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汽車は南西へと走り続け、イリアと隣国との国境にどんどん近づいていく。先ほどから、窓の外には芥子菜畑が延々と続いていた。菜の花に似た小花を星の数ほど咲かせている。まるで、黄色と緑の模様を織り込んだ絨毯の上を走っているかに見えた。
リュイの対面、進行方向に向かって座るティセは窓を少しだけ開け、昼前の明るい陽光を受けて輝く車窓の風景をひたすらに見つめている。ほの暖かな風が吹き込んで、その栗色の髪を自由にそよがせていた。
普段は前髪に隠れ気味のこめかみと、その生え際の短く細い毛が、やたら繊細なもののようにリュイの目には映っていた。そっと眺め見ているうちに、窓の外を向くために傾けられた首が、意外なまでに細いことに急に気づきはっとした。首もこめかみも生え際も、手加減せず手荒に触れたとしたら、か細い声を上げて敢えなく壊れてしまいそうに思えた。
誰よりも快活で雄々しいティセが、じつはこれほどあえかな部分を持っている…………にわかにそれを知り、ひどく不思議な気持ちになっていた。ティセは、本当に強烈な生きものだ――――……しみじみとリュイは思う。
静かに溜め息をついてから、同じように窓の外へ目を遣った。
雨上がりの小川の流れよりも速く、芥子菜の絨毯は後方へと過ぎ去っていく。こうしてただ眺めていれば、汽車は自分とティセを瞬く間に遠くへと運んでいく、なにが待ち受けているか分からない見知らぬ場所へ――――……そんなことを思いながら、漫然と景色を見送っていると、ティセの母親にしたある約束が胸裏に浮上した。
ティセの勤務中、裏庭の井戸辺に座り込み、リュイはひとり読書をしていた。すると、勝手口からティセの母親が音もなく現れた。暫し戸口に佇んで、自分を見つめていた。なにか話したげな立ち姿を目の端に留めて、靄そっくりの憂鬱が胸のなかに立ち込めていくように感じていた。
やがて母親は改まったような声音で言った。
「読書の邪魔をしてごめんなさいね。少し話をしてもいいかしら?」
リュイはどきりとして、ひと呼吸置いてから本を閉じた。そして、すっと立ち上がった。
「はい」
ふたりは立ったまま話をした。母親は口元は微笑んでいたが、目はまるで笑っていなかった。
「ティセはあなたが来たら一緒に行くと前から言っていたから、覚悟はできていたの。だから、あなたを恨むような気持ちは少しもないから、安心してね」
「…………」
少しだけ遠い目になって、母親は続けた。
「ティセが家出してあなたに付いて行ったとき…………それはあの娘の願いだってことは頭では充分分かっていたんだけど……心ではまた別でね…………。正直に言えば、見たこともないあなたをとても憎んだわ。世間知らずのあの娘を言いくるめたに違いないって……頭では分かっていても、ついそんなふうに考えてしまってね……」
母親の身につけている臙脂色の巻き裳を見据えて、黙って聞いていた。
「けどね……帰ってきたティセは別人のように変わっていてね。どう手を付けたらいいかまったく分からないくらい自分に閉じ籠もって荒れてたあの娘が、すっかり明るくなって、信じられないほど大人になってて……本当に驚いたわ。で、あの娘は言うのよ、全部リュイのおかげだって……」
「…………」
「旅でのできごとをたくさん聞いて、私は考えを改めたわ。実際あなたに会ってみて、あの娘をだまして連れて行ったなんて、ひどい思い違いだったとよく分かったわ」
母親はいったん話を切り、さらに改まるように姿勢を正した。両手を胸の前でやわらかく握り合わせ、
「ティセが信じているあなたを、私も信じます。どうか、ティセをよろしくお願いします」
リュイの目を見据えて告げた。それから、ふっと視線を逸らして、言いにくいことを口にするときのように眉を寄せ、
「どうか……怪我のないように……見守っていてください」
リュイははっとした。にわかに思い出す。フェネを追っていた男に撃たれた、おそらくは一生消えない二の腕の傷痕を、母親は知っているのだ。当時のリュイをひどく落胆させたあの傷痕を……。
