轟く雷の止む頃に
縦書きPDFがおすすめかもです。
「なあ、ベネズエラの雷の降る島を覚えてるか?あの時の任務はそりゃあヒリついたもんだぜ!」
と自慢げに話すのは俺の古くからの悪友であるジョリー・ボイルである。耳にイヤホンを付けリズミカルに踊りながらいつもの戦自慢が始まった。
このジョリー・ボイルという男はその名の通りジョリジョリとした髭とボイルドエッグのようなツルんとした頭が特徴的ないかつい野郎だ。
ついでに言えばこいつはこんな名をして日本人とアメリカ人とのクォーターである。国籍は日本。
本人は「俺の先祖は代々ハードボイルドだったのさ」などとカッコつけているが、俺はこいつとこいつの父ちゃんがチワワに吠えられて小便をもらしたことを知っている。
こんな奴でも自衛隊の部隊長になれるなんて。
「世も末だな」
「あぁ、そりゃそうさ!あの島こそまさに〝世の末〟。本当に勇敢なる戦士じゃなきゃ赴くことすらできやしない。そう!この俺様の様な・ナ!
さあ叫べ、天まで轟かすんだ俺の名を。そぅれ!ジョリ~・ボ~イ…」
と、やつがその騒音をあたりにまき散らそうとしたその時だった。
「お客様、ご注文の品です」
ウェイトレスが〝それ〟を運んできた。
「チュウモウン!?おいおい俺様たちはまだメニュー表すら開いていないぜ。なにを注文したってんだぁ?
まさかとは思うがあんたの様なベッピンさんを、俺様はいつの間に注文してたっていうわけかい?」
「指令だよ。馬鹿」
ぼそっと一言、机に肘をつきながらつぶやく。
全くこいつは…。
俺は目線を泳がせ暗号の隠されたナポリタンを読み解いて、次の指令の概要をつかむ。それが終わった後、ジョリーは実にうまそうにそのケチャップ麺をすすって食べた。
「おいおい!そんな緊張すんなよなぁ。かの〝轟雷〟様がよぉ」
「やめろ。その呼び方は」
ジョリーがポンっと肩に乗せてきた手を俺は振り払う。木々の間から見える目線の先には純白の屋敷が堂々と佇む。ここが今日の任務地。国から依頼された特殊任務だ。しくじるわけにはいかない。
「なんだよ!つれねえなあ。噂はかねがね聞いておりますゼ♪
『その速さは雷の如く、その力強さは轟きの如き』だっけか!
いやぁ傑作だ。あの宣材写真に使われたおめえの姿はよぅ。」
「うるさい。もう任務に入るぞ。少しは静かにできないのか」
俺は人差し指を奴の口に立て、「シーっ」と一言文句を言った。それでもお構いなしにこいつは続ける。
「ガーハッハ!お笑いもんだぜ。暗殺者が姿をさらして国の自衛隊募集ポスターに映るとはなぁ」
「あれは手違いだ。日本政府の自衛隊情報が事務処理の過程でごちゃごちゃになって、なぜか俺が呼ばれることになったんだ」
はぁ、とため息をつきながら標的の様子を肉眼でとらえる。こういう時に望遠鏡を使うような奴は三流だ。レンズの反射で相手に位置がばれてしまう。
幸い、俺の〝目〟があれば、そんな間抜けな目に合うこともない。この体に生んでくれた両親にそこだけは感謝している。
「だからっておめえ、のこのこ撮影場所に付いていったんだろ?
写真を撮られることに疑問を抱かず?暗殺者が?
ブホホッ、おいおい雑誌モデルのほうが向いてるんじゃないか?
三・流・慎・二君?」
「本名で呼ぶな。お前は遊びにここに来たのか?」
ったく腹が立つ。もう三年も前の出来事だろうが。
あのときは俺もまだ新米だった。国からの命令には絶対服従だと教えられてきたから、…行ってしまっただけだ。自衛隊の特殊部隊に任命されると喜んでいた過去の自分を呪いたい。そしてまた奇妙なめぐりあわせで、こいつなんかが俺の上司になるとは。神はこの世にいないのか。
「いやいや、違うぜ。轟雷君。偉大なる日本国自衛隊特殊裏工作部隊、通称〝シャドー〟の部隊長として俺様はここに来ている。さて諸君、仕事にとりかかろう。
あぁ〝諸君〟とはつまり〝轟雷〟って意味だ。辞書を開きな。そう載ってある。」
「おまえはなぜいつもそう仰々しいんだ。諸君も何も人員不足で俺とお前の二人部隊になっちまっただけだろうが。」
ちなみに〝シャドー〟はこいつのネーミングセンスでつけられた名だ。
俺はこいつのあざ笑う顔を、あのときシッシッと手で追い払いやがった国会議員の顔と重ねながら、自分の仕事のその意義について改めて考え直していた。
ここ日本ではその憲法にある通り、戦力を保持してはいけない。いけないが、それでは国として立ち行かない。だから防衛力として自衛隊の存在を公に見せているが、日本にとって本当に重要なのはそこじゃない。
重要なのはそもそも戦いを起こさせないということだ。
そのための工作員として結成されたのが俺たちだ。しかし…。
「発砲事件の一つも起きない平和な島国で君たちがいる意味はあるのかね」。
というように政治家は主張していた。
だから予算の減額に次ぐ減額で、ついにはたった二人の部隊となってしまった。
今では例の事件、ああこれは各自で想像してくれ、のおかげで労働基準法どころか人権すらも尊重されないほど酷使され続けているがその真実を知るものは誰もいない。
…いなくていい。
「さて仕事にとりかかろうか〝諸君〟。わかってると思うが今一度、隊長として説明する。
今回は比較的簡単な任務だぜ。目の前に見えるあの屋敷の主人のビッチな娘、和田響ちゃんをとっ捕まえればいいだけだ。
理由も念のため言っておこう。確認は〝事務処理〟の過程で大事なものだからな。
あの娘の父親、和田慶介博士は我らが日本国へと脅威をもたらす物理学的兵器の開発を進めているらしい。
それを止めさせるための交渉条件として、あのゴスロリフリルのかわいこちゃんが必要ってわけだ。捕えたらキスの一つぐらいは許可するぜ。童貞君♪」
今ターゲットは優雅にバルコニーで紅茶を飲んでいるようだ。アフタヌーンティーってやつか。わずかに湯気の立つ飲み物をゆったりと飲み、縦に連なるタワーにおしゃれに配置された名前も知らない菓子を少女は上品に味わっている。
俺には一生縁がないものだな。
「言いたいことが二つある。まず一つ目はそういった時代錯誤な発言は今後一生控えることを勧める。警察に捕まりたくなければな。
そしてもう一つ、童貞は聖なるものだ。神聖不可侵なものだ。お前は知らないのか?30歳まで童貞でいると魔法使いになれるんだぞ?」
「お前、それは峯口先輩のことを言ってんのか?ありゃただの偶然だぜ。
あの人の誕生日飲み会で、冗談で『ライトニングボルト』って叫んだら偶然雷が落ちただけだ。たまによくあることだぜ。そういうのは。」
「“たまによくある”か。
もし俺が30過ぎたら魔法でまずお前の国語力を直してやるよ。
それに峯口先輩の射撃術を忘れてないか?
