2章の6 孫娘と王弟の言い分
都の市場ではじめてダレイスを見たとき、魔術師として護符を売っていた。
むろんタリクが扱う商品の中に護符はなく、珍しくてしばらく眺めていたものだ。
次に見たときは女性の手を取り、占いをしていた。
付き添ってくれた子守り女中は、ファリーヤを連れてそそくさと家に戻った。
三度目のときは、熱に苦しむ幼い子を抱いた母親に、無料で薬を渡しているところだった。
母親はダレイスに何度も頭を下げ、ダレイスは気にするなと微笑んでいた。
ファリーヤが魔術師になりたいと言い出したのは、七歳か八歳のときだ。
その頃にはもう、祖父とダレイスの関係は良好ではなかった。
けれどタリクは、ファリーヤがダレイスに会うのを止めることはなかった。
最初は女中の誰かが必ずついていたが、その二、三年後には、ファリーヤは男装をはじめて、ひとりで出歩くようになっていた。
『いい加減にしないと、祖父さんが泣くよ?』
『でもダレイス。魔術師はひとの役に立つでしょ。薬も護符も、探し物の占いも』
『役には立つかもしれないけど、代価があるからね。それにひとを殺せる薬もあるし、呪いだってかけられるし、探し物だって盗品かもしれない』
ファリーヤは唇を尖らせた。
『お祖父様と同じことを言うのね。本当はそんなことしてないくせに!』
『それは、おまえがそう信じたがってるだけだよ。おまえは祖父さんの後を継げばいい。おまえなら、立派に切り盛りできるようになるよ』
『じゃあ、あたしは商売もできる魔術師になる!』
弟子にしてくれと懇願するファリーヤを、ダレイスはまったく相手にしなかった。
だからファリーヤは、勝手に押し掛けて、勝手に弟子を名乗り、勝手に後をついていった。
ダレイスもじきに根負けし、魔術師だけではなく生薬や、いまでは薬草茶にまで手を出して、ファリーヤがそばにいやすいようにしてくれている。
そのお陰で、今回もダレイスが行方不明だとわかったのだ。そうでなければいないことに気づきもしなかったはずだ。
そこまで考えて、ファリーヤはぱっちり目を開けた。
天井が見える。
ダレイスを探しているはずなのに、寝ているのはどういうわけだろう。
「目が覚めた?」
どこか安堵したような声のほうに首を巡らせれば、ラシードがいた。
「え、あ、痛!」
体を起こそうと腕に力を入れたら、ひどく痛んだ。
見れば少々口を開けた右の袖に赤黒い染みができ、そこからわずかに覗く腕には真っ白な包帯が巻かれている。
「腕を少し切られていた。それほど深くはないけど、しばらくはあまり動かさないほうがいいよ。それに力任せにぶつけられたようだからね。骨には異常はなさそうだけど、頭も打ったろう」
かすかに記憶が蘇る。
「助けてくれたのね。ありがとう」
あそこでラシードが来てくれなければ、相当危ないことになっていたはずだ。
しかし、あの場に偶然居合わせたと考えるほど、ファリーヤもお人好しではない。
「……もしかして、あたしのこと見張ってた……?」
ラシードは大きな瞳に見つめられて、観念したようだ。
「まあ、見張っていたのもあるし、ぼくたちも居酒屋なんかを探していたんだ。けど、ファリーヤ。ぼくたちがいなくて、あのままだったら、どうなっていたと思う?」
信用されていなかったことに不満はあるが、助かったことも事実なので、そこについては文句をつけないことにする。
「だって、あたしもダレイスを探していたのよ。お祖父様に知られる前になんとかし――やだ、あたしどのくらい寝てた? 帰らなきゃ、お祖父様が心配する!」
外はすでに薄暗い。
慌てて立ち上がりかけて、あちこちの鈍痛に呻く。
ラシードはそんなファリーヤをそっと寝台に戻した。
「きみが寝ていたのは一刻ほどだよ。家にはアイディがいま連絡に行っている」
そう、と胸を撫で下ろし、ファリーヤはふいに服が緩められているのに気がついた。
「何もしてないよ、もちろん! ただ楽なほうがいいかと思っただけ。手当はここの女中にやってもらったから」
「う、うん」