リュイは暫しうつむいていた。やがて、ゆっくりと目を上げて、
「必ず無事にここへ送り届けると、約束します」
ことのほか静かに告げた。意志というよりは、覚悟の表明だった。
きらきらと明るい車窓の風景をぼんやり眺めつつ、ひどく重い、息苦しくなるほど圧力をともなうその約束を思い出していた。
風と日差しが急激に初夏の気配を漂わせ始めた。国境をふたつ越え、汽車は当座の終着駅に辿り着いた。シュウの隣国のひとつ、ハルカンドの西部に位置する町だ。乗車したばかりのころはイリア人ばかりであった乗客が、降りるころにはティセ以外はひとりもいなくなっていた。
ふたりは荷物を背負って、十数日間を過ごした汽車から駅へ降り立った。ティセはハルカンドの空に輝く太陽に向かって、伸び上がるような大きな伸びをして、
「ううぅぅぅん! はー、やっと着いたね、リュイ」
「さすがに座り疲れた……」
「でも、これからは歩き疲れるほど歩くんだ」
目を合わせて苦笑しあう。
停車場も駅舎内も拍子抜けするほど閑散としていた。当座の終着駅とはいえ、ひとつ手前の地方都市の駅を利用するひとびとのほうが多いのだ。手前の駅には過剰なくらい売り子がいたが、ここにはやる気のなさそうな売り子が数人、日陰に座り込んでいるだけだった。代わりに、放し飼いの山羊の親子たちが幾頭もいて、停車場や線路上を我がもの顔でうろついている。
「ねえリュイ、このまま線路のどんづまりまで行ってみない? 見てみたい!」
工事の進まない線路の先がどうなっているのか…………自分ひとりなら決してしない、どころか思いも気づきもしないことに興味を見出して、それが当たりまえであるようにティセは言う。原始人の壁画に興奮していた、あのころのままに。
「ん……行ってみようか」
日差しが照りつける停車場の端まで行って降り、そこから線路の上を歩いて行く。すぐに車庫があり、一台の機関車と数台の客車、貨物車が吹きさらしに保管されていた。ひとっ子ひとりいないせいか、捨て置かれたような寂しさを漂わせている。
車庫を過ぎ、草原のなかを貫く線路を辿っていくと、ほどなくしてぷつりと途切れていた。なんの前触れも予感も与えずに、たとえば長く続いていた耳鳴りが突然止んだかのように、あっさりと終わっていた。
工事の資材であろう角材が脇にひと山積まれているが、風雨にさらされてすっかりと劣化していた。ほかにはなにもない、ただ草原が広がるだけだ。工事の計画など、もはや立ち消えになったかのように静まりかえっている。
ティセは呆気に取られた顔をして、
「嘘みたいに終わってる……! あんなにずうっと続いてて、ひとがたくさん乗ってたのに……!」
リュイは車内の混み具合や停車場の喧噪、轟々とした走行音、その振動を思い出しながら、
「なんだか、ひどく静かだ……」
「……これ、いつか本当にバンダルバードまで開通するのかな……」
「疑わしいな」
雲ひとつない青空を仰いだのち、ティセは途切れた線路の、まさに先端に立った。両手を腰に当て、まっすぐに前方を向く。はるか遠い、現実にはまだない本当の終着駅、バンダルバードの駅舎を見つめている。リュイはその姿を眺め見る。
ふいに、鋭い風音を立てて一陣の風が吹く。草が海原のように波打った。ティセの栗色の短髪は煽られて、額が露わになる。太股まわりがゆったりと作られた薄茶色の脚衣が、バタバタと激しくはためいた。ティセは微動だにせず、意志の塊のような黒い瞳でひたすらに前を見つめている。両手を腰に当てたまま堂々と、強風に立ち向かうかのように。
結果を全部背負う覚悟がある――――出発前のティセの言を思い出す。それはリュイにとって、心を貫いていくようなひとことだった。凛乎として胸に迫ると同時に、我を省みる言葉だった。溢れんばかりの好奇心を抱いて颯爽といくティセは、きつい風にさらされたとしても、逃げもせず頽れもせずに、いま目の前でしているように直立するのだろう。
その凛々しい立ち姿に、リュイはほとんど見惚れていた。呆れるくらい恰好よく、溜め息も忘れるほど美しいと感じていた。