あの曲がる弾丸を。
お前ですら急所にもらって涙目になっていたじゃないか」
やつは「ぐぅ…」と一声鳴いて、それから何も言い返さなかった。さて、やっと黙ったな。仕事にとりかかろう。
「事前に確認もしたが屋敷の図面だ。隊長なんだから覚えてるよな」
「当たり前だろう?俺様を見くびるなよ。しかしまあ和田の奴も変わってるよな。
こんなとこに娘一人置いて。自分はどこかに引きこもって出て来やしねえ。
そうだ!やつの中学の部活が分かったぞ。ナードクラブだ。違えねえ!」
「無駄口をたたくな。上手くもない。この島は周囲をぐるっと森で囲まれていていて、今俺たちはその中に潜んでいる。
島の中心部には平原があって見渡す限り遮蔽物は存在しない。やっかいなのは…」
そこで突然、鬼の首を取ったようにこいつが口を挿む。
「その〝中心〟に屋敷があるってことだな。つまり戦闘はまず避けられねえ。
幸い和田本人はいねえからか、警備もそこまで厳重じゃない。
おい!〝轟雷童貞〟!警備の数は?」
口の減らないやつめ。こいつとの任務はいつもこの調子だからイライラする。
「それくらい覚えておけ。
警備は正面口に二人、裏口に一人、そして常に巡回しているのが屋敷の外と中で一人ずつ、計五人のはずだ」
「本当に手薄だな。おいおい、あのゴスロリちゃんはどれだけの我儘っこなんだ?
父親に見捨てられちまってるんじゃねえか?こんな島に閉じ込められてよ」
「…さあな。ターゲットの個人的な事情なんて知るもんか。俺たちはただ黙って国の言う通り、あの娘をさらってくればいいだけだ。」
正義とは時に非情である。
…正義とは時に非情である。
これは特殊部隊養成所の頃からずっと言われ続けてきたスローガン。多くを守るには必ず小さな犠牲が伴う。
だから今までも何人も殺してきた。頭ではわかってる。
任務に私情は挿まない。
ただ、一つ言えることは…。
…。
…今回は殺しじゃなくてよかったということだけだ。
「俺様が表口だな」
「ああ、そして俺が裏口から侵入し、和田響の身柄を確保する」
いつものように淡々と流れ作業のように作戦の最終確認をし、そして最後に約束する。
「裏口方面の森に回ったら合図を送る。…死ぬなよ。相棒」
「…俺様が死ぬわけがねぇ。なんたって生まれてから一度も死んだことがないからな!ハァッハ!」
この約束が、俺たちの背負い続ける〝日本の影〟という重責を支える柱となってくれる。いつも、どんな時だって。
裏口方面に回った。もう和田響の姿は見えない。
俺は適当に拾った太い木の枝どうしをたたいて音を鳴らす。三三七拍子のリズムを二回。これで合図は完了だ。あの馬鹿の地獄耳には聞こえていることだろう。
認めたくないことだが、あの野郎は言ってしまえば超人だ。聴力は平均成人男性の127倍、視力は56倍、筋力に至っては287倍。
頭の方はちょっとあれだが、世界にも数少ない銃火器に素手で立ち向かえる化け物である。
そんな体質だからか。知覚が過敏で神経質、人と絡めばうっかり相手にけがをさせてしまうこともあった。
ジョリーは友達もいない孤独な日々を幼いころから送っていた。
そのようなときに俺が見つけた。七歳だったかな。ブランコに揺られていたジョリーを見た記憶がある。
俺もまた奴のように孤独で、ついでに言えば、俺は奴より目が良かった。
常人を逸した能力を持つものは、ただそれだけで、その能力を制御する運命を生きなければいけない。
やつのふざけた態度はその結果だ。自分が道化になることで疎まれることを正当化しようとしている。
…だから俺もやつのことを疎んでやる。
その道化の面がはがれて、むき出しの繊細な心が傷つかないように。
いつかその繊細な心を受け入れてくれる人が見つかりますように。俺では足りなかったから。
「さて、うまくいったかな?あの〝チワワ小便〟君は」
少しくらい奴をからかってみるか、とその一言を発してから数秒後。
ドオォン!!!
