第二十二話「隣人との植樹」
「ユナギ、そろそろ起きる時間です」
優しい声と共に意識が浮上してくる。窓から差し込む光が部屋を明るく照らし、白いカーテンが朝の風でわずかに揺れていた。昨日買った亀のクッションを抱きかかえたまま、僕は少しずつ目を開けた。
「おはよう、アルク」
僕は体を起こしながら言った。
「もう7時?」
「7時15分です」
アルクが窓辺から振り向いた。
「よく眠れましたか?」
「うん」
僕は伸びをしながらベッドから降りた。耳がぴんと立ち、身体が軽く感じる。
「なんだか元気いっぱいだよ」
「それは良かったです」
アルクは微笑んだ。
「今日の予定は園芸センターに行って苗を買うことでしたね」
「そうだった」
僕は思い出したように言った。昨日買ったばかりの食材のことが頭に浮かぶ。
「その前に朝食を作ろうかな」
キッチンに向かうと、冷蔵庫にはたくさんの食材が整然と並んでいる。何を作ろうかと考えながら、パンとジャム、そして卵を取り出した。
アルクが少し不思議そうな表情で近づいてきた。
「朝食を作られるのですか?」
「うん、簡単なものだけどね」
僕はフライパンを取り出した。
「目玉焼きとトーストくらい、自分でもできるよ」
アルクの表情に微妙な驚きが浮かんだ。
「通常、調理はAIパートナーが担当することが多いです」
アルクは丁寧に説明した。
「特に料理に情熱を持つ方以外は、食事準備をAIに任せるのが一般的なのです」
「そうなの?」
僕は卵を割りながら振り返った。耳が少し左右に動く。
「でも、これくらいのことなら自分でできるよ。それに、料理するの好きなんだ」
「それは素晴らしいですね」
アルクは嬉しそうに言った。
「お手伝いしましょうか?」
「いや、大丈夫」
僕は笑いながら答えた。
「見ていてよ」
卵を丁寧にフライパンに落とし、弱火でじっくりと焼いていく。その間にパンをトースターに入れ、紅茶の準備も始めた。慣れた手つきで作業を進める僕の姿を、アルクは興味深そうに観察している。
「なぜ料理が好きなのですか?」
アルクが静かに尋ねた。
少し考えてから僕は答えた。
「なんだろう…自分の手で何かを作り出す感覚が好きなのかな。それに出来上がったものを食べるのが楽しみだから」
トーストの良い香りが部屋に広がり始め、目玉焼きも丁度いい具合に焼けてきた。小皿に移し、トーストにジャムを塗る。シンプルな朝食だが、自分で作ったという満足感がある。
テーブルに食事を運び、アルクと向かい合って座った。
「今日は午前中に園芸センターに行って、午後は植える作業をしようと思うんだ」
僕はトーストをかじりながら言った。
「ベリー系の苗が買えるといいな」
「昨日のベリーがお気に入りだったようですね」
アルクは微笑んだ。
「食用の植物を育てるのは理にかなっています。特にラゴモーフ系は果実類、特に甘いベリー類を好む傾向があります」
「そうなんだ」
僕は興味深く聞いた。
「どんなベリーがあるの?」
「一般的なものではブルーベリー、ストロベリー、ラズベリー、ブラックベリーなどがあります」
アルクは説明した。
「特に初心者に向いているのはブルーベリーとストロベリーです。比較的育てやすく、コンパクトなスペースでも育ちます」
朝食を楽しんでいると、玄関のチャイムが鳴った。
「荷物が届いたようです」
アルクが立ち上がった。
「あ、昨日注文した服かな」
アルクがドアを開けると、配達ロボットが箱を手渡した。サインの代わりにアルクがインターフェイスを介して認証すると、ロボットはお辞儀をして去っていった。
食事を終えた後、二人で箱を開けてみる。中には昨日注文したラゴモーフ系専用の衣類がきれいに包装されていた。
「思ったより早く届いたね」
僕は驚きながら言った。
「3日以内って言ってたけど、翌日には来るなんて」
