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第一話「存在しない兎」

誰かが私の肩を軽く叩いている。


「すみません。大丈夫ですか?」


声は機械的だけどどこか温かみがある。不思議な声だ。目を開けると、まぶしい光が飛び込んできて、思わず目を細める。


「眩しい…」


「申し訳ありません。照明強度を下げます」


光の強さが落ち着くと同時に、ようやく目の前の存在がはっきりと見えてきた。銀色の金属ボディに青く光る瞳。人型のロボットだ。その胸には「PMN」という文字が光っている。


「あなたは公共スペースで倒れていました。体調に問題がありますか?」


僕はまだ状況が飲み込めていない。目の前のロボットを見つめ返した。


「あなたは?」


ロボットの胸の「PMN」というロゴが少し明るく光った。

「私は平和維持ネットワーク、通称PMNのサポートユニットXR-7です。公共空間の安全と市民の健康維持を担当しています。緊急支援、情報提供、衛生管理など32の主要機能を実行できます」

その声は機械的でありながら、どこか親しみやすさがあった。


「PMN…平和維持…警察みたいなもの?」


「近いですが、より包括的なサービスを提供しています。旧時代の『警察』は主に事後対応型でしたが、PMNは予防と支援を重視しています。あなたのような緊急事態にある市民をサポートするのも重要な役割です」

僕は身体を起こそうとして、その時になって初めて気がついた。ここはどこだ?

周囲を見回すと、淡い青みがかった光に照らされた、どこまでも続く廊下がある。天井は驚くほど高く、半透明のパネルから柔らかな光が差し込んでいる。壁には幾何学模様のような何かが流れるように動いている。こんな場所、見たことがない。


「ここは…どこ?」


ロボットの目が瞬きをした。


「ノヴァスフィア、ウィンターヘイブン-42区画の公共回廊B-7です」


「ノヴァス…なに?」


ロボットの瞳が少し大きくなり、頭部が少し傾いた。まるで困惑しているようだ。


「生体スキャンの結果、あなたはラゴモーフ系動物遺伝子融合型市民と判断されます。体調不良の兆候が見られるため、医療施設への移動を推奨します。承諾していただけますか?」


僕は混乱しながらも自分の体を見下ろした。白いファーのような産毛が生えた手。細長い指。そして何より驚くべきは、自分の足元に伸びる長い耳だ。僕は反射的に耳に触れた。確かに僕の頭から生えている。


「うさぎ…?僕、うさぎなの?」


ロボットは無言で私を観察し、それからゆっくりと手を差し伸べた。


「医療施設で詳しく診断させていただきます。許可いただけますか?」


選択肢はあるのか?この状況ではなさそうだ。


「わかった。お願い…できるかな?」


空中に浮かぶ乗り物——トランスポッドと呼ばれるものだと案内ロボットは教えてくれた——に乗って15分ほどで医療施設に到着した。道中、窓から見えた光景は圧巻だった。

巨大な半透明のドームの下に広がる都市。曲線的な建物が緑豊かな景観と調和している。そして何よりも驚いたのは、空を見上げたとき。空の向こう側に別の都市が逆さまにぶら下がっているように見えることだった。地平線は上に向かって曲がり、まるで巨大な筒の内側にいるような感覚だ。


「あれは…」


「エデンバーグ-16区画です」PMNロボットが説明した。「ここから約200キロメートル離れています」


200キロ先の都市が空に見える。そんな場所、これまで見たことも聞いたこともない…。僕はいったいどうしてしまったんだろう。ここがどこなのかも、自分が何なのかも、全くわからない。まるで赤の他人に成り代わってしまったか、一度死んでしまって前世の記憶を持っているような…。

そう、前世。なぜか僕には別の人生の記憶がある。加藤雪という名の、普通の日本人プログラマーだった時の記憶が。代わりにこの姿の自分の記憶が一切ない。この状況が不安で仕方ないが、でも今はその事実を脇に置いておこう。目の前の非現実的な現実に対処するので精一杯だ。

医療施設は白と水色を基調とした円形の建物だった。中に入ると、さまざまなロボットがせわしなく動き回っている。人型ロボットや移動式ベッドを備えたケアユニットなどが、それぞれの役割に応じて忙しく働いていた。


