7
最後の鍋をぴかぴかに磨き上げ、ティセは気持ちよさに貫かれて洗い場から立ち上がる。
「よっしゃ!」
女将を振り向き、顔つきをきりっとさせて、
「一年間、お世話になりました。小母さん、本当にありがとう!」
深々と礼をする。
女将はおおらかな笑みを浮かべて、ティセの両肩に手をかけた。
「一年間お疲れさまね。こちらこそ助かったわ」
そして、しみじみと言う。
「……あんたが店からいなくなるなんて……寂しいわぁ……」
「……小母さん……」
温かな言葉が、鼻の奥をツンとさせる。女将は少しく真面目な顔になり、こう言った。
「ねえティセ、私もよく考えたんだけど、あんた帰ってきたらまたうちで働かない?」
願ってもみない誘いに驚愕して「え!」、大きな声を上げた。
「あんたよくやってくれるから、もうほかの子雇う気になれないんだよ……。もしそうしてくれる気があるんなら、あんたの代わりは雇わないで待ってるわ。忙しくなったら臨時雇いで回してくわ」
ティセは感激のあまり暫し声が出なかった。女将の目をじっと見つめているうちに、じわじわと涙が滲んでくる。
「お……小母さん……ありがとう!」
思わず女将に抱きついた。出発前にまた挨拶に来ますと言い残し、最後の給金を手に、舞い上がるような気分と足取りで帰宅した。
出発の前日には、壮行会と称してふたたび皆で集まった。カイヤが皆に声をかけてくれたのだ。四人の仲間たちと、ためらいのある硬い顔つきをしながらもナギが来た。そのほか、かつての同級生たちや顔なじみのひとびとがぽつりぽつりとやってきては、ティセを激励した。
大量の茶を沸かした家のなかは芳しい香りに包まれていた。持ち寄ってくれたたくさんの軽食や菓子に手を伸ばしながら、歓談は賑やかに続いた。母もこの日だけは仕事を休み、来訪者を温かくもてなした。
リュイとカイヤは盤遊戯の盤を挟んで、長々と差し向かっている。かつてティセが夢みた対局がとうとう実現したのだ。
「うぅぅぅん………」
カイヤは眉間に深い皺を寄せながら、思いどおりにならない盤上を忌々しげに凝視する。リュイの一手にいちいち舌打ちをし、いらいらと膝をゆすり、腕を何度も組み直しつつ最良の一手をウンウン唸って捻り出す。
リュイはいたって冷静だ。背筋をまっすぐに伸ばし、無駄な身動きひとつせず、静かに盤上を見つめている。駒を指す手つきも静けさを纏って滑らかだ。
一戦目はリュイが勝ち、二戦目はカイヤが勝った。この三戦目で勝負が決まる。
ティセと仲間たちが傍からうるさく口を出す。
「そこだそこ、俺ならそうする!」
「いや、違うよ、莫迦だなあ」
「おまえ、負けたらナルジャの沽券にかかわるぞ!」
さも鬱陶しそうにカイヤは叫ぶ。
「うるっせえんだよ! おめえら! 全員表に出てろ!」
「うるせー、いいから早く指せよ!」
喧々愕愕の三戦目は、まもなくリュイの勝利の一手で終結した。
リュイがわずかに口角を上げると、カイヤは顔を引きつらせた。のち、顔を伏せ、やけくそのように両膝を拳でボコボコ叩きつつ、
「わああああ! くやしいいいいいいっ!」
それを見て、リュイは堪えきれないふうにクスクスと笑った。
「きみとティセはそっくりだ」
ティセとカイヤは思わず目を合わせる。心外だとばかりに、
「私、こんなかよ!」
「俺、こんなかよ!」
見事に同じ反応をしてしまう。リュイはますます可笑しそうだ。
ティセは厠へ立ったついでに開け放したままの戸口に佇んで、自宅前の道、村の中心部へと続くほうを暫し眺めていた。陽はだいぶ西へ傾いて、もうまもなく薄暗くなる時刻だ。
……ラフィヤカ……今日も来ないつもりかな……
