小さな幸せの見つけ方
「ミレイユ、よく聞きなさい。人生は思うようにならないことばかりよ。自分で選べることなんて、ほとんどないの。だけどね、選べることがある時は、置かれた状況の中で常に最善を選びなさい」
母はわたしに、よくそう言い聞かせた。
そして必ずその終わりには幸せそうに微笑んで、こう付け加えた。
「そうすれば、大きな幸せではなかったとしても、小さな幸せはいっぱい得られるわ」
最初は意味がよくわからなかった。だってそう言われたのは、まだ小さい時だったから。たぶんわたしは「はい、おかあさま」とわからないなりに返事をしたのだと思う。
今思い返してみれば、当時は母もまだ若かった。「人生は思うようにならないことばかり」だなんて、いったいどんな人生を送ってきたのかと思ってしまう。
そんな母は、男爵家から当時次期子爵であった父に嫁ぎ、わたしを産んで、過去の父の愛人の子も引き取って育て、今は子爵夫人としてたくましくその手腕を振るっている。
ものすごく元気である。
なぜそんなことを思い出したかというと、今まさにその「思うようにならないこと」な状況に陥っているからだ。
「ミレイユ、お前の縁談が決まったよ。ドゥーセ伯爵家のご嫡男のエクトル様だ」
「まぁ、ドゥーセ伯爵家のご嫡男と?」
父の発言に母は驚いている。
わたしの家である子爵家は、上位貴族ではないものの堅実な領地経営をしており、そこそこ裕福だ。そうはいっても格上の伯爵家、しかも嫡男との縁談など、普通は望めるものではない。
ドゥーセ伯爵家とは数年前から新しく領地間の取り引きを始め、今ではけっこうな額になっているという。伯爵家側としても子爵家と縁を繋いでおきたいというところらしい。
もちろん子爵家としても、伯爵家と縁付けることは大きな利益になる。
純然たる政略結婚だ。
きっと喜ばしいことなのだろう。わたしじゃないご令嬢だったら、伯爵家に嫁げるなんて、と目を輝かせたかもしれない。
だけどわたしは、喜ぶ気になどなれなかった。
母が心配そうな顔をわたしに向けてから、視線を父に移した。
「ドゥーセ伯爵家のご嫡男は、それなりの年齢ではありませんでしたか?」
「現在31歳だから、ミレイユの15歳上になるな。少し歳は離れているが、後妻なわけじゃない」
「そうですか……。どうしてその年齢までご結婚されなかったのでしょう? 暴力的だという噂も聞いたことがあるのですけれど……」
母はどこか懇願するかのように父を見ている。わたしのことを思ってくれている母だ。政略結婚は仕方がないにしても、なるべくわたしが幸せになれそうなところに、と考えてくれているのだろう。
だけど父はそんなことを気にする素振りを見せず、安心させるように笑った。
「なに、噂はあくまで噂だ。エクトル様は成績も優秀で、品行方正な方だと聞いている。良い縁談だと思うぞ」
父の言うことも噂なのではないだろうか。母もそう思ったのか、小さく肩を落とした。わたし同様に、残念ながら母にも決定権はない。この国の貴族の家では、妻も子供も当主のものなのだ。
「ミレイユが嫁ぐのは寂しくはあるが、縁談がまとまってよかった」
「……喜ばしいことですね。近いうちに家族内でお祝いをしましょうか」
純粋に喜ぶ父と、わたしを気遣うような母。
誰が好んで自分の倍近い年齢の暴力的だという噂の人に嫁ぎたいと思うだろう。
嫌だ。
嫌だ、嫌だ。
そう叫びたかった。泣きわめきたかった。
『人生は思うようにならないことばかりよ。自分で選べることなんて、ほとんどないの』
そう母が言うように、わたしに選べることなどほとんどない。
貴族の令嬢として、言われた通りに見たことも会ったこともない男性の元へ嫁ぐ。
どんなに嫌だと思っても、この縁談は決まったことなのだ。そこにわたしの意志は反映されない。
わたしは話をしていた父の執務室を出ると、そのまま庭に向かった。
「ヤン!」
目当ての人物を見つけると、わたしは令嬢らしくなく駆け寄った。彼はキョロキョロと周りを見て誰もいないことを確認すると、驚きながらもわたしをそのまま抱きとめてくれた。
「どうした?」
耳元に小さく響いた優しい彼の声を聞いたとたん、堰を切ったように堪えていた涙が溢れ出た。
ヤンは庭師兼雑用係として子爵家で働いている青年だ。歳はわたしの一つ上で17歳。わたしとヤンは一年半ほど前から秘密の恋人同士である。
出会いはこの庭だった。わたしが散歩しているときに、新しくここで働かせてもらっていますと挨拶をしてくれたのが二年前。それからわたしが花を植えたいと言ったときに丁寧に教えてくれたことで、わたしたちの距離は縮まった。
ヤンはわたしの知らない平民の知識をたくさん知っていて、街や村の様子をいろいろ教えてくれた。柔和で人好きのする笑み、話も上手で、彼といると退屈しなかった。柔らかい雰囲気ながらも気質は真面目で、仕事はきっちりとこなす人だ。当時わずか15歳にして家族を支えていることもあって、年齢は一つしか変わらないのにとても大人に見えた。
子爵家のお嬢様として育ったわたしには新鮮なことばかりで、次第に彼に惹かれていった。それが恋心になるまでに、時間はかからなかった。
好きだと思ってしまったら、もうその思いは止められなかった。何をしていてもヤンがかっこよく見えた。いつでも彼のことを考えて、いるかもしれない場所をこっそり目で探す。もし目が合ったら、それだけで嬉しかった。
思い切って気持ちを打ち明けて、ヤンも同じ気持ちだと知ったときは、天にも昇る気持ちだった。
『置かれた状況の中で、常に最善を選びなさい』
母はわたしにそう教えた。だからわたしは彼と共に過ごすことを選んだ。そして彼も同じ選択をしてくれた。世界が明るくなった。
たとえそれが成就しない、期間限定のものだとわかっていたとしても。
それからわたしたちは、一時の幸せな時間を過ごした。子爵家の令嬢と平民。続かないとわかっている関係だからか、使用人たちは見てみぬふりをしてくれた。母からこっそり見張られていることには気が付いていたけれど、度を超えない限り大目に見てくれた。父にだけは知られたら危ないけれど、父は仕事で各地を回ったり王都へ出たりしていて領地にいる期間は短い。その期間だけ注意すればよかった。
わたしたちはこっそり逢瀬を重ねた。場所はたいてい庭の隅で、短い時間だけ。日々のちょっとしたことを話したり、愚痴を言い合ったりして笑った。そんな些細なひとときがとても幸せだった。
一度わたしたちが子爵邸を抜け出して街の祭りに行ったときは母に怒られたけれど、わたしたちは至って健全なつき合いで、やましいことは何もなかった。せいぜい手を握ったり、こっそり軽く抱擁する程度だった。
もしかしたら母にも似たような経験があったのかもしれない。だから、ぎりぎりまで許してくれたのかもしれない。
「ミレイユ、どうした。何があった?」
ヤンの胸で泣き始めたわたしを、彼は困ったように木陰の見えにくい場所に誘導する。ある程度知られているとはいえ、わたしたちの関係は公にできるものではない。
「ミレイユ?」
優しくなだめるように背を撫でてくれる。
ひとしきり泣いたあと、わたしは俯いたまま、先程のことを伝えた。
「わたしの縁談が決まったの」
ヤンから温度がなくなっていくのが伝わってきた。「そうか」と噛み締めるように小さく呟いて、それから腕に込める力が強くなった。
