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前世の記憶

 私が前世の記憶を取り戻したのは、高熱を出した8歳の夜だった。


 ゼェゼェと喘ぎながら、息苦しさとひどい火照りに耐えている時、ふと見た悪夢。それは妙なリアリティを伴う、見たことのない世界の自分だった。


 私は当時35歳。大学時代の同級生と付き合ってもう十年以上の仲だったのに、ある日突然捨てられた。理由は、向こうに新しい彼女ができたから。お決まりの、若い女に走って長年の彼女を捨てるパターン。私もそのありがちなパターンの、被害者になってしまったのだ。


『ひどいよ、ユウト……!あんまりじゃない。私もう35なんだよ。こんな歳になってこんな風に捨てるくらいなら、どうして5年前、私から別れようって言った時に別れてくれなかったの?!』

『……。あの時は……、まだリナと出会ってなかったから……。でももう、俺はリナを好きになったんだ。な?ごめん、ミオリ』

『……っ、私は子どもが欲しいから、結婚する気がないのならもう別れてほしいってあの時言ったじゃない!そしたらユウトが言ったのよ。絶対にミオリと結婚するって。俺だってお前との子どもが欲しいし、お前とは一生離れたくないって……!だから信じたのに!!』

『……そんなこと言われても、人の気持ちって変わるもんだろ?な?この数年間で、俺もよく考えたんだよ。お前のそういう、ネチネチと責めてくるところがすごく嫌でさぁ、本当に生涯の相手がミオリでいいのかって。お前がそういうタイプじゃなかったら、俺だってリナに心が揺らぐことなんかなかったんだよ。な?お互いだよ。お互い悪いんだ。しょうがない』

『な……っ!何よ今さら!!何責任転嫁しようとしてるの?!私がユウトを責めるのは、あなたにいつもそういうところがあるから──────……!』


 ああ、醜い。


 なんて醜い言い争いだろう。


 被害者、じゃないな。これは私も悪い。こんな男の言うことを信じて、根拠のない愛に縋りついて、人生の長い時間を無駄にしてしまった。

 私は昔から子どもが大好きだった。幼稚園の先生になりたいなんて思ってたぐらい。いつかは自分の子どもを産んで、愛する人と素敵な家庭を築きたかった。

 けれど、そんな夢があるのなら、ちゃんとそれに相応しい相手を見極めなきゃいけなかったのよ。


(……私も……、意固地になってたとこあるもんなぁ。本当はユウトに対しての恋愛感情なんてとうに冷めてたのに、こんなに長く時間を費やしたんだから、若い頃の一番いい時期を全部捧げたんだから、報われなくちゃ全部が無駄になってしまう、みたいな。最後の数年は、もうそんな気持ちで一緒にいただけのような気がするわ……)


 今になって思えば。

 それでも私は、浮気なんか一度もしなかったけどね。アイツと違って。だからやっぱり、アイツの方がだいぶ酷いとは思う。目を逸らしていたけど長い付き合いの中で、アイツの行動が怪しいと思うことだって本当は何度もあったし。


(……ああ……。会社の先輩に何度か告白だってされてたのにな。昔からの彼氏がいるからって断る私のことを、それでも何年もずっと想ってくれてた。あの人、すごく素敵だったのに。どうしてあんなヤツさっさと捨てて、次の道に進んでみようとしなかったんだろう……)


 就職したばかりで右も左も分からず必死だった私を、いつもさりげなくサポートしてくれていた先輩。一緒に外回りをしている時に、花屋で見かけた青い薔薇を見て素敵だと私がはしゃいでいたら、そのことをずっと覚えてくれていて、わざわざ私の誕生日にブルーの小さな花束を贈ってくれたことさえあった。優しかったな。

 そんな男性も、周りにはいたのに。


 でも、あの日のあれは断じて自殺じゃない。

 ただ、ユウトに振られてひどく言い争った後で、あまりにも呆然としていて。すごい勢いでバイクが来てるのにも気付かなかった。もう深夜だったし、辺りも私の心の中も、真っ暗で──────




