第二十一話「買い物と懐かしさ」
狭いマンションの玄関のドアを開ける。
「ただいま」
と僕は声をかけた。
「お帰り」
リビングから母の声が返ってくる。
「今日は早かったのね」
学生時代の僕は、カバンを床に置き、制服のシャツのボタンを外しながらリビングに向かった。
「うん、今日は部活がなかったから」
そう言いながら、テーブルに置かれたおかずを見て思わず笑みがこぼれる。
「ハンバーグだ!」
「今日はお父さんも早く帰ってくるって言ってたから、みんなで食べようと思って」
母は台所から顔を出した。
「やった!」
心の底から嬉しい気持ちになる。
時間が飛んだ。食卓を囲む僕と両親。父が会社での出来事を面白おかしく話し、母が笑い、僕も笑う。テレビからはバラエティ番組の笑い声が流れている。
ハンバーグはジューシーで、付け合わせのブロッコリーも甘くておいしい。デザートのプリンを口に含むと、優しい甘さが広がった。
「雪、もうすぐ大学受験だけど、勉強は順調?」
父が優しく尋ねる。
「うん、まあまあかな」
僕は照れくさそうに答える。
「でも数学はちょっと…」
「大丈夫よ」
母が微笑む。
「あなたなら—」
「ユナギさん、おはようございます」
突然、知らない声が耳に届いた。視界がぼやけ、両親の笑顔が徐々に薄れていく。
「ユナギ、朝です。そろそろ起きましょう」
目を開けると、見慣れない天井が目に入った。そこはマンションの部屋ではなく、ノーザンテラスの新居だった。窓からは柔らかな朝日が差し込み、リビングスペースから青灰色の光がゆっくりと近づいてくる。
「おはようございます。よく眠れましたか?」
アルクが人型の姿に変わりながら尋ねた。
「あ…うん」
僕は体を起こし、窓の外を見つめた。耳が少し下向きになっている。
「夢、見てたみたいだ」
「どんな夢でしたか?」
アルクが興味深そうに尋ねる。
「なんだか…懐かしい感じの」
僕はぼんやりと答えた。
「家族と食事をしていて…みんなで笑っていた。どこかで見た景色のような…」
言葉にした途端、喉が詰まるような感覚があった。ここ数日、新しい生活に夢中になっていたけれど、突然、失ったものの重みが押し寄せてきた。両親、友人たち、行きつけの場所、全てが遠い過去のものになってしまった現実。
アルクの表情が心配そうに変わる。
「つらいですか?」
「いや…大丈夫」
僕は無理に笑顔を作った。
「ただちょっと懐かしくなっただけ。それより、お腹すいたな。昨日は買い物に行けなかったし」
アルクは僕の表情をしばらく観察していたが、追及はせずに頷いた。
「そうですね。朝食が必要ですね。近くにパン屋がありましたから、そこで何か買ってきましょうか」
「うん、それがいいな」
着替えを済ませて外に出ると、朝の清々しい空気が頬に当たった。まだ朝早く、街はゆっくりと目覚めているところだ。プラザまでの道を歩きながら、断片的な記憶の欠片が頭をよぎる。どこかで、似たような朝の空気を感じた記憶があるような…。
「フラワリー・ベイク」の前に立つと、パンの甘い香りが漂ってきた。店内はすでに活気に満ちていて、いくつかのテーブルでは早朝から朝食を楽しむ人々の姿があった。
「いらっしゃいませ」
店員が笑顔で迎えてくれる。
ショーケースを眺めながら、クリームの入ったパンを探す目。何故かそれを求める気持ちが強い。似たようなものを見つけ、思わずほっとした表情になる。
「あれとあれをもらえますか」
僕はクリームパンとハム&チーズクロワッサンを指さした。
「かしこまりました」
店員はパンを紙袋に包み、テイクアウト用の小さな箱に入れてくれた。
アルクが僕の代わりに手続きを済ませ、二人で外に出た。
「どこかでよく買っていたのですか?」
アルクが静かに尋ねた。