爆音が響く。自衛隊が使う手榴弾の音だ。
「おっとどうやら聞こえたようだ。合図はこれでもよかったな」
裏口の警備も大慌てで出て行って表口に向かって走る。
さぁ仕事の時間だ。…とっとと終わらして、また次の任務に移ろう。終わりなんてない。それが俺たち影の役目。
裏口を通り、素早くダイヤの短刀で窓を切り裂く。峯口先輩に教わったテクニック。無音でガラスを切る術だ。
屋敷の中へ入り込むと一つの違和感がある。メイドも執事も見当たらない。人の気配がまるでしないのだ。
しんとした静寂の中、俺はターゲットがいるであろう場所へと向かう。
屋敷二階のバルコニー、もしくは和田響の自室か、どちらも場所は頭に叩き込んである。
だが俺もこの仕事を始めてもうだいぶ経つ。こういう不気味な違和感があるときは必ず厄介なことになるんだ。
その直感的なイメージは、二階へ上がりそのすぐ正面にあった部屋、つまり俺の記憶では和田響の部屋、の前で現実のものとなった。
その戦士の周りには覇気が充ち満ちて、空気が陽炎のように揺らめいて見える。
白銀の髪、褐色の肌、エメラルド色の目、身長は高い女性だ。しかし何より目を引くのはその手に握られた鈍く輝く美しい大太刀であった。
「…その部屋に用がある。悪いがどいてくれ」
「それはできないね。なんせあたしは」
その次の言葉とともに、瞬間、俺のすぐ左頬に鋼が迫っていた。
「ボディーガードなんでね」
バゴォッッという音と共に壁に大太刀がめり込む。階段の側面は一瞬でもろくも崩れ去った。
その即死攻撃を飛び上がって避けたとき、俺の脳内でアドレナリンが分泌される。こいつはなかなかの手練れだ。俺の思考が臨戦態勢へと至る。
…殺しは嫌いだ。だが強者との出会いには興奮を覚えるのもまた、矛盾した俺の中の事実である。
「あんた、強いね。だけど俺の相棒ほどじゃない」
「…響に手を出す奴には容赦しない!」
時間にして0.1秒。実際は数分にも感じたが俺はその刀の動きを注視し続けた。
突きが来る。
その思考が体に伝わる前に、鉄剣の先はもうすでに喉元まで迫っていた。
ピリついた空気が肌に触れるより速く、俺はその場にしゃがみ込み、その攻撃を避ける。
ジョリーに感謝する日が来るとはな。あいつとの訓練がなければ、俺は今とっくに死んでいる。
太刀をナイフのように俊敏に振るい、そのひと振りのたびに爆裂音が鳴りながら屋敷が粉々に崩れてゆく。
俺は懐から二丁拳銃を取り出し相手へ向けた。
彼女は瞬時に太刀を構えなおし、さあ撃ってみろよと言わんばかりにこちらをじぃと睨みつけている。
いいだろう。ご希望に沿おう。
俺は引き金を引き、その〝弾〟を撃ち出した。
弾は花開くようにブワッと広がり、スチールワイヤー製の捕縛ネットが標的めがけて飛んでいく。政府特製、暴徒無力化銃弾だ。
一瞬ぎょっとした彼女であったが、すぐに状況を理解し太刀を大きく薙ぎ払うように網に向かって振った。薙ぎ払われた網が宙に浮く。彼女の視線が俺から逸れる。
…この瞬間を待っていた。
俺は近くにあった瓦礫の砂埃を目の前にばらまき、相手の視界を妨げる。
ほんの一瞬の斬撃が飛んで来ない時間。その一瞬で十分だった。
〝スタングレネード〟。
俺は目をつぶり、広くなった階段を後ろに飛びながらそれを投げた。
カッと真正面が明るくなり、同時に大音量の爆発が俺の鼓膜に突き刺さる。遠くにいる俺でも耳をふさいでないと意識を保てそうにない。
だがおそらくこれが最後のチャンス。俺は懐から麻痺毒のポイズンダガーを取り出して、崩れた瓦礫を蹴り割って突進する。
彼女の姿は爆発の煙で見えづらいがこのダガーならどこに当たってもいい。
しかし…。
「そう上手くはいかねえわな」
…ガキンッと鈍い音が漏れ、唯一の希望は折れていた。
そして目の前には分厚い鉄塊。大太刀のすらりと真直ぐな刃がこちらを向いていた
「はっ、こりゃ降参だ。」
「…」
脳内を走馬灯が駆け巡る。幼き日の両親からの扱い。12万円ぽっちで俺を買った日本政府で過ごした地獄の訓練の日々。ジョリーとの再会を内心では喜んでいたこと。そして俺はいつもやつにはとうてい及ばなかったということ。
俺は…。何が欲しかった?
ククッ
…こんな思考かな?
もし本当に死の淵に立って昔を思い出していたとしたら。
冷たい斬撃が俺の首を飛ばす寸前、俺は安心しきっていた。
…バキンッと鋼同士の衝突音が鳴る。
その拳は銃火器をも防ぐ最強の盾となり。
奴は彼女の足をその手でつかみ取るとブンッと扉に向かって放り投げた。
その拳は戦艦をも吹き飛ばす最強の矛となる
「…よう、〝轟雷童貞〟。デートのお邪魔だったかな?」
「お前は相変わらずだな」
スタングレネードは”最強”に助けを求めるときの緊急要請信号だ。俺が最も信頼を置く、自分ではなれなかったヒーローへの。情けない俺の最後の切り札。
「…ッチ、真打が来たか。あの雑魚どもには後できつくお灸をすえてあげなきゃ。」
「そいつはいいな。きっとアンタみたいな美人さんからのあっついアプローチに奴らもメロメロだろうぜ」
パンパンッと土埃を払いながらそのボディーガードは立ち上がる。
「…俺様は日本国自衛隊特殊裏工作部隊長、ジョリー・ボイル」
「…黒木田。しがないボディーガード」
お互いが構えあい、一瞬の静寂。
「参る!!」
ジョリーのその怒号とともに戦いの火ぶたは切って落とされた。
…かのように思われた。
「ちょっと!メリーちゃん。すごい音したよ?
ダメって言ったでしょぅ。三流君と戦ったら。」
聞こえたのは何とも間の抜けたかわいらしい声。この戦場にふさわしくないような、小鳥のさえずりのような、そんな綺麗な声。
???
