3章の2 大商人の災難
襲われた際の傷は、それほど深いものではなく、ぶつけたり急に動かしたりしなければ痛みはしなくなっていた。
祖父はひどく案じたものの、ファリーヤはアイディが用意していた理由を繰り返した。
信じてくれる祖父に対して後ろめたさが募ったが、真実を話してさらに不安にさせることのほうが嫌だった。
あの状況を思い返すと、わずかに身が震える。
ラシードが言ったように、彼等がいなかったらどうなっていたかわからない。
相手は躊躇なく他人に剣を向ける輩だ。
しばらくは薄暗い小路や全身外套のひとが嫌いになりそうだったが、ファリーヤはぐっと顎を引き、その恐怖を乗り越えた。
一体何をどうしてこんなことに巻き込まれたのか、ダレイスを探し出す――そのために。
傷の痛みも気にならなくなったその日は、城外の新街へ行こうと思っていた。
数十年前から、城壁内に入れなかった人々が自分たちで城壁を築き住みだした場所だ。
そろそろ起きなければと寝具の中でもぞもぞとしていたファリーヤは、突然の物々しい気配に気が付いた。
外はもう明るいが時間帯はまだ早い。
しかし玄関付近で争う声がする。
飛び起きるようにして騒ぎの元へ向かったファリーヤの目に入ってきたのは、あろうことか拘束された祖父の姿だった。
「お祖父様!?」
「お嬢様、いけません!」
手をこまねいてその様子を見ているしかなかった女中頭が、慌ててファリーヤを押さえるが、さらに警邏兵に阻まれる。
「おお、ファリーヤ。おはよう。しばらく留守にするが、商売のことは心配いらない。おまえはいつも通りに暮らせばいいからな」
「お祖父様、何があったの?」
「なんでも、うちで売った壺に不都合があったらしい」
ざっとファリーヤの顔色が変わる。
壺の話を聞いて歩いているひとがいる。ディカはそう教えてくれた。
何が起こっているのかタリクに告げておくべきだった、と唇を震わせるファリーヤに、タリクが飄々と笑った。
「まぁ、それは建前だろう。おまえはこのところばたばたしておったし、ダレイスが何かしたんだろう? 壺なぞに当たりはないし、何かの間違いだとすぐにわかる」
それだけ言い残し、祖父は乱暴に連れていかれてしまった。
「お嬢様。旦那様のおっしゃるとおり、何も心配はいりませんから」
朝食の支度を放って出てきた女中頭の慰める声に、強張った表情で頷いたファリーヤだったが、一時の衝撃から立ち直るや身支度を整え家を飛び出した。
◇ ◇ ◇
肩で息をしたまま、使用人の制止などものともせずに王宮の門をくぐった。
幸い話は通っていたようで、名乗ればすぐに入れてくれた。
そんなことは気にせず、ファリーヤはただ祖父が心配で堪らなかった。
さすがに応接間で待たされたが、ラシードはすぐに出てきた。
「おはよう、ファリーヤ? どうかした?」
朝の挨拶を返す余裕もなく、ファリーヤはラシードに告げる。
「お祖父様が捕まったの」
「タリクが?」
ラシードが目を見張る。
「ダレイスをおびき出すためじゃないかって、お祖父様は言ってたわ。あなたがやったんじゃないわよね? ダレイスをどうしても見つけたいって……」
「違うに決まってるだろう」
怒ったような物言いを耳にして、ファリーヤは膝から力が抜けたようにへたり込む。
ラシードがそんなことをするはずがないと思っていた。けれど信じ切れなかった自分が情けない。
「ごめんなさい、ラシード。あたし――」
「大丈夫だよ、ファリーヤ。タリクはすぐに牢から出すように手配するから」
侍女がファリーヤに珈琲を出してきたが、とても飲む気分にはなれなかった。
ファリーヤは溢れそうな涙を必死で堪えて立ち上がった。
「ダレイスを探すわ。今日は新街を探す予定だったの」
相変わらず聞く耳を持たないファリーヤに、ラシードは吐息をつく。
「なら、ぼくも行く」
「あなたはお祖父様をなんとかして」
「アイディに一筆残しておく。少しだけ待って」
「待てない」
「ファリーヤ」
「だって……。こうしてるあいだにも、お祖父様がひどい目にあってたらどうするの? お祖父様を助けて。ダレイスはあたしが探すから。壺も絶対――」
ラシードは、言い募るファリーヤをそっと抱きしめた。
「わかった。わかったから、少し落ち着いて」
ファリーヤはすがるように両腕をラシードの背中に回す。
「お祖父様に何かあったら――……」
小刻みに震える男装の少女に、ラシードの腕に力がこもる。
「大丈夫。タリクのことはこちらでなんとかするから」
少年の胸に顔をうずめて頷いたファリーヤを、ラシードはゆるゆると解放した。
「少し、落ち着いたね? ここで待っているんだよ」
ファリーヤの涙を湛えるその目元に、ラシードの手がそっと伸びる。
そのとき。
「ラシード? 何かあったの?」
はっとしてラシードは手を引き、振り返った。
「母上。ちょうどいいところに。ちょっと彼女を見ていてください。すぐに戻ります」
言い置いて出ていく息子から視線を移す。
「あらあら、誰かと思えばファリーヤではないの。斬新で愛らしい格好ね」
王太后は嫌味でも世辞でもなく、そう笑う。
「こんなに早く、どうしたというの? 何か珍しい品でも――ではないのね?」
「セフィア様……」
「まぁ、どうしたの? ラシードが何かした?」
潤む瞳に気づいたセフィアが、おろおろと覗き込む。
「いいえ、まさか。あの」
理由を伝えるわけにはいかない。
彼女は何も知らないだろう。
壺の一件を知らせればきっと案じるに違いない。
「なんでも、ないんです……。えっと、ほ、本のことで少し知らせておきたいことがあって、急ぎで」
苦しい言い訳を零しているファリーヤの耳に、救いの声が届く。
「終わったよ、ファリーヤ。アイディがなんとかしてくれるはずだ。母上、ありがとうございました。ちょっと出かけます」
そしてファリーヤの腕を取って慌ただしく出ていく。
それを見送ったセフィアは、控えていた年輩の侍女を振り返った。
「ラシードったら、最近なんだか楽しそうだと思わない? 剣や馬術の訓練以外は、ほとんど図書室にいたのに。ようやく都に馴染んでくれたのかと思っていたのだけど、ファリーヤのお陰だったのかしらね。前もそうだったわ。あの子がいると、ラシードが明るくなるのよ」
青い目を気にせずセフィアに仕えている数少ない侍女は、問いに柔らかく同意した。
基本的に水曜日と土曜日に投稿しています。
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