第二十話「隣人と散歩」
ドアが閉まる音とともに、僕とアルクはノーザンテラスの廊下に出た。セキュリティシステムが自動的に作動するのを確認し、エレベーターに向かう。
そのとき、廊下の向こうからエレベーター方向へ歩いてくる若い男性の姿が見えた。黒髪をした、いかにも日系の顔立ちの青年で、肩にかけたバッグからは買い物をしてきたらしい食材の袋が覗いていた。自分の部屋の前(僕の部屋の隣、3215号室)に来ると、彼は僕たちの姿に気づき、ドアのパネルに手をかざしたまま、こちらを見て動きを止めた。
その表情は明らかに驚きに満ちていた。長い白い耳を持つ僕の姿を見て、目を丸くしている。
「あ、こんにちは」
僕は友好的に挨拶した。
「今日からここに引っ越してきました。3214号室のユナギです。よろしく—」
言葉を最後まで言い終える前に、彼は慌てたように手のひらをドアパネルに押し付け、部屋の中に滑り込むように入ってしまった。
一瞬だけ、ドアが閉まる前に彼のAIパートナーらしき若い男性の姿が見えた。少し年上の兄のような雰囲気の男性型AIは、困ったような表情を浮かべ、僕たちに向かって小さくお辞儀をすると、すぐに
「お待ちください」
と主人を呼びながらドアを開けて後を追っていった。
「…お願いします」
僕は言葉を最後まで言ったが、既に誰も聞いていなかった。
「えーっと」
アルクが少し困ったように言った。
「ノヴァスフィアでは初対面の人と直接会話することに慣れていない方も多いんです」
「まあ、いいよ」
僕は肩をすくめた。耳がちょっと下がっていたが、すぐに元の位置に戻る。
「人づきあいなんてそんなものだよね。夕食に行こうか」
エレベーターに乗り込み、ノーザンテラス・プラザに向かった。プラザは中央広場を囲むように様々な店舗が立ち並ぶエリアで、夕方になると多くの住民が食事や買い物に訪れる場所だという。
プラザに到着すると、食欲をそそる様々な香りが漂ってきた。食べ物の匂いに敏感になったのは、ラゴモーフの身体になってからの変化かもしれない。
「どのような料理がお好みですか?」
アルクが尋ねた。
「このエリアには様々なスタイルのレストランがあります」
「うーん…」
僕は周囲を見回した。
「なんかアジア系の料理がいいな。辛すぎなければ」
アルクはプラザの地図を確認し、
「『イースタン・フュージョン』というレストランがあります。東アジアの伝統料理と現代的な調理法を組み合わせた料理を提供しているようです」
「それいいね!」
レストランに入ると、モダンな内装の中に、かすかに懐かしさを感じる要素が散りばめられていた。前世の記憶にある日本やアジアの雰囲気とはやや異なるが、何となく落ち着く空間だ。
席に案内され、メニューを開く。しかし、気になったのは料理の内容よりも、周囲の客の視線だった。さりげなく周りを見渡すと、やはり僕に視線が集まっているようだ。特に長い耳が好奇心の対象になっているらしい。
「アルク」
僕は小声で言った。
「みんな見てるよ…何か目立たない方法ないかな?」
アルクも周囲に気を配りながら、穏やかな声で答えた。
「確かに注目されていますね。ラゴモーフ系市民はこの区画ではかなり珍しいですから」
「何か変装とか…」
「帽子で耳を隠すという手はありますが」
アルクは少し考え込んだ。
「実際には大した効果はないでしょう。体全体の特徴がありますから」
「そうだよね…」
僕はため息をついた。
「じゃあ、慣れるしかないか」
「その通りです」
アルクは優しく微笑んだ。
「時間が経てば、この区画の人々もあなたの存在に慣れてきます。最初は珍しがられても、そのうち日常の風景の一部になるでしょう」
メニューから野菜たっぷりの炒め物と蒸し餃子を注文した。料理が運ばれてくると、その美しい盛り付けに目を奪われる。様々な色の野菜が鮮やかに配置され、餃子は透けるほど薄い皮に包まれていた。
「いただきます」
一口食べると、予想以上に懐かしい味が広がった。前世の記憶にある中華料理のような風味だが、より繊細で野菜の甘みが引き立っている。
「美味しい!」
思わず声が出た。
アルクは食事はしないが、僕が美味しそうに食べる様子を見て満足そうだった。
食事を終え、レストランを出ると、すでに街には柔らかな夜の灯りが灯り始めていた。
「少し街を散策してみようか」
僕は提案した。
「この辺りのことをもっと知りたいし」
「良いアイデアです」
アルクは頷いた。
「ノーザンテラスには見所がたくさんあります」
プラザを歩きながら、様々な店舗を見て回った。まず目についたのは、大きなスーパーマーケットで、食料品から日用品まで幅広く取り扱っているようだった。
「あそこは『デイリー・エッセンシャル』という総合スーパーです」
アルクが説明した。
「食品から日用品まで、日常生活に必要なものはほとんど揃います。明日の買い物はここが良いでしょう」
さらに歩を進めると、美味しそうな香りがする小さなパン屋が見えてきた。
「『フラワリー・ベイク』ですね」
アルクが教えてくれた。
「朝早くから開いているので、朝食を買いに行くのに便利です」
その隣には薬局らしき店舗があり、「バイタル・バランス」という名前が付いていた。
「バイタル・バランスはノヴァスフィア全体に展開している大手チェーン店です」
アルクの説明は親切だ。
「基本的な医薬品から健康食品まで幅広く取り扱っており、どの区画でも同じ商品を入手できる利便性があります」