お互い分かっていたことだった。いつかこの日が来ること、そして、この関係には終わりがあることが。わかっていた。わかっているはずだった。
「嫌よ、行きたくない。行きたくないの。ヤンといる。ずっと一緒にいる」
もう泣いたはずだったのに、本音を言葉にしてしまったら、また涙が止まらなくなった。令嬢らしくなく、みっともなく泣きじゃくる。
わたしの頭の上で、ヤンはひとつ長く溜息を吐いた。
きっと、わかっていたことだろうと怒られる。呆れられたかもしれない。だけどかけられた言葉は予想外のものだった。
「ミレイユ、このまま二人で逃げてしまおうか」
わざと冗談に聞こえるような、明るく振舞うような、そんな声色だった。だけど腕の強さが本気だと伝えてくる。
真面目な彼がそんなことを言うとは思わなくて、わたしは目を丸くして彼を見上げた。彼の目は真剣だった。わたしが「うん」と言えば、このまま攫ってくれる。きっと彼は本当にそうする。そんな目をしていた。
そうしてほしかった。わたしも、そうしたかった。
だけどそれが許されないことだということも、同時にわかっていた。「ずっと一緒にいる」と駄々をこねているのはわたしなのに、どこかで冷静な自分がストップをかけた。矛盾している。
「駄目よ」
震える声で、そう言うのが精一杯だった。
わたしと伯爵家のエクトル様は、お互いに顔を合わせることもなく婚約した。半年の婚約期間をおいて、わたしは伯爵家に嫁ぐらしい。
母と使用人が忙しく婚礼の準備をするのを、わたしはまるで他人事のように感じていた。そうはいっても子爵家で過ごす残りの時間が少しずつ減っていく。それはヤンとの時間がなくなっていくのと同義だった。
何度「わたしを連れて逃げて」と言いそうになっただろう。それだけ離れたくなかった。だけどできなかった。
貴族の娘に生まれた時点で、わたしは子爵家のために生きる義務を背負っている。育ててくれた家のために、領地のために、わがままを言うことは許されない。
でも、たとえそんな大前提を抜かしたとしても、ヤンと一緒になることはできなかった。
ヤンの父親は亡くなっている。だからヤンはまだ若くして母と妹を養っている。子爵家の給金で安定して生活はできているようだけれど、だからといって裕福な暮らしをしているわけではない。
わたしを連れて逃げたなら、ヤンとその家族はどうなるだろう。
お嬢様育ちのわたしは、彼のお荷物にしかならない。彼に聞いた平民の暮らしや仕事は、わたしにすぐにできることではなさそうだ。おまけに一緒に逃げれば当然ヤンは今の庭師の仕事を失う。仕事もなく母妹を養いつつお荷物のわたしがいる。住むところ、食べるもの、いったいどうやって生きていくのだろう。
一緒にいられればそれだけで幸せ、好きな人といられるならばどんなことでも大丈夫、なんて思えるほど、わたしの頭はお花畑ではない。
もちろん、わたしは子爵家も家族も、領民も、大事に思っている。
わたしが今ヤンと逃げても、誰も幸せになれない。
いくら懇願したところで、わたしと平民であるヤンの結婚は許されない。
選べるとすれば、ヤンと逃げるか、伯爵家との婚約を受け入れ嫁ぐか、どちらかだけだ。
ヤンとしても冷静になれば逃げられなかっただろうし、選択肢などないに等しかったけれど、わたしは逃げないほうを選んだ。そう、わたしが選んだのだ。
「ヤン、わたしはあなたといられて嬉しかった。こうなることが分かっていても、それでも後悔はないの。だけどあなたを振り回してしまったことは申し訳ないと思ってる」
わたしがそう告げると、ヤンはくしゃっと顔を歪めた。
「わかってるんだ。俺ではミレイユを幸せにできないって。わかってる……でも、悔しいなぁ」
ヤンは空を見て言った。もしかしたら涙をこらえているのかもしれない。背が高いヤンが上を向けば、わたしは顔を見ることができない。
ヤンがわたしを思ってくれていることに疑いはない。何か打算があるのではと別の使用人に言われたことはあったけれど、ヤンがわたしに何かお金になるようなものを要求したことはないし、わたしが役立ててほしいとお金になりそうなものをあげようとした時も「それはいけない」と受け取らなかった。唯一受け取ってくれたのは、割れたクッキーだけ。妹にあげるのだと喜んでくれた。
「なんども本気で攫ってしまおうっていう衝動にかられたんだ。だけど、できなかった。不幸にするってわかってるから」
それから俯いて、もう一度「悔しいなぁ」と言った。強く、とても強く握られた拳は白くなっていた。
身分違いの恋がハッピーエンドを迎えるお話が広く愛されるのは、それが実際にはありえないことだからだ。現実には、身分違いの恋は成就しない。したとしても、皆がハッピーエンドになることなどない。
だからこそ、そんなお話は人々の心に響くし、皆が楽しむ。娯楽の一つとして。
「ヤン、わたしはきっと幸せになるわ。伯爵夫人になるの。きっと贅沢し放題よ」
虚栄を張って、笑ってみせた。
わたしの婚約相手の噂はヤンに知らせていない。言えばきっと心配して、怒って、もしかしたらそのまま攫ってくれたかもしれない。だけど一緒になれない以上、わたしは彼の重しになりたくなかった。
「だからヤンもどうか、どうか、幸せになって」
笑顔で別れるはずだったのに、結局は涙を堪えきれなかった。ヤンはわたしを強く抱きしめてくれた。
きっと、こんな恋はもうできない。
好きだった。
照れると頭を掻く仕草。普段は誰にでも丁寧なのに、二人の時は気を抜いた話し方をするところ。真剣な瞳。柔らかそうな髪。優しい声。あげていけばきりがない。そう、全部。
彼のことが、今でもこんなに、まだ好きだ。
「ミレイユ。叶わないってわかってたけど、それでも俺は君が好きだった。君の幸せを心から祈ってる」
ヤンの顔が近づいて、わたしはそっと目を閉じた。
最初で最後のキスは、涙の味がした。
ドゥーセ伯爵家は、子爵家から馬車で3日の距離にある。
家族と子爵家で働いてくれている人たちとの別れを済ませ、父と共に馬車に乗った。父は結婚式に参列するため同行する。
「もしどうしても無理だと思ったら、逃げてもいいのよ。逃げるという選択が最善であることもあるわ。その時は命をかけてでも絶対に守るから、ここに戻ってきなさい」
出発前、いつもは貴族の令嬢としてしっかりしなさいと教える母が、わたしをまっすぐに見てそう言った。母も不安に思ってくれているのだろう。
わたしは頷いてから、「きっと大丈夫」と笑ってみせた。
馬車に揺られながら、わたしは今後の生活に思いを馳せた。
暴力的だという噂の婚約者エクトル様は、どうやら怖い人らしい。あとは、とても細かい人だとか、無愛想だとか、ごく一部に誠実でハンサムだという噂もあった。
そんな人と上手くやっていけるだろうか。
不安になって、ヤン、と心の中で呟いた。早くもヤンに会いたいと思った。
馬車は生まれ育った子爵領を出たようだ。ガタゴトと前に進んでいく。もう後戻りはできない。
子爵領の人達の顔が思い浮かんだ。皆にも、ヤンにも、心配はかけたくない。母は命がけで守ってくれると言ったけれど、それはわたしの命が脅かされるくらいにどうしようもなくなったときだけだ。
今必要なことはなんだろうか。
わたしの望んだことじゃないのだと、うじうじすること?
