第十九話「植物の街」
トランスポッドの窓から見える風景が少しずつ変わっていった。行政センター周辺の公共施設が立ち並ぶエリアから離れ、徐々に住宅地らしい佇まいへと変化している。建物の高さも低くなり、緑が増えてきた。
「もうすぐノーザンテラス地区です」
アルクが窓の外を指さした。
僕は窓から身を乗り出すようにして景色を眺めた。耳がわくわくした様子で前傾している。この先にあるのは、僕の新しい住まいだ。
トランスポッドが「ノーザンテラス中央ステーション」と表示された停留所に到着し、僕たちは降り立った。目の前に広がる光景に、僕は思わず息を呑んだ。
この地区は、想像していたよりもずっと美しかった。4〜5階建ての建物が整然と並び、それぞれの建物は白や薄い青、淡いグレーなどの落ち着いた色調で統一されている。そして最も驚いたのは、建物のほとんどが緑で覆われていることだった。
ベランダや窓枠、時には壁面全体に植物が配置され、まるで建物そのものが生きているかのような印象を与えている。春の始まりを告げるように、一部の植物には小さな花が咲き始めていた。
「すごい…」
僕は感嘆の声を上げた。
「まるで森の中の街みたいだ」
「ウィンターヘイブン区画の中でも、特に緑が豊かな地区です」
アルクは説明した。
「ホーム・バイオダイバーシティ・イニシアチブが最も積極的に取り入れられているエリアの一つとされています」
地区内を歩き始めると、道路沿いにも様々な植物が植えられており、小鳥のさえずりが聞こえてくる。ところどころに小さな広場があり、そこには公共の植物園が設けられていた。人々がゆったりとした時間を過ごしている様子が見える。
静かで落ち着いた雰囲気に、僕はすぐに好感を抱いた。耳がリラックスして少し下がり、気持ちも穏やかになる。
「あの、アルク」
僕は歩きながら尋ねた。
「この植物育成がなぜそんなに推奨されているの?もちろん綺麗だし、空気もきれいになりそうだけど」
「主な理由は『グリーン・マインド・プログラム』と呼ばれる精神衛生向上策です」
アルクは穏やかに説明した。
「植物と触れ合うことで、ストレスの軽減や集中力の向上、創造性の促進など、様々な精神的効果が期待できます。また、区画内の空気質の調整や温度制御にも役立っています」
「なるほど」
僕は周囲の緑を改めて見渡した。
「たしかに、心が落ち着くよね」
「実際、ノヴァスフィアの調査によると、植物を育てている市民は精神的健康度が平均15%高いというデータがあります」
アルクは付け加えた。
「技術だけでなく、自然の力も活用するというノヴァスフィアの基本理念の一つなのです」
僕たちは中央広場を横切り、住宅エリアの奥へと進んでいった。様々な植物に囲まれた環境を見ていると、自分でも育ててみたくなってきた。
「アルク、もし僕も植物を育てるなら、せっかくだから食べられる実がなるやつがいいな」
僕は率直に言った。
「フルーツとか…」
「良い選択です」
アルクの表情が明るくなった。
「ラゴモーフ系は一般的に植物性の食物、特に果物への嗜好が強いとされています。実際、あなたも果物を好んで食べていますね」
「そうなんだ」
僕は自分の食習慣を思い返した。確かに、フルーツや野菜は特に美味しく感じる。
「明後日あたり、区画内の園芸センターに行ってみましょう」
アルクが提案した。
「初心者でも育てやすい果樹の苗がいくつかあります。ブルーベリーやイチゴなどの小型のものから始めるのが良いでしょう」
「それいいね!」
僕の耳が期待で前傾した。
やがて僕たちは、エレナの説明にあった住所の建物の前に立った。5階建ての白い建物で、壁面には青や紫の花を咲かせる蔦が這っている。エントランスの両側には小さな樹木が植えられ、来訪者を優しく迎え入れるような雰囲気だ。
「これが僕たちの住む建物?」
「はい」
アルクが頷いた。
「あなたの部屋は何階でしたか?」
「えっと…」
僕は少し考え込んだ。エレナから聞いた部屋番号は覚えていたが、階数は明確に言われていなかった。
「3214号室だったと思うけど、何階かはわからない」
「3214号室であれば、3階の214号室ですね」
アルクはすぐに答えた。
「このエリアでは、千の位が階数を示します」
「なるほど、それは覚えやすいや」
エントランスホールに入ると、中央に小さな噴水があり、周囲には観葉植物が配置されていた。壁には住人の名前と部屋番号が表示された電子ディレクトリがある。僕の名前はまだ登録されていないようだったが、アルクが説明するには、今日の登録情報が反映されるまで数時間かかる場合があるという。
エレベーターで3階へ上がり、廊下を進む。廊下の照明は柔らかく、床は音を吸収する素材で作られているようだ。214号室の前に立つと、僕は少し緊張して手のひらを見つめた。
「認証パネルに手のひらをかざしてください」
アルクが優しく促した。
緊張しながらも、認証マークの付いた手のひらをドア横のパネルにかざすと、パネルが青く光り、「認証完了、ようこそユナギさん」という声とともにドアが静かに開いた。
