第三十四話「植物の囁き」
インタビューの後半、リンイーの質問は徐々に専門的になっていった。僕は自分の知識の範囲内で答え続けていたが、彼女の表情には微妙な失望の色が見えていた。
「まだまだ質問はあるのですが…」
そのとき、リンイーの端末が突然通知音を鳴らした。彼女は画面を確認すると、驚いた表情になった。
「あら、もうこんな時間!」
彼女は申し訳なさそうに立ち上がった。
「すみません、次の予定がありまして。本来はもっとお時間をいただきたかったのですが…」
「大丈夫ですよ」
僕は微笑んだ。
「色々とお聞きいただいてありがとうございます」
リンイーはデスクの上の書類を素早く整理すると、待機していたAIパートナーのサラと共に扉へと向かった。
「あ、カードキー!」
彼女は突然思い出したように振り返った。
「お返しいただかなければ…」
「受付に返せば大丈夫ですよね?」
僕は何気なく提案した。
「どちらにせよ帰りがけに立ち寄りますので」
リンイーは一瞬迷ったが、時間的な制約もあってか、すぐに頷いた。
「ええ、それで構いません。受付に『リンイーからの預かり物』と言って渡してください」
彼女は礼儀正しく別れの挨拶をし、サラと共に廊下へと姿を消した。ドアが閉まるやいなや、アルクが僕の隣に立った。
「ユナギ、考えていることは危険すぎます」
彼の声には強い懸念が込められていた。
「知ってる」
僕は小声で答えた。
「でも、この機会を逃してしまったら、二度とブルーグロウの謎に迫れないかもしれない。マイクが与えてくれるアクセスを使わない手はないよ」
「しかし、それは明らかなリスクを伴います」
アルクは厳しい表情で言った。
「あなたは単なる好奇心で命を危険にさらそうとしているのです」
「好奇心じゃない」
僕は真剣に答えた。
「これは僕の最初の任務だよ。希少存在調査官としての責任なんだ。カミロ所長だって僕に任せてくれたんだ」
「カミロ所長は危険な潜入捜査は想定していませんでした」
「でももう遅いよ」
僕は耳を前傾させた。
「マイクに嘘をついてしまった以上、このまま何もせずに帰ったら、嘘がバレてもっと問題になるかもしれない。少なくとも何か成果を持ち帰らないと」
アルクは長いため息をついた。それは人工的な息だったが、彼の感情をよく表していた。
「わかりました」
彼は諦めたように言った。
「ただし、明らかな危険が迫った場合は即座に撤退するという約束をしてください」
僕は頷いた。
「約束する」
僕たちは会議室を出て、廊下をそっと歩いて研究エリアへと向かった。セキュリティゲートに近づくと、アルクが不安そうに言った。
「ユナギ、私はこのゲートを通過できません。セキュリティシステムに登録されていない存在が通過しようとすると、警報が鳴る可能性があります」
「そうか…」
僕は少し考え込んだ。
「じゃあ、別行動にしよう」
「その方が安全でしょう」
アルクは同意した。
「私は光球形態になって周囲を監視します。コンタクト・ビジュアライザーを通じて常に通信は維持します」
そう言うと、アルクの姿が徐々に青灰色の光の球体へと変わっていった。彼は小さく浮かび上がり、天井の角にある通気口へと消えていった。
「大丈夫?」
僕は小声で尋ねた。
「問題ありません」
アルクの声がコンタクト・ビジュアライザーを通して聞こえた。
「あなたの視界は常に監視できています。まず、非常口の場所を確認することをお勧めします。撤退経路の確保は最優先事項です」
「了解」
僕はカードキーをセキュリティゲートのリーダーにかざした。ビープ音と共に緑色のランプが点灯し、ゲートが開いた。マイクの約束通り、アクセス権が与えられていたようだ。
研究エリアは予想以上に静かだった。白を基調とした廊下には、何枚もの扉が並んでいる。それぞれの扉には小さな銀色のプレートが付いており、部屋の用途や責任者の名前が記されていた。いくつかの扉には指紋認証や網膜スキャナーなどの追加のセキュリティシステムが設置されている。
「まずは非常口だね」