子爵家に戻りたいと訴えること?
それとも、できる限りやってみること?
わたしに選べることなんてほとんどない。だけど自分の気の持ちようは選べるのだ。どれが最善だろう。
大きく息を吸って、ゆっくりはいた。
よし!
3日の馬車の旅を経て、わたしは伯爵領に入った。
伯爵領の街は子爵領のものよりも大きく、人も多いように見えた。そして門をくぐり大きな伯爵邸を目にしたとき、初めてすごいところへ嫁ぐのだなという意識が生まれた。
わたしじゃない他のご令嬢だったら、これからの生活に胸をときめかせたかもしれない。
……いや、わたしも胸をときめかせておいたらいいじゃない!
不安で潰れそうな気持ちを奮い立たせた。期待しても無駄かもしれないけれど、楽しい日々になる可能性だってゼロじゃないのだ。
「遠路はるばるようこそ」
ピシッとした姿で迎えてくれたのは、当主であるドゥーセ伯爵。わたしの義理の父となる人だ。伯爵邸の中に通されて、わたしは初めて婚約者であるエクトル様と対面した。
「はじめまして。エクトルです」
「ミレイユと申します」
丁寧にお辞儀する。
エクトル様は怖い人だという噂を聞いていたけれど、なるほどそうかもしれないと思った。まず、強面だ。彼も緊張していたのかもしれないけれど、表情があまり動くことはなく、冷たい印象を受けた。
騎士を多く出す家系だけあって体格もいい。目の前にいるというだけで威圧感があった。
だけどキリッとした目は、ハンサムといえばそうかもしれない。15歳も上だと聞いていたけれど若く見える。見た目だけではわからないけれど、暴力を振るうような人には今のところ見えなかった。
ひとしきり雑談をし、これからの予定について父と伯爵が話を進めていく。わたしとエクトル様はほとんど会話することなく、結婚式5日前の初対面を終えた。
父とわたしは結婚式の日まで伯爵邸の客室で過ごした。エクトル様は離れに住んでいて、わたしは結婚式を終えたらそちらに移るらしい。
結婚式当日はよく晴れた日だった。
わたしは思いっきり着飾らされた。苦しい。だけどこれほど豪華に着飾るのは初めてだし、たぶん最後だ。そして結婚式も初めてで、最後になるはずだ。
わたしの気持ちは沈んでいる。5日前に会ったばかりのほとんど何も知らない相手と結婚したいはずがない。それに、わたしの中ではやはりまだヤンを忘れることなどできなかった。
隣に並んでいるのがヤンだったらどんなによかっただろう。
そう考えても仕方のないことだとわかっていても、簡単に割り切れるものでもない。
だけど、わたしの最初で最後の結婚式を悲壮な面持ちで終えるのが最善?
こんなことわたしは望んでいないのよと、祝ってくれる人達に見せつけるように俯いているのがいいの?
わたしは自問自答した。
そうしたところで、誰が得をするだろう。誰もが嫌な思いをするだけだ。
きっとそれらは最善ではない。ならば……。
わたしはめいっぱい楽しんでやることに決めた。
無事に儀式ばった結婚式を終えると、お互い正装のまま教会の広場へ出た。そこにはたくさんの領民が詰め掛けており、わたしは不安や不満を全て隠してにこやかに手を振った。これも貴族令嬢としての務めだと最初は思っていたけれど、手を振り返してくれる伯爵領の領民たちを見ていたら本当に楽しくなってきた。ほとんどの人たちが晴れやかな顔でわたしたちを祝ってくれている。
意外とわたしは領民からは受け入れられているらしい。
エクトル様は笑ってはいなかったけれど、手を上げて歓声に応えていた。
わたしはあまり実感をもてずにいたけれど、エクトル様は領主嫡男というなかなか高い地位の人で、これはその人の結婚式なのだ。ここから数日はお祭りになるそうだ。
皆が明るく楽しそうなのはいいことだ。そう思った。
式とお披露目を終えると、わたしは予定通りエクトル様の住む離れに部屋を移した。今日から寝室もエクトル様と同じらしい。
すごく嫌だった。やはりヤンと一緒に逃げればよかったかもしれない、なんてありえないことが頭をかすめるくらい嫌だった。同時に怖くもあった。二人になった時に暴力を振るわれたら逃げられない。
だけど、そもそも逃げられないのだ。覚悟を決めるしかないと思ったとき、ガチャ、とドアが開く音がした。
寝室に入ってきたエクトル様は、同じように、すごく嫌だ、という顔をしていた。
彼はわたしの顔を見ると、より一層顔をしかめた。
「そんな顔をしないでくれないか」
「……きっと、お互い様だと思いますわ」
わたしがそう返すと、エクトル様は驚いたように目を見開いた。
彼は確認するように自分の頬に手を当てて、ぐにぐにと動かした。どうやら自分の表情に気が付いていなかったらしい。そういうわたしもひどい顔をしていたのだなと、同じように頬に手を当てる。
「そうだったか。それはすまない」
まさか謝るような言葉が彼から出てくるとは思わず、今度はわたしが目を見開いた。もしかしたらそれほど怖い人でもないのかもしれない、と少し期待する。
それにわたしだけでなく彼も嫌だったのかもしれない。そう思ったら勝手に仲間意識が芽生え、思わず少し笑ってしまった。
「なんだ、まだ変な顔をしているか?」
「いいえ、とんでもない」
「そうか。……嫌だったのではないか?」
「え?」
「この婚姻の話だ。辛そうな顔をしていた」
嫌でした、今でも嫌です、とぶちまけてしまえたらどんなに楽だろう。だけどそれが良いはずがない。
わたしは曖昧に微笑んだ。
「新しい環境になって不安だったのです。そのような顔をしてしまったこと、申し訳ございません」
「いや、謝る必要はない。私は15歳も上だからな。さぞ落胆したことだろうと思う」
エクトル様は小さなテーブルに置かれた水をよそって一気に飲み、わたしにもいるかと聞いた。わたしは首を横に振っていらないことを伝える。
「君は望んで今ここにいるわけじゃないだろう。だが私とて望んだわけじゃない。正直に言って、君を愛せるかわからない」
「……それも、お互い様ですわ」
見上げると、彼は目を見開き、それからクッと笑った。
「そうだな。君に私を愛せというつもりはさらさらないが、まぁ、縁あって結ばれた婚姻だ。お互い悪くない関係になれればいいとは思っている」