部屋に足を踏み入れようとした瞬間、アルクが僕の腕を軽く引いた。
「その前に、セキュリティシステムの初期設定をしておきましょう」
彼は入口のパネルを指さした。
「基本的なセキュリティレベルの設定と、あなたの生体情報の確認が必要です」
「えっと、どうすればいい?」
「まず、このパネルに手を置いたまま、『セキュリティ初期設定』と言ってください」
言われた通りにすると、パネルが明るく光り、いくつかの項目が表示された。アルクの指示に従って、基本的なセキュリティレベル(中程度)、緊急時の連絡先(行政センターとアルク)、そして訪問者の受け入れ設定などを登録した。
「これで基本的な設定は完了です」
アルクが微笑んだ。
「さあ、新しい住居を見てみましょう」
ようやく部屋の中へ入ると、明るく清潔な空間が広がっていた。玄関を入ってすぐの場所は小さな靴箱と壁掛けがあり、続いてリビング・ダイニング・キッチンが一体となった空間へと続いている。
「すごく明るい!」
僕は驚いた声を上げた。耳がぴんと立ち、目が興奮で輝く。
リビングの壁は淡い青色で、床は木目調の温かみのある素材だった。窓は大きく、たっぷりと光が入ってくる。窓の外には、説明通りのベランダが見える。まだ何も植えられていないが、土台となるプランターボックスがいくつか設置されていた。
「キッチンを見てみよう」
僕は歩き回りながら言った。
キッチンは白を基調としたコンパクトながら機能的な設計だった。冷蔵庫、コンロ、オーブン、電子レンジなどの基本的な設備が揃っている。アルクが説明するには、これらはすべて音声認識システムで操作でき、AIによる調理サポート機能も搭載されているという。
「寝室はこちらです」
アルクがリビングの向こう側のドアを指さした。
寝室に入ると、シンプルなベッド、クローゼット、小さな書き物机があった。天井は確かに通常より高く、ベッドに横になっても耳を完全に立てることができそうだ。
「快適そうだね」
僕はベッドに座ってみた。マットレスが体重に合わせて形を変え、ぴったりとフィットする感覚がある。
浴室も期待通りだった。ラゴモーフ専用の乾燥システムが備え付けられており、ホテルと同じように全身を効率的に乾かせるようになっている。また、洗面台の鏡は大きく、耳まで含めた全体を確認できるサイズだった。
「あ、アルク」
僕は突然気づいた。
「この壁、ホテルより厚いような気がする」
アルクは少し微笑んだ。
「よく気づきましたね。実は、この住居はラゴモーフ系の聴覚特性を考慮して、通常より高い防音性能を持つ壁が採用されています」
「え、本当に?」
僕は驚いて壁を軽く叩いてみた。確かに、通常より厚く、固い感触がある。
「ラゴモーフ系は聴覚が鋭敏なため、一般的な壁では周囲の音が気になることがあります」
アルクは説明した。
「これは住居全体に適用されている特殊な改築の一つです」
「すごいな…」
僕は感嘆の声を上げた。
「こんなに細かいところまで配慮してくれてるなんて」
部屋を一通り見終わった後、僕たちはリビングのテーブルで必要なものをリストアップし始めた。アルクが空中にメモを表示させ、僕が挙げるアイテムを次々と記録していく。
「食器とカトラリーは必要だね」
僕は考え込みながら言った。
「それから調味料とか…」
「タオルやバスアメニティも追加しましょう」
アルクが提案した。
「基本的なものは用意されていますが、個人的な好みのものがあるかもしれません」
「あと、植物用の道具とか肥料も必要かな」
「そうですね。明後日の園芸センターで選べますが、基本的な用具はリストに入れておきましょう」
こうして二人で話し合いながら、必要なものをリストアップしていった。生活必需品から、快適さを高めるためのアイテムまで、かなりの量になったが、明日一日かけて買い物に行けば揃えられそうだ。
「明日はお買い物ツアーですね」
アルクはリストを保存した。
「今日はひとまず一段落ついたところで、夕食を取りに行きませんか?」
「そうだね、外食しよう」
僕は立ち上がり、伸びをした。耳が気持ちよさそうにピンと立つ。
「急に空腹になってきた」
「近くに良いレストランがいくつかあります」
アルクが言った。
「特にノーザンテラス・プラザには様々なタイプの飲食店があり、選択肢が豊富です」
「それじゃあ、プラザに行こう」
僕は窓の外を見た。日が傾き始め、徐々に街の灯りが灯り始めている。
「新しい家の周りも探検してみたいし」
ドアに向かう前に、もう一度部屋全体を見渡した。まだ荷物も少なく、殺風景な部分もあるが、それでもここは確かに僕の新しい住まいだ。ここから新しい生活が始まる。
「行こうか」
僕はアルクに微笑みかけた。
ドアを閉め、セキュリティを「外出モード」に設定してから、僕たちは夕食を探しに出かけた。新しい街、新しい家、そしてこれから始まる新しい仕事。未知の可能性に満ちた未来が、少しずつ形になり始めていた。




