零日目
0
死にたいのなら勝手に死ね。
誰もそれを止めやしない。
1
深夜十一時というすっかり街も寝静まった時間帯。
「─────死にたい」
南凪七海は絞り出すような声で静かにそう呟いた。
靄のかかったぼんやりとした三日月が、少し隙間の空いた闇と同系色のカーテンからベッドの下半分に青白い光を落としている。
それはまるでスポットライトのようで、天からの光のようで、妙な神々しささえ感じるような光だった。
「─────あぁ。死にたい」
布団の中でうずくまりながら再度呟く。
声にならないほどの小さな呟きは薄暗がりの部屋によく谺響したあと、夜の静けさに溶けて消えていった。
頭の中ではぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐると、死というものについての考えが廻っている。
えもいわれぬ不安感と恐怖感に襲われ、眼前の闇ですら怖く感じる。
────外に出よう。
そう思い立った。
こんな時は外の空気を吸って、気持ちを落ち着かせよう。
ベッドの上で上半身だけ起こし、足をスライドさせて床に素足をつけ、そのまま布団から出て立ち上がる。
ギシッ…。
床が私という人間の重みで音を立てながら少し撓んだ。
夜の刺すほどに冷たい凛とした空気は、体温をみるみる奪っていく。
身震い。
ペタッ。ペタッ。
未だ汗ばんでいる少し湿った足が、まるで床に吸い付くような感覚を味わいながら玄関に向かう。
サンダルを履く。
ガチャッ。
ドアを開ける。途端。
ヒュウ。
冷気が体を吹き抜ける。
うなじの辺りがしんと軋むような感覚に襲われる。
再度、身震い。
ドアの先は、異世界とでも形容した方が正しいと思えるほどに現実離れした空間が広がっていた。
さっきカーテンの隙間から少しだけ見えていた月にかかった靄はすっかり晴れ。べったりと水分量の足りない黒い絵の具を塗ったかのような、真っ黒で真っ暗な空にポッカリと浮かんでいる。
まるで宝石のような星が空一面に瞬く。
電柱についている小さな電灯の光が、月に対抗するように淡い光を地面に投げかける。実際は勝負にもなってないわけだが。
あたり一面に広がる夜の世界はまるで時が止まったかのような、私以外の人間が全員消えてしまったかのような静寂に包まれている。
パジャマが擦れる音すら煩わしく感じる。
自分の息をする音すらうるさく感じる。
静謐が全てを支配している。
静寂が空気一杯に満ち満ちている。
夜。
あぁ夜。
なんという真夜中。
黒くて暗くて薄気味悪くて。
物凄く、心地よい。
ここはなんて静かなんだ。
ここはなんて平和なんだ
ここはなんて安息の地なんだ。
「──────あぁやっぱり、死にたい」
もう一回静かに呟く。
汗で湿っていたはずの体は、寒空の下寒風に当てられてとっくに乾ききっていた。
自殺するならそれなりに準備が必要だ。
自殺するまでの準備期間はどれぐらい取ろう。
乾いた体に冷たい頭でこんなことを考える。
そうだ、一週間ぐらいにしよう。
かちっ。かちっ。かちっ。かちっ。
なんだか自然と、笑みがこぼれた。
2
なぜ南凪七海という人間が自殺を決断したのか。という話をしよう。
それは高校二年生という心身共に不安定になる時期だからというちんけな理由、ましてや鬱病だからという病院に行けば解決するような小さな理由ではない。
一言で言うのならいじめ。
笑いたければ笑うがいい。
人によっては鬱病よりもちっぽけで矮小な理由だと笑うことだろう。
なに大仰なことを言いそうな雰囲気でつまらないことを言ってるんだかとこの本を閉じるかもしれない。
それでもこの話を聞いてくれるという人のために。
私は話を続けよう。
私は生まれつき、白い髪と目を持っていた。
別にアルビノというわけではない。ただ、外国人の母を持った影響でこうなった。こうなったしまった。
おまけに外国人の血が入っていたからか身長も高く、高校に上がるときにはすでに170センチメートルはあった。
これによるいじめ。
人と姿があまりにもかけ離れていることによって発生したいじめ。
人は特異を拒絶する。
人は異常を嫌悪する。
人は異端を排除する。
「お前、はっしゃくさまみたいだな!」
純白で純粋無垢な小学生ゆえの何気ない言葉。
「気持ちわる。近寄らないで」
心が汚くなった中学生だからこその敵意ある言葉。
「何であんたなんかが髪、染めてるの?」
精神まで黒く染まった高校生の悪意にまみれた言葉。
典型的ないじめ。
私が身長のわりに気が弱く、人にあまり強く言えないという性格をいいことにいじめはどんどんエスカレートしていった。
陰口。
悪口。
仲間外れ。
空気として扱われる。
机の落書き。
ノートと教科書はぐちゃぐちゃ。
上履きに画鋲。
椅子に画鋲。
殴る蹴るの暴行。
席がない。
先生に言えば殺される。
個室トイレでは上から水をかけられ。
廊下を歩けば足をかけられ。
本を読めばその本はズタボロ。
掃除用ロッカーに幽閉。
机の上には花瓶と遺影。
それらをやられた私は思わず─────とここまで思い出したところで口を抑える。
吐き気。
全身の肌が粟立ち、身体の中を鑢で削られているかのような不快感。五臓六腑がひっくり返ったような、喉元まで何かが込み上げてくる感じ。
胃酸が逆流してくる。
唾が大量に排出される。
どうやら過去のトラウマが想起されたことで私の中で拒否反応が出てしまったらしい。
落ち着け。
大丈夫。
落ち着け南凪七海。
ここは学校じゃない。
大丈夫。
大丈夫だから。
冷たい空気を二、三回吸う。
深呼吸。
息をする。
肺の空気を入れ替える。
肺に夜を名一杯取り込む。
血液は体を駆け巡り、視界は晴れる。
思考がクリアになってくる。
頭は冴え渡り、脳は私を正常な状態に戻そうと躍起になる。
「ふぅっ………」
落ち着いてきた。
やっぱり夜というものはいい。
少し、歩いてみる。
ザッザッザッ。
サンダルの底がアスファルトに擦れる音が妙に虚空に反響する。
しかし一秒と足らずに音は夜の闇に吸収されてしまった。
昼とは打って変わって真っ暗な影だけで構成された街路樹。
電気がすっかり消えた、眠りについている民家。
深夜の街は早朝とは似ても似つかない、昼なんかとは真逆な、それでいて夜とは少し違う光景が広がっている。
また身震い。
────そろそろ戻ろう。三度アスファルトの擦れる音を響かせながら家に帰る。
ガチャッ。
サンダルを脱ぐ。
ギシッ。ギシッ。
吸い付くことのない乾いた足で床を歩くと、掛け布団とベッドの間に体を滑り込ませ、そのままゆっくりと目を閉じる。
頭の中には再度死のことについて。
いつか読んだ小説にこんな言葉があった。
「死は最大の救済である」
いつか読んだ小説のこんな言葉があった。
「死は最低の逃げである」
どちらが正しいのかなんて、どちらが間違っているのかなんて僕には分からなかった。
分かるはずもなかった。
分かりたくも、なかった。
かちっ。かちっ。かちっ。かちっ。
秒針が、回る。
時針が、廻る。
時刻はちょうど十二時。
自殺までの準備期間がスタートする。
自殺まで、あと七日。