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第三十九話「不可思議な音」

「やっと終わった...」


ユナギは疲れた声でつぶやいた。希少存在調査局の自分のデスクで、先ほど提出し終えたブルーグロウに関する詳細な報告書を思い返す。長い白い耳が力なく下を向いている。数日間何度も書き直させられた報告書は、ブルーグロウの発見から調査、そして最終的な結論まで、すべてを詳細に記録したものだった。画像データ、分析結果、証言記録、それらすべてを整理し、論理的な形でまとめあげる作業は、前世でプログラマーだった記憶を持つユナギにとっても、想像以上に骨の折れる仕事だった。


「よく頑張りましたね」


デスクの横に立っていたアルクが優しく微笑みかける。少年のような外見のAIパートナーは、ここ数日のユナギの奮闘をずっと見守ってきた。報告書作成においても多大な助けとなったが、ユナギ自身が主体となって書き上げることにこだわったため、どうしても時間がかかってしまった。


「ありがとう。でもこれが終わらないと次の任務に就けないからね。それに、カミロ所長も僕のフォローで大変そうだったし」


ユナギはそう言って席を立ち、いつもより重く感じる身体を引きずるようにして帰り支度を始めた。今日はボクシングのレッスンもあった。カミロ所長の薦めで始めたそのトレーニングは、「いざというとき自分の身は自分で守れ」という理由だったが、正直なところ、ユナギの体力はそれに追いついていなかった。


「今日のトレーニングは特にハードでしたね」


アルクが言った。


「うん...」


ユナギは肩を落とした。


「トレーナーには瞬発力は褒められたけど、すぐにへばってしまうのが課題だって言われたよ。『ラゴモーフの跳躍力は素晴らしいが、持久力を鍛えなければ一撃必殺で倒せなかったときに危険だ』ってね」


アルクは優しく笑った。


「徐々に改善していきましょう。焦る必要はありません」



ノーザンテラス地区のアパートメントに戻ったユナギとアルクは、夕食の準備を始めた。ユナギは前世の記憶から覚えている和風のパスタを作ることにした。鍋に湯を沸かし、パスタを茹でながら、醤油とバターに少しの鰹節を加えたソースを用意する。シンプルな料理だが、身体の疲れを癒すには十分だった。それでも、今日の疲労はなかなか取れなかった。


「ユナギさん、今日は私に任せてください」


アルクが心配そうに言うが、ユナギは首を横に振った。


「いや、大丈夫。料理をすると少し気が紛れるんだ。それに...」


ユナギは前世の記憶を思い出していた。


「昔から、自分の手で何かを作ることが好きだったんだと思う」


食事を終えると、ユナギは風呂場へと向かった。浴室には、前世の日本のアパートで使っていたものよりずっと広い浴槽と、ラゴモーフ系のために特別に設計された全身ドライヤーが備え付けられていた。

湯気の立ち上る浴槽に滑り込むと、ユナギは小さな溜息をついた。体全体を包み込む温かさが、徐々に筋肉の緊張をほぐしていく。全身を覆う白い体毛は水を含むとより重くなり、その重みがまた独特の安心感をもたらした。前世では経験したことのない感覚だが、不思議と心地よい。

湯船から上がると、特殊ドライヤーの前に立った。丸い台座の上に立ち、スイッチを入れると、360度から温風が吹き出し始める。ユナギは両手を頭上に掲げ、ゆっくりと体を回転させた。全身の体毛が風に揺れ、水分が飛ばされていく感覚は、ラゴモーフ系になってから得た新たな喜びの一つだった。約5分かけて全身をしっかりと乾かし、最後に手持ちのブラシで毛並みを整える。これを怠ると体毛が絡まって不快になるのだ。


「気分はどうですか?」


部屋に戻ると、アルクが笑顔で待っていた。


「うん、湯船に浸かるのって大事だよね。頭も体もすっきりしたよ。...さて、今日はもう疲れたから早めに寝ようかな」


ユナギはそう言って、ベッドに潜り込んだ。アルクは光球形態に変化し、部屋の隅に移動して明かりを落とした。窓の外から漏れる街灯の光だけが、部屋にほのかな明るさを与えている。


「おやすみなさい、ユナギさん」


「おやすみ、アルク」


ユナギは目を閉じ、疲れ切った身体を休ませようとした。しかし、まさに眠りに落ちようとした瞬間—

ウゥゥン...ウゥゥン...