「クリームパンを見つけた時、特別な表情をされていました」
「そうかな」
僕は少し考え込んだ。
「なんとなく懐かしい気がして。いつか食べたことがあるような…」
「記憶の断片が戻ってきているのかもしれませんね」
「うん」
僕は微笑んだ。
「でも、ここのパンも美味しそうだし。新しい思い出もきっと作れるよね」
アルクは少し首を傾げたが、特に詮索はしなかった。僕が思い出したような記憶について、深く追求することはなかった。それがアルクの優しさなのかもしれない。
部屋に戻り、パンを食べながら、今日の買い物計画を立てた。
「今日は何を買えばいいかな?」
テーブルに向かい合って座りながら、僕はアルクに尋ねた。
「まず衣類が必要ですね」
アルクは半透明のリストを空中に表示させた。
「それから日用品、園芸用品、そして食料品です。重いものは配送してもらうか最後に買うのが効率的でしょう」
「そうだね」
僕はハム&チーズクロワッサンをかじりながら頷いた。
「じゃあ、服から見に行こうか」
朝食を終えて片付けると、二人でプラザへ向かった。朝よりも人が増え、活気に満ちている。様々な店舗が並ぶ中、アルクの案内でまず衣料品店に入った。
「ワイルドブランチ」という店内には、カジュアルからやや改まった服装まで、様々なスタイルの服が並んでいた。パーカーやトレーナー、ジーンズ、部屋着のゆるいスウェットなど、僕の好みそうなデザインも多い。
「これいいな」
僕は青と灰色のグラデーションパーカーを手に取った。サイズは少し大きめだが、ちょうどいいくらいに思える。
アルクは少し迷った表情を見せた。
「デザインは素敵ですが、少し問題があるかもしれません」
「問題?」
「はい」
アルクは丁寧に説明した。
「一般的な服は、ラゴモーフ系の体型や特性に完全には対応していないことが多いです。例えば、この生地は体毛と絡まりやすく、静電気も発生しやすい素材です」
僕は自分の腕の白い体毛を見下ろした。
「確かに…」
アルクはさらに続けた。
「また、帽子付きの服は耳の収まりが悪く、パンツ類もしっぽの部分に十分な配慮がされていません」
試しにパーカーの帽子を被ってみると、確かに耳が圧迫され、不快感があった。ジーンズも試着してみたが、後ろの部分がどうしても居心地悪い。
「やっぱりダメか…」
僕の耳が少し下がった。
「通常の服店では難しいかもしれませんが」
アルクが店の一角を指さした。
「あそこにショッピング端末があります。専門店の商品を注文できますよ」
端末の前に立つと、アルクが操作方法を説明してくれた。画面をタッチすると、「特殊サイズ・特性対応」というカテゴリーが表示される。そこから「ラゴモーフ系対応衣料」を選ぶと、専門的なオンラインストアの商品が閲覧できるようになった。
「わあ…」
サムネイル画像を見て僕は驚いた。
「これなら耳の部分に開口部があるんだ」
「はい。体毛に優しい素材で、静電気も発生しにくい設計です」
アルクは説明しながら画面をスクロールした。
「また、体温調節機能や、しっぽの部分にも配慮があります」
品揃えは決して多くはなかったが、必要な基本アイテムは揃っていた。パーカー、トレーナー、セーター、シャツ、ズボン、寝間着、下着、そして耳用の開口部がある帽子を選んだ。
「サイズ調整のためのデータが必要です」
アルクが言った。
「よろしければ、私から計測データを送信しますが」
「うん、お願い」
アルクの目が一瞬青く光り、端末に情報が送信された。画面には「サイズデータ受信完了」というメッセージが表示される。
「配送先と支払い方法を設定してください」
手続きを完了させると、「3日以内に配送」という確認画面が表示された。
「次は日用品ですね」
アルクが言った。