ラシードの顔は心なしか赤い。
ファリーヤはそれこそ真っ赤になって言葉もない。
男装していようが年頃の娘に違いはないのだ。
「ただいま戻りました。――どうかしたんですか?」
漂う不思議な雰囲気に、アイディが少年少女を見比べる。
ふたりは余所を向いたまま『なんでもない』と声を揃えた。
「はぁ……? ファリーヤ嬢。祖父殿には話をしてきました。日に当てられて具合が悪くなりお世話をしています――とね。倒れた際に、近くにあった陶器の破片で怪我をしたとも言ってあります。じきに迎えも来ると思いますよ」
「ありがとう」
祖父には極力心配をかけたくはない。
それに外出禁止にでもなった日には、目も当てられない。
ファリーヤは横になったまま左右を眺めた。
「ここはどこ? 王宮じゃないわよね?」
「近くにあった宿だよ。意識のないきみを家に連れていくにも説明しなくちゃいけないし、仮住まいも王宮も遠かったから」
娼館が集まるあたりには、居酒屋も安宿も集まっている。その中の一軒だろう。
ファリーヤは自分の体と相談しつつ、ゆっくり上半身を起こす。
男装の際には帽子につめこまれている髪が、ふわりと背中を覆った。
「えっと。本を、届けておいたけど、お気に召したかしら?」
「ありがとう。でもまだ見てないんだ。あとでゆっくり見るよ」
そして待ち構えていたかのように、アイディが問いを発する。
「ファリーヤ嬢。襲った相手に心当たりは?」
「それはあたしが聞きたいわよ。そうよね、あなたたち以外にも、壺を探しているひとがいたのよね。それは誰?」
ふたりの口は開きそうにない。
しかし否定が出ないということは、心当たりがあるということで、黙っているということは、少女に知らせるつもりはないということだ。
「いいわよ。わかったところで、きっとあたしにはどうにもできないもの。でもその連中に、あたしは襲われたんでしょ? ダレイスがそいつらに見付かったら、命に関わりそうな感じだったわ」
憤然とするファリーヤを宥めたのは、アイディだった。
「ですから、わたしどもが先に見つけるべく探索はしているんですが」
「でも、あなたたちは壺が大事であって、ダレイスのことを気にしてるわけじゃないでしょ。だからあたしはダレイスを探すわ」
そのとき、扉の外がばたばたと騒がしくなり、アイディが様子を見に部屋を出ていく。
そしてラシードがファリーヤに向き直った。
「危険があるとわかっただろう? きみは手を引くべきだ」
「嫌よ」
ふたりはしばし無言で睨み合う。
「――きみが襲われているのを見たとき、全身の血が沸騰するかと思った。きみが血を流しているのを見たとき、ぼくは自分の無力を呪ったよ」
「それは、あなたのせいじゃないでしょう。あたしがちょっと、迂闊だっただけで」
「ちょっと迂闊? ちょっと? 万一のことだってあり得たんだぞ」
握った拳といつになく語気を荒くするラシードに、ファリーヤはさすがに困惑する。
「あたしが怪我をしたのはあたしのせいよ。あなたが気に病むことじゃないわ」
「きみを心配もする権利もないと?」
「そうは言ってないわよ。面倒をかけて申し訳ないと思ってる。でもね、あたしは大丈夫なの」
「全身が痛いくせに、何が大丈夫なんだ?」
ラシードの手が伸びて、ファリーヤの頬にかかる髪を払う。
そのままそっと頬を撫でられて、ファリーヤは息を止めた。
そして唐突に、ラシードの指は離れる。
「ラシ……」
「家からお迎えが来ましたよ、ファリーヤ嬢」
「はい!」
戻ってきたアイディは、予想外の元気な返事に面食らっている。
そんな従者に、ラシードは小さくため息をついただけだ。
ファリーヤは、触れられた頬がひどく熱を持っているように感じていた。
「どうやらタリク殿がかなり心配しているようで、使用人も相当慌てていますよ」
早く安心させてあげてください、とのアイディに礼を言って、ファリーヤは痛みを堪えて立ち上がった。
「あたしは、ダレイスを探すから」
最後に、ラシードに向けてそう言い残して。
◇ ◇ ◇