「あら、わたくしは愛してみようとは思っていますの。お互いに望んだことではなかったのかもしれませんけれど、もしそうできれば幸せだとは思いませんか?」
わたしは首を傾げながら笑ってみせる。
エクトル様は真意を探るかのように、わたしをじっと見つめた。
「そうかもしれない。私も努力しよう」
わたしはそうして、エクトル様と夫婦になった。
結婚から一月。
エクトル様とはほとんど毎日顔を合わせている。
暴力を振るわれるようなことはなく、むしろどちらかというと穏やかだ。怒っているところも今のところ見ていない。わたしはそのことに、一番安心した。
ただ、気遣ってくれている様子はあるけれど、親交が深まったかというとそうでもない。彼のほうもわたしとの距離を測りかねているような感じがする。
伯爵家のしきたりは子爵家とは違う事も多くて、わたしは戸惑うばかりだった。
毎日必ず本邸に行き義父と義母に挨拶しなけれなばならないとか、一人で外出はできず庭でさえ誰かと一緒でなければならないとか、なんでも夫にお伺いを立てないといけないとか。
肩身が狭くて窮屈だと思ったり、子爵家に戻りたいと思ったこともある。
母の優しさが身に染みた。そして、ヤンに会いたい。彼の胸に飛び込んで、今のわたしの状況や愚痴を聞いてもらえたら、また頑張れる気がする。だけど彼はもう遠い。
わたしが望んだ縁談ではなかった。
わたしが望んでここにきたわけでもなかった。
だけどそれを言ったところで、何が変わるだろう。
『置かれた状況の中で、最善を選びなさい』
そう母は言った。
今の最善はなんだろう。わたしはこんな状況望んでいなかったのに、と不貞腐れることだろうか。意地を張ることだろうか。子爵家ではこうだったと抵抗することだろうか。文句を言うことだろうか。
それとも、この環境に馴染めるように、できる限りやってみることだろうか。
それから三ヶ月。
エクトル様は怖そうな見た目とは裏腹に、相変わらず穏やかである。だけどやっぱり口数は少ないし、わたしとの間には距離がある。
ここは子爵家ではなく伯爵家だ。使用人に軽んじられたり、義両親との関係が悪いわけではない。それでも夫と距離があるということは、すなわち、わたしは孤立しているということだ。
このままの距離感でいるのがいいか、それとも、一歩進むべきか。
「カルラ、エクトル様はどんなお茶が好みか、教えて下さる?」
カルラは伯爵家に来てからわたしに付けてもらった侍女だ。中年、いやもう少し歳が上のようだけれど、とても気の良い活発な人である。
「もちろんですとも」
カルラはパッと顔を明るくして、お茶の種類だけでなくエクトル様の好みの茶菓子も教えてくれた。ついでに淹れ方も教えてくれた。
「ちょうどお茶の時間ですね。ミレイユ様、もしよろしければ、執務室のエクトル様にお届けしてはいかがですか?」
「え? わたくしが行ってもいいものでしょうか?」
「もちろんですとも。きっとミレイユ様自らお淹れしたお茶だと聞いたら喜んでくださいます」
わたしはカルラと一緒にお茶を準備し、エクトル様の執務室の前まで来た。重厚な扉が立ちふさがっている。
「本当に大丈夫でしょうか。迷惑になってしまうのでは?」
「大丈夫ですよ。旦那様はあんな顔ですけれど、使用人にも優しいのですよ。奥様の気遣いを無下にする方ではありませんし、本当に忙しくて無理な状況であればそうおっしゃいますから」
カルラはニコッと笑って、窺いをたてるようにわたしの顔を見た。
「よし!」
わたしが気合いを入れると、カルラはひとつ大きく頷いて、執務室のドアをノックした。
「カルラです。お茶をお持ちしました」
たっぷりの間を置いて「どうぞ」と許可が出た。
初めて入る執務室は思ったほど広くはなく、整然としていた。正面に大きな机があり、そこがエクトル様の仕事スペースらしい。
「ミレイユも来たのか」
「はい。お邪魔だったでしょうか」
「いや、そんなことはない」
エクトル様はカルラにじとっとした目を向け、フンと鼻から息を吐き出した。
「カルラ、聞こえていたぞ。あんな顔、とはなんだ」
「あら。エクトル様の整ったお顔のことでございますよ。そんなことより、ミレイユ様が淹れて下さったお茶ですよ。ちょうどお茶の時間ですし、お仕事が大丈夫でしたら少し休憩なさってはいかがですか」
カルラは平然と小さなテーブルに茶菓子を並べると、エクトル様に向かってにっこりと微笑んだ。圧がすごい。
カルラはエクトル様が小さいころからこの家に仕えているそうだ。散々面倒を見てもらったエクトル様は、どうやら彼女に逆らえないらしい。
「さ、どうぞ、お二人で、ごゆっくり。何かありましたら呼んでくださいませ」
もういちどニッコリと微笑むと、カルラは執務室を出ていった。
エクトルはその後ろ姿を苦い顔で眺めている。そんな光景にわたしは思わずクスッと笑った。
「お茶が冷めてしまう前にいただきませんか」
「あぁ、そうしよう」
わたしはその日から、執務室に突撃するようになった。はじめは戸惑っていたエクトル様も、次第にそういうものだと思うようになったらしい。
カルラの後押しもあって、庭を散歩したり、室内でも共に読書をしてみたり、一緒に過ごす時間が増えた。必然的に会話も増えた。
ヤンと会話していたときのような胸の高鳴りはなかった。エクトル様はヤンのように話が上手でもなかったし、わたしが話しても、してほしい反応は返ってこなかった。ヤンとだったら笑い合えたのに、エクトル様とだと「そうか」で終わってしまう。
どうしてもヤンと比べてしまった。
ヤンだったらこういうときに声をかけてくれた。笑ってくれた。話してくれた。聞いてくれた。ヤンだったら……。
わたしがなるべく距離を縮めようと頑張れば頑張るだけ、勝手にエクトル様に不満を抱くようになった。ヤンだったらこうしてくれたはずなのに。どうしてヤンみたいに笑ってくれないの、どうしてヤンみたいに話してくれないの。
だけどそれは当然のことなのだ。エクトル様は、ヤンじゃない。
きっとわたしが意地を張っているだけ。
もう終わりにしなきゃいけないのに、なかなかできないわたしはきっと弱い。
ある日朝食を共にとっていると、小さなふた付きの容器を差し出された。
