第三十三話「危険な嘘」
バイオジェネシス・ラボの建物は、ウィンターヘイブン区画北東部にそびえる近代的な高層建築だった。ガラスと金属を基調とした外観は洗練されており、入口には巨大な二重扉が設置されている。
「緊張するね」
僕は小声でアルクに言った。
「自然に振る舞うことです」
アルクは静かに答えた。
「リンイーさんはきっとチョウ・ミンフイ氏に言われ警戒しているでしょうから」
僕たちは受付に向かい、訪問の目的を告げた。数秒後、リンイーが現れた。彼女は洗練されたビジネススーツを身にまとい、髪はきちんとまとめられていた。その後ろには、彼女のAIパートナーであるサラも静かに従っていた。サラは洗練されたデザインの女性型AIで、リンイーと完璧な調和を保っているようだった。
「ユナギさん、アルクさん、お越しいただきありがとうございます」
彼女は温かな笑顔で迎えてくれた。
「どうぞこちらへ」
リンイーに導かれて、僕たちは広々としたエレベーターに乗り込んだ。そこで彼女は両手の平を認証パネルに当て、さらに「リンイー・チョウ、エグゼクティブレベル」と声で認証した。
「セキュリティが厳重ですね」
僕は素直な感想を述べた。
「ええ、研究資産の保護は最優先事項ですから」
彼女は穏やかに微笑んだ。
「このビルでは異なる研究プロジェクトが同時進行しているんです。中には企業秘密に関わるものも」
エレベーターは静かに上昇し、10階で停止した。扉が開くと、広々とした会議室が現れた。窓からはウィンターヘイブンの街並みが一望でき、テーブルの上には飲み物と軽食が用意されていた。
「どうぞおかけください」
リンイーは席に案内した。
「では早速、ラゴモーフ系市民としての特性について詳しくお聞かせいただけますか?ビジネス応用の可能性を探りたいのです」
僕はアルクと視線を交わし、できるだけ自然に会話を始めた。
「ラゴモーフ系の特徴としてまず挙げられるのは、聴覚の発達です」
僕は耳を少し動かしながら説明した。
「普通の人の2倍くらいの音域を聞き取れているらしいです。超低音から超高音まで」
「具体的な数値は?」
リンイーは熱心にメモを取りながら尋ねた。
「通常の人間が20Hz~20kHzなのに対し、ユナギの計測数値は8Hz~50kHzほどでした」
アルクが補足した。
リンイーの目が輝いた。
「それは音響機器や警報システムの開発に応用できるかもしれませんね」
「次に視野角です」
僕は続けた。
「約310度の視野があるので、ほぼ背後まで見えるんです」
「そして跳躍力ですね」
アルクが付け加えた。
「立ち幅跳びで通常の人間の2倍、垂直跳びでも1.8倍の能力があります」
リンイーは感嘆の声を上げた。
「まあ!特殊環境での作業に大きなアドバンテージになりますね」
彼女は次々と質問を投げかけた。社会適応性、感情表現の特徴、食生活、健康管理、寿命の予測など、多岐にわたる内容だった。僕は知っている限りの情報を正直に答えていったが、質問が進むにつれ、リンイーの顔に微妙な失望の色が見え始めた。
「とても興味深いお話だったのですが、具体的なビジネス展開を考えると、難しい部分もありますね…」
彼女はペンを置き、少し考え込んだ。
「確かに能力は特異的ですが、一般的な市場ニーズとの接点が見えてきません」
「そうですね…」
僕も少し困った表情を浮かべた。
「特に、遺伝子融合型市民はごく少数ですし、その特性を活かした製品やサービスの市場規模が限られてしまいます」
彼女は分析を続けた。
「また、個人的な能力としては素晴らしいのですが、それを大規模なビジネスモデルにどう転換するか…」
リンイーは一瞬止まり、それから明るい表情に切り替えた。
「少し休憩しましょうか。考えがまとまらないときは、気分転換も大切です」
「そうですね」
僕は頷いた。
「実は少しトイレに行きたいんですけど…」
「どうぞ」
リンイーは立ち上がり、小さなカードを手にした。
「これはゲスト用のセキュリティカードです。廊下を右に進むと、ゲストエリアのトイレがあります。このカードで入れますよ」
「ありがとうございます」
僕はカードを受け取った。
「アルク、少し待っていてくれるかな」
「はい、ここでお待ちしています」
アルクは穏やかに答えたが、その目には「気をつけて」というメッセージが込められていた。
廊下に出た僕は、周囲を観察しながらゆっくりと歩き始めた。壁には様々な研究プロジェクトのポスターや企業の理念を示すデザインが飾られている。セキュリティカメラが要所に設置され、ドアにはすべてカードリーダーが付いていた。エレベーター内でリンイーが使っていた認証パネルよりはシンプルなものだが、それでも多くのドアに指紋認証が組み合わされており、重要な部屋ほど認証レベルが複雑になっているようだった。
僕は意図的にゆっくり歩き、できるだけ多くの情報を集めようとした。廊下の分岐点で左右を見比べると、右側にはリンイーの指示通りトイレの標識が見え、左側には「研究エリア」という表示が遠くに見えた。
好奇心に駆られて少し左側に進んでみると、大きなセキュリティゲートが設置されていた。そこには複数の認証システム——カードリーダー、指紋スキャナー、網膜スキャナー——が備え付けられている。
「あそこか…」
僕は小声で呟いた。
