかけてきたメッセージなのです」
参加者たちは静かに聞き入り、何人かは目を閉じて深くうなずいていた。時間が経つにつれ、ホール内の雰囲気はさらに静謐さを増していった。
「ノヴァスフィアでの私たちの生活は、星の旅の一部に過ぎません。内なる声に耳を傾け、真の故郷を思い出す—それが私たちの使命です」
エレーナはさらに一人ひとりの参加者に寄り添うように語りかけた。
「毎日の『光の共鳴』瞑想を通じて、内なる光を強めることができます。同じ感覚を持つ仲間と共にいることで、その光はさらに明るく輝くでしょう」
ユナギは映像や音響に異常な点がないか注意を払いながらも、トレーニングの疲れからか、少しまぶたが重くなっていくのを感じた。
「私たちは特別な時代の変わり目に生きています...」
エレーナの声がさらに穏やかになり、ホール全体が温かな光に包まれ始めた。
「いつか、私たちは本来の故郷に帰る時が来るでしょう...今はその準備の時...心と魂を整える時...」
ホログラムでは、美しい雪に覆われた風景と、そこで平和に暮らす人々の姿が映し出されていた。
ユナギの意識がほんの少しだけ朦朧としたその時—
「我の声を聞け」
突然、全く別の声が頭の中に響いた。深く、どこか威厳のある男性の声。
「我と共に祈れ」
ユナギは目を見開いた。その声はナレーションとしてスピーカーから流れているわけではなく、まるで直接頭の中に入り込んでくるようだった。
「我の導きに従い、共に声を上げ、共に戦え」
不気味さを感じて完全に目が覚めた。ユナギは周囲を見回したが、他の参加者たちは穏やかな表情で、何も異常を感じていないようだった。
横を見ると、イングリッドは半開きになった目で時折うなずきながら、頭が少し前に傾いては慌てて戻すという仕草を繰り返していた。今にも意識が落ちそうな様子で、当然ながら男性の声には全く気づいていない。アルクとリンも特に反応を示していない。
エレーナの穏やかな声だけがホールに響き続けていた。
「皆さんの中に眠る記憶を解放し、真の自分を見つける旅を始めましょう...私たちは一人ではありません...星の光のように、互いに導き合いながら...」
ユナギは男性の声について何か言おうか迷ったが、周囲の信者たちの目を気にして、会場を出てから伝えることにした。
「ありがとうございました」
エレーナは優雅に頭を下げ、
「これからサロンへご移動ください。軽食と交流の時間です」
と告げた。
三十分ほどのセッションは、その後特に異常なく終了した。
「なんか変わったことあった?」
ホールを出る際にイングリッドが小声で尋ねた。
「いや、特に…」
ユナギは周囲の人々の存在を意識して、本当のことを言うのを控えた。
「あとでお話しします」
「私も特に異常な信号は検出できませんでした」
アルクは静かに報告した。
「映像も音響も標準的な範囲内でした」
リンも付け加えた。
しばらくホールでの待ち時間の後、参加者たちは教会サロンへと案内された。サロンは木材を多用した温かみのある空間で、円形のテーブルが点在し、各テーブルの中央には小さな雪の結晶型の照明が灯っていた。
「個別カウンセリングは順番にご案内いたします」
と説明があり、それまでは自由に交流を楽しむようにと告げられた。
カウンターには軽食とハーブティーが用意されており、イングリッドとユナギはそれぞれ取り分けて、空いているテーブルに座った。すでにそこには三人のおばさんたちがおしゃべりをしていた。
「あら、初めてお見かけするわね」
一人のおばさんが声をかけてきた。
「はい、今日が初めてなんです」
イングリッドが笑顔で応じた。
AIたちはマナーに則り、それぞれのAIパートナーと短い挨拶を交わしてからコミュニケーションを始めた。
「どうやってここを知ったの?」
別のおばさんが興味深そうに尋ねた。
「友人に勧められまして」
ユナギは穏やかに答えた。
「それにしても、あなた、なんて素敵な特徴をお持ちなの」
三人目のおばさんがユナギの長い耳を見て感嘆の声を上げた。
アルクが穏やかに説明した。
「彼はラゴモーフ系と呼ばれる遺伝子融合型市民です」
「まあ、初めて見たわ。とても美しいわね」
おばさんたちは好奇心に満ちた眼差しでユナギを見つめた。
世間話が続く中、スタッフが近づいてきた。
「お二人、カウンセリングの準備ができました。こちらへどうぞ」
予想よりも早く、イングリッドとユナギは個別のカウンセリングルームへと案内された。アルクとリンは部屋の前で待機するよう指示された。