どういう状況だ?これは。なぜ俺の名前を知ってる?
そんな疑問を口にする間もなく、その黒髪の娘は続ける。
「せっかく着物に着替えていたのに。ほら三流君好きでしょ?似合ってる?」
ジョリーの奴もあっけに取られて何も言えずにいる。おい、今こそ助けてくれよ。
〝最強〟さんよ。どうなってるんだこれは?
「ああそうそう!自己紹介がまだでしたね。…とはいえ名前は知ってますよね。」
少女は丁寧にお辞儀をしながら、マイペースに話す。
「私は和田響。多分あなたたちのターゲットのか弱いか弱い少女です」
その時、フッとなぜかボディガードが吹き出して笑った。いや、些細なことだがなんなんだ。この違和感は。
「とりあえず積もる話もあることでしょうし、どうぞこちらへ。」
俺たちはなぜかターゲットの部屋へと招かれる。
しかし俺たちにも事情がある。かわいそうだがやるしかない。ジョリーとアイコンタクトをし、和田響が後ろを向いた瞬間に二人で一斉にとびかかる。
次の瞬間。
…俺たちは天井を見上げていた。
「あははっ!もうせっかちさんですね。そんなに私と距離を詰めたいんですか?いやらしい…」
和田響の煽り笑いが耳にこだまする。俺たちは今床に仰向けに転んでいた。痛みもなく、何が起きたかさっぱりわからない。
ただ困惑だけがふわふわ脳内を浮遊する。
こうして半ば強制的に俺たちは和田響の自室へと足を踏み入れることとなった。
その部屋は実に簡素にまとまっていた。
ベッド、勉強机、椅子、本棚、クローゼット、カーテン。
淡い桃色で統一された家具が部屋のあるべきところに整理されて配置してある。
俺が想像していたような豪華で派手な貴族のような部屋とは違う。
これはわからないが、きっと普通の女の子が理想とする部屋の形が現実になったような、そんな印象を受けた。
「さて、話を聞こうか?お嬢ちゃん、一体全体これはどういうおつもりで?」
まず口火を切ったのはジョリーのやつだった。
「ああ、そうですねぇ。どこからお話ししましょうか。まずはやっぱり?三流君との出会い?からですかね。そうですねえ、三流君って一瞬だけ自衛隊の広告になったでしょ?その時からですね。わたし直感的に思ったんですよ。この人なら私を超えられるって。それに三流君の目ってすごい綺麗で…」
隣では先ほど戦ったボディーガードが顔を片手で覆いながら苦悩の溜息を吐く。
「そう!三流くんって目が一番素敵なの。今まで見たどんな人よりもね。あ、そこのつるつる髭さんの目もダンディでかっこいいです。結構好みでしたよ。でもやっぱり三流君のきりっとした目つきとその漆黒の瞳?が私すごい好きなんですよね。もうなんでも見通せる感じの。でも私ってほら、自分より強い人しか好きになれなくて。ね、メリーちゃん!今のところを見る感じお二人はまだまだ発展途上ですね。力の使い方がなっていません。でもこれって教えるの凄い難しいんですよねぇ。メリーちゃんにも教えようとしているんですが、なかなか習得してくれなくて。あ!ごめんね、メリーちゃん、愚痴を言ってるわけではありませんよ。多分、私に教える才能がないだけなんだと思うんですよね。あ、私ったら。ずっとこんな話ばかりして、お二人が聞きたいのって多分私が何でこのお部屋に招いたとかそんなことですよね。あ、あとあなたたちの目的は知ってます。もちろん。ってこれはさっきも言いましたかね。あはは。なんだかまとまりませんね。じゃあとりあえず…。」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。一旦、一旦話を止めてくれ」
さすがに情報がまとめられない。こうも一方的にしゃべられると。
ここでジョリーが止めに入る。人差し指を口に持っていき、シーッというジェスチャーをする。
「OK。お嬢ちゃん、止めよう。また話がループしちゃいそうだ。ぐるぐる回るのは山手線だけで十分だぜ。
…あーその、なんだ。よしこうしよう!これから俺様がいくつか質問をする。それにYESかNOかで答えてくれ。簡単だろ?」
和田響は納得したようにポンっと掌をたたいて頷いた。今度は静かにじっと質問を待つことにしたようだ。
「まず一つ目、嬢ちゃんは俺たちの目的を知っている?」
「YES!!」
彼女は腕を使って大きく丸を描くようなポーズをして、そう答えた。すこしかわいいと思ってしまった。
「二つ目は、嬢ちゃんたちは俺たちを敵対視している?」
「NO!!」
今度は顔の前で大きくバツを作った。その動作には見た目通りのどこか愛くるしい幼さを感じる。
俺とジョリーは顔を見合わせて頷きあう。そのあとジョリーが話を続ける。
「そういうことなら、次で最後の質問だ。質問というより頼みだな。
…嬢ちゃん、俺たちと一緒に日本政府へと来てくれないか。素直に付いてきてくれれば安全は俺が保証する」
その言葉を発したとたん、例のボディーガード、確か黒木田と名乗っていたか、がギロリと俺たちを睨む。氷のように冷たい視線だ。
しかし、そんな一触即発の雰囲気を意に介さずにその黒髪の乙女はこう言い放った。
「…残念ながらそれはNOです。そしてもう一つついでに言うと私たちはあなた方をこの島から出す気はありません」
空気がピリっと張る。俺は袖に仕込んだ隠し針を起動する準備を始める。
「…OK,嬢ちゃん。それは交渉決裂と宣戦布告の合図と取っていいか?」
「いえいえ!そんなつもりはありません。今言ったことはちょっと誤解を生みますね。気を付けないと…。
私たちがあなた方に敵対しないのはもう確定しています。
そして、おそらくあなた方も私たちに敵対することはないでしょう。
今から証拠をお見せします」
今にも戦いが始まりそうな中、少女はなおも淡々と同じ調子で言葉を紡ぐ。これは天然なのか、肝が据わっているのか、果たしてどっちなんだろう。とそのような思考をしている間に、止める間もなく和田響はこう言い放った。
「ライトニングボルト♪」
その一声を合図にして、ピシャッゴロゴロと轟音が響いた。しかもそれは俺たちを取り囲む360度、すべての方向から聞こえるのだ。
俺とジョリーは慌てて部屋のカーテンを開け、バルコニーへと続く窓から外の様子を見る。
「な…んだ。これは。」
「OH MY GOD!!」
視線の先には無数の雷が雨のように降りそそいでいた。
島が雷の檻で囲まれている。通信も遮断か。これじゃ政府との連絡も取れない。確かにこれでは連れていけないし、逃げられない。
焦る俺たちの、というよりこれは俺の顔だな、を見つめながら和田響は愉快そうに笑う。
「ね、私の言ったとおりでしょ?