「優先配送になっていたようです」
アルクは説明した。
「特例市民向けの特別サービスかもしれません」
衣類を一つずつ取り出し、確認していく。どれも一般的な服とは少し違い、ラゴモーフの体型に合わせた工夫がされている。特に目を引いたのは淡い青色のパーカーだった。
「これ、いいな」
僕はパーカーを広げた。
「試着してみよう」
バスルームに行き、パーカーに袖を通す。フードの部分には耳を通すための開口部があり、自然に耳を出すことができる。フィット感も抜群で、体毛を圧迫せず、静電気も起きない。鏡の前で回転してみると、尻尾の部分にも配慮されたデザインになっている。
「どうですか?」
アルクがドアの外から尋ねた。
「すごくいい!」
僕は部屋に戻りながら答えた。
「着心地も見た目も最高だよ」
アルクは僕を見て微笑んだ。
「とても似合っています。青はユナギの白い体毛に映えますね」
他の服も試した後、すべてをクローゼットに整理した。新しいパーカーはそのまま着て出かけることにした。
「準備はいいですか?」
アルクが尋ねた。
「園芸センターはここからトランスポッドで20分ほどかかります」
「うん、行こう」
僕は新しいパーカーのポケットに手を入れ、部屋を出た。
園芸センターは想像以上に広く、様々な植物が並んでいた。入口には大きな噴水があり、周囲には季節の花々が咲き誇っている。建物はガラス張りの大きなドームになっており、自然光がたっぷりと入る設計だった。
「すごい…」
僕は感嘆の声を上げた。
「『エバーグリーン・ガーデンセンター』は区画内最大の園芸施設です」
アルクが説明した。
「植物の販売だけでなく、栽培のワークショップや展示会も行われています」
入口を入ると、「季節のおすすめ」コーナーがあり、多くの人が植物を選んでいた。僕たちは果樹・野菜コーナーへと進む。
「ベリー類はこちらです」
アルクが案内した。
果樹の苗が並ぶエリアに到着すると、様々な種類の苗木が整然と並べられていた。それぞれの前には小さなホログラム表示があり、成長した時の姿や育て方のポイントが示されている。
「ブルーベリーの苗はこちらです」
アルクが小さな苗が並ぶ棚を指さした。
「品種によって大きさや味わいが異なります」
僕は興味深く苗を見比べて、最終的に「ノーザンハイ」という品種を選んだ。説明によると、寒冷地に適しており、甘みが強いという。
「次はストロベリーを探そう」
僕は嬉しそうに言った。耳が前向きに立ち、わくわくした様子が伝わってくる。
ストロベリーコーナーでは、様々な品種が並んでいた。アルクの助言を聞きながら、僕は「エバースイート」という四季なりの品種を選んだ。
「最後に…」
僕は周りを見回した。
「ラズベリーも欲しいな」
「良い選択です」
アルクは頷いた。
「色のバリエーションも増えますし、ビタミンが豊富です」
ラズベリーの苗も数種類あったが、その中から「オータムブリス」という秋にも実がなる品種を選んだ。こうして3種類のベリーの苗がカートに並んだ。
続いて、用土や追加の肥料、支柱など必要なものを選び、レジへと向かった。
「これで当面の準備は整いましたね」
アルクが言った。
「家に帰って植えれば、数ヶ月後には最初の収穫が楽しめるでしょう」
支払いを済ませ、苗を大切に抱えて園芸センターを後にした。帰り道、アルクが提案した。
「お昼はいかがしますか?近くのパン屋で食べていきますか?」
「そうだね」
僕は頷いた。
「フラワリー・ベイクに寄っていこう」
購入した植物を丁寧に持ちながら、昨日立ち寄ったパン屋へ向かった。店内の温かな香りに包まれながら、僕はサンドイッチとドリンクを買って帰った。