僕は小声で呟き、通路を進んだ。
廊下の奥に赤いサインの点いた扉を見つけた。非常口だ。確認すると、内側からは特別な認証なしで開けられることがわかった。当然だろう。火災などの緊急時に内側から出られないなんてことがあったら大変だ。
「退路は確保できました」
僕はアルクに報告した。
「良いでしょう」
アルクの声が返ってきた。
「次は何をお探しですか?」
「ブルーグロウに関する何らかの情報…できれば実物」
僕は静かに廊下を進み、各部屋のプレートを確認していった。「植物バイオテクノロジー研究室」「海洋生態系解析センター」「生物発光応用研究所」…興味を引くような名前が並んでいるが、どれもカードキーだけでは入れない様子だった。
進むにつれて、研究員たちの声が聞こえてくる部屋もあった。僕は誰かに会うことがないよう、細心の注意を払いながら移動した。
「焦らないでください」
アルクの声がアドバイスを送ってきた。
「近くに人がいる場合は、私が警告します」
僕は立ち止まり、周囲の状況をより良く把握するために集中し始めた。耳を最大限に動かし、微かな音の変化にも注意を向ける。目を細め、微細な動きも見逃さないよう視線を巡らせた。息を整え、異なる空間からわずかに漂ってくる匂いの違いも感じ取ろうとした。
前世では考えられないほどの感覚が研ぎ澄まされていくのを感じた。廊下の突き当たりで誰かが足を踏み出す音、遠くの部屋でのコップの置かれる音、別室での小声の会話…全てが鮮明に聞こえてくる。
視界も変化し始めた。物の輪郭がより明確になり、同時に周辺視野が広がっていく。まるで時間がわずかに遅くなったかのように、動きを予測できるような感覚だった。
「ユナギ?」
アルクの声が聞こえた。
「あなたの生体信号が変化しています。何が起きていますか?」
僕は答えようとしたとき、それを聞いた。
声だった。しかし、人の声ではない。
「助けて…」
植物の声だった。パキポディウムの時と同じだ。だが今回はより切迫していて、弱々しい。
「声が聞こえる」
僕は囁いた。
「声?誰の?」
アルクが聞き返した。
「あの時と一緒だ。きっと植物…植物の声だ」
僕はその声に引き寄せられるように廊下を進んだ。左折、右折と進むうちに、声はより明確になってきた。
「苦しい…まぶしい…」
感覚はさらに鋭くなり、声のする方向へと僕を導いた。やがて「ミュラー博士研究室」と書かれたプレートのある扉の前に立った。しかし、声はそこからではなく、隣の部屋から聞こえているようだった。「実験栽培室B」と表示されたその扉には、カードリーダーだけが付いている。
僕がその扉に近づこうとした瞬間、鋭い感覚が警告を発した。誰かが近づいている。それも複数の人間が。
僕は急いで近くの廊下の角に隠れた。数秒後、実験栽培室Bの扉が開き、数人の研究員が出てきた。みな白衣を着ており、何やら談笑している。
「やっと一息つける」
「この実験、いつになったら結果が出るんだろう」
「頭をリフレッシュしないと、データの解析も進まないよ」
「ミュラー博士は来ないの?」
「彼はミンフイ氏との会議があるって」
「じゃあ全員揃ったね、行こうか」
研究員たちが通路の反対方向へ歩いていくのを確認してから、僕はゆっくりと隠れ場所から出た。
「アルク、周囲は安全?」
僕は小声で尋ねた。
「現在このエリアに人の気配はありません」
アルクが答えた。
「しかし、長居は危険です。彼らがいつ戻ってくるかわかりません」
僕はカードキーを「実験栽培室B」の扉のリーダーにかざした。緑色のランプが点灯し、ロックが解除された。
「入れた!」
僕は素早く中に入り、扉を閉めた。
心臓が激しく鼓動している。耳の中で血液が流れる音が聞こえるほどだ。手のひらには冷たい汗が滲み、足元がわずかに震えていることに気づいた。危険領域に足を踏み入れた緊張と、未知の発見への期待が入り混じって、全身の感覚が研ぎ澄まされていく。息を吸い込むたびに、鼻腔に届く無機質な空気の匂いさえ、いつもより鮮明に感じられた。