「……。……ん……、」


 そんなことを考えているうちに、目が覚めて。気付けば体も楽になっていた。


 そして私は今の自分が8歳の女の子、ブランベル子爵家の令嬢リディアであることを思い出したのだった。


「失礼いたします。リディアお嬢様、お加減はいかがでございますか?……あら、まぁようございました。お熱はすっかり下がっておられるようですね。旦那様も奥様もずっとご心配なさっておいででしたよ」


 部屋に入ってきた年配の侍女が、私の額や頬に触れ安心したように微笑む。私は返事もできずにただただ呆然とベッドの上に寝転がったままでいた。


(……なんて悔いの残る人生だったんだろう、私の前世って……。一人の不誠実な男に青春を捧げ、裏切られたショックで事故って死んじゃって。悲しすぎるわ……!)


 突如思い出した、西暦2000年代の日本という国で過ごした、私の前世。

 ありがたいことに、どうやらここはそれとは全く違う世界線らしい。

 そして私は一般庶民のOLだった前世とは違い、貴族家のお嬢様……。


(よかった。何で思い出しちゃったのかは分からないけど、どうやら今回の人生は“ミオリ”だった頃とは全く違うものになりそうだわ)


 だんだんと気持ちが落ち着くにつれ、私はそう考えるようになっていった。


 もうくだらない男には振り回されない。

 今回の人生は、悔いの残らない道を自分で選択するんだ。

 前世の記憶を思い出したからこそ、私はそう強く思えるようになったのだった。




 ところが。事態はそう簡単にはいかなかった。

 私が18歳になった時、ついに父であるブランベル子爵が私を強引に婚約させてしまったのだった。


「い、嫌ですお父様!私は以前から申しておりました!結婚はしないと!何かしらの仕事に就いて、自分の力で生きていきますと!」

「いつまでそんな馬鹿なことを言っておるのだ。他の有力な家との縁を結ぶためにも、お前たち娘の結婚は我が家にとって重要なことだとあれほど言いきかせてきただろう」


 ちなみに私には二人の妹がおり、そのどちらも数年前にすでに婚約相手が決まっている。私だけが嫌だ嫌だとごね続けていた。


「で、ですが……っ!」

「相手はもう決まった。チェンバレン伯爵家の次男、ジェイコブ殿だ。うちとは領地が離れているからお前は会ったことがないだろうが、二人は同い年のはずだぞ。先方は元々の婚約が最近白紙に戻ったばかりだそうだ。どうやら相手方の重い病が原因だとか……。うちにとっては非常に良縁だ。もう18にもなるお前を貰ってくれるのだからな。チェンバレン伯爵家は領地経営も順調で、資産も多い。いやぁ、一安心だ」


 父は一人で喋り続け、隣で聞いていた母も嬉しそうにウンウンと頷いている。


「本当によかったですわ。娘が嫁ぎ先もなく一人で生きていくなんて世間体が悪すぎますし、伯爵家のご子息に縁付くことができて私もホッとしました」


 せっかく生まれ変わったというのに、何とも凝り固まった価値観の世界だった。貴族の娘は皆結婚して当たり前、それも他家との有力なパイプ作りのためという何とも虚しい存在だ。


(……仕方ない。もう男は懲り懲りだと思っていたけれど、こうなったらその人と上手くやっていくしかない、のよね。嫌だけど……)


 結婚して子どもを産んで、明るく楽しい愛に満ちた家庭を作る。前世でそれをなし得なかった私はそんな自分の夢に蓋をして、今世は一人で生きていく決意をしていたけれど、こうなった以上はそのお相手の方と、そんな温かい家庭を築いて行けるように頑張りたい。そう気持ちを切り替えた。




 けれど。




 親同士が正式に婚約の書類を交わした数日後、我がブランベル邸の応接間でその男に初めて出会った瞬間、私の背筋を何かがぞくりと駆け抜けた。顔を見た途端全身に鳥肌が立ち、そしてあの時の大きなショックをまざまざと思い出したのだった。