今日のことを知らないわけではない、カイヤは当然声をかけたと話していた。親友であり恩人でもあるラフィヤカに、旅立ちを許してもらえないまま出発することが、ひどく残念であり、また心苦しかった。道の先にその姿が現れはしないかと、ティセは祈るように見つめていた。
ふいに、背中に小声がかかる。
「ティセ姉」
ナギがらしからぬ湿っぽい顔つきで、ティセを見上げていた。
「ナギ……。私、帰ってきたら、またおまえの母さんの店で働くかもしれないよ」
ナギはなにも返さす、じっとティセの目を見ていた。やがて、さらに小さく低い声で、ぽつりと尋ねた。
「ティセ姉…………ほんとにあいつと行っちゃうの……?」
「え……」
ティセははっとした。ナギの瞳には、そこはかとなく不信の念が浮かんでいるように見えたからだ。
ナギもラフィヤカのように、内心では自分の旅立ちを許せないのだろうか…………咄嗟にそう考えた。けれど、先日から続いているナギの様子を思えば、すぐに違う答えに行き着いた。旅立ちを許せないのではない、旅をする相手が…………ようするにナギは、リュイに少なからず不信の念を抱いているのだろう。それほどまでに、大きな隔たりを感じているのかもしれない。
言葉を詰まらせて、ナギの不満げな顔を見ていた。あんな胡散臭い奴と一緒に、大好きなティセ姉は行くと言うのか…………ナギの問いかけの言外の意味をひしひしと感じる。ティセは激しく戸惑いを覚えた。
困惑を胸に溜めつつ、ナギの非難を躱すため、気づかないふりをしてしまう。
「なんだよ、そんな寂しそうな顔するなって。何年もいなくなるわけじゃないんだから」
「…………」
「そうだ、ナギ。校長に、いない間に出発してごめんねって、よーく伝えてくれる?」
ナギはなにか言いたげに、ただじっとティセを見上げている。ティセは短く刈り上げたその頭に、ぽんと手を乗せた。
そのうち、興に乗ったラッカズとスストが酒を買ってきた。もっとも一般的な米を用いた蒸留酒だ。やわらかなランプの灯りの下で、壮行会は宴会となって続く。母は「ごゆっくり」と、自室へ引き上げていった。
「おまえ、いける口?」
頬と鼻の頭をほんのり染めたカイヤが、リュイに尋ねた。
「少しは」
そうかそうか、とカイヤはリュイの硝子の湯呑みに酒を注ぎ足した。ティセはニヤリとして、
「リュイは少なくとも十五のころから酒場で呑んでたよ。私も連れてけって何度も言ったのに、結局いちども連れてかなかったな」
「……そんなこと、まだ根に持っているの?」
リュイは呆れ声で返して、水牛の干し肉をひときれ口にした。
そこそこの時間にお開きにして、皆、一斉に帰って行った。気をつけろよ、元気でね、土産話楽しみにしてるぞ……仲間たちは口々にそう言った。ナギは始終静かだった。すっかり酔ったカイヤは最後までリュイに絡みつき、
「この阿呆を頼んだぞ!」
何度もそう言った。リュイはその都度、困ったように笑みつつ、曖昧にうなずいていた。
自宅前、満天の星の下で皆を見送り、少し寂しい気分で部屋へ戻ろうとした、そのとき。リュイがふと、道のほうを振り返った。
「……ティセ」
「なに?」
振り向くと、暗い道の先に人影が見えた。暗くとも、黄色の衣服が星明かりにぼんやりと明るく目に映る。ティセはどきりとした。
「ラフィヤカ……!」
ラフィヤカはこちらを向いたまま、暫し立ちつくしていた。やがて、つかつかと足早にふたりへ向かってきた。憎々しげに吊り上がるラフィヤカの両目は、ティセではなく、リュイに向けられている。厭な予感が、矢のように頭を過ぎる。
「……!」
ラフィヤカはほんの一瞬ティセを一瞥し、そして、慣れない手つきながらも、渾身の力を込めたような平手打ちで、リュイの左頬を打った。
「ラフィヤカ!!」
