第四話「支援の手」
カウンセリングルーム3のドアが静かに開いた。部屋は柔らかな光に満ちており、壁面には穏やかな森の映像が投影されている。中央には光を透過するようなガラスのテーブルと、ふわふわとした座り心地のよさそうな椅子が配置されていた。
そして、テーブルの向こう側には…またもやアジア系と思しき人物が立っていた。30代半ばくらいの男性で、黒い髪と温かみのある笑顔が印象的だ。
「ようこそ。お待ちしていました」
彼は穏やかな声で告げた。
「カウンセリング・コーディネーターのキム・ジュンホです。どうぞお掛けください」
僕は指示に従い、椅子に腰掛けた。不思議なことに体重に合わせて形が変わり、ぴったりとフィットする。僕の長い耳が好奇心からピンと立つ。
「なんだか、アジア系の人ばかり会うような…」
思わず口にしてしまった。
キム・カウンセラーは少し驚いたような表情をしたあと、微笑んだ。
「興味深い観察ですね。実はこの区画は東アジア文化遺産保存プログラムの一環があり、関連する遺伝的背景を持つスタッフが多く配置されています。あなたにとって何か特別な意味がありますか?」
「いえ…」
どこまで話すべきか迷う。
「なんとなく親しみを感じるだけです」
カウンセラーは頷き、目の前の空中に浮かぶディスプレイに何かを入力した。
「さて、まず最初にお詫びしなければなりません」
彼は真剣な表情になった。
「あなたの身元情報が中央データベースから確認できないという深刻なシステム不具合が発生しています。技術チームは現在調査中ですが、残念ながらまだ原因は特定できていません」
僕の耳が不安で少し下がる。鼻先も小刻みに震えてしまう。
「それで…僕はこれからどうなるんですか?」
「ご心配なさらないでください」
カウンセラーは優しく言った。
「ノヴァスフィアは包括的な社会保障制度を持っています。特に『特例市民支援プロトコル』があり、あなたのようなケースに対応できるようになっています」
「特例市民…」
「はい。あなたの場合、ラゴモーフ系動物遺伝子融合型という特性も考慮され、さらに手厚い支援が提供されます」
カウンセラーは指先で空中のディスプレイをスワイプし、いくつかの書類らしきものを表示させた。
「具体的には、住居、食料、医療、教育へのアクセスがすべて保障されます。あなたの恒久的な住居は約1週間で準備される予定です。その間は、ウィンターヘイブン・トランジット・レジデンス、いわゆるホテルに滞在していただくことになります」
「一週間…」
僕は考え込んだ。一週間もホテルに泊まるとなると…
「あの、ホテル代はいくらくらいかかるんですか?」
そこで突然、自分がお金を持っていないことに気づいた。僕の耳が驚きでピンと立ち、続けざまに落ち込んで垂れ下がる。
「僕、お金持ってないです…」
カウンセラーは思わず微笑み、それからすぐに真面目な表情に戻った。
「ご心配は不要です。滞在費はすべて特例市民支援基金からカバーされます。あなたの個人負担はゼロです」
「え?本当に?」
僕の耳が再び跳ね上がった。
「もちろんです。食事も基本的なサービスもすべて含まれています」
急に心配が消え、代わりに好奇心が湧いてきた。どんなホテルなのだろう?前世の記憶では、ホテルは旅行の時だけの特別な場所だった。
「じゃあ、僕はただホテルに行けばいいんですか?」
「基本的にはそうです」
カウンセラーは頷いた。
「しかし、その前にいくつかの基本情報を登録させてください。仮ID発行のための手続きです」
彼はディスプレイの別のセクションを開き、質問を始めた。
「まず、お名前ですが…」
「ユナギでいいです」
言葉が自然に口から出た。
「ユナギさん…」
カウンセラーは少し首をかしげたが、すぐに入力した。
「姓はありますか?」
「まだ…ないです」
「承知しました。後日、正式な市民登録の際に選択いただけます」
続いて、身体的特徴や健康状態について簡単な質問を受けた。年齢については「おそらく20代前半」ということで記録された。
「最後に、何か特別なご要望やご質問はありますか?」
「えっと…」
僕は少し考えた。
「お金のことなんですけど…これからどうやって生活費を得ればいいんですか?」
「とても良い質問です」
カウンセラーは笑顔で答えた。
「ノヴァスフィアの経済システムについては、明日の『市民適応オリエンテーション』でご説明します。今日はまず休息してください。あなたにとって大きな変化の日だったでしょうから」
彼は何かを入力すると、手のひらサイズの薄い透明なカードが机の上に現れた。
「これがあなたの仮IDカードです。ホテルへのアクセスと基本的なサービス利用に必要です。明日の朝9時に、ホテルロビーでアシスタントがお迎えします」
僕はカードを手に取った。表面には「ユナギ - 特例市民 - 暫定ID」と浮かび上がるように表示されている。不思議と自分の顔写真も入っていた。いつ撮ったのだろう?
「それから…」
カウンセラーはもう一つのカードを取り出した。こちらは少し厚みがある。
「あなたの状況を考慮して、『初期適応支援キット』が支給されます。これは基本的な日用品の購入や、少額の個人的支出に使えるプリペイドクレジットです」
僕は二つ目のカードも受け取った。これには数字が表示されていたが、その額が多いのか少ないのかわからない。
「あの、これはどのくらいの価値があるんですか?」
キムさんは優しく笑った。
「約2週間分の基本的な生活費と、若干の余裕分です。明日、経済システムについて学んだ後、より理解できるでしょう」
僕は感謝の気持ちで頭を下げた。
「本当にありがとうございます」
「私たちの役目です」
カウンセラーは立ち上がり、僕も続いて立った。
「それでは、PMNユニットがホテルまでご案内します。何か緊急の問題があれば、そのIDカードの緊急連絡ボタンを押してください」
廊下に出ると、先ほどのPMNロボットが待機していた。
「お疲れさまでした」
ロボットは丁寧に頭を下げた。
「トランジット・レジデンスへ移動しましょうか?」
「はい、お願いします」
ロボットに続いて歩きながら、僕は今日一日の出来事を振り返った。朝、見知らぬ場所で目覚めたと思ったら、自分がウサギの特徴を持つ存在で、しかもデータベースに登録されておらず、地球は氷河期で人類は宇宙に移住していて…
考えれば考えるほど頭がくらくらする。けれど不思議と絶望感はない。この世界は、少なくとも僕のような存在でも受け入れてくれるようだ。
「ユナギ…」
僕は小さく自分の新しい名前を呟いた。耳がぴょこんと動く。何だかこの名前、悪くない。
「私もそう思います」
PMNロボットが突然言った。
「その名前はあなたに合っていますね」
僕は驚いて立ち止まった。
「え?僕の考えがわかるんですか?」
「いいえ」
ロボットは振り向いた。
「ですが、特にラゴモーフ系の方は耳の動きで感情が表れやすいですね。きっと喜んでいるのだろうなと、そう感じました」
なるほど、そういうことか。僕は少し恥ずかしくなり、耳が後ろに倒れた。
「行きましょうか」
PMNロボットは再び歩き出した。
「トランスポッドはこちらです」
僕はロボットについていきながら、この新しい世界でなんとかやっていけるだろうかと考えた。不安はあるけれど、なぜか心のどこかで、すべてはうまくいくという予感がしていた。
今夜はホテルで休んで、明日からまた一歩ずつ進んでいこう。僕の長い耳が前向きに立ち、新しい未来への期待を静かに示していた。