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解放者たち 第二部  作者: habibinskii
第六章
69/71

7

 澄んだ空気に満ちた朝の食堂は、数十人の饗宴を張れるほど広い。かつては立派な食卓がいくつも並んでいたであろうが、いまは六人掛けの食卓が二台きりだ。明るいせいか、昨夜ひとりで夕食を食べたときよりがらんとして見える。ふたりは同じ食卓に着いてはいるが、間に一席を空けたはす向かいに座っている。まるで、偶然同宿したひととただ相席しているだけかのように。

 朝食を終えるころ、あの頼りない顔をした女将の息子が食堂へやってきた。


「おはよう、お客さん、もう送迎の用意はできてまっせ。玄関にいまっせ」

「送迎?」


 女将の息子はきょとんとしてから、


「遺跡行くんでしょ? 昨日送迎するって言ったでしょ。だからロバ車を借りてきたんでっせ」


 そういえばそうだったとティセは思い出す。

 正直なところ、遺跡見物どころではなかった。あれからリュイはひとことも口をきかない。目を合わせない。かといって、怒っているふうでは決してない。まるで空気のようになって、ただ静かにそばにいる。あんなふうに泣いた自分を刺激しないようにしているつもりなのだろう。それが分かるからこそ、息が詰まりそうだった。

 しかし、送迎のためにせっかくロバ車を借りてきてくれたというのに、見物を取りやめるとはさすがに言いづらい。


「……じゃあ、すぐ用意してきます」


 そう言って立ち上がると、ひと呼吸置いてリュイも立ち上がった。






 遺跡のある東の森へ向かって、二人乗りの可愛らしいロバ車が林のなかの一本道を駆けていく。ロバと車だけをどこからか借りてきたようで、女将の息子自らが手綱を取る。座席がとても狭く、ふたりは肩が触れあうような近さで揺られている。どうにも居たたまれないのだが、女将の息子が話しかけてくれるのがせめてもの救いだ。


「お客さん、このあとはどちらに行かれるんで?」

「バンダルバードです」


 リュイは周囲の木立に目を向けて沈黙を貫いているので、ティセが答えた。


「ふうん。バンダルからは船にでも乗るんで?」

「そう、ランタリアへ行こうと思って」


 女将の息子はくるりと顔を向け、


「ランタリア! 俺、うんと小さいとき何度か行ったことありまっせ」

「へえ! どんなとこですか」

「いろんな顔したひとがいたなあ……海のほうはかなり暑いけど、山のほうは涼しいし景色もきれいだし、いいとこでっせ。ほら、お茶で有名な……」

「クルネーガル?」


 例の秘密の手紙にあった、ふたりが目指している高原地帯だ。


「そうそう、お金持ちの別荘がいくつもあってねえ、きれいでっせ」

「クルネーガルにも行ったんですか?」

「いやねえ……うちも大昔あそこに別荘を持ってたんでっせ。そんなに立派な家じゃなかったけども……もう何十年も前に売ってしまいましたのさ」


 ティセはにわかに切なくなったが、女将の息子の声音はあっけらかんとして軽いので、こちらも軽く受け流すことにした。しかし、幼少時とはいえ何度か訪れているのなら、もしや知っているかもしれないと思いつき、


「あの……クルネーガルのどこかに、光の丘って呼ばれてるところがあるかどうか、知りませんか?」


 手紙には、光の丘に宝物を隠したと書いてある。女将の息子は「はてなあ」と首を大きく傾げて答えた。


「光の丘ぁ…………丘っちゃ丘ばかりだけども、光のねえ…………」

「知りません?」


 はるか昔の遠い記憶を探っていると分かる、長い時間をかけて考えている。


「……ああ、そうだ……光の丘は知らないけど、物の怪の丘ってのは聞いたことあったなあ……」

「物の怪?」

「地元のひとたちにね、物の怪が出るから絶対に行くなって言われてるとこでっせ。どこだかは知らないけど、俺、小さかったから物の怪って聞いてちびるほど怖かったの覚えてまっせ。ま、子供を脅かすために言ったただの冗談かもしれませんがね」


 ははは、と笑ってロバの尻を鞭でピシリと叩くと、それをはずみに思い出したように言う。


「そう、二ヶ月くらい前に来たお客さんが話してたけどね、一昨年からランタリア行きの船に、遊覧付きの楽しいのが運航してるらしいでっせ」

「へえ!」

「普通の定期便よりはずっと高いけど、手頃な三等でもなかなか贅沢だって話でっせ。試しに乗ってみたらどうでっせ」


 道が大きく右へ折れると、すぐに遺跡の入り口に到着した。門があり、一筋の道が鬱蒼と茂る森の奥に延びている。辺りには数軒の食堂と茶屋、土産物の出店が並び、威勢のいい売り声が響いている。十数台の馬車やロバ車、人力車も数台停車していて、客が戻ってくるのをのんびりと寝ながら待っていた。貸し切り契約でない車は待ち合わせ時刻を決めて、それまでは町に戻って稼ぐのだろう。