「ああ、はじめまして。チェンバレン伯爵家のジェイコブです。君、リディアさんって言ったっけ。今まで婚約が一度も決まっていないんだって?俺は、ちょっとした事情でさ……、元々の婚約が白紙になっちゃって。な?まぁ、せっかくこうして縁あって出会ったんだ。これから仲良くやっていこう。な?」


(……アイツだ……)

 

 間違いない。ユウトだ。


 この人、ユウトの生まれ変わりだ。


 なぜ分かってしまうのかは分からない。けれど、会った瞬間に肌で感じた。向こうは全く気付いていない。不思議なことに、顔立ちまで何となく似ている……気がする。特徴のある丸い小鼻、目の下のそばかす、唇の形とか……。

 何の因果なのか。よりにもよって、あのユウトの生まれ変わりと結婚しなきゃいけないの?!私。嘘でしょう?


「君の家はうちより爵位が低いし、領地面積もそんなに広くはないね。でもまぁ、俺は自分の仕事を支えてくれる人が妻になってくれれば、それで充分だから。な?」


 ……なんとなく、喋り方の癖までアイツに似てる気がして苛々する。言語も全然違うのに。


 だけど貴族令嬢の私にとって、この縁談を独断で断るという選択肢はないらしい。拒む心を全力で抑えつけ、無理矢理唇をこじ開けると、私は頬を引き攣らせながら挨拶を返した。


「……この度の素敵なご縁に、心から感謝申し上げます。これからどうぞよろしくお願いいたします。……ジェイコブ様」

「うん。まぁ、上手いことやっていこう。な?」

「…………。」




 さらに数日後。私は国で一番大きな国立図書館に足を運び、前世やその記憶に関する書物を探した。“伝承・言い伝え”のコーナーに置いてあったそれらしい本を片っ端から抱えてテーブルにつき、一人黙々と読みまくる。するとその中に、ちょうど気になることが書いてある書物を見つけることができた。


“前世からの縁が深い相手とは、別の世界に生まれ変わった後に再び出会うことがある。必ずしも、その時に互いに気付くことができるわけではない。相手に対する何かしらの思いが深かった方が、先に気付く場合が多い。”


「……。何かしらの、思い……」


 まぁ、たしかに私のユウトへの思いは深かった。だって十年以上真面目に付き合って、必ず結婚するとまで誓ってくれていた相手なんだもの。いきなり「23歳の恋人ができたから別れよう」で捨てられたんじゃ、ある意味思いも深くなるわ。


(いや、それにしても……。アイツの方はまるっきり私を思い出しそうなそぶりもなかったんですけど。ひどすぎない?あなたに捨てられたせいで、35歳で死んだのよ、私)


 そりゃ直接殺されたわけじゃないけど、あの日ユウトにあんな風に振られなければ、私が夜中にフラフラ歩きながらバイクに跳ね飛ばされることもなかったはずなのに。

 私が死んだと聞かされた後、罪悪感さえ感じなかったの……?

 そう思うと向こうが私を一切思い出さないことに、猛烈に怒りが湧いてきた。


(本当に腹の立つ男ね……!!)






 前世での私はただのしがないOL。もしもユウトの言動を怪しいと感じたところで、わざわざ調査会社に大金を払って簡単に調べてもらったりはできない。(しようとも思わなかったけど)

 けれど今の私は貴族家の令嬢。それなりにお金は持っているし、私のために動いてくれる使用人だっている。


「煩わせてごめんなさいね、サム。絶対にお父様やお母様には言わないで」

「お任せください、お嬢様」


 人づてに頼んでジェイコブ・チェンバレン伯爵令息のことを調べたところ……、まぁ驚くほどの素行の悪さが明らかになった。

 まず、前回の婚約が破談になっているのは、相手方の重い病が原因などではなかった。ジェイコブの度重なる浮気やそれに付随する揉め事、その他金遣いの荒さや周囲の人々からの評判の悪さなどの様々な欠点が理由で、チェンバレン伯爵家側の有責で婚約を解消されていた。このことを隠したまま我がブランベル子爵家との婚約を結んだのだから、一家でたちが悪い。しかもジェイコブには今現在も深い付き合いのある女性たちがいることが分かった。相手はいずれも平民だ。


(生まれ変わって別人になっているはずなのに……。不思議だわ。人間性って変わらないのかしら。やっぱり嫌だ、あんな男と結婚するなんて……!)