しかし、これ以上近づくのは危険だと判断し、本来の目的地であるトイレへと向かった。施設内を少し探ってみたものの、何の突破口も見つからないことに焦りを感じていた。時間は限られているし、リンイーが不審に思うほど長く席を外すわけにもいかない。このままではミッションの成果はゼロだ。僕の耳が不安で少し下向きになる。セキュリティカードをリーダーにかざすと、ドアが静かに開いた。
トイレに入ると、洗面台の前に一人の若い男性が立っていた。彼は薄いブルーのラボコートを着ており、髪は少し乱れていた。手を洗っていた彼は、鏡越しに僕を見るとびっくりした表情になり、すぐに振り返った。
「うわっ!」
彼は驚きの声を上げた後、好奇心いっぱいの目で僕を見つめた。
「あなたは動物遺伝子融合型人類の方ですね!その姿は確か…ラゴモーフ系。実物を見るのは初めてです!」
「あ、はい…」
僕は少し戸惑いながら答えた。
「失礼しました」
彼は明るい笑顔で手を差し出した。
「マイク・チェンです。バイオジェネシス・ラボの研究員をしています。あなたはゲストですか?」
「ユナギです」
僕は握手をしながら自己紹介した。
彼は僕の耳に目を向け、興味津々の様子だった。
「すごい!動くんですね。感情によって動きが変わるって本当ですか?」
「ええ、そうですね」
僕は少し恥ずかしそうに耳を動かした。
マイクはとても社交的で、次々と質問を投げかけてきた。彼の屈託のない性格と好奇心は、若さゆえのものかもしれない。彼の態度から判断するに、20代半ばといったところだろう。
そのとき、突然閃きが走った。彼を利用できるかもしれない。これが僕たちの探していた突破口になるかもしれない。
しかし同時に、冷や汗が背筋を伝った。もし嘘がバレたら、ミッションどころか僕たちの身分さえ危険にさらされる。カミロ所長も「無理をするな」と言っていたはずだ。しかしこのチャンスを逃せば、ブルーグロウの謎は解明できないかもしれない。
僕の耳が一瞬震えた。危険な賭けだ。アルクがこれを知ったら猛反対するだろう。でも、時には直感を信じて飛び込むしかない時もある。
大きく息を吸い込んで、僕は決意した。
「実は…」
僕は少し声を落として言った。
「リンイーさんからの要請で『あのストロベリー』の研究にかかわることになったんですが、聞いていませんか?」
マイクの顔に驚きの色が浮かび、それから「ああ」と合点がいったような表情になった。
「そういえば、リンイーさんがラゴモーフ系の方と親しくなったという話は聞いてました」
彼は頷いた。
「でも研究に関わるとまでは聞いてなかったです。今日はただお話を聞くだけということだったはずですが…そういうことになったんですね」
「はい。さっき確定したばかりなのでまだ情報伝達されていないようですね。」
僕は自信を持って嘘をついた。
「僕はウィンターヘイブン植物園と直接やり取りするぐらいの専門家なんです。エレナ・ライト館長とは一緒にパキポディウムの感染症について研究していました。トリコフィトン・アルボラっていう菌類なんですけど」
「エレナ・ライト博士と?」
マイクの目が見開かれた。
「すごいですね!彼女の論文は何度も読ませていただきました」
僕はうまくいっていると感じ、次の手を打った。マイクと一緒にトイレを出ながら、さりげなく質問した。
「そういえば、研究エリアへのアクセス権をもらうのを忘れていました。このゲスト権限のカードでは戻れないですよね。どうすればいいでしょう?」
マイクは少し考え込み、それから笑顔になった。
「僕、セキュリティチームに仲がいい奴がいるんです。うまく都合をつけておきますよ。ちょっと時間がかかるかもしれませんが、しばらくしたら試してみてください。許可が出てるはずです」
「本当ですか?ありがとうございます」
僕は感謝の意を示した。
マイクは親しげに笑い、僕の頭を軽くポンポンと叩いた。
「いえいえ、これも研究のためですから。それに…」
彼は少し声を落とした。
「あのストロベリーのプロジェクト、正直言って僕も詳しく知りたいんですよね。セキュリティレベルが高すぎて、僕らの権限では全容が見えないんです」
彼は手を振って去っていき、僕は廊下に一人残された。しばらくすると、コンタクト・ビジュアライザーを通してアルクの声が聞こえた。
「ユナギ、今の会話は全て記録しました」
彼の声は明らかに緊張していた。
「非常に危険な賭けです。あなたはミッションの範囲を超えています」
「しょうがないよ」
僕は小声で答えた。
「突破口が必要だったんだ」
「それでも、無謀すぎます」
アルクは強く出た。
「もし嘘がバレたら、リンイーさんやセキュリティに見つかる可能性が高いです。すぐに戻ってきてください」
「わかったよ」
僕は深呼吸して、会議室への帰路についた。
会議室に戻ると、リンイーは窓際に立ち、外の景色を眺めていた。僕が入室すると、彼女は振り返り、微笑んだ。
「お待たせしました」
僕は自然を装った。
「いいえ」
彼女は席に戻った。
「それで、もう少し話を続けましょうか」
インタビューは再開されたが、僕の心はマイクとの約束に向いていた。この危険な嘘がどこまで通用するのか、そして本当に研究エリアへのアクセスを得られるのか—答えはまだわからない。しかし一つ確かなのは、僕たちは青いストロベリーの謎に一歩近づいたということだ。
僕の耳が小さく動いた。興奮と緊張が入り混じる感覚に、心臓の鼓動が少し早くなるのを感じた。




