1 小ニール湖
「ここって……。本当に湖なの? 海じゃなくて?」
「今でこそ小ニール湖と呼ばれて湖の扱いになってるけど、時代によっては海として扱われていたこともあったみたいよ」
最も広いところで東西二百キロ、南北八十キロほど。
焼くのに失敗して皮が破れた餃子を少し傾けたような形。
ベレッチさんにもらった資料を読んで、湖の広さを想像してたけど……。想像してたよりずっと大きな湖みたいだ。
田舎のおじいちゃんの家から瀬戸内海が見えたけど、目の前の湖の方が確実に広いと思う。
「それで、その……。この水が全部、毒の水なの?」
「そうよ。愚かな魔王の行いで、古龍の身体がドラゴンゾンビになったのが今から三千年ほど前。その時からドラゴンゾンビの影響で水が腐り始めて、今となっては生き物が暮らせない死の湖になってしまった……」
遠く遠く、水平線の彼方まで、暗く濁った紫色の液体が視界を覆い尽くす。
風に煽られて波が岸に押し寄せるが、湖岸には一本の草すら生えてない。
「周りに木が生えてないのも、ドラゴンゾンビの影響かな?」
「おそらくそうでしょうね。昔は湖の近くまで森が広がっていて、大勢の人が住んでいたそうだから」
ロック鳥の姿になったトパーズに乗って、朝早くに屋敷を出発して、西へ西へと空を移動。
国境を越えて旧バラヌール王国と呼ばれる地方に入ったあたりには普通の森が広がっていたが、西に進むにつれて森の木が減り、ポツポツと木が生えているサバンナのような平原になり、目的地である小ニール湖の付近では植物らしい植物が見当たらなくなった。
「あそこの島に見える建物は古い教会かしら?」
「お師匠様。左前方に廃墟となった街が見えます」
ユーニスやアラベスもこの辺りに来るのは初めてみたいで、興味深そうに景色を眺めている。
腐った地面。鳥が飛ばない空。
通るものが居ない街道。崩れ落ちた壁。
トパーズにお願いして湖の岸に沿って飛んでもらってるけど、生き物の気配がまったく感じられない。
「古龍のドラゴンゾンビってすごく大きそうだし、湖に行けばすぐに見つかると思ってたんだけど……。ごめんなさい。考えが甘かったみたいです」
「気にすることはないのよ。自分の目で確かめないと、わからないこともあるでしょうし、これから作戦を考えましょう」
僕たちと違ってマーガレットは、この状況を知ってたみたいだ。
……妖魔の森もすごい雰囲気だったけど、あっちはまだ草や木が生えてて生き物が住んでたし、こっちの方がひどい環境だな。
「そうですね。これは、しっかり対策を考えないと……」
何か作戦を立てて、作戦がうまくいってドラゴンゾンビを倒せたとして、それでも湖の毒は残る訳で。
ここまでひどい環境になるのに三千年かかったとして、環境が元通りになるのにも同じぐらいかかる? いや、放っておけば元通りになるとは限らないか。
ドラゴンゾンビの影響で環境が変わったのなら、環境を元に戻す存在が必要なのでは……?
「トパーズ。あの、大きな川に沿って上流に向かって、水が綺麗なところを探して降りてもらえる?」
「ピーゥ! ピーゥピーゥ!」
湖の状況を目にして思わず途方に暮れてたけど、ゆっくり飛んでもらっている間に考えがまとまってきた。
ベレッチさんの依頼はドラゴンゾンビの討伐だったけどその前に、小ニール湖と周辺の環境を改善した方が良いだろう。
一体のドラゴンゾンビが三千年かけて湖の水を毒にしたのなら、解毒が得意なドラゴンを三千体作れば一年で水が綺麗になるのでは?
水を腐らせるペースより浄化するペースが速ければ、ドラゴンを三千体も作らなくて済むはず……。何とかならないかな? 考えが単純すぎるか?