 私は調査の結果を持って、両親に訴えかけた。


「ご覧ください!お父様、お母様!あの人、まともな殿方ではございませんわ。チェンバレン伯爵家だって、前回の婚約が解消された理由をきちんとこちらに説明するべきだったのに、嘘をついて私たちを騙しているのですよ。とてもこの結婚が良縁だとは思えませんわ。お断りしましょう!お父様!ね?!」

「……何と……」


 父も母も、驚愕の表情を浮かべ私の差し出した調査結果の書類を見ていた。


 数日後、父はチェンバレン伯爵家に出向き話し合いの席についた。てっきりその場で婚約が解消されるものだと思っていたのに、日が暮れた頃、父はチェンバレン伯爵とジェイコブを伴って我が家に帰ってきた。


「リディア嬢……、愚息のこれまでの悪さについて、許してはもらえないだろうか。愚息もこの通り、心から反省しておる。あなたと添い遂げたいと。これからの結婚生活であなたに誠意を見せ、あなたの信頼を得たいとそう申しておるのだ」

「リディアさん、悪かったよ。まさか君がわざわざ調べ上げたりするなんて……、……いや、それはいいんだ。な?これまでの俺と、これからの俺は違う。どうか寛大な心で、俺の過去については忘れてくれないか。な?」


 父について来た二人は私の前でしおらしく謝罪を始める。父に視線を送ってみたけれど、肩を竦めるだけだった。


「……まぁ、お二人がこう言っておられるのだから、水に流さないか。リディア」


(お父様ったら……!どうしてもチェンバレン伯爵家との繋がりを断ちたくないのでしょう?!これを逃したら、私にはもうろくな縁談が回ってこないと思ってるものだから……)


「……ですがジェイコブ様。調べさせていただいたところによると、あなた様は今現在も複数の平民の女性と関係をお持ちのようでしたが」

「っ!!いやっ、それは、行き違いだ。ちょうど君との縁談が決まって、全て精算したところなのだから。な?俺を信じておくれ」

「…………。」


 馬鹿馬鹿しい。誰が信じるものですか。

 もう私はあんたには騙されないわよ。絶対にね!!


 でも結局、両家の親はこの結婚を変わらず望んでおり、私とジェイコブの縁談が破談になることはなかった。

 その代わりに私は「こんなに重大な隠し事をしていたのだから、あなたを完全に信頼できるようになるまでは白い結婚を貫かせていただく」と両家の親の前で彼にそう宣言したのだった。




 そして数ヶ月後。

 不本意にも、私はユウトの生まれ変わりであるこのジェイコブと夫婦になってしまった。彼は相変わらず私のことを思い出す気配もない。私は宣言通り、我がブランベル子爵邸に居住を移したジェイコブを自分の私室から一番遠い部屋に住まわせ、指一本触れさせはしなかった。

 両親はそのうちほとぼりが冷めるとでも思っているのか、私の決定に口を出すことはしなかった。


(絶対に白い結婚を貫いたまま離婚してやる。今度はこっちから、盛大に振ってやるわ!)


 こんな男のことだ。どうせそのうちに尻尾を出すに決まってる。焦らずに、向こうが何かやらかすのをじっくり待っていればいい。そう思った。




 そして案の定、ジェイコブはすぐに失態を犯しはじめた。

 まず第一に、彼は仕事が何もできなかった。ブランベル子爵家に婿入りしてから我が領地の仕事について父がじっくり教えても、いつまで経っても何一つまともに覚えはしない。結局今まで通り父と私で運営していくしかなく、この結婚から半年後には父もすでにジェイコブに対して不審感を持っていた。

 さらに、女性関係。脳みそをどこかに置いてきてしまっているのではないかと思うほどに、ジェイコブは性懲りもなく以前と同様に遊び歩いていた。あんな風に目の前に調査結果を叩きつけられ両親にさんざん怒られているはずなのに、彼は相も変わらず複数の女の家を行ったり来たりしていた。まだ自分の行動を監視されているかもしれないとは、微塵も考えないのだろうか。