よかったぁちゃんと作動して、二年前の実験以来、一度もためしてなかったから心配だったの」
ほっとする彼女をよそに俺は一つの引っ掛かりを心に感じた。
二年前?
それは俺が少し仕事に慣れた頃。まだあの先輩が自衛隊を辞めてなかった頃…。
そんな俺の違和感を感じ取ったのか。和田響ははっと気づいたように説明し始めた。
「峯原?さんでしたっけ?どうも人の名前を覚えるのは苦手で、すいません。彼を使って実験しました。ついでに三流くんの様子も知りたかったし。
…おそらく想像の通りです。
『ライトニングボルト』
これが私の父が作った、雷を自在に降らす兵器を呼び起こす呪文です。
あ、安心してくださいね。今は私しか使えませんから」
…考えられる限り、最悪の状況だ。
兵器はすでに完成し、そのトリガーは和田博士の実の娘が握っている。
どういう理屈かはわからないが、仮に、今外に見えている目の細かい鉄格子の様な密度の雷を日本中に落とすことができるのなら?
国中の主要機関に雷を撃ち続けられるのなら?
…少なくとも今ここは東京の離島で、峯口先輩の誕生日会を執り行ったのは北海道である。
…だが。
このような危機的状況であるにもかかわらず、俺は妙に安心感を覚えていた。ジョリーもそれを感じ取ったのか、気の抜けた声で一言。
「はぁ…。あーそうだな。嬢ちゃんの目的はなんなんだい?
まさかこの〝轟雷童貞〟君を狙ってこんな大それた状況を作ったわけじゃないだろう?」
「そのまさかですよ。あとその呼び方かわいそうです。私の目的は三流君を鍛え上げて私を超える強さを持ってもらうことです。そしてできたらお付き合いしたいなぁ、なんて考えちゃったりして!」
彼女は少しほほを染めながら流れるように答える。俺たちは置いてきぼりだ。
「…なあジョリー、俺はなんだか気が抜けたよ」
「おう、今回ばかりは俺様自慢のアメリカ流の交渉術もこの空気感に飲まれちまったぜ」
とりあえず制圧した外の警備を捕縛しておくぜ、と言ってジョリーは扉を開けて下に向かう。黒木田もそれについていく。状況を説明するためだろう。
俺と和田響は二人で部屋に取り残された。
「えっと。緊張しますね。とりあえず紅茶を入れましょうか?
アフタヌーンティーでも楽しみましょ♪
まだお菓子は残ってますから。ちゃんと三流君が好きそうなの」
時間はもうすぐ夕刻。空が赤紫色に傾いている。俺たちを照らす光も朱色を帯びて、直接見てもまぶしくない程度にはお日様も加減してくれているようだ。俺はほけっとしながら彼女に手を引かれ、バルコニーへと赴く。青白い雷と橙色の太陽の幻想的なコントラストが印象深く俺の瞳に焼き付いている。
「まずは紅茶、ダージリンです。お菓子はどれにしましょうか。これがマドレーヌ、これがブール・ド・ネージュ、これがガトーショコラ、これが…」
彼女の説明をぼうっと聞きながら、この非日常の中にある日常に俺の心は癒しを感じていた。
「これがマカロン」
そう彼女が言った菓子になにげなく目線を落とす。その瞬間、それが俺のあこがれの菓子であることに気付いた。目を大きく見開いたからか、彼女がこちらをじっと見つめて声をかけてきた。
「あ!三流君、もしかしてマカロンが好きなんですか?」
「いや、食べたことはない。名前も知らなかった。だけど小さいときに町のケーキ屋さんで一度だけ見かけたことがある」
そうなんですね、と彼女が嬉しそうに笑い、紫色のその丸い物体を俺にどうぞと渡してくれた。その間も雷の轟音は止まなかったが、そんなこと気にならないくらい俺は夢中だった
まずその見た目を堪能する。深い紫の色が均一に塗られたような生地。その半円盤型の幾何学的美しさを持つ立体が上下から挟み込むのは淡いピンク色のクリームだ。目に見えないほどの細かい泡が幾重にも重なりその柔らかな質感を描いている。
次に唇に当てる。そして噛む。カシュゥと生地に心地よく歯がくい込んで、舌に酸味と、そして次に甘みを感じる。濃厚で潔い。食べたことのない芳醇な果実の香り。
「…美味しい」
「よかった…。気に入ってもらえて」
紅茶の深い色合いを堪能しつつ、俺と和田響はこのほわほわとした空間を共に過ごした。
それからいくつか彼女と話をした。彼女の好きなもの、嫌いなこと、思い出、そして生い立ち…。
「この島から出たことがないのか」
「はい、そうです。私は生まれてからずっとこの島で暮らしてきました。でもそこまで寂しくはなかったですよ。メリーちゃんがいましたから。
あ、メリーちゃんというのは、私のあのボディーガードのことです。
黒木田芽梨衣。それが彼女の名前」
俺は話を聞き続ける。彼女の話を聞くのはなんだか楽しい。
「…でも、そうですね。一つだけ。富士山って知ってますか?」
「ああ、見たことも登ったこともある。訓練でな。それがどうかしたか?」
「富士山は私のあこがれなんです。日本で一番大きく気高い、そんな雄大なもの。」
「…」
「ねぇ、三流君。あなたなら富士山がここから見えるんじゃないですか?それがどんな姿をしているか教えてくれません?」