ユナギが案内された部屋は、落ち着いた照明の小さな個室だった。中には中年のすらりとした北欧系の短髪の男性が立っており、穏やかな笑顔で挨拶した。
「ようこそ。私はミハイルと申します」
彼はユナギに手を差し出した。ユナギの外見に一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに平静を取り戻した。
「ユナギです。よろしくお願いします」
ユナギは丁寧に挨拶を返した。
「どうぞお座りください」
ミハイルは椅子を示した。
「今日はどういったきっかけでお越しになりましたか?」
「知人から聞いて、興味を持ちました」
ユナギは準備していた答えを返した。
「そうですか。何かご相談されたいことはありますか?」
ユナギは一瞬考え、演技を交えながら答えた。
「実は…記憶喪失で悩んでいて…」
彼は少し体を前に傾け、声を落として続けた。
「約一ヶ月前に目を覚ましたとき、それ以前の記憶がほとんどなかったんです。周囲の人たちの助けで何とか生活が整い始めているんですが、自分のアイデンティティがわからないという不安が消えなくて…」
ユナギは長い耳を少し下向きにして、本当の悩みを交えながら話した。
「時々、自分が本当は誰なのか、どこから来たのか、そんなことを考えると夜も眠れなくなるんです」
ミハイルの表情が少し変わった。
「記憶喪失ですか?」
彼は予想外の相談に若干戸惑った様子を見せたが、すぐに平静を取り戻した。
「申し訳ありません...私は脳科学や医学の専門家ではないので、具体的な治療法はアドバイスできません」
彼は真摯な表情で目を合わせながら言った。
「お力になれず心苦しいです」
ミハイルは静かにため息をつき、優しい眼差しでユナギを見つめた。
「ですが、記憶がなくても、あなたは今ここに存在しています。その事実だけは揺るぎないものです」
彼は穏やかに微笑んだ。
「過去の記憶がなくても、あなたの中に残っている感情や価値観、好みや直感—それらもまた、あなたという存在の大切な部分です。新しい記憶を作りながら、少しずつ自分自身を再発見していく旅も、意味のあるものかもしれません」
彼は少し前かがみになり、声色を変えて続けた。
「医学的なアドバイスはできませんが、その不安を抱えながら精神を平穏に保つ方法ならお話できます。私たちの教えでは、記憶は単なる脳の働きではなく、魂の一部だと考えています。たとえ意識的に思い出せなくても、あなたの魂は全てを記憶しているのです」
ミハイルは十分ほどかけて、星の教会の祈りの方法や、心を落ち着かせるための瞑想法について丁寧に説明してくれた。特に奇妙なことも、不審な点もなく、いたって普通の親切なアドバイスだった。
「ありがとうございます」
ユナギは真摯にお礼を言った。
「とても参考になりました」
「お役に立てて嬉しいです」
ミハイルは暖かい笑顔で見送った。
「また機会があればお越しください」
カウンセリングルームを出ると、イングリッドはすでに待っていた。
「どうだった?」
イングリッドが小声で尋ねた。
「普通でしたよ。親切なアドバイスばかりで」
ユナギも小さな声で答えた。
二人はサロンに戻り、残りの交流時間を過ごした。しかし、その後も特に異常な出来事は起こらなかった。約一時間後、集会は穏やかに終了した。
「全く収穫なしね」
建物を離れてしばらく歩いたところで、イングリッドがため息をついた。アルクとリンも人型に戻り、四人で小さな円を作るように立ち止まった。
「特に異常は見られませんでした」
アルクが報告した。
「標準的な宗教的集会の範囲内と言えます」
「設備にも特殊なものは見当たりませんでした」
リンも同意した。
「参加者の反応も通常の範囲内でした」
イングリッドが付け加えた。
「あの映像効果は印象的だったけど、特別な技術というほどでもなかったわね」
ユナギは黙って頷いた。何か言いかけたが、疲れからか言葉が出てこない。彼は少し困惑した表情を一瞬見せたが、すぐに平静に戻った。
「疲れてるの?」
イングリッドが心配そうに尋ねた。
「はい、少し。昨日のトレーニングがきつかったので」
ユナギは小さく笑った。
「まあ、とりあえず今日のところは空振りってことね」
イングリッドは肩をすくめた。
「明日からは別の目撃場所も調査してみましょう」
四人は静かにうなずき、夜の街へと歩き出した。星空の下、彼らの影が長く伸びていった。




