閑話休題 黒いスーツの男
「チャーハン唐揚げセット、チャーシュー大盛りお待ち!」
「ありがとう」
すっと上半身を引いて場所を空けると、頭にタオルを巻いた店員が料理の載ったお盆を私の前に置いた。
頬を撫でる湯気。
豚骨ラーメン独特の臭いが鼻の奥をくすぐる。
「いただきます」
食事の前に両手を合わせて挨拶するのが、ここでのマナー。
料理が運ばれてくるまで、さりげなく周りの客を観察していたが、作法は大きく変わってないようだ。
箸立てから竹製の割り箸をとって、二つに割る。
クリームシチューのようにドロドロしたスープ。
「うん……。美味い」
スープに箸を入れて縮れた麺をすくい、そっと口へと運んだ瞬間、官能とも恍惚とも言えるような不思議な感覚に全身が包まれた。
大陸の東にある小さな国。
今から六百年ほど前、この国に一人の異世界人が現れた。
剣の扱いがうまい訳でもなく、魔法が得意な訳でもない。
見た目はごく普通の男性だったが、その異世界人はラーメンに対する異常なまでの愛情に満ちていた。
醤油ラーメン、豚骨ラーメン、味噌ラーメン、塩ラーメン。
周囲の人間を巻き込んで、彼は様々な難題を克服して素材を集め、自分が食べたかったラーメンを完成させた。
異世界人の追求はラーメンだけにとどまらず、様々なトッピングや付け合わせの料理。果てはビールの温度にまで及んだらしい。
結果として、何も無かった小国が、ラーメンが食べられる国として知られることになった。
「替え玉、お願いします」
「固さは?」
「普通で」
ある程度、麺が減ったところで麺のおかわりを注文する。
替え玉を待っている間にカウンターの隅に置いてあった小さなツボから、ピリ辛の漬け物をラーメンに入れた。
味変と呼ばれるテクニックだ。
薄く切られたハムのような豚肉も美味い。
パラパラの炒飯も美味い。肉汁たっぷりな唐揚げも美味い。
……前に私が来たときから店主が代替わりしたようだが、料理のレベルは落ちてないな。
噴き出る汗をハンカチで拭いながら勢いよく箸を動かし続け、気が付いたときにはもう、スープの最後の一滴まで味わい尽くしていた。
「ごちそうさま」
「ありがとうございました〜」
代金を払って店を出ると、涼しい風が火照った頬を撫でた。
……さて、これからどうしたものか。
異世界人の作った店を中心に、いくつものラーメン屋が並ぶラーメン通り。
他の店を回って目新しいラーメンを探すべきか?
しかし、本家本元の味を超える店があるだろうか?
今食べた豚骨ラーメンは美味かった。
他の国では食べられないという点も、評価が高くなるポイントだ。
しかし……。私の仕事は主を喜ばせること。
ラーメンについては、この通りを前に訪れたときに報告済みだ。
料理に限った話ではない。人でも物でも魔獣でもかまわない。
想像できないほど、永い時を生きてきた主。
年単位で眠り続け、起きたときに話を聞きたがる主。
そんな主を喜ばせるために、楽しませるために、私は産まれてきた。
……やはり、この程度では駄目だな。
もっと新しいネタを探した方が良さそうだ。
冬になって通れなくなる前に、北の国に行くべきか?
たしか、この近くで古い遺跡が見つかったという情報もあったな。
あまり期待はできないが、遺跡を見に行くという手も——
『ベレッチよ……』
突然、頭の奥に声が届いた。
落ち着いた雰囲気の声。歴史の重みを感じさせる声。
……マスター! お目覚めになったのですね。
『これからお前を転送する。私の代わりに、成り行きを見届けよ……』
いくつもの疑問が脳裏をよぎるが、主から直接指令が出た以上、疑問を挟む余地はない。主の指令に応えることが全てに優先される。
……了解しました。
心の声で返事をした瞬間、身体が白い光に包まれた。
☆
「ここは……。妖魔の森の上空だな」
空を覆う厚い雲。錆びた鉄色の大地。紫色の葉が印象的な木々。
森の様子と遠くに見える氷龍山脈から、今居る場所がわかった。
ほんの数秒前まで東の果てに居たはずだが、ここは大陸の中央だ。
さすが、我が主。これほどの距離を意思の力だけで——
……いや、待てよ。
主を驚かせることが私の仕事であり、存在する理由なのに、逆に主に驚かされるようでは召使い失格ではないか?
「……なるほど。あの戦いを観察させるために、私を転移したのですね」
悩みに沈むよりも早く、異様な戦闘が目に飛び込んできた。
巨大なサラマンダーは知っている。
森を変異させる原因となった、暴走精霊だ。
十本の腕にそれぞれ武器を持つ、巨人族の姫にも見覚えがある。
四百年ほど前。この場所で、同じようにサラマンダーと戦う光景を見た。
厳密に言うと、あの戦いを仕組んだのは私だったが……。私の報告を主は大いに楽しんでくれた。
……まさか、地下に潜んでいた火トカゲを主が呼び寄せたのか?
いや、そんなことは無いはずだ。
目が覚めて暇だったのなら、最初に私が呼び出されるはず。
おそらく、この事態は主にとっても想定外なのだろう。
「私を寄越した理由は……。あの、鉄の巨人は何だ?」
巨大なアイアンゴーレムが、サラマンダーをメイスで攻撃していた。
身長は十五メートルほどだろうか?
