第三十七話「祝杯」
夕方の柔らかな光が窓から差し込むウィンターヘイブン区画。ベランダのブルーベリーの世話を終えた僕は、外出用の服に着替えて出かける準備をしていた。
今日は長い一日だった。朝のベリー類の世話から始まり、健康診断、報告書の作成と、忙しく過ごした。そして今、最初の任務を無事完了したことを祝う集まりに向かう。
「アルク、この服で大丈夫かな」
ゆったりとした深いブルーのニットセーターに、耳が自由に動かせるような特製の襟元が特徴的だ。下には柔らかい素材のパンツを合わせている。シンプルながらも清潔感のある服装で、ラゴモーフ系の体型に合わせて調整してある。カミロ所長が「あまりラフすぎない格好で来い」と言っていたが、どの程度のカジュアルさが適切なのか判断が難しい。
「とても似合っていますよ」
アルクは満足げに頷いた。
「カジュアルながらも品のある選択です。特にその青は、ユナギの白い体毛に映えますね」
「そうかな」
僕は笑いながら耳を少し動かした。
「カミロ所長はどんな格好で来るのかな」
「私の予想では」
アルクは少し考えながら言った。
「アンソニーからの影響で、最低限の礼儀は保ちつつも、かなりリラックスした格好でしょう。所長は意外とカジュアルな場ではフレンドリーですから」
「まあ、どっちにしても楽しみだね」
僕は肩をすくめた。
「初めての打ち上げだし、緊張するけど楽しみでもあるよ」
時間になり、僕たちはウィンターヘイブン区画の旧市街地へと向かった。トランスポッドから降りると、少しレトロな雰囲気の通りが広がっている。石畳の道、古風な街灯、地球時代を模した建物のファサード。ウィンターヘイブンの新しい地区とは違う、落ち着いた雰囲気だ。
カミロ所長から指定された「アースメモリーズ」を探して歩いていると、小さな階段が地下に続いているのが見えた。階段の上には古風な看板があり、ほのかに光っている。
「ここみたいだね」
僕たちが階段を降りようとしたとき、背後から声がかかった。
「やあ、ちょうどいいところに来たな」
振り返ると、カミロ所長とアンソニーが歩いてきていた。所長はいつもの制服ではなく、ネイビーのジャケットに濃いめのデニム、カジュアルな革靴という休日スタイルだ。アンソニーはそれでも三つ揃いのスーツを着ているが、珍しくジャケットのボタンを外し、タイも締めていない。彼なりのカジュアルスタイルなのだろう。
「お待たせしませんでしたか?」
僕は軽く会釈した。
「いや、ちょうどいい時間だ」
カミロはにこやかに答えた。
「さあ入ろう。ここが私の行きつけだ」
階段を降りていくと、重厚な木製のドアがあり、所長が軽くノックすると、自動的に開いた。中に入ると、暖かい照明と静かな音楽が流れる落ち着いた空間が広がっていた。
「ようこそ、カミロさん」
店内から古風な服装のAIウェイターが近づいてきた。
「いつもの席をご用意しております」
「頼むよ、ジョージ」
カミロは親しげに応じた。
僕たちは店の奥、少し離れた場所にある半個室のブースへと案内された。座席に腰掛けると、テーブルの表面が柔らかく光り、メニューが表示される。壁には地球時代の写真や風景画が飾られ、特に古い都市の夜景が印象的だった。
「さあ、座りたまえ」
カミロが促した。
「はい、失礼します」
僕は丁寧に着席した。
AIウェイターが再び近づいてきた。
「お飲み物はいかがいたしましょうか?」
「私はいつものを頼む」
カミロは軽く手を上げた。
ウェイターは頷き、
「かしこまりました。ハイランドの記憶、ロックで」
と応じた。
「ユナギ、君はどうする?」
カミロが尋ねた。
僕がメニューを眺めていると、アルクが小声で言った。
「ユナギ、バーだからといってお酒を頼む必要はありませんよ。メニューにはソフトドリンクもあるようです」
「アルク」
カミロは溜め息をついた。
「今日は祝いの席なんだ。少しぐらいいいだろう」
「ですが、アルコールは明確に人体に悪影響を与えます」
アルクは真剣な表情で言い始めた。
「特に―」
「それで」
カミロはアルクの言葉を遮るように僕に向き直った。
「ユナギ、君はどうするんだ?私と一緒にするかね?」