「ああ、多分見えるが、今はこの雷が邪魔をして難しいな。特徴を伝えるのは」
…ですよね、と彼女は悲しそうに、儚げに、そう言った。
わかっている。俺にとってこの雷は邪魔ものだ。雷が消えたら、彼女を日本政府に連れて帰らねばならない。でもそうしてしまったら彼女に俺は富士山のことを伝えられるだろうか。
西の遠くに、お日様がゆったりと沈む。それと同時に夜空に白い光の粒がぽつんぽつんと現れ始める。アフタヌーンティーの終わりももう近いのかもしれない。
「なぁ、和田響」
「響って呼んでください。私も慎二君って呼びます」
「じゃあ、あー。まあ響さん。その。俺を鍛えるって話。ほんとだよな?」
「ええ、もちろん」
「わかった。その条件を飲もう。俺が響さんを超えたらこの雷を解除する。これでいいか?」
「ええ、わかりました。大丈夫です。解除の方法もちゃんと設定してますから」
それからの数日間は優雅で過酷な日々だった。
屋敷がボロボロに崩れてしまったため、修行は響さんの部屋で行われた。おしゃべりしながらやりましょ♪、と気さくに言われるも最初の数日はまるで相手にならなくて話すどころではなかった。
「ハッハァ!やっぱり女の子との社交ダンスはお前には早すぎたか。おててをつなぐとこら始めたらどうだ?」
相変わらずのジョリーの軽口に言い返す気力もない。こいつだってたまに響さんに挑戦しては瞬殺されてばかりなのに。
〝最強〟がそんな簡単に負けるなよ。
起きる時間は遅くてよかった。ゆっくり疲れをとってくださいね、とそう言われて彼女の部屋のベッドで寝かしてもらった。正直ホントに使っていいのかと葛藤したし、ドキドキして眠れる気がしなかったが、それ以上に毎日の鍛錬で疲労がたまりとても遠慮できる余裕はなかった。八時間も寝ることができたのはいつ以来だろう。
鍛錬から一週間ほどたったころ、少しずつだが彼女の動きについていけるようになった。
「いいですね!慎二君。飲み込みが早いですよ」
俺が左手で拳を放つと、彼女は右に半歩移動し、それから素早く肘を沈めてくる。
そのままにされると倒れてしまうので俺は回るように宙を飛ぶ。力の流れに逆らわずに落下する重力を回転する遠心力に変えるのだ。
しかし、彼女はまるで力の流れが見えているかのように俺の飛ぶ方向をそのままに加速させ素早く地面にたたきつける。まだまだ彼女から一本取るのは難しそうだ。
ふぅと一息ついて、もう一度彼女との組み手を再開しようとしたとき、彼女が言った。
「慎二君、何か感じてますか?」
「感じる?何を?」
「あー。この表現だと伝わらないかな。そうですねえ。
そうだ!慎二君は目がいいですよね。だとしたら…。見える?ような表現かな、なんとなく力の流れが見えるって言えばいいでしょうか」
…見える。そうか。
その一言が引き金となった。
「…響さん、それは。その言葉で俺は何かつかんだかもしれません」
今日の稽古が終わった。あの後結局、一本もとることは叶わなかった。バタリと床へと倒れこむ。
突然、彼女は俺の前に正座するとおいでおいでとジェスチャーを始めた。
「慎二君、膝枕してあげましょうか」
「え?」
と言い返す間もなく俺の頭が彼女のふかふかの太ももに乗っけられた。響さんは俺の頭をなでながら、いいこ、いいこ、とさすってくれる。
このままこの時間が永遠に続けばいいのに。
ぼんやりそんなことを考えているとそれを察したように彼女は言った。
「ずっとここにいていいんですよ」
その日は人生で初めてまどろむように眠ってしまった。心地よく、温かく。
それからさらに数日たった時だった。
天候は暗い曇天。雷が降っているのだから当然なのだが、その日はいつもより一層暗く、黒く見えた。
轟音を打ち消すほどの大音量で放送が聞こえた。聞き覚えのある音声だ。
「島内の全住民に告ぐ。
今すぐ降伏し、この雷を落とす腐れ外道の小娘をこちらに引き渡せ。
いいか。〝シャドー〟よ。お前たちは失敗した。
お前たちはこの雷を見てしまった。お前たちに未来はない。わかったらとっとと投降するがいい。」
衝撃の発言。声は海上自衛隊艦隊からの放送だった。
…本来ならば焦るべきところなのだろうが、俺は妙に落ち着いていた。どこか予感がしていたのかもしれない。
時計を見る。
午前十時だ。
毎朝の稽古が始まる時間。
バンッと扉が開き大慌てでジョリーと黒木田さんが入ってくる。
「おい、今の聞いたか。こりゃどういうことか、お前は知らないだろ?今すぐ教えてやるからな!
黒木田から聞いたんだ。日本政府の真の目的を。
奴らは和田博士のテロリズムを危惧していたんじゃあない。今この島を取り囲む雷の兵器を欲していたんだ。日本は他国への戦争を仕掛けようとしている。いわば主神ゼウスの力でな!
落ち着けよ。ああ、そうだ、なぜ黒木田がこれを知っているかとい…」
「必要ない」
ジョリーの説明を遮って俺はそう答えた。
「おい、必要ないってどういうことだよ。逃げるんだよ!!