「領内で採れたイチゴで作られたジャムだ。嫌いじゃなければ食べてみるといい」
ふたを開けると、赤いジャムが入っていた。わたしはジャムを少しパンに塗って口に入れた。甘酸っぱい豊かな香りが口いっぱいに広がり、同時に少し前のことを思い出した。
イチゴが好きだったわたしは自分で育ててみたくなり、子爵家の庭の一角にヤンに手伝ってもらってイチゴを植えた。ヤンと一緒に育てたイチゴはたくさん実をつけたけれど、そのまま食べるには酸味が強かった。酸っぱい顔をしたヤンが面白くてわたしは笑った。結局ジャムにしてもらって食べたのだ。
『ジャムも美味しいけど、来年はもっと甘いイチゴを作ろう』
そう言って笑ったヤンの顔が浮かんだ。
その甘いイチゴは、結局一緒には作れなかった。
「どうした。口に合わなかったか?」
「いいえ。とても美味しいです」
「無理はしなくていい」
どうやらわたしは顔を歪めてしまっていたらしい。エクトル様はぶっきらぼうながら気遣ってくれるし、嫌なことを無理に勧めはしない。
「すみません、美味しいのは本当なんです。子爵家にいた時にイチゴを育ててジャムを作ったことがありまして、それを思い出していました」
「自分で育てたのか?」
「はい。庭師に手伝ってもらったのですけれど、酸っぱいイチゴしかできませんでした」
思い出して、顔が緩む。
「イチゴは好きなのか?」
『イチゴは好き?』
エクトル様の言葉がヤンの言葉と被る。当時わたしが頷くと、ヤンは「俺も」と言って笑った。
ヤンの柔和な笑顔が好きだった。
「領内に美味しいイチゴを作る農園がある。嫌でなければ収穫の時期に行ってみるか」
「いいのですか?」
「ああ。このイチゴジャムは他領にも売り出しているから、大規模な農園なんだ。イチゴが好きなら、きっと気に入る」
エクトル様がわたしを見た。無愛想で怖い顔だと思っていたけれど、わずかに口角が上がっていた。
あ、この人も、笑うんだ。
それに気がついたら、ヤンの顔とは被らなくなった。
「楽しみができましたわ」
わたしは微笑んだ。思ったよりも自然な笑みが出た。
季節が流れ暖かくなったころ、エクトル様は約束通りイチゴの農園に連れ出してくれた。大規模と言っていたのは本当で、一面イチゴ畑だった。
「私たちに気にせず収穫してくれ」
エクトル様が端に寄っていた数人に声をかけると、彼らは少し様子を窺いながら収穫仕事に戻った。オーナー家族の他にもここで働いている人は多いらしい。
「忙しい時期にお邪魔してしまいましたね。我儘を言ってしまったようで、すみません」
「いや、連れてきたのは私だ。今の時期のイチゴがやはり一番美味しい。君は私の妻なのだから、領内の事を知っておくべきだろう?」
エクトル様は言い訳のように、これも仕事の一環であるように言う。確実に厚意で連れてきてくれているのに。
エクトル様は人付き合いが得意ではないと自分で言っていた。もしかしたら、不器用なのかもしれない。
「そういう時は、『君に一番おいしいイチゴを食べさせたかったんだ』って言ってください?」
わたしがわざとおどけたように言うと、エクトル様は目を丸くした。
「な、るほど? 次はそうしよう」
彼は顎に手を当てた。どうしていいかわからないらしい。そんなところが少し可愛いかも、と思った。
「ふふっ、連れてきて下さってありがとうございます。摘んでいいですか?」
「あぁ」
まだ戸惑っている様子にわたしは頬を緩ませながら、イチゴを摘んだ。
「とても大きくて綺麗ですね」
「そうだろう」
どこか得意気だ。
彼は一つ摘んで、そのまま豪快に自分の口に入れた。摘んでおいて後から食べるものかと思っていたわたしは目を剥いた。
「味も良いぞ。今年はできがいい」
顎で「食べてみろ」と示される。子爵家にいたときにそれをやれば、お行儀が悪いと怒られただろう。だからやったのは、こっそりとヤンの前でだけだった。
わたしは大きなイチゴをカプリとかじった。口の中に甘酸っぱさが広がり、瑞々しい香りが鼻に抜ける。
「美味しい!」
「そうだろう?」
どこか嬉しそうにエクトル様はもう一つ摘んで口に入れた。わたしももう一つ食べた。
ヤンにも食べさせてあげたいと思ったわたしは、たぶんまだ彼のことを忘れられない。頭では分かっていても、無理なことはあるものだ。
だけどたしかに、エクトル様にも情を感じ始めていた。
「やっぱり今日来てよかった。『君に一番おいしいイチゴを食べさせたかったんだ』」
今度はわたしが目を丸くする番だった。
そんなわたしを見て、エクトル様はニヤッと笑った。
次期伯爵夫人の仕事は多岐にわたり、わたしはそれなりに忙しい日々を過ごしていた。覚えることもたくさんあって、わたしはまだまだ未熟だなと毎日思う。
それでもわたしが頑張るだけ、周りも手助けしてくれた。伯爵家にも馴染めるようになってきた。
教えてくれる義母からは相変わらず「子はまだか」という攻撃は受けるけれど、先日「あなたのような方が嫁にきてくれてよかった」と言ってくれた。思わず涙が出た。
月日は流れ、わたしは男女一人ずつ、子を産んだ。
貴族夫人としての義務を一つ果たせたようで、とてもホッとした。
この頃にはわたしはエクトル様に、たしかな情を感じていた。ヤンの時のように燃え上がる恋心はないけれど、彼を尊敬しているし、彼が夫でよかったと思う。子供たちと過ごす日々も幸せだ。
子爵家の母からの手紙で、ヤンが結婚したと知った。相手はわたしが嫁いでから子爵家の使用人になった平民で、しっかり者の気の良い娘だという。すでに子にも恵まれているそうだ。
それをわざわざ知らせてくれるあたり、さすが母である。やはり母には全て知られていたのだなと実感する。
幸せそうですよ、という母からの文面を見て、ぎゅっと胸が掴まれたような心地がした。この気持ちを表す言葉をわたしは知らない。切なくて苦しい。それなのにどうしようもなく嬉しくて、安堵して、涙が出た。彼が幸せでよかった。
わたしの選択はきっと間違っていなかったのだなと思えた。
ミレイユも幸せそうだと皆に伝えてもいいかしら、と書かれていたのを見て、わたしは泣きながら頷いた。すぐに返事を書かなければと思った。
ねぇ、ヤン。
わたしも今幸せだと言ったら、あなたは喜んでくれる?