角を曲がると、明るい色彩の店が目に入った。看板には「グリーン・ハーモニー」と書かれている。
「園芸用品の専門店です」
アルクが言った。
「植物育成に必要な道具や肥料、種子や苗木なども揃っています。明後日はもっと大きな園芸センターに行く予定ですが、急に必要になったものはここで入手できます」
プラザの奥には様々な飲食店が軒を連ねており、住民たちが思い思いに食事を楽しんでいる。カフェや軽食を提供する店、フォーマルな雰囲気のレストランまで、選択肢は豊富だった。
「生活するには便利な場所だね」
僕は感想を述べた。耳が前向きに立ち、好奇心が高まっている。
歩きながら、少し離れた場所に特徴的な建物が目に入った。まるで波打つような外観で、表面は半透明の素材でできているようだ。
「あれは何?」
僕は指さした。
「ホログラフィック・ギャラリーです」
アルクの声に少し興奮が混じる。
「立体ホログラムの芸術作品を展示している施設です。地球時代の名画から現代のノヴァスフィアの芸術家の作品まで、様々な作品が体験できます」
「ちょっと見てみたいかも!」
僕の耳がぴんと立った。
「ですが、閉店時間が近いかもしれません」
アルクが懸念を示した。
それでも足早にギャラリーに向かうと、入口には「閉館20分前」という表示が出ていた。扉を開けようか迷っていると、中から年配の男性が顔を出した。
「いらっしゃい」
彼は僕の姿を見て少し驚いたようだったが、すぐに明るい笑顔になった。
「変わったお客さんだね。閉館間近だけど、ゆっくり見ていってくれ」
「ありがとうございます」
僕は礼を言って中に入った。
内部は想像以上に広く感じられ、幻想的な雰囲気に包まれていた。部屋は薄暗く、様々な場所から光が漏れている。それぞれが独立した展示スペースになっているようだ。
「今月のテーマは『季節の対比』です」
館長らしき男性が説明した。
「特にメインホールでは『サマースケープ』と題して、夏のサマーセクションの風景を展示しています」
メインホールに入ると、そこは別世界だった。部屋全体が夏の海辺に変わっており、青い波が足元まで打ち寄せてくるような錯覚を覚える。頭上には眩しい太陽が輝き、どこからか潮風の香りさえ漂ってくるようだった。
「すごい…」
僕は息を呑んだ。耳が驚きで上向き、目が興奮で輝いている。
「本物のような体験ですね」
アルクも感心した様子だ。
「これはサマーパラダイス区画の風景です」
「サマーパラダイス?」
「ノヴァスフィアには様々な気候環境を再現した区画があります」
アルクが解説を始めた。
「ウィンターヘイブンは寒冷環境を模していますが、サマーパラダイスは常夏の環境を維持しています。白い砂浜と青い海、南国の植物が生い茂る風景が特徴です」
目の前の光景は、まるで地球の楽園のような場所だった。波の音、鳥の鳴き声、風に揺れるヤシの木…すべてがあまりにもリアルで、思わず手を伸ばしてしまう。
「行ってみたいな、こんな場所」
僕は本心から言った。
「いつか一緒に行きましょう」
アルクは優しく微笑んだ。
「ただし、あなたのようなラゴモーフ系は高温多湿の環境は苦手な傾向があります。適性検査の結果でも、高温環境ではパフォーマンスが低下することが示されていました」
「そうだったね」
僕は少し考え込んだ。
「でも、見学くらいならできるよね?」
「もちろんです。短時間の訪問なら問題ないでしょう。適切な水分補給と休憩を取れば、熱中症の心配もありません」
もう少し展示を見て回った後、閉館時間が迫っていることを館長が優しく知らせてくれた。感謝の言葉を述べて外に出ると、すでに夜の闇が深まり始めていた。
「ノーザンテラスの夜は綺麗だね」
僕は上空を見上げた。区画の見え方が夜になると変わり、幻想的な光景になっている。遠くの他区画の灯りが星座のように瞬き、その間を小さな光点—おそらくトランスポッド—が行き交っていた。
「この地区は特に夜景が美しいと評判です」
アルクは静かに言った。
「特に植物園からの眺めは格別とされています」
自室へ戻る道すがら、僕は今日見てきた街の印象を話した。
「思っていたより落ち着いた場所だね。少し注目されるのは大変だけど、街自体はとても暮らしやすそう」
「そうですね」
アルクは同意した。
「時間とともに、あなたはこの街の一部になっていくでしょう。そしていつの日か、街もあなたの一部になるはずです」
その言葉には不思議な重みを感じた。この場所が本当に僕の居場所になるのか、まだ確信は持てない。けれど、少なくとも今日は、この街の雰囲気が気に入った。
ノーザンテラスの住宅区に戻り、エレベーターで3階に上がると、隣の部屋のドアが目に入った。
「いつかちゃんとお話ができるといいな、3215号室の人」僕は心の中でつぶやいた。
自分の部屋のドアに手をかざすと、認証が完了し、静かにドアが開いた。新しい住まいの中に足を踏み入れ、今日一日の発見と出会いを胸に、ようやく安堵のため息をついた。
「明日は買い物で忙しくなりそうだね」
僕はアルクに言った。
「はい、新生活の準備を整えましょう」
アルクは優しく微笑み、その姿が徐々に青灰色の光球へと変化していった。
窓の外には、ノーザンテラスの夜景が美しく広がっていた。新しい家からの初めての夜景—それは前世では決して見ることのできなかった、全く新しい世界の光景だった。