微かな音が聞こえた。

ユナギは目を開け、耳を澄ませた。妙に頭に響くそれは、壁の向こうから聞こえる低いうなり声のような、不規則なリズムを持つ音だった。


「アルク...何か音が聞こえない?」


青い光球が部屋の隅から浮かび上がり、ユナギの方へと近づいてきた。


「音、ですか?私には何も聞こえませんが...」


ウゥゥン...ウォォン...ウゥゥン


「ほら、また聞こえる...」


ユナギは少し神経質になって、右の壁に向かって耳を傾けた。


「右隣の部屋から聞こえているような...」


アルクは光球から人型へと変化し、同じく壁に耳を当てた。


「私には本当に何も聞こえません。音の性質をもう少し詳しく説明していただけますか?」


「うーん...ウォォンとかウゥゥンとか...低いうなり声のような...いや、むしろ壁の中から何かが唸っているような...」


ユナギは苛立ちを感じ始めていた。通常は立っている白い長い耳がピクピクと小刻みに動いている。その音は微かだったが、無視できない存在感があった。それは単に物理的に聞こえるというだけでなく、何か神経を逆立てるような、心理的な不快感も伴っていた。


「右隣はフジミヤさんのお部屋ですが...」


アルクは考え込むように言った。


「今確認してみましょうか?」


「いや、時間も遅いし...」


ユナギは少し迷ったが、やはり気になる。


「でも確認だけでもしてくれないかな?本当に隣から音がしているかどうか」


アルクは了承し、隣室との境界となる壁に近づいて様々なセンサーを使って確認を始めた。数分後、アルクは首を横に振った。


「振動、音波、電磁波、いずれも通常範囲内です。隣室からの異常な音の発生は検出できません」


ウゥゥン...ウォォン...ウゥゥン


「でも確かに聞こえるんだ...」


ユナギは眉をひそめた。


「まるで...壁の中に何かがいて、唸っているみたいに...」


アルクはユナギの方へ戻り、心配そうな表情で言った。


「精神的な疲労が聴覚に影響を与えている可能性があります。耳鳴りのような現象かもしれません」


ユナギは少し考え、深く息を吐いた。


「そうかもしれないね...ここのところ書類仕事ばっかりだったし…」


「明日、念のため医療施設で検査を受けることをお勧めします」


「わかった...そうするよ」


ユナギは少し落ち着いた声で返事をしたが、やはり気になって仕方がなかった。


「でも、念のために行政センターにも連絡しておいてくれないかな?もし何か建物の問題があるなら...」


「承知しました。明朝、適切な部署に状況を伝えておきます」


ユナギは再びベッドに横になり、耳を塞ごうとしたが、ラゴモーフ系の大きな耳は完全に覆うことができなかった。不規則な低いうなり声は断続的に続き、眠りを妨げ続けた。

そして突然、約1時間後—


「あれ?音が...止んだ?」


それまで微かに続いていた音が、まるでスイッチを切ったように完全に消えた。


「ほんとうですか?」


アルクは再び人型に変化し、ユナギのベッドサイドに近づいた。


「うん...さっきまであれだけうるさかったのに、今は何も聞こえない」


ユナギは不思議そうに耳を動かした。


「やっぱり気のせいだったのかな...」


「いずれにせよ、今は静かなようですね。ゆっくりお休みください」


ユナギは頷き、再び目を閉じた。今度は妨げるものはなく、すぐに深い眠りに落ちていった。



朝、目が覚めると、昨夜の音の記憶は夢のようにぼんやりとしていた。ユナギはベッドから起き上がり、耳を傾けたが、特に異常な音は聞こえなかった。


「よく眠れましたか?」


アルクが朝食の準備をしながら尋ねた。


「うん、あの唸り声のような音が止んでからは熟睡できたよ」


ユナギは伸びをしながら答えた。


「行政センターには連絡した?」


「はい、建物管理部門に状況を伝えました。近日中に調査に来るとのことです」


「ありがとう」


朝食を食べながら、ユナギはニュース映像を見ていた。


「そして、ウィンターヘイブン区画の天気予報です。本日から徐々に暖かくなり、週末にかけて平均気温が2度上昇する見込みです。北部地域では昨夜から霧が発生しており、朝の通勤には視界に注意してください...」