町には数日滞在し、長すぎた汽車の旅の疲れを取ると同時に、シュウ国境への道程に関して、通行や治安などの情報を集めるつもりでいる。目抜き通りの一本裏道にある、比較的安そうな宿を訪ねた。
宿の主人はひょろりと背の高い初老の男だ。ふたりをひと目見て、ものめずらしそうに目を見開いた。この辺りならイブリアの民も少しは居住しているが、近寄りがたさを漂わせるリュイは、やはりひとの目を射るのだった。ティセについては言わずもがな、男の身なりをする奇妙な異国の少女なのだから。
宿泊を申し出ると、主人はふたりを凝視しながらたっぷりと間を置いた。のち、顔つきも声音も当惑気味に、
「……まあ、部屋はいくつも空いてるさね」
「見せてもらえますか」
手順どおりに尋ねるリュイに、ますます戸惑いを深めたように主人は尋ね返す。
「…………で、部屋はひとつかね? ……それとも、ふたつかね?」
リュイは、そしてティセも、はたと固まった。
束の間、沈黙が流れる。宿の受付に微妙な空気がうっすらと漂った。ふたりはゆっくりと横目で見合い、
「…………ひとつ、だよな…………」
ティセはまるで独りごとのように小声で問うた。
「……僕はそれでかまわないけれど……」
リュイもまた、同じような調子で返す。
「……じゃあ……」
ティセは主人を向き、率直に告げる。
「ひとつです」
主人は「……ふむ」と言葉少なに返し、ひどく怪訝そうな顔つきでふたりを部屋へ案内した。
粗末な寝具と古びた小机がひとつあるだけの殺風景な客室だった。必要なものを荷物から取り出して数日の滞在に備える。その間、ふたりはなんとなく無言でいた。
以前の旅では、こんなことはいちどたりとも問われなかった。ティセが少年に見えたので、宿泊を申し出れば自ずと同室に案内されたのだ。もうそんなふうにはいかないのだと、リュイはいまさら気がついた。間柄を問われることは想定していたが、ここには考えが及ばなかった。ティセもおそらくそうだろう。主人の問いかけに、はっとしていたようだった。
同室に泊まれば宿代を折半できるため――――とくにティセにとっては――――そのほうが都合がいい。しかし、宿へ泊まるたびに先ほどの主人のような怪訝顔を向けられるのかと思うと、リュイは少し憂鬱になった。
そっと溜め息をついてから、ティセの様子を窺えば、長い移動を終えてとりあえず落ち着いたというのに、面持ちも雰囲気も何故か沈んでいた。不満げに口を結び、むっつりと押し黙っているように見えた。
午前中に市場や茶屋などを訪ね、見物がてらひとびとから話を聞いた。それから書肆へ寄り、ハルカンドの地図を各々入手した。
宿への帰り道、ティセの右手がその腹に当てられているのを目の端に留めて、リュイは足を止めた。
「ティセ、どうかした?」
「え? なんで」
ティセはきょとんとリュイを見上げる。
「朝から何度も腹や腰をさすっているだろう。具合が悪いのか?」
ティセは今朝から幾度もそうしていた。この辺りの風物や名物料理の話を聞いて目を輝かせながらも、まるで無意識であるみたいに右手が動いていた。ひとびとの話を熱心に聞きつつ、ときおり、どこかつらそうに眉根をしわめていたのも、リュイは気がついていた。
ティセはふっと目を逸らし、
「…………なんでもないよ……」
やたらと小声で素っ気なく返した。その様子が不自然で、尚のこと気になった。
「……腹が痛いのか? なにか悪いものを食べた? 僕はなんともないけれど」
「なんでもないってば……」
うるさそうに、やはり小声で返す。あきらかに変だ。体調が気懸かりなのは、ティセの母親にした約束が頭を掠めるからでもあった。リュイは声音を強くして、
「ティセ、どこか具合が悪いのなら正直に言え」
まっすぐに顔を見下ろす。と、ティセはうつむいてしまった。そのまま黙り込む。
何故、という言葉が頭のなかをいっぱいにしたころ、ティセはようやく口を開いた。とても小さく低く、言い捨てるかのように言う。
「……心配ないよ、生理なだけだ……」
その返答はリュイの頭のなかで、なかなか消化吸収されなかった。
「…………」
だいぶたってから、
「……え!?」
つい、聞き返した。
