第二話「氷の故郷」
再びトランスポッドに乗り込み、医療施設を後にする。窓の外に広がる風景は、前世の記憶にある都市とは全く異なっている。建物は有機的な曲線を描き、緑と調和するように設計されている。そして何より不思議なのは、「上」にも都市が見えることだ。
「あの、質問していいですか?」
僕はPMNロボットに声をかけた。
「今、僕たちはどこにいるんですか?もう少し詳しく教えてもらえませんか?」
PMNロボットの瞳が輝き、優しく応答した。
「現在位置はノヴァスフィア、ウィンターヘイブン-42区画です。ノヴァスフィアはG型恒星『ノヴァンサス』を囲むダイソン球体構造物で、約3億2千万キロメートルの直径を持ちます。ウィンターヘイブン-42は寒冷環境を模した生態系区画で、総面積約10万平方キロメートル、常住人口約6千万人です」
どれもこれも聞いたことのない地名ばかりだ。僕の長い耳が不安で左右に揺れる。
「それは…地球じゃないんですか?」
ロボットは一瞬、処理を行うように静止した。
「地球とは異なります。地球はソル星系第三惑星を指し、ノヴァスフィアはダイソン球体構造物です。地球からの距離は約78.6光年です」
僕の耳がビクッと跳ね上がり、目が丸くなった。心臓が強く鼓動するのを感じる。まるで漫画のキャラクターのように、自分の体が勝手に反応している。前世の記憶では、人類はまだ太陽系から出ていなかったはずだ。いったい何年経ったというのだろう?
「地球は…今どうなっているんですか?」
PMNロボットは窓の外を見るように首を傾けた。
「地球は現在、中規模氷河期に入っています。最終記録によれば、平均気温は産業革命前と比較して約7.4度低下し、北半球の大部分が氷床で覆われています。人類の99.98%はノヴァスフィアを含む宇宙コロニーへ移住しました」
「え?氷河期?」
僕は息を呑み、両耳が驚きで完全に立ち上がった。同時に鼻先が小刻みに震える。
「じゃあ、地球にはもう人が住んでないんですか?」
「完全な無人化はされていません。『テラ・プリザベーション・イニシアチブ』により、約42万人の専門家チームが地球に残り、重要な生態系の保存と文明遺産の管理を行っています。彼らは『テラ・ガーディアン』と呼ばれています」
僕の頭の中で情報が整理できない。前世の記憶では、地球温暖化が問題になっていたはずなのに。
「いつから…氷河期になったんですか?」
「氷河期の正確な開始は特定困難ですが、主要な気候転換は西暦2189年に始まりました。最初の大規模宇宙移住は2212年に開始されています」
2189年。僕の前世の記憶は21世紀初頭のもの。一体どれだけの時間が経ったのだろう。
「今は…何年なんですか?」
「現在はノヴァスフィア暦382年、地球暦では西暦2724年に相当します」
700年以上も経っている。僕の耳が完全に垂れ下がり、瞳孔が驚きで大きく開いた。思わず後ろに小さく跳ねそうになるのを抑える。自分が知っていた世界は、もう存在しないんだ。指先が小刻みに震えるのがわかる。
「あの…」
震える声で尋ねた。耳が左右に小さく揺れながら、徐々に下を向いていく。
「僕は…これからどうなるんですか?データベースに存在しないってことは…」
PMNロボットは僕の方を向き、青い光を放つ瞳が柔らかくなったように見えた。
「ご心配は理解できます。あなたのような事例は稀ですが、対応プロトコルは存在します。行政センターのシビリアン・インテグレーション・ユニットが、あなたの状況を評価し、適切な措置を決定します」
「適切な措置って…」
僕は喉が乾くのを感じた。耳が警戒するように少し後ろに倒れ、鼻がひくつく。
「実験のために隔離とかされたりしないですよね?」
「ご安心ください」
ロボットは即座に応答した。
「生命倫理法第7条により、すべての知性体は尊厳を持って扱われる権利があります。実験目的での扱いは厳しく禁止されています。特にあなたのようなラゴモーフ系動物遺伝子融合型市民は『倫理的配慮特例種』に指定されており、追加的な保護規定が適用されます」
なぜか「市民」と呼ばれていることに少し安心感を覚えた。ただ「配慮特例種」という言葉が気になる。
「倫理的配慮特例種って何ですか?」
「遺伝子融合種の中でも、とりわけ倫理的議論の対象となった種を指します。ラゴモーフ系は初期の遺伝子融合実験で感情増幅効果が強く現れたため、特別な配慮が必要とされました」
なるほど、だから僕の耳は感情をそのまま表してしまうのか。確かに今も不安で耳が完全に垂れ下がったままだ。
「それで…行政センターでは何をするんですか?」
「基本的なプロセスとしては、身元確認、医学的評価、心理的評価、社会適応能力の測定、そして暫定的な身分証明の発行が行われます。その後、適切な住居と基本的な生活支援が提供される見込みです」
少なくとも放っておかれることはなさそうだ。それだけでも救いだ。
「どのくらいかかりますか?」
「標準的なケースでは3〜5時間程度です。ただし、あなたのケースは特異であるため、若干の追加時間が必要かもしれません」
トランスポッドが減速し始めた。窓の外に、白い大理石のように輝く巨大な建物が見えてきた。まるで巨大な花が開いたような形状で、周囲には緑豊かな公園が広がっている。
「到着しました。ウィンターヘイブン行政センターです」
PMNロボットが告げた。
トランスポッドのドアが静かに開く。僕は深呼吸して立ち上がった。緊張で耳先が微かに震え、足元がおぼつかない。前世でもお役所は苦手だったが、異世界のお役所はどんなものだろう。
行政センターの入り口に近づくと、建物の壁面に浮かぶホログラムが僕たちに反応した。
「ようこそ、ウィンターヘイブン行政センターへ」
柔らかな女性の声が空間に広がった。
「PMNユニットXR-7、特別対応ケースを検出しました。優先処理プロトコルを適用します」
突然の声に、僕はびくっと小さくジャンプし、両耳がピンと立った。瞳孔が一瞬拡大し、次の瞬間には好奇心で左右に動く。
入り口のドアが自動的に開き、内部の青白い光が僕たちを迎え入れた。
「こちらへどうぞ」
PMNロボットが案内する。
僕は長い耳を少し上げて、未知の環境へ一歩踏み出した。好奇心と不安が混ざり合い、耳が前後に小刻みに動く。鼻先が空気を探るようにひくつき、視線は建物内部のあらゆる方向に素早く移動する。データベースに存在しない僕の新生活が、この先で始まろうとしている。家族も友人も知り合いもいない世界で、これからどう生きていけばいいのか——その答えがこの建物の中にあることを、僕はただ信じるしかなかった。