「暖かくなるのは嬉しいけど、やっぱり少し寂しいな」


ユナギはトーストを噛みながら言った。


「ここの雪景色が好きだったから」


「ウィンターヘイブンは四季がある区画ですから、雪は来年までおあずけですね」


アルクは優しく微笑んだ。


「ですが、夏にはまた違った美しさがあります」


朝食後、ユナギはベランダに出て植物の世話をした。ブルーベリー、イチゴ、ラズベリーの苗は順調に育っており、特にブルーベリーとの間には不思議な絆が生まれていた。植物に水をやりながら、ユナギは小さな声で話しかけた。


「今日も元気?少し暖かくなるみたいだから、気持ちいいだろうね」


わずかな返事が感じられたような気がしたが、それは微かな感覚に過ぎなかった。



希少存在調査局に到着すると、カミロ所長が廊下で待ち構えていた。


「おはよう、希少種!ブルーグロウの報告書、しっかり読ませてもらったぞ。これなら何とか上を説得できそうだ」


「ありがとうございます」


ユナギは少し照れながら答えた。長い耳が嬉しそうに前傾している。


「さて、ボクシングのほうはどうだ?」


「まだまだです...瞬発力はいいようですが、すぐに疲れてしまって...」


カミロは大きく笑った。


「それは想定内だ。事前に聞いていた君の身体特性を考えれば当然だろう。強打と逃げ足を鍛えるのが君の戦法だ。持久戦は禁物だな」


事務所に入ると、カミロは真面目な表情に戻った。


「次の任務だが、君はまだ新人だからな。しばらくは先輩調査官の業務補佐に就いてもらう」


「先輩、ですか?」


「ああ、イングリッド・ハンセンという女性だ。若いが経験豊富で、直感的な判断力に優れた調査官だ。彼女から多くを学べるだろう」


アンソニーが書類を手に近づいてきた。


「イングリッド調査官は現在現場から戻る途中です。事件の概要をご説明いたします」


アンソニーが説明を始めた。


「現在、ウィンターヘイブン区画で奇妙な現象が発生しています。複数の市民が、実際には雪が降っていないにも関わらず、『幻のような雪景色』を目撃したと報告しています」


「幻の...雪景色?」


ユナギは耳を立てて興味深そうに聞いた。


「はい。一時的に周囲の景色が雪に覆われて見える現象です。夕方から夜間にかけて現象が発生し、しばらくすると消えるという特徴があります。目撃者のほとんどは強い『懐かしさ』や『郷愁』の感情を抱いたと報告しています」


「何か規則性はあるんですか?特定の場所とか?」


「現時点では明確な法則性は見出せていません。確認された目撃地点は3か所、目撃者はこちらが把握している限り5人です」


アンソニーは淡々と続けた。


「大半の目撃者は一時的な感動を覚えた程度でしたが、1名、元々感受性が鋭く鬱傾向のあった人物が強い情緒不安定に陥り、精神科を受診したことから事件が発覚しました」


「行政の気象管理部門は?」


アルクが尋ねた。


「そのような気象現象を人為的に発生させた記録はないとのことです」


アンソニーは答えた。


「また、自然発生的な気象現象としても説明がつかない状況です」


カミロ所長が補足した。


「イングリッドは既に現場調査と目撃者への聞き取りを行っている。彼女が戻ってきたら、詳細を—」


「おっはよーございまーす!」


元気な声とともに、ドアが勢いよく開いた。そこには20代前半の金髪の女性が立っていた。彼女はユナギを見ると、目を輝かせた。


「わあ!これが噂のラゴモーフ系の新人さん?かわいい!」

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