 そしてそのうち、彼の遊び相手である平民の女性の一人が、彼の子どもを身ごもった。





「あなたは少しも学習なさいませんのね。本当にあなたが反省し素行を改めているか確認するために、私はずっとあなたの行動を監視し続けておりましたのよ。お相手の方がお医者にかかり、妊娠が分かったこともすでに調べております」


 その日。私の両親と、呼び寄せたチェンバレン伯爵夫妻、そして当の本人ジェイコブを一部屋に集めた私は再び調査結果の書面を彼らの前に叩きつけた。


「へ、平民の娘を……、妊娠させただと……?」


 チェンバレン伯爵と夫人は書類を確認しわなわなと震え、ジェイコブは顔面蒼白で言い訳を始めた。


「そ、それは……、違うんだ。君が、ほら、白い結婚を貫くとか言って、ずっと意地を張り続けていたから……。な?俺もつい、外に癒やしを求めたくなったんだ。仕事はきついし、妻もきついし。な?男だから、それなりの欲求はあるよ。どこかで発散させなければまともな精神を保ってはいられないだろう?な?……君さえ、もっとたおやかで優しい人だったら、俺もこんな風に他の女に走ったりはしなかったんだが……」

「……、()()私のせいですの?」

「……。また?」


 聞いているうちに怒りで体が震えてきた。この男、()()()と同じように、また私のせいで浮気をしたと言い出した。

 だけどあの時と違うのは、今回は向こうの方がこちらに縋り付いてきているということだ。


「ブランベル子爵、夫人、リディア嬢、どうかこの通りだ。愚息を許してはもらえまいか。相手の女にはちゃんと()()させよう。今度こそ、性根を入れ替えてしっかりと仕事だけに邁進するようきつく言い聞かせるから……」


 はっきり分かった。親もクズだ。


「わ、悪かったよ、リディア。たしかに俺()不誠実なところがあった。けれど、君ももっと女性らしく穏やかに俺を包み込んでくれればよかったんだ。だからこれからは互いに変わっ……、」

「もう結構。聞きたくもない」


 その時。私が言おうとしていた台詞を、父が言った。


「相手の女性と家庭を持つなり、好きになさったらいい。ジェイコブ殿にはどうせ我が領地の経営は難しいようだし、安心して後を任せることはできないと考えていたところだ。このご縁はもう、ここで終わりとさせていただく」


 きっぱりと突き放した父の物言いに、チェンバレン一家の顔が絶望に歪んだ。


「さようなら、ジェイコブ様。仕事内容やよそで子を儲けたことなど、婚姻契約に反するあなた様の行動に関しましては、後ほど慰謝料の請求をさせていただきますので。書面が届きましたらご確認をお願いいたしますわね」


 微笑みを浮かべながら、私も彼に最後通告を突きつけた。




 離婚が成立してからは、私と父の間で再び私の結婚に関する言い合いが繰り返されることになった。


「しばらくは自由に生きたいだと?しばらくとはいつまでだ。すぐにでも次の縁談を整えなければ、あっという間に歳をとってしまうぞ!ブランベル子爵家はどうなる!」

「分かっておりますってば。そこはちゃんと考えますが……、またあのような相手と心の伴わない結婚をして同じような結果になってしまったら、それこそ一大事ですわよ。二度も離縁してしまえば、もうどなたに縁付くこともできませんわ!慎重にまいりましょう」

「そう言ってお前は先延ばしにしたいだけだろう!一度離縁しただけでもすでに手遅れ気味なのだぞ!私がいい相手を探してくるから。たしか後妻を探している伯爵が、知り合いの知り合いに……」

「ですから!!そうやって焦って決めてもろくなことにはなりませんってば……!!」


 結局この終わりなき論争は、解決せぬまま一旦置いておかれ、私は父の気持ちを変えるべく自立の道を模索することにした。


(私が職業婦人としてバリバリ働くようにでもなれば、父の考えも変わるかもしれない。あの子はもう一人でどうにかやっていくだろうから、うちの後継ぎは遠縁から男児でも貰おう、とか。そんな風に)