少女が消えてから、アイディが顔をしかめた。
「イクレム様も、魔術師とタリク殿の関係に気づいたのかもしれません」
「彼女があれだけ必死に探しているところを見ると、家に匿っているわけでもないだろう。タリクは無関係じゃないのか」
あの祖父と孫娘には、壺の紛失には関わっていて欲しくないと心底願っていたが、どうやらその願いは叶いそうである。
「そう思われているのでしたら、もう少しきつく言ってもよかったのでは? 危険には違いありません」
「言ったつもりだけど、あの様子では、聞く耳があるとは思えないよ」
しかし詳細を告げたなら、ファリーヤは身を引いただろうか。
引かないだろうな、とラシードはつきかけたため息を押し殺す。
祭まであと半月しかない。
「イクレムに動きは?」
「ギーライが色々と動き回っているようですね」
「ということは、あちらもまだ壺を押さえたわけではないんだな……」
そしてラシードは今更ながら首を捻る。
「ザフラは一体、何がしたかったんだろう?」
王付きの侍女は何を思って壺を持って消えたのか。
王家をゆすりたかったのか――いまだに要求はない。
壺を売るためか――謂われを知らなければそれほど高値がつくものではない。
どちらにしても金が望みなのか――他に換金できそうなものはいくらでもあったのに。
仮に、と言い置いてアイディが説いた。
「何らかの手段を用い、イクレム様がザフラに接触したとします。ザフラはサヒード様付きの侍女であり、その執務室にも私室にも、出入りは自由でしたから。そうしてイクレム様に、大金などを――イクレム様との結婚かもしれませんね。そういったものを餌に唆されたなら、壺くらい盗むでしょう」
「なら、どうしてイクレムのところに逃げなかったんだ?」
「どんな報酬をちらつかせたにせよ、自分より立場の弱い人間を見下す傾向が強いイクレム様が、それを与えるとは限りません。ザフラが何かの拍子に、そんなイクレム様の本心を知ってしまった場合は、彼の元へは行かないでしょうね」
いささか偏見に満ちた推測かもしれないが、非常に的を射ているのではないだろうかと思う。
イクレムにはそれほど会った覚えはないが、常にラシードを冷ややかに見ていた。
冷ややかというより、蔑むというか、必死に虚勢を張っているというか――つまり青い瞳に怯えているのだろう。
くっとラシードは喉を鳴らした。
「どうしました?」
「イクレムもイスヴァ様も、ぼくの目が怖いのだろうなと思っただけだ」
「色が違うだけですよ」
「おまえは少数派だよ」
「ファリーヤ嬢もそう言っていたでしょう?」
「だから、彼女も少数派だ」
自嘲めいた笑みを慰めるでもなく、アイディは淡々と続ける。
「イクレム様がサヒード様に、ハリク様の立太子の話を勧めたそうです」
「ああ、さっさとハリクの身分を落ち着かせたほうがいいとは、ぼくも思う」
前例だの慣習だのと儀典関係の連中は並べ立てていたが、時と場合というものがある。
「兄上は祭が終わり次第って、考えているようだった。おまえも聞いたろう?」
「……ええ」
「もしかして、ぼくが反対するとでも思っていた?」
皮肉げに口元を歪めるラシードに、アイディは首を横に振った。
「いいえ。わたしはそれほど意固地ではないつもりです。あなたは、サヒード様を大切に思っている」
「当たり前じゃないか」
言い切った国王の弟に、国王の乳兄弟はふと笑った。
「であれば、わたしはあなたを信頼しますよ」
「……おもしろい論法だね」
小さく呟き、意を決したふうにラシードは顔を上げる。
「壺は必ず探し出す。侍女なり魔術師なり、ともに捕らえてイクレムの前に突きだしてやる。兄上の名に、傷など残してたまるものか」
自分がいまこうしていられるのは兄のお陰だ。
兄はそんなことは気にするなと言うが、それでは自分が納得しない。
ラシードにとって、世界で一番、大切な兄だ。
傷つけようとする者を、許すわけにはいかない。
基本的に水曜日と土曜日に投稿しています。
よろしくお願いします。