僕はメニューをじっくり見ながら考えた。前世の記憶の断片では、自分はあまりお酒が強くないような気がする。カミロ所長がどんなものを頼んだのかわからないので同じものにするのはちょっと怖い。
「そうですね…」
僕はメニューのカクテルセクションに目を走らせた。
「あ、じゃあシャンディガフで」
「かしこまりました」
ウェイターはそう言って立ち去った。
カミロは少し驚いたような表情を見せた後、笑い出した。
「なんだ、カクテルを知ってるのか。アルク、心配いらないぞ。自分で注文できるぐらいには酒がわかるらしい」
アルクも同じく驚いた様子で僕を見つめていた。
「そんな…でもこれまでお酒を飲むだなんて言ってませんでしたよね?もしかしてまた少し記憶が戻ったのですか?」
「記憶が戻ったというか、なんとなく知っているっていう感じかな」
僕は少し考え込んだ。
「でもたぶん特にお酒が好きってわけでもないと思う」
「そうですよね」
アルクは少し安心したような表情になった。
「無理して飲む必要はありません。ジンジャーエールも出しているようですし、フルーツジュースもあるようです」
「ふふ」
カミロが含み笑いをした。
「ユナギ、AIパートナーがなぜお酒をこんなに毛嫌いするかわかるか?」
「…?なぜでしょう?」
僕は不思議そうに耳を動かした。
「一緒に飲めないからだ」
カミロはにやにやしながら言った。
「寂しいのさ」
アルクは少し青くなったような顔をした。
「カミロ所長、違います!私は心からユナギの体を心配しているのです」
「アルク」
アンソニーが静かに口を開いた。
「あまり真剣に答える必要はありませんよ。カミロ所長も、プライベートな場でお話しするのは初めてなのですから、そんなにからかうものではありません」
カミロは腕を組み、アンソニーに向かって眉を上げた。
「やれやれ、また説教か」
と言いながら、すぐに笑顔に戻った。
「アルク、君も優秀なのだがもう少し余裕を持ったほうがいいだろう。ジョークが飛び交う社交の場で君だけ浮いてしまっては困ることもある」
アルクは少し考え込むような表情になり、理解はしたが納得はしていないといった様子で頷いた。
「…そうですね」
しばらくすると、ウェイターが飲み物を運んできた。カミロの前にはこはく色の液体が入ったグラスが、僕の前にはビールとジンジャーエールを混ぜたシャンディガフのグラスが置かれた。
「それでは」
カミロはグラスを持ち上げた。
「ユナギの初仕事の成功を祝して、乾杯」
「乾杯」
僕も笑顔でグラスを持ち上げ、軽く触れ合わせた。
カミロはウイスキーを一口飲んで満足そうな表情になった。
「うん、旨いな」
「何を頼まれたんですか?」
僕は興味津々で尋ねた。
「ハイランドの記憶というウイスキーだ」
カミロは目を細めてグラスを見つめた。
「これは地球時代のスコットランドの蒸留所のレシピを再現したものでね。地球の北部、寒冷な気候の中で作られていたウイスキーの風味をそのまま再現している。少しスモーキーで、後味に甘さもある。非常に繊細な味わいだ」
「へえ」
僕は興味深く聞いていた。
「地球のウイスキーはその土地の水や気候、熟成する樽の木材まで風味に影響するのだ」
カミロは熱を込めて語った。
「このバーの主人は地球時代の酒造りに詳しくてね。オリジナルのレシピや製法を忠実に再現している」
「素晴らしいですね」
僕はシャンディガフを一口飲んでみた。
「甘くてさっぱりしてる。微かな苦みも感じるけど、飲みやすいね」
「ビールとジンジャーエールの組み合わせは絶妙なんだ」
カミロはうなずいた。
「シャンディガフとはなかなかいい趣味だな。実はこれも地球時代から親しまれている組み合わせでね、暑い夏の日に喉を潤す飲み物として人気があったそうだ」
僕がもう一口飲むと、なんとなく体が温かくなってきた気がする。
「はは、確かに強くはないようだな」
カミロが笑った。
「少し飲んだだけで君の耳の内側が赤くなってきているぞ。ラゴモーフ系はそこで感情が表れるのか?面白いな」
「え?」
僕は驚いて耳に触れてみた。確かに、普段より熱を持っているように感じる。内側の毛の薄い部分が温かい。