 ごめんね、お父様。お母様。

 でも私、誠実に想ってくれない人との結婚なんて嫌なの。

 もう男の人に自分の未来を委ねて振り回されたくない。


 それくらいなら、自立してやるわ。




  ◇ ◇ ◇




 前世では、私はそこそこ名の知れた大きな企業に就職して営業の仕事をしていた。

 本当は幼稚園の先生とか、子どもに関わることのできる仕事がしたかったんだけど……、親の期待や圧をビシバシと感じとり、有名企業で働く道を選んでしまった。両親は喜んでいたけど、私は悔いが残ってもいた。


 だから今度は、前の世界で言うところの幼児教育にあたる資格を取った。ここは女性の社会進出に関してまだまだ偏見の大きい世界。独り身で仕事をしている私は、周囲の男性たちから嫌なことを言われることもたびたびあったけれど、めげずに我が道を突き進んだ。

 そうして私が選んだ道は、そんな中でもわりと未婚の女性が働いていることが多い職場だった。




 あのジェイコブとの離婚から十数年後。私はとある地方にある大きな孤児院で、そこの管理者として働いていた。


(……今日でもう35歳かぁ……)


 花々が咲き乱れる敷地内の広い庭の中、キャアキャアと高い声を上げて走り回る子どもたちを微笑ましく見守りながら、私はぼんやりと考えていた。前の人生では、ちょうど私が死んだ歳だわ。


(この十年以上、がむしゃらに働いてきたなぁ。自分が思う通りの生き方をしてきたし、充実してた。だから悔いはない。けど……)


 やっぱり時々、ほんの少し、寂しい。


「こんにちは、リディア先生」

「っ!……あ、」


 その時。凛とした男性の声でふいに呼びかけられ、心臓が跳ねる。ボーッとしてたからビックリしてしまった。声の主は、やはりあの人だった。


「こんにちは、アレックス様。巡回ですか?お疲れ様です」


 波打つ銀髪を陽の光に輝かせながら、美しいグリーンの瞳を細めて私の方に歩いてくる一人の男性。彼の名はアレックス様という。この辺りのイートン侯爵領の私設騎士団に勤めている騎士様だ。


「ええ。今日も変わりないようですね」

「あれ以来ずっと、夜間も日中も警備を強化してくださっていますから。感謝しておりますわ。本当にありがとうございます」


 実はこの孤児院は、一年ほど前強盗に襲われたのだ。私や職員は皆子どもたちを守ることに必死で、金品まで手が回らず、荒らされ放題になった施設からはほとんど全ての資金や金目の物が奪われてしまった。けれど、ちょうど付近を巡回していたイートン私設騎士団の騎士の方たちがすぐさま駆けつけ賊を取り押さえてくれたため、大きな怪我人もなく、すぐに金品も取り戻すことができたのだった。その時の騎士の一人がこのアレックス様だった。

 その時以来、彼は頻繁にこの孤児院を訪れては、私たちの様子を確認してくれている。


「いえ。あなたが、……ここの皆さんが無事でいるのを確認すると安心します。……ところで、リディア先生、少しお時間をいただけませんでしょうか。今日はあなたに、お話ししたいことがございまして」

「?……私に、ですか?……は、はい。それは構いませんが……」


 どうしたのかしら。改まって。一体何のお話だろう。

 疑問に思っていると、ちょうどその時建物の中から他の職員の女性たちが出てきた。こちらに向かって走ってくる。


「あ、もういらしていたのですね、アレックス様」

「お待たせしました!ごめんなさーい」

「いや、すまない。……子どもたちのこと、しばらく頼んでもいいだろうか」

「はい!もちろんっ」

「お任せください」


 職員たちとアレックス様の会話に、何となく違和感を覚える。まるで皆、アレックス様が今日ここに来ることを知っていたみたいな……。


「……よろしいですか、リディア先生」

「あ、はい。……じゃああなたたち、あの子たちを見ててもらっていい?」

「ええ!もちろんですっ」

「うふふっ。どうぞごゆっくり」


(……??)