ティセはすぐさま、ふたりの間に割って入る。ラフィヤカの両肩に手をかけた。その華奢な肩は興奮のためか、大きく震えていた。
押し止められても、ラフィヤカは止まらない。ティセの肩越しにリュイをきつく睨みつけ、金切り声を上げる。
「なんで来るのよ、あんたっ! ティセをどこへ連れて行くつもり!? ……あんたなんか……来なければよかったのよっ!!」
「ラ……ラフィヤカッ! やめて!」
可愛げのある小生意気そうな両目から大粒の涙がぼろぼろと零れ出す。拭いもせずに、呆然と立ちつくすリュイを睨み続ける。
「来なければよかったのよ――……っ!」
涙声で絶叫し、ラフィヤカは来た道へと駆け出した。
「ラフィヤカッ!」
ティセは反射的に後を追い、直ちにその左手首を捕まえた。
「ラフィヤカ!」
「離してよ!」
振りほどこうと藻掻くが、ティセは手を離さない。
「落ち着けよ、ラフィヤカ!」
「いやよ! 離して! あんたも嫌いよ……あいつと同じくらい嫌いよっ! 大嫌いよ……っ!」
ティセは両腕をしっかりと捉え、その顔を真剣な眼差しで見下ろした。両腕を取られて観念したのか、ラフィヤカはにわかに神妙になり、うつむいたままグスグスと鼻を啜り続ける。
ひとしきり泣かせ、興奮が治まる頃合いを見計らう。ティセは言葉つきをやわらげて、諭すように言う。
「ラフィヤカ、旅に出るのは私の望みだよ。リュイには少しも責任がない。そんなこと、本当は分かってるんだろ?」
「…………」
「しばらくしたら必ず帰る。なにも変わらない、気に病むこと、なにもないじゃないか」
ラフィヤカはようやく顔を上げた。涙に濡れた目を震わせて、小声で問う。
「……本当に変わらない……?」
ティセは口の端を上げて、
「当たりまえだろ」
「……私の好きなティセでいる……?」
「間違いないよ」
ラフィヤカはティセの目をひたすらに見据え、それから、消え入るような声で返した。
「……気をつけてね。私、待ってる」
「うん、ありがとう」
どちらからともなく顔を寄せ、ふたりは軽く唇を合わせた。ラフィヤカは寂しげな目をしながらも、おとなしく帰って行った。ほっそりとした後ろ姿がひどく切なく目に映った。
リュイを振り返る。うつむき加減で立ちつくしている。
「ごめんね、リュイ。痛かった?」
「いや……」
地面に目を落としたまま返した。ティセはその顔を覗き込み、はっと息を呑む。
リュイは瞳に、見ているほうまで痛みを覚えるほどの傷心の色を露わに浮かべていた。うっすらと寄せた眉根と、固く閉ざした唇が、相当の痛手であったのを正直に物語っていた。
力いっぱいであったとしても、ラフィヤカの弱々しい平手打ちなど、リュイにはなんでもないだろう。けれど、心の痛みは別だ。ラフィヤカの平手が強く打ちつけたのは左頬ではなく、その心のほうだったのだ。リュイのこんな傷心の表情を目にするのは初めてで、ティセにはひどく衝撃だった。胸の奥が黙り込むほど驚いてしまう。
ほどなくして、リュイは気を取り直したのか、ゆっくりと目を上げた。
「彼女がラフィヤカ? 親友の」
「そ。大親友」
やや間を置いて、遠慮がちにリュイは尋ねた。
「ねえ…………女同士でああいうことをするのは、普通のこと? ……僕が知らないだけ?」
ああ、とティセはその素朴な疑問に納得する。自分たちの行為を笑うように、わずかに口の端を上げる。
「いや、普通はしないよ、あんなこと」
「そう。……それなら何故?」
「……母さんが言うにはね、ラフィヤカのは疑似恋愛なんだって」
「……疑似恋愛? それはなに?」
ティセは「うーん……」と自身でも考え込むように宙を見遣った。