 ふたりはロバ車を降りた。


「じゃあお客さん、あとで迎えに来まっせ。お気をつけて」


 女将の息子は戻っていった。人手の足らないあの宿ならやることは山とあるのだろう。


 ……ああ……救世主が帰っちゃった……


 ティセは悄然としながらそれを見送った。

 恐る恐るリュイを振り返る。と、目が合わないようにしているのか、あちらでも遺跡の入り口を振り向いた。そのまま、無言で入場券売り場へ歩いて行ったので、ティセも無言であとに続いた。



 森のなかは夥しい鳥のさえずりが降り注ぐ。木漏れ日きらめく涼しい道を、遺跡案内の刷り物を片手に歩いて行く。心の距離を反映して、リュイの十歩も後ろを歩く。車付きの案内人を雇うことも可能だが、そうすると遺跡の説明を聞くために、リュイのそばにいなければならないので止めた。おそらく、リュイも同じ考えだろう。あとから来た三人連れの観光客が、案内人のロバ車に乗ってふたりを軽快に追い越していった。

 やがて、最初の遺跡が左手に現れた。階段状に石が積み上げてあり、その上に半分崩れた石造寺院が建っている。浸食が激しいものの、精緻な浮彫がそこここに充分美しく残っている。

 ティセはそれを目にして、心から悲しくやるせない想いに駆られる。


 …………こんな美しいものを、こんなすごいものを、こんなふうにひとりで眺めてるなんて…………すぐそこにリュイはいるのに…………


 リュイはこちらを振り向くことはなく、適当な距離を保ったまま遺跡を眺めている。



 ふたりはいくつかの遺跡を巡った。遺跡の森のなかは広いため、ほかの観光客を見かけることはあまりなく、たいていの遺跡はなかば独占状態で見物できた。

 丘の斜面に沿うように造られた、三層構造の石造寺院へ来た。一層目は比較的原型を保っているが、二層目、三層目は半分以上壁が崩落していて、内部は風雨にさらされて久しいようだ。ティセはリュイにやや遅れて、一層目に入っていった。ほかに誰もいない、内部は薄暗くひんやりとし、古い神の像が祀られていた祭壇跡だけが遺っている。いったん外に出て、右手にある二層目に続く石の外階段を上る。リュイはすでに二層目の内部に入ったようだった。


 外階段を上りきったときだ。静謐な森のどこか遠くから、不気味な低音が鳴り響いてきた。途端、高らかに鳴いていた鳥たちが一斉に鳴き止んだ。



「――――!?」



 胸騒ぎがして、ティセは空を見上げた。その瞬間、ドンッ……大地が波打った。



「わあっ……!!」



 不気味な低音は地鳴りだ。強い地震が遺跡の森を揺るがし始める。木々が大きくしなり嵐のような音を立てる。地震の経験があまりないティセはどうしていいか分からず、咄嗟にしゃがみ込んだ。恐怖で足が完全に硬直していた。慌てふためいてリュイの姿を視界に探す。二層目の狭い入り口、その奥に白い衣服がちらりと見えた。ちょうどそのとき、天井が崩れ落ちるのを見た。




「――――――――――…………っ!!」




 ティセは声を失った。頭のなかにあるすべてが消し飛んだ。崩れ落ちる石の音さえ、聞こえない。




 数十秒後、揺れはすっかり収まった。鳥がふたたび歌い始める。なにもなかったように、森は静寂を取り戻す。

 幸い、ティセの頭上にはなにもないため落下物はなかった。もうもうと土埃を上げる二層目の内部を、しゃがみ込んだまま瞠目して凝視する。硬直していた足がぶるぶると震え始め、とても立てない、歩けない。



 …………リュイ…………



 ほどなく土埃が収まった。崩れたのは天井の一部だけ、床に十数個の巨大な石が無秩序に重なっている。ティセは真っ青な顔でリュイを呼ぼうとした。が、声は出ない。声帯は凍り付いている。




 ――――まさか…………まさか、そんなこと…………――――




 とても耐えられない想像が、矢のような速さで幾度も脳裏を過る。それは一瞬なのに、千回も万回も耐えがたい恐怖を味わった気がした。







 放心するティセの前に、二層目の狭い入り口からひらりと白いものが現れた。リュイだ。




 ――――――――……!!




