第三十五話「覚醒と追跡」
実験栽培室Bに足を踏み入れた僕は、周囲を素早く見回した。部屋は予想以上に広く、壁沿いに実験台が並び、様々な測定機器やプランターが整然と配置されている。天井からは特殊な照明装置が吊り下げられ、青白い光が空間全体を照らしていた。
「ユナギ、何か見つかりましたか?」
アルクの声がコンタクト・ビジュアライザーを通して聞こえる。
「もうちょっと待って」
僕は小声で答えた。
その時、部屋の奥、壁際のテーブルに置かれた小さな鉢植えの列が目に入った。それらは微かに青白い光を放っている。
「見つけた…」
僕は慎重に近づき、観察した。間違いなくブルーグロウだ。イチゴの茎と葉を持つ植物で、小さな果実がいくつか実っている。そのどれもが暗闇で青く光を放っていた。しかし、葉の色は少し褪せ、茎も垂れ気味だ。元気がないように見える。
「これがブルーグロウか…」
僕は鉢に近づいた。
その瞬間、植物からの声が一層鮮明に聞こえた。
「助けて…ここは私たちの場所じゃない…」
僕は思わず鉢に手を伸ばした。触れると、弱々しい声が頭に響いた。
「早く…」
「ユナギ」
アルクの声が緊迫感を帯びていた。
「十分なデータを取得しました。すぐに退出してください。研究員たちがいつ戻ってくるかわかりません」
「わかった」
僕は周囲を最後にもう一度見回した。
部屋の隅には大きなモニターがあり、なにやらデータが表示されている。近づいて見ると、「テラ・オリジン・プロジェクト」という文字と地球の画像、そして複雑な遺伝子配列のようなものが映し出されていた。
「テラ・オリジン…地球原産種の…」
突然、扉が開く音がした。
僕は振り返った。ドア枠に立っていたのは、白髪の厳格な表情の男性と、その後ろにいるチョウ・ミンフイ、そして二人の研究員だった。
「君は誰だ?」
白髪の男性——おそらくミュラー博士——が鋭い目で僕を見た。
ミンフイがすぐに僕を認識し、顔に怒りの色が浮かんだ。
「ラゴモーフの若者!」
彼は驚きの声を上げた。
「パーティーに来た希少存在調査官だな。ここで何をしている?」
彼は腕にある通信機器に手をやった。
「セキュリティ、十階実験栽培室Bに侵入者あり。即刻対応せよ」
ミュラー博士がミンフイを見た。
「あなたはこの者を知っているのですか?」
「孫が招待した希少存在調査局の者だ」
ミンフイは冷たく言った。
「明らかにスパイ行為をしている」
「捕まえろ」
ミンフイが二人の研究員に命じた。
大柄な男性研究員が素早く近づいてきた。彼が僕の腕をつかもうとした瞬間、僕は反射的に身をひねって振り払おうとした。その動きと同時に、僕の手首にあるフィールド・プロテクターが起動した。青白い光のバリアが僕の周りに展開し、二人の研究員を弾き飛ばした。
「何だ!?」
ミンフイが驚きの声を上げた。
その隙に、僕は素早く身を翻し、近くのブルーグロウの鉢を一つ掴み、ドアに向かって駆け出した。
「逃がすな!」
ミンフイの怒声が背後から聞こえた。
廊下に飛び出し、僕は非常口の方向へと全力で走り出した。ラゴモーフの身体能力がここで役立っている。普通の人間よりも速く、軽やかに動けるのだ。
「ユナギ、右に曲がって!」
アルクの声が指示した。
言われた通りに曲がると、背後から追ってくる足音が次第に遠ざかっていくのが聞こえた。研究員たちもミンフイも、僕のスピードについてこられないようだ。
「このまま非常口まで行けるか?」
僕は息を切らしながらアルクに尋ねた。
「あと100メートルほどです」
アルクが答えた。
「しかし、セキュリティシステムが全域で作動し始めています。急いでください」
僕は鉢植えを抱えながら全力で走り続けた。既に息が上がり、足にも疲労が溜まってきているが、非常口まで逃げ切れればその先は...