ノーザンテラスの住居に戻る頃には、正午を少し過ぎていた。エレベーターに向かって歩いていると、3階の廊下の角から若い女性とそのAIパートナーが出てきた。
女性は僕を見ると足を止め、目を大きく見開いた。彼女はブロンドの短い髪を持ち、北欧系と東洋系の血を感じさせる美しい顔立ちだった。
「あ…」
彼女は一瞬言葉に詰まり、隣にいたAIパートナーと目配せをした。
AIパートナーは少女のような親しみやすい姿で、すぐに微笑みながら一歩前に出た。
「こんにちは」
彼女は優しい声で言った。
「私はミア、エリカのシンクロナイズド・コンパニオンです。あなたが最近引っ越してこられた方ですね」
アルクも前に出て、丁寧に応じた。
「こんにちは。私はアルク、ユナギのパートナーです」
「初めまして」
僕も頭を下げた。耳が少し緊張で揺れる。
女性—エリカも前に出てきた。彼女の顔には抑えきれない興奮が浮かんでいた。
「はじめまして!私、エリカ・ジェンセン。3213号室に住んでるの」
彼女は明るく言った。
「実は引っ越してきたの見かけてたんだけど、話しかけるタイミングがなくて…」
「あの、これから外出するんじゃないですか?」
アルクが気遣うように尋ねた。
エリカはミアと目を合わせると、すぐに首を振った。
「いいの、予定は後でも大丈夫。それより…」
彼女は僕の持っている植物の苗に目を向けた。
「園芸センターに行ってきたの?」
「うん、今日はこれから植えようと思って」
僕は苗を見せた。
「ブルーベリーに、ラズベリーに、ストロベリー!」
エリカは目を輝かせた。
「おいしそうなものばっかり植えるのね!もしよかったらお手伝いしようか?」
僕はアルクを見た。アルクは小さく頷き、
「せっかくの申し出ですから」
と言った。
「ありがとう、助かるよ」
僕は笑顔で答えた。
「でも、まずお昼を食べようと思ってて…」
「お昼?」
エリカの目がさらに輝いた。
「これからお昼なの?私のことは気にしないで食べてもらって大丈夫!だから…」
彼女の熱意に押され、僕は苦笑した。
「じゃあ、うちの部屋に来る?」
「本当に?」
エリカは手を叩いた。
「ありがとう!」
こうして予想外の来客と共に部屋に戻ることになった。ドアを開け、エリカとミアを招き入れる。
「素敵なお部屋ね」
エリカは興味深そうに室内を見回した。
「私の部屋と同じ間取りだけど、雰囲気が全然違う」
「そうかも。実は僕用にほかの部屋より壁が厚くなってるんだって」
僕は少し照れながら答えた。
僕はさっき買ったパンだけでは少し物足りないと思い、冷蔵庫の食材を使ってオムレツを作ることにした。フライパンでオムレツを作りながら、エリカと会話を続ける。
「ここに引っ越してきたのはいつ?」
エリカがテーブルに座りながら尋ねた。
「数日前なんだ」
僕はオムレツをひっくり返しながら答えた。
「なんて言ったらいいか難しいんだけど、まあいろいろあってね」
「そうなんだ」
エリカは興味深く話を聞いてくれた。
「それなのにもうこんなに料理上手なの?」
「料理くらい」
僕は肩をすくめた。
「基本的なことは自分でできるよ」
「すごいな…私は基本的にミアに任せちゃうんだよね」
エリカは少し照れたように笑った。
「私は喜んでお手伝いします」
ミアは優しく笑った。アルクとミアは部屋の隅で静かに対話を続けていた。
オムレツが完成し、皿に盛り付ける。エリカは興味深そうに僕の動きを観察している。
「あの、質問していいかな?」
エリカが少し躊躇いながら言った。
「ラゴモーフ系の人に会うのは初めてで…」
「どうぞ」
僕は皿をテーブルに置きながら答えた。
「実は大学で勉強していた時に遺伝子融合型人種について知ったの。興味はあったんだけどなかなか詳しいはわからなくて…」
エリカは熱心に言った。
「でも実際に会えるとは思わなかった。ラゴモーフ系は特に希少だって聞いてたから」