 何だか妙にニコニコしている若い職員たちにその場を任せ、私はアレックス様を連れて院の応接室へと向かった。




「どうぞ。……それで、お話というのは……?」


 少し緊張した面持ちで姿勢を正して座るアレックス様に紅茶を出すと、私はローテーブルを挟んだ向かいの席に腰かけた。


「ありがとうございます。……実は、その、……、……緊張するな」

「……?」


 なぜだかそんなことを言ってコホン、と軽く咳払いした彼は、ゆっくりと大きく呼吸をし、やがて私の顔を真正面から見据えた。


「……リディア先生。……いえ、リディアさん。お誕生日おめでとうございます」

「……。……えっ?」


 予想だにしなかったその一言に、驚いて思わず変な声を上げてしまう。


「あ、ありがとう、ございます。……ご存知でしたの?私の誕生日を……」


 どうして知っているのかしら。不思議に思っていると、私の心の内を見透かしたように、アレックス様がはにかんで答えた。


「ええ。実はだいぶ前に、ここの職員の女性たちに聞いていたんです。……ほら、さっきの」

「……ああ」


 なるほど。そういうことか。

 それでさっきあの子たち、なんだかニヤニヤしていたのね。


(……でも、どうしてわざわざ、こんな風に改まって……)


 そんなことを考えているうちに、何だか無性に胸がざわめき、そわそわしてきてしまう。

 動揺する私の前で、ふいにアレックス様はソファーから立ち上がると、ご自分の横に置いていた大きな紙袋の前にしゃがみ込み、何やらゴソゴソしはじめた。


 そして。


「……っ!まぁ……っ!」


 立ち上がってこちらを振り向いたアレックス様の手には、大きな花束が握られていた。それはとても幻想的な、真っ青な花々だけで作られた美しい花束だった。


(──────あ、れ…………?)


 その青い花束を手に持ち、私の方にゆっくりと歩いてくるアレックス様の姿を見ている私の胸に、何かがふとよぎる。……何だろう、この感覚。心臓が早鐘を打ちはじめ、どうしようもなく、心が揺さぶられるような……。


 もどかしくて、懐かしくて、そして何か、どうしようもなく、切ない…………。


 アレックス様の瞳は私だけを捕らえ、そして彼はそのまま私の前にたどり着き、ゆっくりと跪いた。


「……っ、ア……、」

「……()()()()()()には、あの時のものと全く同じ花はないんだよ。不思議だね。だけどどうしても、君にまた青い花束を贈りたかったんだ」


 ……“また”……。


(……また……?)


「……何か、思い出す……?」


 どこまでも穏やかで優しいグリーンの瞳は、まるで包み込むように私のことをジッと見つめている。


「……。アレックス、さま……」

「俺はあの時、心底後悔した。ずっと君を見ていたのに。君が元気がない時、あまり幸せそうに見えない時、どうしてもっと話を聞いてあげなかったんだろう、どうしてもっと強引にでも、俺のところにおいで、幸せにしてみせるからと、そう強く言わなかったんだろうって」

「……。」


 アレックス様の言葉を聞いているうちに、記憶の断片が頭の中にチカチカと浮かんでくる。浮かんでは消えて、また別のシーンが浮かんで。


 優しい笑顔。私が何かを伝えた後の、困ったような、気まずそうな顔。控えめに渡された、青い小さな花束。何かを言いながら、私を励ましてくれている時の真摯な瞳。


「君の死を知った時の絶望を、今でもはっきりと思い出すよ。……この世界で子どもの頃に記憶を取り戻してから、俺はずっと願っていた。こうして俺が生まれ変わったように、君もきっとこの世界のどこかにいるんじゃないかって。ずっと探していた。……だから一年前、あの賊たちを捕えた後、君がありがとうございましたと言って俺に声をかけてきてくれた時……、すぐに分かったよ。すぐに分かったんだ」