ティセはぶすっとして横を向く。リュイは言葉に詰まりぼんやりとしてしまう。昨日宿の主人に問われた際とそっくりの、ぎこちない空気がふたりの間に漂った。
「…………それは……前にもあった?」
男だと思い込んでいたため気づかなかっただけだろうか、リュイはそう考えた。
「ないよ……でもいまはあるの」
「……そう……。けれど……それは腹が痛くなるものなのか……」
ティセは呆れ気味の目を向けた。
「おまえ、生理痛知らないの?」
「知らない」
生理は知っていたが、生理痛は知らなかった。
「あっそ。痛くなることもあるの、明日か明後日には治るから問題ないよ……」
「……そう」
と返すしかできない。話を切り上げて、宿へと歩き始める。
考えてみれば当然のことなのだが、リュイのなかではティセとそれが、どうにもうまく結びつかなかった。そのささやかな違和感は靄のような曖昧な困惑となって、頭のなかに広がっていくようだった。リュイは青空を見上げ、小さく溜め息をついた。
いまでもリュイを惹きつけてやまない、未知を追い求めるティセの強い眼差しや、まっすぐに前方へ向かう潔い立ち姿も――――……あのころのままだ。けれど――――決してティセはあのころのままではいない。分かりきっていたはずのことが、いまようやく本当の意味で…………胸に染みるような実感をもって分かった気が、リュイはした。
無意識にも、右の手のひらを意識する。それがしっかりと覚えている感触を意識する。腹の奥のほうから、なにか言いようのないものが、ずくんと込み上げた。内臓が驚いて、身体のなかがざわめいている感覚に囚われる。うわぁ……と小さく声を漏らしたい思いに駆られる。すると、曖昧とした困惑はいよいよ大きく明瞭になっていった。
にわかにティセが、まるで知らない存在のように思え始めた――――……。
…………ティセは、本当に女の子なんだ…………
三歳からハジャプートの養成施設に過ごしていたリュイは、旅に出るまでほとんど異性と交流をもったことがなかった。言葉を交わした記憶は、ごくたまに会える妹と母親くらい。それさえ、ぽつりぽつりと交わす程度だった。旅に出てからも、話をするのは自ずと同性に偏った。たとえ視界のなかに異性がいても、その姿は自分とは隔たった世界にいるもののように感じていた。
少なくとも施設にいた十三歳までに、性について教わることはなかった。そのため、そういう意味ではひどく知識の遅れた少年であったのだ。じつのところ、友人や兄貴分などから自然に知識が耳に入るという普通の環境に過ごしていたティセのほうが、よほど知識を持っていた。もっとも、かつてのふたりがそんな話題に興じることはなかったが。
なにも知らない少年だった。性に関することは小説のなかや、酒場や簡易宿にいた酔っぱらいから聞かされる色話から知っていった。けれど、小説のなかの色事は、視界の色褪せた当時のリュイにとってはただの記述にしか思えず、なにかを感じることも想像をたくましくすることもほとんどなかった。酔っぱらいのする色話は下品なうえに支離滅裂で、ただ鬱陶しいだけだった。
そんなリュイの、異性というものを初めて強く意識するようになった契機は、まさにティセのしたあの行為なのだった。
ともに過ごした一年を思い返せば返すほど、ティセが本当に少女であったかは甚だ疑わしくなっていった。一方で、手のひらに記憶してしまったかすかな感触とその行為自体が、鮮烈な体験として深く焼きついていった。幾度も脳裏によみがえった。自身、呆れ返るくらいにだ。そのたびに、腹の奥に疼くものを感じた。それは決して大きくないが、やけに露骨なうえ、自分では止められないような厄介な疼きだ。まるで、悪い病気のようだと思った。
ティセの行為は、リュイのなかに眠っていたものを揺り起こしてしまったのだ。いつのまにか、異性へ向ける眼差しに、いままでにはなかったものが含まれるようになっていた。
十八歳を迎えた現在、リュイはもう女を知っている。遅れはほぼ取り戻したつもりでいる。けれど――――……いまだ恋という病を知らずにいた。
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