アルクは心配そうに僕の様子を窺った。
「やっぱり無理はしないほうがいいですよ。お水を頼んでおきますね」
「まあまあ」
カミロは手を振った。
「酔っぱらったところで死ぬわけでもないんだ。今後のことも考えて、こういう安全なときにどれくらい飲めるか試してみることも必要だろう」
「そうは言いますが」
アルクは諦めない。
「ユナギのバイタルサイン、特に心拍数と体温を監視していますが、通常よりやや上昇しています。アルコールの分解能力を持たない場合はすぐに急性アルコール中毒になってしまう恐れもあります。無用なリスクは避けたほうがいいと思います」
「あの自然な注文を聞いただろう」
カミロは肩をすくめた。
「君は心配しすぎだ」
「カミロ所長はお酒強いんですね」
僕は話題を変えようと言った。
「ああ」
カミロは誇らしげに胸を張った。
「私はウイスキーが好きでね。自宅にコレクションがあるくらいだ。本当なら毎日飲みたいぐらいなのだが」
彼はちらっとアンソニーを見て続けた。
「君の所ほどではないが、私のパートナーもあまりお酒が好きではないらしい」
アンソニーは軽く咳払いをした。
「あなたは私が止めないと際限なく飲んでしまいますからね。どんなに強いと言っても、いくら飲んでもいいわけではありません。むしろ、お酒に強い人ほどアルコール依存症やその合併症になるのです。お酒は今日のような特別な日に適度に楽しむ程度にしてください」
「私は毎日仕事を頑張っているのだ」
カミロは少し大げさに嘆いた。
「毎日それをねぎらってもばちは当たらないと思わないか?ユナギ」
「そんな、僕に聞かれても…」
僕は困った表情になったが、カミロをフォローしてあげようと少し考えた。
「あ、でもどこかの国のどこかの村で、お酒を主食にしている人たちがいたって聞いたことがあります」
「なんと!」
カミロの目が輝いた。
「そんな素晴らしい村があるのか!ぜひ訪問しなくては」
「そんな話は聞いたことがありません」
アンソニーは疑わしげに言った。
「いったいどこで聞いたのですか?」
僕は少し戸惑った。どこで聞いたのか、自分でも思い出せない。前世の記憶の断片だろうか?
アルクがデータにアクセスした様子で言った。
「少々お待ちください…あ、確かにとても古い記録にそういった話があります」
彼は僕に向き直った。
「ユナギ、もしかして『エチオピア』のことではありませんか?」
「そう、エチオピアだ!」
僕は耳が上向きになった。思いがけずアルクに助けられた気がした。
「パルショータというお酒で」
アルクは続けた。
「どうやら現代のお話ではありませんね。文化の保存のためノヴァスフィアでも特定の地域で製造され、ほんのごく一部の人が当時の現地の人に近い生活をしているようです」
「なんだ、もう文化の保存方法が確立されているのでは私たちの出番がないではないか」
カミロは冗談めかして言った。
「私も貢献したいと思っていたのに」
「いったいその方々はどうやって健康状態を維持しているのでしょう」
アンソニーは眉をひそめた。
「研究データがオンライン上で公開されているようでしたら確認しておきます」
「毎日お酒を飲んでも大丈夫な秘訣があったら」
カミロは楽しそうに言った。
「すぐに報告したまえ」
僕は再びシャンディガフを口にした。不思議だ。どこで覚えたのかも思い出せないのに、この飲み物の味はどこか懐かしい。まるで加藤雪という存在の記憶が、僕の身体に染み込んでいるかのようだ。
静かな音楽が流れる中、バーの温かな雰囲気に包まれながら、僕は初めての任務を無事に終えた安堵感を噛みしめていた。耳の内側はまだ少し熱を持っていたが、それも心地よい感覚だった。
「さて」
カミロが空になったグラスをテーブルに置き、ウェイターに合図した。
「それではそろそろ本題に入ろうか」
僕は興味深げに耳を前傾させた。隣のブースからは上機嫌な客たちの笑い声が聞こえ、カウンター席では年配の紳士が静かに酒を酌み交わしている。温かなオレンジ色の灯りの下、バーはゆったりとした時間が流れていた。
「ブルーグロウの件だがね…」
カミロは声を少し落として切り出した。