俺たちは騙されていたんだ。早く!!」
「そっちのことは任せる」
俺が集中したいのはそんなことじゃない。日本政府の裏切りも。どうやって逃げるかも。雷のことも。すべてどうでもいい。
そんなことよりも今俺がやるべきなのは…。
「頼む。相棒。外のことはお前が何とかしてくれ。俺にはそれよりもずっと大切なことがある」
「お前、自分が何言ってるのかわかってるのか?」
「わかってる。だからこそお前にしか頼めない。スーパーヒーロー」
ジョリーは髭をボリボリと掻く。そしてため息交じりにこう言った。
「…わかったよ。俺様がなんとかしてやるよ。スーパーヒーローの活躍を見せてやる!」
続いて黒木田さんも響へ問う。
「これでいいのね。響。私はこのハゲヒゲと一緒に外に向かう。…それがあなたの選択なのよね」
黒髪の美少女はコクリと迷いなく頷き、そして俺の方へと目線を向ける。
俺もまた彼女と対峙し、構えをとる。
スゥっと息を吸う。およそ数秒、無音のように感じられる時間が続き、俺たちの周りに緊張感が纏う。
…。
俺が左手で風を切るように素速く拳を放つ。
彼女がそれに反応しようとした瞬間に俺は拳をピタリと止め、右手で首元をつかもうと伸ばしていく。
彼女はそれをわかっていたかのようにパンっと振り払い、同時に俺の左足につま先をひっかけそのまま手前に転ばそうとしているのが見える。
俺はその力の流れをそのまま活かして、静かに後ろへと、宙を舞うように一回り。そして両足揃えて着地した。
体勢をもとの位置へと戻す。
パリンッとガラスが割れる音がした。
部屋の中に銃弾が飛んでくる。2発だ。それらは俺と響それぞれを狙って飛んで来ていた。
俺たちは相手に向かう銃弾の、その側面を軽く弾いて互いを守りあうように軌道を逸らす。
「楽しいですね」
響が言った。
「…ああ、最高に」
俺は答えた。空気が一層張り詰める。
今度は初めて彼女から仕掛けてきた。重力に逆らわず、体を落下させるように沈み込ませて俺の下半身をつかもうと狙ってくるのがよく見えた。
俺はあえてそのまま掴まれて、そのときほんの一瞬、地面から体を浮かせる。
響の進む勢いは止まらず、前のめりになって姿勢を崩す。彼女に今までになかった驚きの感情が宿っているように見えた。
…この瞬間を待っていた。
今度こそ。
しくじらない。
自分の力で勝利をもぎ取るんだ。
俺はそのまま重心を偏らせ、彼女を下半身で投げるように飛び上がらせた。彼女が手を離そうとする。俺は逃げられないように両足でがっしりと体を挟み込んだ。
そしてそのまま響の軽い体を空に漂わせ、地面にやさしくたたきつけた。
もちろん頭が床に直接当たらないように手を当てて。
「響、どうだ?これは俺の勝ちだろ?」
「…ええ、参りました。慎二君。これでやっとあなたを好きになれる」
彼女はゆっくりと顔をあげそれから。
!!
突如、俺の唇をカプリと甘噛みしてきた。
唖然とする俺はどうやら口を開けていたらしくそのまま彼女の熱い熱い舌がねじりこまれてくる。
「んむぅ!?!?」
彼女の唇からはなんとなく先日食べたマカロンのような甘い香りがしていた。
感覚で数分間は俺と彼女は交じり合った。呼吸が苦しくなって、ぱっと俺の方から口を離す。彼女はまだ物足りなさそうに見えた。
しかし、ここで気づく。あたりからは銃声や爆音が聞こえるだけだった。
「これが『ライトニングボルト』の解除方法。愛する人と深い深い情熱的なキスをすることです♪」
轟く雷は止んでいた。
「へっ。この程度の銃弾。俺様の体には効きはしないぜ。」
「無駄口をたたく暇があるならとっとと逃走の方法を考えな!このままじゃじり貧だよ」
「大丈夫だっての。なんせ俺様はスーパーヒーローだからな。しかも俺様の最も信頼する相棒の保証付きだ」
「ったく。男ってホント馬鹿な生き物だねぇ」
「ッハ!そういうのを”時代錯誤”の偏見っていうんだぜ、メリーちゃ…。
…おい、ちょっと待ってくれよ。やってくれたな日本政府!」
「ん?あれま。こんなところに白いチワワが。かわいらしい。」
「ひぃ、ひぃ!黒木田。ボクはチワワだけはだめなんだ。」
「はぁ?チワワが無理?どういうことだ?一人称も変わってるし」
「ボクが小学生の頃さ。白いチワワに吠えられたんだ。ボクはびっくりして、その子を軽くはたいてしまった。そしたらその子は吹っ飛んでしばらくの間、動かなく…。
あの時漏らした小便は最悪だった」
「…」
「わからない?ボクはこの世界と関わろうとしちゃいけないんだ。全部壊してしまうから。だからアメリカ映画の中にいるんだ。ボクはずっと…」
「…ほら、ワンちゃん。おいで。抱っこしてあげる。
…ジョリー。ほらこの子をなでてごらん」
「無理だよ。ボクが触ったらみんな壊してしまう」
「大丈夫。大丈夫。ゆっくり優しく。労わるように」
「ふう。はあ。ふう。はあ。ゆっくり優しく、労わるように。ゆっくり優しく労わるように…。」
「撫でれたじゃないか」
「…ああ、ほんとだ。かわいいなぁ。小さくて、さらさらした毛並みで。ああ、かわいいなあ」
「…あんたは現実世界に触れていいんだよ。優しい心を持つスーパーヒーローなんだから」
「…ありがとう。黒木田芽梨衣」
「いいよ」
「……。…!」
「危ない!くそ間に合わないか?黒木田こっちへ!」
一つの砲弾が黒木田さんめがけて飛んでいく。俺は屋敷にあったスナイパーライフルでそれを打ち抜く。
バゴオォン
砲弾は粉々に空中分解した。俺は皮肉るようにジョリーに向かって言う。