「良い作戦を思いついたのかしら? ソウタ君」
「うまくいくかどうかわからないけど、ちょっと実験してみます」
こんな状況でもマーガレットはいつものように微笑んでいる。
……うん。ちょっとがんばってみよう。
☆
小ニール湖の北岸に流れ込む川を一キロほど上流へ遡って、ようやく川の水が綺麗になった。
トパーズに着陸してもらって、作業に良さそうな場所を探す。
ゆったりと流れ続ける大きな川。
大きな岩がゴロゴロ転がってる川岸。
水と一緒に流れてくる風が優しく頬を撫でる。
たぶん風向きの影響だと思うけど、この辺りの空気は湖の毒に汚染されてないみたいだ。川の流れに沿って、針葉樹らしい木がまばらに生えている。
「ルビィはここで日向ぼっこしててもらえる?」
「ふみゃあ〜」
抱っこしていたルビィを大きな石に乗せて、僕も近くの石に腰を下ろした。
肩に掛けていたリュックから白い粘土を出して、作業を開始する。
ここに着く前に、みんなにはこれからやることを説明してある。
一ヶ月ほど前。石像使いのおじいちゃんと久しぶりに会って、魔水晶をコアにすることで仮初めの石像の寿命を延ばす方法を教えてもらった。
屋敷に帰って実験したから、僕にもこの方法が使えるのはわかってる。
あとは規模の問題だけど……。ここなら実験が失敗しても、誰かに迷惑をかけることはないだろう。
「みんなはここで待っててください。たぶん、うまくいくと思うけど……」
「もちろん、ソウタ君ならうまくいくわよ」
ちぎり取った粘土を手の平で転がして丸くして、サイズを調整して古龍の龍玉と良く似た魔水晶に変化させる。
これまでに何回もやったことがある、慣れた作業だ。
できたばかりの魔水晶を持って川へと近づき、そっと水に沈めた。
「ウォータードラゴン一号! 湖の浄化を頼むよ」
魔水晶に魔力を籠めてあるから呪文を唱える必要もなく、きっかけを与えてやるだけでゴーレムが動き出した。
たゆたゆと流れていた水面が緩やかに盛り上がり、立派な角が、迫力のある顔が、透明な鱗が、太くて長い身体が現れる。
今回は巨大な蛇に手と足が生えたような、いわゆる東洋の竜らしいシルエットをイメージして、水を素材とした仮初めの石像を作ってみた。
「おっ、お師匠様……。このドラゴンはどれほど大きいのですか?」
横で驚いているアラベスから質問されたけど、なんとなくの感覚で決めたから具体的なサイズは僕にもよくわからない。
……どれぐらいの大きさになったんだろう?
『鼻の先から尻尾の先端までで、五百メートルほどになります』
どう答えようか悩んでたら、リンドウが助け船を出してくれた。
「尻尾の先端までで、五百メートルぐらいだって」
「五百メートル、ですか……。こんなに大きいドラゴンをあっさり産み出すだなんて、さすがお師匠様ですね」
「ソウタ君がすごいのは前から知ってたけど、これは……。古い言い回しに『古龍のように立派な』って表現があるけど、あれはきっとあなたのために用意された言葉だったのね」
「氷龍山脈で会った古龍に比べたら、ずっと小さいですよ?」
アラベスだけじゃなくてユーニスも、かなりびっくりしたみたいだ。
……この二人は留守番してたから、古龍を見てないんだっけ。
「クスッ……。ユーニスが言ったのはそういう意味じゃないわよ。でも、本物の古龍を見たことがない人なら、これが古龍だって言えば信じてくれそうなほど立派な竜ね」
僕たちの会話が途切れたタイミングで、ウォータードラゴン一号はこちらに向けて小さなお辞儀をして、湖に向けて川を下っていった。
「トパーズ! 一号を空から追いかけてもらえる?」
「ピーゥ! ピーゥピーゥ!」
大鷲の姿に戻って上空を飛んでいたトパーズが、ゆっくり向きを変えて湖の方へと向かう。
「ねぇ、ソウタ君。私も様子を見に行って良いかしら?」
「どうぞどうぞ。僕からもお願いします」
「ユーニス、アラベス、マイヤー。しばらくソウタ君を任せるから、何があってもお守りするように」
「はっ!」
「それじゃあ、ちょっと行ってくるわね」
軽い感じで手を振るマーガレットの背中に、竜の翼が現れる。
そのままマーガレットは湖に向けて勢いよく飛んで行った。