伯爵家に嫁いで5年が過ぎた。
わたしは伯爵家で思ったよりも上手くやれている。エクトル様との仲も良好だとわたしは思っている。燃え上がるような感情はないけれど、家族としての情はある。政略結婚の夫婦としては上々ではないだろうか。
いつの間にか軽口や愚痴を言い合えるようになったし、仕事面においてもわたしは伯爵家の一員として認められるようになった。
そんなある日、貴族夫人たちが集まるお茶会に参加した時のこと。
「ミレイユ様はあまり夜会ではお見かけしませんけれど、参加しませんの?」
「王都にいる間はいくつか参加させていただいておりますけれど、夜会への出席は全て夫が決めておりますの。それから帰る時間も早いのかもしれません。わたくしお酒が弱いのです」
多くの貴族が王都に集う社交シーズンには至る所で夜会が開催され、参加して情報を得るのも貴族の仕事の一つである。
どの夜会に出席するかはエクトル様が決めていて、断っているものも多いらしい。たぶん人付き合いが苦手だという彼はあまり夜会が好きではないのだろう。参加する数はたしかに少なめだ。でもわたしも得意ではないのでちょうどいい。
こうして夫人方とお茶を飲みながら情報交換して、不足した分を得ればいい。
「まぁ。お酒は飲まなくてもかまいませんのよ? そうそう、次のオトテール家主催の夜会には王弟殿下がいらっしゃるのですって! ミレイユ様もご夫君に参加の相談してみてはどうかしら」
「えぇっ、あの王弟殿下が?」
反応したのは隣に座っているご夫人だ。
王弟殿下といえば、権力と身分があり、尚且つ端正な顔つきで色男だとご夫人方から大人気の方だ。たしか年齢は40を越えているはずだけれど、その人気は衰えない。
「ミレイユ様はお若くて綺麗でいらっしゃるから、もしかしたら見初められることもあるかもしれませんわよ?」
「わ、わたくしは、そんな……」
「あら、もしかしてミレイユ様はご夫君以外にまだそのようなことはございませんでしたの? ご嫡男もお生まれになったのですから、これからではありませんか」
そのようなこと、とは、要するに浮気や愛人関係になることだ。この国の貴族はほとんどが政略結婚のため、義務として子供を儲けたあとに自由に恋愛を楽しむ人も多い。
推奨されるわけではないが、義務を果たした後であればあまりとやかく言われない。むしろそういった相手がいることは、男女共にステータスにすらなる。
だからこういったお茶会の場では、誰が誰とお付き合いしている、といったことだけではなくて、誰とデートに行った、どこに行ってどうだったか、なんていう話が当たり前に飛び交う。もちろん結婚している、いい大人の話だ。
「ご夫君であるエクトル様だって目をかけている方がいらっしゃるのでしょう。ミレイユ様ばかり身持ちをかたくしている必要もないのではございませんか?」
「そうですよ。わたくしたちも楽しみましょう。王弟殿下でなくとも、素敵な方はいらっしゃいますわ」
「え?」
わたしは一瞬頭が白くなった。
エクトル様にも目をかけている人がいる、要するに、愛人と呼べる人がいるということ?
わたしの顔色を見たのか、それを言ったご夫人が「あらやだ」と口を押さえた。
わたしはハッとして顔を取り繕う。
「もしかして、ご存じありませんでした? わたくし失言してしまったかしら」
「いいえ、問題ありません。ただどういう噂になっているのかは存じませんの。ほら、そういった関係になるのは仕方がないにしても、悪評であっては困るでしょう? 教えてくださる?」
もちろん何も知らない。だけど正直にそう言ったら、彼女たちは何も教えてくれないだろう。当然知っているけれど、情報をすり合わせたいのだ、という言い方にしておく。
「あら、悪評ではありませんわよ。一途だと評判でしたわ」
彼女によれば、エクトル様のお相手は伯爵領に隣接している男爵家のご夫人で、学生時代からのつき合いらしい。彼女を巡って上位の令息と殴り合いになったことがあったこと。当時はエクトル様に婚約者がいたものの、彼女とのつき合いを優先させて婚約が解消になるにまで至ったこと。
お互いに子ができて貴族の責任の一つを果たしたので、また会うようになったのでは? という話だった。
「ミレイユ様、あくまでわたくしの聞いた噂ですよ。どこまでが本当かなんてわかりませんわ」
「えぇ、存じています。教えて下さって感謝しますわ。そうそう、夜会の件は聞いてみますね」
わたしは心がささくれ立つのを感じながらもあくまで笑顔で応え、話題を戻した。
お茶会を終えて王都のタウンハウスに戻ると、わたしは使用人を下げて自室に籠った。
エクトル様にわたしではない女性がいる。
その話が頭を巡る。
妻、という立場が危うくされるような状況でないならば、夫が別の女性とどのような関係になろうが悠然としているのが美徳であり、嫉妬したり夫を縛り付けるのは良くないとされている。
それに、愛人を持つことはごく一般的なことだ。お互い義務の一つは果たしたのだから、口出しすべきことでもないのかもしれない。
だけど、エクトル様とはいい関係を築けていると思っていた。わたしは彼を尊敬していたし、彼もわたしを信頼してくれていると思っていた。
考えてみれば、思い当たるところはあった。エクトル様の相手だという夫人がいる男爵領とは、最近取り引きが増えている。エクトル様がよく男爵領へ行っているのも、仕事だけが理由ではなかったのかもしれない。
どうしてこんなに苦しいのだろう。
いつの間にわたしはこんなに彼を想っていたのだろう。
政略結婚だった。望んだわけじゃないはずだった。
愛してみようと頑張った結果、苦しくなってしまった。そのときの最善を選んだつもりだったけれど、わたしは馬鹿なのかもしれない。最初から割り切った関係を築けばよかった。
自然と涙が零れた。一度出始めると止まらなかった。
ずっと最善を選んできた。それが正しいと思ってきた。でももうわからない。最善って何?