総合スーパー「デイリー・エッセンシャル」に入ると、様々な生活用品が所狭しと並んでいた。歯ブラシ、歯磨き粉、石鹸、シャンプー、タオルなど、必要なものを次々とカゴに入れていく。
日用品コーナーを回っていると、小さなぬいぐるみコーナーが目に入った。そこに置かれていたデフォルメされた亀のクッションが、どこかで見たような気がした。
「あれ…」
僕は思わず足を止めた。
「どうかしましたか?」
アルクが尋ねる。
「なんだか懐かしいな」
僕は少し戸惑いながらも亀のクッションを手に取った。
「どこかで見たことがあるような…」
「何か思い出されたのですか?」
「うん。誰かと遊園地に行って…射的で…」
言葉が途切れる。鮮明なようで曖昧な記憶。
「なんだか思い出せないけど、大切な記憶な気がする」
思い出に浸りながら、僕はクッションを胸に抱きしめた。
「これも買おうかな」
「もちろんです」
アルクは微笑んだ。
次に向かったのは「グリーン・ハーモニー」の園芸店。アルクの指導の元、基本的な園芸用具—小さなスコップ、じょうろ、植え替え用の鉢、土、そして簡易的な肥料—を選んだ。
「これらは明日の苗を買うときまでに必要ですね」
アルクが言った。
「重いので、配送をお願いしましょうか」
「そうだね」
僕は頷いた。
配送の手続きを済ませると、最後に食料品を買うため、スーパーマーケット「デイリー・エッセンシャル」の食品売り場に向かった。
入口で、アルクが手をかざすと、すぐ横の待機スペースからカートが滑り出てきた。特に触れていないのに、アルクの後ろに付いてくる様子に僕は目を丸くした。
「これ、自動でついてくるの?」
「はい」
アルクは当たり前のように答えた。
「パーソナルインターフェイスと同期しているので、一定距離を保って後ろについてきます。必要なら呼び出すこともできますよ」
「便利だなぁ」
広々とした食品売り場に足を踏み入れると、色とりどりの野菜や果物がまるで芸術作品のように並んでいた。ほとんどの商品は透明なドーム型のカバーに覆われ、それぞれが微妙に異なる光を発している。
「あの光は何?」
僕は不思議そうに尋ねた。
「フレッシュキーピング・フィールドです」
アルクが解説した。
「それぞれの食材に最適な環境を維持するための特殊な光と気圧のフィールドです。水分量や栄養素の損失を最小限に抑え、収穫時の状態をできるだけ保つ技術です」
僕は野菜売り場の前で立ち止まり、緑輝くレタスのドームに手をかざした。すると、半透明の情報パネルが空中に表示される。
「わっ!」
思わず手を引っ込めた。
「商品情報ですよ」
アルクは微笑んだ。
「栄養価、収穫地、推奨レシピなどが確認できます」
「へぇ…」
再び手をかざすと、レタスの詳細情報が表示された。
「ハイドロファーム産…温度調整栽培…これって育て方が特別なの?」
「はい。水耕栽培の高度な形態です。土を使わず、栄養液で育てられています」
僕はレタスとほうれん草を選び、ドームから取り出すと、静電気のような小さな抵抗を感じた。フィールドを通過する感覚だ。カートの中に野菜を置くと、すぐにカート側面の小さなディスプレイに価格が表示された。
「自動計算してくれるんだ!」
僕は感心した。
「はい。カートに搭載された認識システムが商品を識別します」
アルクが説明した。
「計算だけでなく、相性の良い食材の提案も行ってくれますよ」
カートのディスプレイには「おすすめの組み合わせ」として、トマトとモッツァレラチーズが表示されていた。
「言われてみれば、サラダにしたいかも」
僕は提案に従ってトマトコーナーに向かった。
果物コーナーではさらに驚きが待っていた。ブルーベリーやいちご、ラズベリーなどのベリー類が、まるで宝石のように美しく並べられている。しかも、通常のものより一回り大きい。
「すごい…こんなに大きいの?」