「私にもよく分かんないけど……。ラフィヤカは子供のころから男嫌いなんだ。でも、恋に憧れる気持ちはみんなと同じように持っていて、それで男の子の代わりに私に恋してるって母さんは言ってる。だからね、ラフィヤカとは恋人同士みたいに接してやると、すごくうまくいくんだ。そういうわけ」
まったく分からないというふうに、リュイは表情なくティセを見ていた。
「ラフィヤカはただ、私がそばにいなくなるのが厭なだけ、ただそれだけのことだから、気にしなくていいよ、リュイ」
なにも返さず、そっとまぶたを伏せるような瞬きをひとつした。
ひときわ澄んだ日差しの注ぐ、晴れやかな旅立ちの朝となった。雲ひとつない空に、奇妙になるほど高らかに雲雀のさえずりが響いている。前庭に植えていた十数本の鬱金香が、今朝初めて輝くような黄色の花を咲かせた。まるで、旅立ちの祝福と、ふたりの道先に待っている幸運を暗示しているかのような朝だ。
「よっしゃ!」
ティセは気を引き締めて、心地よく重い頭陀袋を背に負った。前の旅にも使用した、父の遺品の頭陀袋だ。衣嚢にはもちろん、父の遺した方位磁石。そっと手を入れて、金属の感触を指先にする。
父さん…………行ってきます――――……
どこまでも見送りたくなってキリがないもの……母は微笑いながらそう言って、自宅の前でふたりを見送るのだった。
「行ってらっしゃい、ふたりともどうか無事でね」
「母さんこそ、病気しないでね、無理しちゃだめだよ」
「はいはい」
母は眼差しを真摯にさせて、リュイを見据えた。
「ティセをよろしくお願いします」
「はい」
リュイは静かに、けれどはっきりと答えた。
別れがたい思いで母の顔を眺めるうちに、ふと、ひとの気配を感じた。振り向けば、硬い顔つきをしたラフィヤカが、すぐそこまで来ていた。
「ラフィヤカ、来てくれたんだ」
表情は硬くとも、見送りに来てくれたことに心から安堵した。
母はラフィヤカに笑みを向け、
「久しぶりね、わざわざ来てくれてありがとうね」
ラフィヤカは母の横に立ち、その腕に自分の腕を軽く絡めたうえで、ティセをまっすぐに見る。心を乱した昨夜の様子とはまるで違う、少女の凛々しさをもって宣言するように告げる。
「ティセ、おばさまには私がついてるから、安心していいわ。行ってらっしゃい」
「……ラフィヤカ……!」
ティセは危うく、落涙しそうになった。
同時に気がついた、ラフィヤカの怒りや不満には、独り残される母親を思う気持ちからくるティセへの非難が、多少とも含まれていたのだということに。ティセは自身の浅慮を恥じた。そして、ラフィヤカに対する感謝の念を、いや増しに深めていく。
母もまた、その温かな思いやりに涙を堪えていると分かるぎこちない顔つきをしていた。
ふたりは新しい旅の第一歩を踏んだ。隣町ジャールへと続く田舎道を行く。先頭はリュイ、斜め後ろにティセ――――小さな旅の一行は、あのころのままでは決してないが、且つまた、あのころのままでもあるのだった。
なだらかな長い上り坂を淡々と歩いて行く。リュイが見つめている道の先を、少し後ろから、ティセも同じように見つめている。まっすぐに前を向くリュイの、少しも変わらない顎の上げかたや輪郭の形…………直角に近い涼しげな肩の線が、青空を背景に白く美しく映えている。ティセはその懐かしい後ろ姿を眺め見て、胸の奥をじいんとさせていた。
なんとはなしに身を乗り出して、その顔を窺ってみれば、リュイもまた、深い感慨を覚えているかのように目を細め、懐かしさを持てあまし困っているふうに、唇をきつく締めていた。
宝物を探すという建て前の、ともに歩いて行くための旅が始まった。
【第一章 了】
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