ご夫人たちが言っていたように、わたしも割り切って遊ぶのが最善?
何事もなかったように、今までの生活を送るのが最善?
わからない。
わからない中でもいくらか冷静に思ったのは、本人に直接聞かずに決めてはいけない、ということだ。だけど、直接聞ける勇気がまだない。
役目は果たしたのだから、うるさく言うな。そう突き放されるのが怖い。
わたしがタオルに顔を押し当てていると、ドアがノックされた。しばらく誰も入らないように言ったはずなのにと思いながら駄目だと返事をしようとすると、今一番聞きたくない声が聞こえた。
「ミレイユ、入るよ」
駄目です、と言う前にドアが開かれ、エクトル様が入ってきた。わたしの顔を見るなりぎょっとしている。
「ど、どうした。何があった?」
エクトル様はひどく慌てたように近付き、わたしを覗き込んだ。慌てて持っていたタオルで顔を隠す。
「怪我をしたか、それともどこか痛むのか?」
「いいえ。強いて言うなら、心に怪我をしました」
「心? 一体どうしたのだ。茶会で何か言われたか?」
わたしの身体には異常がなさそうだと判断すると、エクトル様はソファのわたしの隣に腰掛けた。宥めるように背を撫でる手が余計に涙を誘う。
わたしが何も言わずにいると、彼も何も言わずに背を撫で続けてくれた。顔には似合わず本当は優しいことを、わたしはもう知っている。だからこそ苦しい。
貴族の夫人としては、こんなことで動揺すべきではないと分かっている。だけどどうしようもない。彼が他の女性を想っていると考えると、黒い気持ちでいっぱいになるのだ。
ヤンの時には切なくても喜べたのに。
「落ち着いたか?」
落ち着いてはいないが、わたしはそのままの体勢で小さく頷く。
「使用人たちが心配して私を呼びに来た。言いたくないのならば無理にとは言わないが……何が君をそんなに悲しませた?」
「あなたですよ」
「私?」
わたしは目元をできるだけ隠したまま、彼を見上げた。普段は強面の彼の目尻が下がり、明らかに困惑しているのがわかる。
「すまないが、思い当たるところがない。いや、不満はいろいろあるだろうとは思っているが、その、泣かれるほどのことだとは思っていなかった。何がいけなかった?」
「……最近よくユメル男爵領へ行きますね」
「うん? あぁ、行っているが、それがどうかしたのか」
「男爵夫人とは旧知の仲だとか」
最初は分かっていなかった様子の彼だったが、思い当たるところがあったのか言葉を切った。そして大きく溜息を吐いた。気まずそうに目を彷徨わせ、どう説明したらいいものか、といった表情をする。
やっぱりそうだったんだ。わかっていたものの、落胆が激しい。
「いいのです、領にとって害とならない限り、わたくしが口を挟むことではないとはわかっております。このように取り乱すわたくしがいけないのです」
「待ちなさい。茶会で何を聞いたのか知らないが、誤解があるようだ。学生時代、私と彼女は、その、男女として親しい間柄だったのは事実だ。だけどそれはあくまで若い時の話で、もう終わっていることだ」
「終わっている? 続いているではなく?」
「違う。男爵領へ行くのはあくまで仕事だ。……男爵領の経営が傾いていたことは知っているだろう?」
その彼女が嫁いでいる男爵領は冷害が起こった年を境に傾き始め、事業の一つが失敗したことで一時危険な状況になっていた。その支援をしたのが伯爵領だった。その記録は見ているので、わたしも知っている。
「彼女を助けたいと思ったことは否定しない。彼女に対して学生時代のような想いはもうないが、それでも幸せでいてほしいとは思っている。だけど支援と取り引きを決めたのは、あくまで我が領にとって有益になるからだ」
伯爵領と男爵領は隣接しているため、男爵領が崩れれば伯爵領にも少なからず影響が出てしまう。それよりは男爵領を支援するほうが、伯爵領としても都合が良かった。その支援で始めた事業が軌道に乗ってきたため、最近エクトル様が男爵領を訪れる回数が増えたのだという。隣ですぐに行ける距離なので、間に人を立てたり手紙でやり取りするよりも自分で実際に現場を見るほうが早いそうだ。
「行けば当然もてなしは受けるが、二人で会うことはない。彼女は夫である男爵と上手くやっているようだし、せいぜい昔話に花を咲かせるくらいだ」
「そうなのですか?」
「信用できないならば、次回は一緒に行こうか。もしくは呼んでもいい。彼らも君に会いたいと言っていたよ」
そう言われてもまだ心の整理ができないわたしを見て、彼は顎に手を当てて、言うべきか迷うような姿勢を見せた。言いたくない、というようでもあった。
「私は、その、君が来てくれてよかったと思っているし、君以外に愛人を作ろうなどとは全く思っていない。むしろ、だな、君に男が寄ってこないように、夜会は必要最低限にしたし、参加する場合も目を離さずに短時間で帰るようにしていたのだが、気付かなかったか?」
「えっ?」
驚いて見上げると、彼は都合が悪いというように目を逸らした。
「私のようにそこそこの年齢の男より、若い君が狙われるのは当然だろう。軽蔑されるかもしれないが、あまり外には出したくないと思っていた」
「まぁ……」
「だから、だな。私は年甲斐もなく、その……ハァ、もういいだろう?」
ちょっと耳を赤くした彼は、ごまかすようにわたしを優しく抱きしめた。聞こえる鼓動が早い。
わたしはしばらく呆然としていた。何を言われたのかわからなくて、反芻した。そしてその意味を理解して、体温が上がるのを感じた。泣きはらした顔が、そうじゃない意味で赤くなっているかもしれない。絶対に顔を上げられない。
ようやく気持ちが落ち着いたわたしは、腕の中でまだ半分泣きながらクスッと笑った。
「駄目です、よくないです。最後まで言ってください」
「ミレイユ……」
「噂になるようなことをするのが悪いのです。わたくし、全然安心できませんわ」
勘弁してくれというような大きく長い溜息のあと、意を決したかのように耳元にそっと囁かれた言葉は、二人だけの秘密である。
そんなことがあってから、わたしたちの絆は深まった。
わたしはなんでも彼に思うがままに話すようになったし、彼のほうもどこか遠慮していた距離がなくなった。
男爵家との事業が軌道に乗ったことのお礼として、男爵夫妻はそろって伯爵領へやってきた。二人はとても仲が良いように見えた。彼らは学生時代から婚約していたらしい。
……うん?