「こちらへどうぞ」


案内されるまま診察室に入ると、部屋の中央に浮かぶ円形のプラットフォームに立つよう指示された。


「診断を開始します」


天井から光の粒子が降り注ぎ、私の体を包み込む。暖かく、くすぐったい感覚。


「スキャン完了。医師が参ります」


数分後、部屋に入ってきたのは、東アジア系の特徴を持つ女性医師だった。彼女は懐かしい——前世で見慣れていた顔立ちだ。不思議と安心感を覚える。


「こんにちは。ホライゾン・クリニックのナオミ・チェン医師です」


彼女は穏やかな笑顔で挨拶した。


「気分はいかがですか?」


「正直、混乱しています。ここがどこなのか、自分が何者なのかもよくわからなくて…」


僕の長い耳が不安で少し下がる。自分の感情が耳に現れるなんて、慣れない。

ナオミ医師は目の前の空中に浮かぶ半透明のディスプレイを操作しながら言った。


「身体的には問題ありませんよ。ラゴモーフ型の標準的な生理機能を示しています。ただ…」


彼女は眉をひそめた。


「記憶と認知に関する数値が少し特異ですね」


「記憶?」


「はい。脳のある部分が非常に活発に、別の部分が通常より低活性です。典型的な記憶障害のパターンとは違います」


彼女は私の顔をじっと見つめた。


「何か思い出せることはありますか?名前とか、住んでいる場所とか」


「僕は…」


躊躇した。前世の記憶について話すべきか迷う。


「加藤…いや、その名前は違う気がします。でも自分がなんなのかはわかりません」


医師はPMNロボットに向き直った。


「IDスキャンをお願いできますか?基本情報が必要です」


PMNロボットの目から青い光線が出て、私の顔をスキャンした。


「スキャン中…照合中…」


ロボットが一瞬固まった。


「エラーが発生しています。一致するIDデータがありません」


「それはおかしいわね」


医師が眉をひそめた。


「再試行してください」


「再スキャン実行中…エラー。中央データベースに該当市民データが存在しません」


部屋の中の空気が凍りついたように感じた。


「存在しない…?」


僕は呟いた。


「僕、この世界に存在してないってこと?」


医師は困惑した表情を浮かべながらも、冷静さを保とうとしている。


「落ち着いて。技術的な問題かもしれません」


彼女はディスプレイを再び操作した。


「量子認証センターに直接問い合わせてみます」


数分間の緊張した沈黙の後、医師の表情が更に硬くなった。


「どうやら本当に登録されていないようです。これは…前例のないケースね」


PMNロボットが前に進み出た。


「プロトコル22-Bを適用します。未登録生命体の発見時には、区画行政センターへの移送が必要です」


医師は反対するように手を挙げた。


「待って!彼は"生命体"じゃなく人です。明らかにラゴモーフ系市民よ」


「申し訳ありませんが、規定通りに進める必要があります」


ロボットは私に向き直った。


「恐れることはありません。あなたの状況を解決するために、適切な行政機関に案内します」


医師は不満そうな表情を浮かべながらも、抵抗することができないようだった。


「大丈夫よ」

彼女は私に向かって優しく言った。


「行政センターなら、あなたの状況を解決できるはず。私から担当者に連絡しておくわ」


「ありがとう…」


僕は小さな声で返した。自分の状況が完全に理解できないまま、また新しい場所に連れて行かれることになる。

PMNロボットが再び手を差し伸べた。


「こちらへどうぞ。ウィンターヘイブン行政センターへご案内します」


立ち上がると、長い耳がピンと立った。少なくとも、この体の一部は私の気持ちを正直に表しているようだ——不安と好奇心が入り混じった複雑な感情を。

病室を出る前、振り返ると医師が小さく手を振っていた。彼女の目には心配の色が浮かんでいる。こんな状況でも、どこか懐かしさを感じる人間の姿に、わずかな安心感を覚えた。

扉が閉まり、僕はPMNロボットに従って、この不思議な世界の新たな一歩を踏み出した。

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