「よお。〝チワワ小便〟君。デートは終わったかい」
奴もいつもの調子を取り戻して言い返してくる。
「あらら。これはこれは〝轟雷童貞〟君。轟く雷が止んじまったぜ。こうなったら俺はお前のことを何て呼べばいいんだ?教えてくれよ?」
どうやら今頃になって雷が止んだことに気付いたようだ。
ついに自衛隊の隊列とヘリコプター、戦闘機が流れるように乗り込んでくる。
「下の雑魚はお前に任せる。俺は俺のできることをする」
わかった、と一言ジョリーの声が聞こえ、奴が地上に降り立った自衛隊員と相対する。
俺は島中から飛び込んでくる銃弾が仲間に当たらないように、スナイパーライフルで撃ち落とす。スコープなんて必要ない。俺のこの〝目〟ありさえすれば。
ガトリングガン、大砲、ミサイル、大小さまざまな火器がこちらへ殺意を向けてくる。
ガトリングガンは簡単だ。多数の銃弾がほとんど同時のタイミングでこちらに向かってくるだけだから。一つの弾にうまく当てさえすれば弾同士が互いにぶつかり合って勝手にすべて逸れていく。
大砲はさっきみたいにこちらに届く前に撃ち落とせばいい。
厄介なのはミサイルだ。飛んでくる速さが桁違い。早めに撃ち落とさないと被害は甚大になる。
一瞬、赤い一点の光が俺の目に映る。
ほう、今の俺に射撃勝負か。面白い。
俺はスナイパーライフルを床に置き、拳銃に持ち替えて、相手の出方をうかがう。
スナイパーライフルの引き金を相手が引く瞬間、俺は後ろから前へ、ビュンっと振り投げるような動作をしながら拳銃を撃った。こうすると弾が遠くまで飛ぶ。
捕縛用ネットがライフル弾に当たった。それだけにはとどまらず、船上の相手に網が届き、身動きを封じる。
「いっちょあがり、コンタクトをして出直してきな」
「すごい!さすが私を超えた人ですね」
俺は響に褒められて、ついつい顔がにやけてしまう。
…しかしどうやって脱出するかな。俺はいくつもの兵器を撃ち落としながら数秒思考する。そして解決策を思いつく。今の俺ならできるはずだ。
「よし、空を飛んで逃げよう」
そう言った直後、おあつらえ向きに航空自衛隊の最新ジェット機が飛んできた。
再びスナイパーライフルに持ち替える。真っ直ぐに向かってくるその戦闘機に対して銃を真横に向けて指先を引き金に添える。
そして…。
俺は一気に銃先を戦闘機へと方向転換しながら、バンッと一つ弾を撃った。
弾は曲線を描いて飛んでいく。
〝転雷〟
これが合気を応用した狙撃技。ようやく峯口先輩の域へと至ることができた。
その弾は操縦士の顎をかすめるようにしてパイロットルームを横から貫いていく。
「悪いが守るもんがあるんだ。政府の奴らによろしくな」
操縦士が失神した。脳震盪を起こしたのだ。墜落してくる戦闘機を俺は捕縛ネットの連射で速度を落とし、ジョリーたちの前へと着地させた。
「それに乗れ!俺たちもすぐに行く」
響をおんぶして急いでその希望の脱出機に飛び乗る。
俺たち四人は銃弾飛び交うその孤島を最高速度で脱出していった。
ふと遠くの本土見つめる。
そこには富士山が見えていた。
「響、あそこに富士山が見えるぞ!
色は全体的に青みがかっている。雲を突き抜ける頂上付近には雪が積もって白く輝き、美しい。俺もこんなにはっきり意識してみるのは初めてだ!
君の想像通り、日本で一番気高く雄大な、最高の山だ!!」
遠くに見えるその誇り高い山は俺たちの新たな人生の門出を祝ってくれているようだった。
あの日からもう何年たっただろう。天候は雨。そろそろ梅雨明けだ。
「おっ、カミさんから連絡だ。早く帰って来いって。いけねぇ、今日が結婚二周年と半年記念イヴだったことをわすれてたぜ。」
「お前たち…。そんな細かく記念日にしてるのか」
「あったりまえよぅ!俺と彼女は今もまだラブラブだぜ?」
「しかし黒木田も変わったなあ。すっかりおまえにぞっこんだし」
「お前んとこも、今だいぶ落ち着いてきたんじゃあねえのか。ここ数年は結構バタバタしてたろ?なんせ俺様たちゃ指名手配犯なんだから」
「まぁ、多少はな。偽名も偽造パスポートも作れたし、海外にでも高飛びするよ」
「新しい名は入谷真一だっけか。」
「ああそうだ。入谷ってのが彼女の母親の旧姓らしい」
「いいなぁ、愛の逃避行。さぞかしラブラブなことでしょうね」
「…まあ確かに昼も夜も寝る暇がないね」
「…ッカー!お熱いこって。じゃあお幸せにな。またいつか会おうぜ!」
と、その時スマホに新しい通知が来た。
「ん?メールだ。お!峯口先輩、ついに卒業したってよ。」
「はっ!懐かしいな。ご自慢の〝ライトニングボルト〟が彼女に炸裂したのかな?」
「…いや、お風呂屋さんだってさ。我慢の限界だったらしい」
「ハハッ。あの人らしいじゃねえか」
こうして俺たちはそれぞれの道を、それぞれの日常を歩む覚悟をした。
これから起こるだろう数々の困難を乗り越えられるかはわからない。だけど…。
ピシャッと一筋、雷が轟いた。
「…あんなの、あの島のものに比べたら大したことないな」
「ちげぇねえ!なんせ俺様たちは勇敢なる本物の戦士だからな!」
「…ああ、そうだな」
雷はたった一つしか降ってこなかった。それっきり。
その後この曇天に閃光が走ることは決してなかった。
俺は思いもよらない非日常を通じて、これまた思いもよらなかった日常を手に入れたのである。
雨雲は次第に晴れていった。もう傘の影にとどまる必要はなさそうだ。
影の仕事は終わりをつげ日の当たる逃亡生活が彼らの人生を彩るだろう。