「それって、エクトル様との時期と被っていません?」
男爵夫妻はエクトル様と同年代なので、わたしだけだいぶ年が下だ。何も臆さずにずけずけと聞くわたしに、少したじたじになっている。
「あ、あの時代は、いずれ決められた相手と結婚するのだから、学生のうちは自由に恋愛を楽しみましょう、という雰囲気だったのですよ。もちろん節度あるつき合いは求められましたけれど、婚約者がいながら別の人とっていうのは珍しくなかったのです」
実際に彼女の夫である男爵にも別の女性がいる時期があったし、当時のエクトル様の婚約者の女性も別の男性とお付き合いしていたらしい。なんだかすごい話だ。
「わたくしは男爵家の娘でしたから、身分的にもエクトル様とはつり合いがとれません。婚約もしていましたし、先がないことは分かっていたのです。でも」
そこで彼女は言葉を切って、男性二人を順にチラッと見て苦笑した。
「当時は本気だったのですよ」
ほんの少しだけ切なさを混ぜたような彼女の顔を見て、わたしはヤンを思い出した。同じだ。身分が違い実らないとわかっている、でも本気だった恋。
「あ、すみません、今は本当に! 誓って、何もありません。若い奥様に夢中だと聞いて、あのエクトル様がねぇ、と思いながらお会いできるのを楽しみにしていたのです」
彼女はニヤッと笑ってエクトル様を見た。彼は気まずそうにしている。
「そういえば、男爵夫人はエクトル様が怖くなかったのですか? 暴力的だという噂を聞いていたので、正直に言うとわたくしは嫁ぐ前は怖く思っていたのですよ。それにほら、この顔ですし」
わたしがそう言うと、彼女と男爵はそっと目を逸らして軽く吹き出した。男爵は咳をしてごまかしている。
「顔は、まぁ、どうしようもありませんけれど」
「どうしようもないとはなんだ!」
彼女が笑いながら言い、エクトル様がつっこむ。もちろん本気で怒っているわけではない。学生時代もこんな感じで仲がよかったのだろうな、と思った。その時を知らないことが残念で、羨ましい。だけど彼女に嫉妬の気持ちは湧いてこなかった。
「暴力的だという噂は、わたくしのせいなのです」
当時彼女はエクトル様よりも身分が上の男性から狙われていたそうだ。愛人にしてやるからありがたく思え、としつこく付きまとわれ、それを守ろうとしたエクトル様と殴り合いになったとのこと。
もっとも手を出してきたのは相手だったそうだが、身分が上だったためにその事実はもみ消され、いかにエクトル様が暴力を振るったか、という点だけが誇張されて広まったそうだ。
この国では身分は絶対であるので、応戦しただけであっても上の立場の者に手を上げたのに咎めがなかったことは、幸いであったといえるかもしれない。理不尽には感じるけれど、噂だけですんだと飲み込むしかない。
ちなみにその付きまとっていた彼は、素行の悪さが問題となって爵位継承から外されたらしい。今どうしているのかはわからないそうだ。
「わたくしを守ってくださったがために、そんな噂になり、エクトル様の婚約もなくなってしまい、当時は本当に辛かったです」
「いや、あの婚約者とはお互い本当に、本当に、合わなかったんだ。婚約解消になってひどく安堵したし、彼女だって喜んでいた」
本当に、を強調するエクトル様の口調から、それが事実であると伝わってくる。
「エクトル様ったら、いい歳になっても結婚なさらなかったでしょう? わたくしのせいで彼の人生を壊してしまったのではと、ずっと悩んでおりましたの。ですが……」
彼女はわたしとエクトル様を交互に見て、心からホッとしたように微笑んだ。
「こんなに素敵なご夫人を迎えられて、デレデレしているエクトル様を見られて、ようやく安心いたしました。むしろ実はわたくし、良い働きをしたのではとさえ」
「こら、やめなさい」
楽しそうにグッと拳を握った彼女を、夫である男爵が窘めている。わたしは思わず笑ってしまった。どうしてエクトル様が彼女を好きになったのか、わかる気がした。
わたしたちはいろんな話をして、また会う約束もした。笑顔で彼女を見送ったエクトル様の横顔をチラリと見た。優しい顔をしている。
「あの二人も最初から仲の良い夫婦ってわけじゃなかったんだ」
「そうなのですか?」
「彼女は学生時代、よく愚痴を言っていたよ。決められた婚約者だから仕方がないけれど、本当は嫁ぎたくないのだと。その後もいろいろあったんだろうけれど、今は落ち着いたそうだ。幸せそうでよかった」
わたしがヤンの幸せを願っているように、エクトル様も、そして彼女も、お互いの幸せを願っているのだろう。その気持ちが痛いほどによくわかった。
「エクトル様、わたくしにも好きだった人がいるのですよ」
「は?」
「だからお気持ちはよくわかりましたし、もう疑いません。怒らないなら、いつかお話しますね」
「今話しなさい。ここで、今!」
「今は言いません。怒っていらっしゃいますもの」
「怒ってない!」
それからしばらくして、わたしはヤンとのこともエクトル様に話した。話を聞いたエクトル様は「初恋とは実らないものだな」と切なげに笑った。
わたしは彼に話したことで、ヤンとの日々を完全に思い出にできた気がした。
「エクトル様、見て下さい。花が咲きましたよ」
今年は伯爵家の庭にイチゴを植え、エクトル様や子供たちと一緒に育てている。
「早いな、咲いたのか」
「農園のイチゴみたいな、大きくて甘い実ができるでしょうか?」
「それは無理だろう」
「わからないではありませんか。でももし酸っぱくても、ジャムにすればいいですわ」
わたしの母は、人生は思うようにならないことばかり、と言った。選べることなどほとんどないのだ、と。
たしかにその通りだ。選べないことはたくさんあった。嫌なのに仕方がないことも、諦めなければいけないことも、たくさんあった。そしておそらくこれからも、たくさんあるだろう。
大きな幸せは手に入らないかもしれない。諦めなければいけないかもしれない。だけど小さな幸せなら、その先にだってあるかもしれない。
だからわたしは今日も、最善を考えて選ぶ。
「可愛い花ですね」
イチゴの花壇を横に見ると、一つではなく、いくつもの花が咲いていた。
「たくさん実がなりそうだな」
「楽しみですね」
わたしが微笑むと、彼も柔らかく笑った。
小さな幸せは、今、たくさん咲いている。