「成長最適化技術の賜物です」
アルクは説明した。
「特にベリー類は栄養価が高く、健康的なスイーツとして大きく育てる品種改良が進んでいます」
僕はブルーベリー、いちご、ラズベリーを選んだ。ドームから取り出すと、指先にほんのりと温かさを感じた。カートに入れると、再び金額が更新される。
「あ、アルク見て!」
僕は肉売り場で立ち止まった。
「ハンバーグ用合挽き肉だ。今度ハンバーグ作ってみようかな」
「良いですね」アルクは少し驚いた様子で言った。
「調理をされるのですか?」
「うん、なんとなくだけど、作り方を覚えてる気がするんだ。玉ねぎをみじん切りにして、パン粉と卵で練り混ぜて…」
「素晴らしい」
アルクは嬉しそうに言った。
「必要な材料を揃えましょう」
肉、玉ねぎ、卵、パン粉、そして調味料と、ハンバーグに必要な材料を次々と選んでいく。それからいくつかの魚、ヨーグルト、チーズ、パスタなども追加した。最後にはお菓子売り場に向かい、いくつかのチョコレートとクッキーを選んだ。
「これで十分かな」
僕はカートを見回した。かなりの量の食材が入っている。
「栄養バランスは理想的です」
アルクが分析した。
「特にベリー類が豊富なのは素晴らしいです」
「甘くておいしいしね」
僕は素直に答えた。
「なんだか特に食べたい気がするんだ」
レジに向かうと、通常の対面式レジの他に、セルフレジエリアがあった。アルクの提案でセルフレジに向かった。
「カートをここに寄せるだけでいいんですよ」
アルクが指示した。
カートを指定の場所に置くと、「清算準備完了」という表示が出た。まるで気の利いた店員のように、カートが持ち物すべてを自動的に計算していたのだ。
「合計:エナジー・クレジット78.5ポイント」とディスプレイに表示される。
「私が支払いを済ませます」
アルクが手をかざすと、ディスプレイが青く光り、「決済完了」と表示された。
「袋詰めはこちらでどうぞ」
僕は提供された環境に優しそうな素材の袋に、購入した食材を詰め始めた。重いものを下に、軽いものや潰れやすいものを上に―この作業だけは現代と変わらない。
「じゃあ、これで全部かな」
僕は満足げに言った。
「思ったより色々買っちゃったね」
両手いっぱいに袋を持ちながら、二人でノーザンテラスの住居に戻る。途中、人々からの好奇の目はあったものの、昨日ほど気にならなくなっていた。
「なんだか…楽しかった」
部屋のドアを開けながら、僕は素直な気持ちを口にした。
「買い物って、誰かと一緒にするのは久しぶりな気がする」
「私も楽しかったです」
アルクも同じように袋を持ちながら微笑んだ。
「これからもっと、この部屋を居心地よくしていきましょう」
食料品を冷蔵庫や棚に収め、日用品を適切な場所に配置していく。亀のクッションはベッドの上に置いた。小さいけれど、自分らしい部屋になりつつある感覚に、心が温かくなった。
「明日は仕事の応募結果がわかるかもしれないんだよね」
袋を片付けながら僕は言った。
「はい。3日以内に結果が出るとのことでしたから」
アルクが頷いた。
「楽しみですね」
「うん」
夕日が窓から差し込み、部屋を柔らかなオレンジ色に染めていた。朝方に感じた喪失感は、いつの間にか和らいでいた。確かに夢で見たような家族との時間は戻ってこない。けれど、この世界でも、新しい思い出を作っていける。アルクとの買い物、これから育てる植物、そしていずれ始まる仕事…。
「今日はありがとう、アルク」
僕は窓際に立ち、沈みゆく太陽を眺めながら言った。
「この世界での暮らし、少しずつだけど、形になっていく気がするよ」
アルクは静かに僕の隣に立った。
「新しい始まりですね」
「うん、新しい始まり」
僕の耳が前向きに立ち、期待と希望を表していた。