「しまった!」
廊下の角を曲がると、非常口の前に銀色の巨大なロボットが立ちはだかっていた。おそらくセキュリティロボットだ。その機械的な顔が僕に向き直り、右腕が変形して銃の形をした武器のような形になった。
「侵入者、停止せよ」
機械的な声が響いた。
僕は立ち止まり、後ずさりした。逃げ道を失った僕は、極度の恐怖を感じ始めた。心臓が激しく鼓動し、呼吸が荒くなる。
ロボットが武器を僕に向けた。
「抵抗は無意味である。投降せよ」
もう駄目だ——僕は目を閉じた。極限の恐怖と生存本能が混ざり合い、体の中で何かが弾けるような感覚があった。
目を閉じたまま、全身に奇妙なエネルギーが満ちるのを感じた。そのエネルギーが僕の意識とつながり、まるで目に見えない手が伸びるように、前方に向かって放出された。
大きな金属音が響き、僕は目を開けた。
信じられない光景が目の前に広がっていた。セキュリティロボットが壁に叩きつけられ、大きく凹んだ壁面に押しつぶされている。しかし不運なことに、ロボットはちょうど非常口の前に倒れ込んでおり、その重みでドアが塞がれてしまっていた。
「今の...何だったんだ?」
僕は自分の手を見つめた。
「後で考えましょう」
アルクの声は緊張を隠せない。
「他の経路を探してください。戻るしかありません」
僕は来た道を振り返った。しかし、廊下の向こうから一人の研究員が現れ、ロボットと同じような武器を構えていた。
またも恐怖が僕を襲った。しかし今度は、先ほどの感覚を思い出せる。僕は本能的に手を前に突き出し、
「近づくな!」
と叫んだ。
見えない波動が手から放たれ、研究員は強い風に吹かれたかのように数メートル後ろによろめいた。武器も手から落ち、廊下の壁に叩きつけられた。
何が起きているのか自分でも理解できなかったが、考えている暇はない。僕はよろめく研究員の脇を素早く通り過ぎ、研究エリアの入り口方向へと走った。
「あと少しです!」
アルクが励ました。
「セキュリティゲートさえ抜ければ...」
言葉が途切れた瞬間、研究エリアの入り口が見えてきた。しかし、そこにはミンフイ、ミュラー博士、そして数人の研究員が立ちはだかっていた。
「もう逃げ場はないぞ」
ミンフイが冷たく言った。
僕は再びフィールド・プロテクターを起動しようとした。しかし、突然、耳をつんざくような高周波の音が室内に響き渡った。その音は僕の耳に激痛をもたらした。
「ああっ!」
僕は鉢植えを落とし、両手で耳を押さえた。しかし、効果はなかった。痛みは直接脳に届いているようだった。視界が歪み、膝から崩れ落ちる。
「ソニックチルター、効果的ですね」
ある研究員の声が遠くから聞こえた。
激痛の中、フィールド・プロテクターのスイッチを押そうとしたが、何の反応もない。
「電磁パルスも効果的だったようです」
別の研究員の声。
「先ほどのバリアが展開されません。ソニックチルターも、彼のような聴覚の発達した種には特に効果的です」
耳鳴りと痛みで意識が遠のいていく。床に倒れ込んだ僕は、かろうじて目を開けていた。歪んだ視界の中、ミュラー博士が近づいてくる。
「いったい何をした」
ミュラー博士は怪訝そうな顔でユナギを見た。
「さっきのバリアではセキュリティロボを撃退できるとは思えん。何か武器を隠し持っているはずだ。まずはそれを取り上げろ」
「問題はそこではない」
ミンフイの怒った声。
「彼がどれだけの情報を得たかだ」
意識が途切れかけるなか、二人の研究員が僕から武器を取り上げようと体中を探った。抵抗する力もなく、僕はただ彼らに身を任せるしかなかった。
「何も見つかりません」
研究員の一人が報告した。
「そんなはずはない!」
ミンフイが声を荒げた。
「あんな技術はウチのロボットすら持っていない」
「だから市場に出すべきではないとあれほど言ったのだ」
ミュラー博士は怒りを抑えきれない様子で言った。
「いくら対象を絞ったとしてもこうなることは予想できたはずだ。正式な認可も取らずに…」
「投資をしている以上、回収の算段を立てるのは当然だ!それに後追いで認可をとるには根回しが必要なんだ!」
ミンフイも譲らない。
「我々は慈善事業でこのプロジェクトを推進しているわけではない!ここまで強引な調査があるとは想定外だったが…」
「調査局の動きをナメていたのはあなたではないか!」
二人の激しい口論が続く中、僕の意識はどんどん遠のいていった。
「とにかく地下研究室に連れて行け」
ミンフイが命じた。
「何が起きているのか徹底的に調べる必要がある」
暗闇が僕を包み込んでいく。最後に見たのは、床に落ちたブルーグロウの小さな鉢。青い光を放つ果実が、まるで助けを求めるように僕を見つめているように思えた。