アイアンゴーレムと言うには大きすぎるサイズ。
炎の蛇に狙われて苦戦しているようだが、あの攻撃で身体が溶けていないところを見ると、サイズの他にも隠された秘密があるようだ。
「忘れ去られていた冬の城を復活させたように、魔族帝国時代のゴーレムを英雄が蘇らせたのか? それなら、考えられないことも——」
『注目すべき場所は、そこではない……』
……マスター⁉
『西の空に居る少年……。彼の者について、情報を集めるのだ……』
……西の空……。あれでしょうか?
急いで意識を走らせて、空に浮いている二つの人影を発見した。
メイド服を着た悪魔族の女性。
背中に竜の翼を生やした銀色の全身鎧。
あの全身鎧に、少年が入っているのか。
今の時代に堂々と竜の翼を使う者は珍しいが、その程度で主が気にするとは思えない。他にも何か秘密が——
「……あれは、召喚魔法か?」
そこから、怒濤の展開が続いた。
白い豹と大鷲が召喚される。
大鷲がロック鳥に変身して、豹を乗せて飛んでいく。
全身鎧と同じぐらいのサイズのアイスゴーレムが現れたかと思うと、空を飛びながら巨人サイズに変化する。
降り始めた雨。凍り付くサラマンダー。
最初から居た鉄の巨人まで、いつの間にか氷の身体に変わっている。
サラマンダーと巨人たちの戦いも目を引くが、真に恐ろしいのは……。
主から関心を向けられた少年。
銀色の全身鎧が、どこからともなく巨大な魔水晶を取り出した。
……あのサイズで魔力に満ちた魔水晶など、残ってないはずでは?
魔族大戦の終結後、荒れ果てた大地を女神が癒やした。
その反動で、大陸に満ちていた魔力の半分が失われることになった。
魔力濃度が下がったことで、古い時代に作られた魔術具が使えなくなり、人々の暮らしも大きく変わった。
これは、歴史の全てを眺めていた主から聞いた話だ。
間違っているはずもない。
それなのに、あのサイズの魔水晶を持っていると言うことは……。全身鎧に入っているのは主が探していた人物。本物の錬金術師か?
☆
銀色の全身鎧に注目している間に、争いが終わっていた。
最後は伝説の英雄が、巨人族に伝わる秘技を使ったようだ。
四百年前に失敗した技を、今回はしっかり成功させたのか。
……成功したとしても失敗したとしても、主さえ楽しんでくれるのならどちらでも良いのだが。
鎧がどこかに消え、普通の人間にしか見えない少年が現れた。
竜の翼で空を飛んでいる時点で、普通の少年ではないはずだが……。
伝説の英雄の仲間なのか? 膝を突いて動けなくなっている英雄の元へ、少年と悪魔族のメイドが飛んでいく。
……英雄にはまだ、貸しが一つ残っている。そこから攻めれば、あの少年に関する情報を集めるのは難しくないだろう。
きっと、主も喜んでくれるはず——
「っ⁉ 何だ、この力は? あれは……。あれは何だ?」
突然、強大な力が現れた。
見た目には普通の人間のように見える、二人の女性。
そのどちらもが、暴走した精霊を優に超える力を内包している。
「この感覚は精霊力? まさか、大精霊が姿を現したのか?」
大精霊は精霊を統べる存在。
話に聞いたことはあるが、実際に見るのは初めてだ。
我が主だけでなく、大精霊もあの少年に注目しているのだろうか?
英雄と少年に声をかけているようだが……。
「……今度は天使族か。それも、天使の姿のままだと?」
良く晴れた空から、天使族の男が降りてきた。
一般には女神が大地を去ったとき、女神と一緒に天使族も天に昇ったと言われている。
その話は嘘ではないが、大地に暮らす者を調査するために、人間や魔族に姿を変えて、今でも普通に生活している天使族が居ることを私は知っていた。
「天使族の姿で、姿を隠す魔法も使わずに降りてきた……。つまり、単なる情報収集ではなく、何らかの交渉のために訪れたと言うことか」
予想したとおり、天使族の男が悪魔族のメイドに声をかけて、英雄たちと話を始めた。
「そう言えば、伝説の英雄には女神の加護があるという噂があったな。あの話が本当で、女神が天使を寄越した可能性も——んっ? この光は……?」
遠視の魔法で見ている先で、天使族の男がさっと右手を挙げた。
空の彼方から美しく清浄な光が降り注ぐ。
「これは、まさか……。女神降臨‼」
光と共に現れた一人の女性。
直視するのが苦しい。
心の奥底から湧き出る畏敬の念。
同じ空間に居るだけで、格の違いを感じてしまう。
見るのは初めてだが、あそこに居るのは女神で間違いない。
……今日は何という日だ。
のんびりラーメンを味わっていたのが、遙か昔の出来事のように感じる。
歴史の中だけの存在。私ですら知識として知ってるだけだった存在が、この地に次々と現れるとは。
主が私を寄越した理由がよくわかる。
それだけ、あの少年には特別なものがあるのだろう。
どんな手段を使ってでも、詳しく調べなければ……。