 膝をつき、私に向かって大きな青い花束を差し出しながらそう語る彼の声は、少し掠れ、震えていた。

 そしてその言葉を聞くうちに、()に関するあらゆる記憶が私の中に溢れ、私の心も大きく震えた。


「……せんぱい……」


 声にならない声で小さくそう呟くと、アレックス様はこの上なく嬉しそうに笑った。


「……思い出してくれたの?……よかった……ミオリ」


 彼もとても小さな声で、“私”の名を囁いた。




“前世からの縁が深い相手とは、別の世界に生まれ変わった後に再び出会うことがある。必ずしも、その時に互いに気付くことができるわけではない。相手に対する何かしらの思いが深かった方が、先に気付く場合が多い────”




「…………っ!先輩……っ」


 胸がいっぱいになり、私は顔を覆ってしゃくり上げた。

 この人が、あの時の……。

 私をずっと見守ってくれていた、先輩。

 まさか今でもずっと、私のことを想い続けてくれていただなんて──────


 アレックス様は私の膝の上に花束を置くと、腕を伸ばし、私の体ごと強く抱きしめた。


「もう間違わないよ。もう遠慮はしない。……リディア、どうかお願いだ。この世界での残りの人生を、俺と一緒に歩いていってくれ。今の君の人生を、必ず幸せなものにしてみせるから」

「……っ、……はい……。はい……っ!」


 それ以上は言葉にならず、私は先輩の、……アレックス様の腕の中で、何度も何度も頷いた。

 青い花々の優しい香りが、私たちを包み込んでいた。




  ◇ ◇ ◇




 それから私たちはすぐに結婚し、アレックス様は我がブランベル子爵領の領主の座を父から継いでくれたのだった。


「感無量だよ、リディア。誰にも譲らず頑なに領主の地位に居座り続けた甲斐があったものだ。まさかお前がこの歳にもなって、イートン侯爵家の次男殿を捕まえてくるとはな。ははははは!」

「そ、そのことは私は知らなかったのです。だってアレックス様ったら何も仰らないんですもの。ご自分がイートン侯爵家のご令息だということも、私設騎士団の団長をされていることも……」


 ブランベル子爵家の応接間でご機嫌に笑う父を尻目に、私は隣に座っているアレックス様を軽く睨む真似をした。


「君に萎縮されたくなかったんだよ。ただの騎士ということにしておいた方が、気さくに話してくれるんじゃないかと思って。……ごめんね」


 ……この優しい笑顔で私の顔を覗き込むようにしてこう言われると、私は弱い。


「……もう構いませんけど。済んだことですし」

「ふふ。リディアったら、お顔が真っ赤よ。よかったわね、こんなに素敵な旦那様ができて」


 そう言ってくれる母の方が、よほど幸せそうな顔をしている。娘がようやく素敵な殿方と結婚したことで心底安心したのだろう。この世界で、こんな歳まで独り身でいた私を貰ってくれる人など、きっと他にはいなかったはずだ。

 それに、私もこの人じゃなきゃ、きっと結婚なんてもうしなかった。


「体を大事にするんだぞ、リディア。36歳で出産するなど、ほとんど前例のない、とんでもない大仕事らしいからな」

「そうよ!いい?お医者様の言うことをよく聞いてね。絶対に無理はしないことよ」

「ええ、ええ。分かってますってば。無理なんて一切していませんから、大丈夫よ」


 だいぶ大きくなってきたお腹を撫でながら、私はいつもの両親の言葉に何度も頷いておいた。


(実は結構産めるものなのよ。この世界ではちょっと特殊かもしれないけどね)


 そんな親子のやり取りを、アレックス様は微笑ましげに見守ってくれている。私はチラリと彼を見ると、小さく微笑みを返したのだった。




 イートン侯爵領にあるあの孤児院は今、信頼の置ける別のベテラン職員に管理の仕事を任せている。このブランベル子爵領からはかなり距離があるから、すぐには子どもたちに会いに行けないのが少し寂しい。


(だけど、この子が生まれたら必ずまた会いに行くからね。お利口にして待っていてね、みんな)




 生まれ変わった私の、もう一つの人生。

 もしかしたら人の魂って、こうして何度もいろいろな世界を巡っているのかもしれないな。


 大切な人に、また出逢うために。






   ーーーーーー end ーーーーーー









 最後まで読んでくださった皆様、ありがとうございました。


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