「そうみたいだね」
僕は席に着いた。
「僕自身もよく知らないんだけど」
「え?」
エリカは少し驚いた表情を見せた。
「まあ、いろいろあって…記憶があまりなくて」
僕は曖昧に答えた。
「記憶が…?そんな、大丈夫なの?あ、でもあんまり立ち入ったことはまだ聞かないほうがいいのかな・・・?」
とエリカは少し考えこみ、すぐに明るい表情に戻った。
「でも、これからいろいろ教えてあげられるかも。私、植物育成のコツなら知ってるし、ノーザンテラスの暮らしも案内できるよ」
僕が食事を終えると、エリカは立ち上がって
「さあ、植える作業を始めよう!」
と元気よく言った。
ベランダに出て、昨日購入したプランターと土を用意する。エリカは手慣れた様子で土を準備し、僕に植え方を教えてくれた。
「ブルーベリーとラズベリーは酸性の土を好むの」
彼女は説明しながら土をかき混ぜた。
「こうやって専用の土を使うといいわ」
作業が佳境に入ったところで、アルクのインターフェイスが突然青く光った。彼は一瞬静止し、それから僕の方を見た。
「ユナギ、希少存在調査局からの連絡です」
アルクの声には喜びが滲んでいた。
「採用通知が来ました。3日後にオリエンテーションがあるそうです」
「本当に?」
僕は驚いて立ち上がった。耳がピンと立ち、顔に喜びが広がる。
「やった!」
「おめでとう!」
エリカも嬉しそうに言った。
「希少存在調査官になるの?すごいのね!」
しかし、その直後、彼女の表情に一瞬だけ寂しさが浮かんだのを僕は見逃さなかった。
「どうしたの?」
僕は尋ねた。
「ううん…」
エリカは小さく首を振った。
「ただ、希少存在調査官ってめったになれない職業だから、きっとすぐに別の区画に引っ越しちゃうんだろうなって思って…」
「えっ?どうして?」
「このアパートは基本的に基礎生活保障で暮らしてる人たちが住むところなの」
エリカは説明した。
「良い職業に就いた人は、もっと良い区画に移っていくのが普通で…」
「ああ、そういうことか」
僕は理解した。
「でも、引っ越すつもりはないよ。ここ、すごく住みやすいし、設備も整ってるし、十分広いから」
「本当?」
エリカの顔が明るくなった。
「もちろん」
僕は微笑んだ。
「それに、これからベリーが育つのを見守りたいしね」
エリカは半信半疑の表情でしばらく僕を見つめていたが、やがて優しい笑顔を見せた。
「うん、これからも仲良くしてね。植物のことでわからないことがあったら、いつでも聞いてね」
「ありがとう」
僕は心からの感謝を込めて言った。
最後のラズベリーの苗を植え終わると、3種類のベリーがベランダに並んだ。まだ小さな苗だけれど、これから少しずつ成長していくのだろう。
「世話の仕方はこの通りよ」
エリカは水やりの方法や日当たりの調整について詳しく教えてくれた。
「特にブルーベリーは水の調整が大切だからね」
作業を終え、部屋に戻ると、時間はすでに午後3時を過ぎていた。
「今日はありがとう」
僕はエリカに言った。
「本当に助かったよ」
「私こそ、楽しかった」
エリカは明るく答えた。
「また遊びに来ていい?」
「もちろん、いつでも」
エリカとミアが帰った後、僕はベランダに出て植えたばかりの苗を眺めた。隣のベランダからはエリカの育てている色とりどりの花が見える。
「なんだか、いい一日だったね」
僕はアルクに言った。
「はい、充実した一日でした」
アルクは頷いた。
「そして3日後からは、希少存在調査官としての新たな一歩が始まります」
「楽しみだな」
僕は静かに微笑んだ。
ベランダを吹き抜ける風が、植えたばかりの苗をそっと揺らしていた。新しい友人、新しい仕事、そして新しい植物たち。この世界での生活が、少しずつ形になっていくのを感じていた。