 すると今度は、気が遠くなるほどの安堵が奥底から突き上げてティセを貫いていった。

 リュイはティセとまるで同じ恐怖を味わったような顔をして、しゃがみ込んだまま放心しているティセの前に、さっと両膝をついた。声を逸らせて、


「怪我は?」


 見開いた黒い瞳をじっと見つめる。その白い衣服は土埃を吸い込んで薄汚れている。自分のほうがずっと危険だったことなど眼中にないのか、ひたすら心配そうにティセの目を見つめている。

 もういちど、次は囁くように問う。


「……ティセ、怪我は……?」


 その声を聞いた途端、ティセはもうなにもかも――――――このところ囚われていた、想いを打ち明けることへの不安、戸惑い、物怖じ、面映ゆさ…………そんなものがすべてどこかへ掻き消えた。無心になって、


「……ああ……っ!」


 溜め息交じりの声を上げ、両膝をつくリュイの胸に寄り縋った。


「リュイ……!!」


 衣服の胸元を両手でひしと掴み、そこに額を押し当ててすすり泣く。


「う……リュイ……リュイ……!」


 リュイはひどく驚いているように目を見開き、呆然とティセの頭を見下ろしている。すでにいまティセの手はリュイに触れているけれど、自分は触れられないといまも思っているのか、泣き続けるティセの肩に手を置いて慰めることもせず、ただ呆然と黙っている。




 やがて涙は収まった。ティセはそのままの体勢で、静かに口を開く。まっすぐな声で、


「リュイ……ずっとおかしな態度でいて……ごめんなさい……」

「…………」

「……いま、いちど心臓が止まったから、もう怖くなくなった……だから、ちゃんと言う」

「…………」


 ひと呼吸置いて、ティセは胸元を掴んだ手を離し、そっと顔を上げた。怪訝そうにしているリュイの顔を見上げ、率直に告げる。



「おまえが好き…………」



 リュイは顔つきを少しも変えない。まるで聞こえていないかのように。


「怒ってるんじゃない……おまえが好きなの…………そう気づいたら、普通に話ができなくなっちゃって…………ごめんね」


 それでもリュイは微動だにしない。やはり、聞こえていないかのように。

 暫し、沈黙が流れる。鳥の歌声だけが重奏となって響いていた。



 何故なにも返さないのだろう、予想していたように、困り果てているのだろうか………………ティセはやや伏し目になって、失意と哀しみが胸にじわじわと滲んでいくのを感じていた。

 なにか言って……言いかけようとしたら、ようやくリュイの唇がわずかに動いた。


「…………それは……そういう意味……?」


 好きの意味を問うているのだ、ティセは伏し目のままうなずいた。リュイは怪訝な顔を改めもせず、またもたっぷりと沈黙した。ティセは失意と哀しみをますます募らせる。


「…………おまえは…………シドルを想っていなかった?」


 驚いた。まさか気づかれていたとは思わなかった。ティセは正直にうなずいた。


「……好きだった。でも……おまえのほうが、もっと好き……」

「………………」


 また沈黙に戻りそうなので、長いことわだかまりになっていたあのことを尋ねようと決めた。きっと、いまこんなときにしか言えない。ティセはうつむいたまま口にする。


「ねえリュイ…………あれは、なんだったの……?」

「……あれ?」

「夏に、山で嵐に遭っただろ…………なんであんなことしたの……?」


 リュイは息を詰めたようになって、それからばつが悪そうな顔をした。その様子を見れば、やはりリュイのほうでも大きなわだかまりになっていたのだと覗える。束の間目を逸らしていたが、言いにくそうに答えた。


「そうすれば…………おまえがおとなしくすると思ったから……」


 その返答は、ティセの耳には非情なほど冷たく聞こえた。あの行為には、ほんのわずかでさえ気持ちはなかったのだと言われたも同然で、激しく衝撃を受けた。頭にセレイの顔が浮かび、




 …………やっぱり思ったとおり……リュイは私のこと好きじゃないよ……




 思わず心で訴える。失意と哀しみが喉元までぐっと込み上げたのを、懸命に呑み込んだ。


「……そう…………それだけなんだ……」


 掠れた声で、自分を納得させるようにつぶやいた。リュイの心は自分にはないのだと、言い聞かせるように――――……。

 さすがにティセは黙り込んでしまった。うつむき加減で悲痛な面持ちを見せるティセを、リュイは不可解そうに見下ろしている。何故そんな顔をするのか、まるで分からないというふうに。


「…………それだけ、というのは……?」


 とてもではないが、もう答えられない。


「…………」


 無言を返すと、リュイは釈然としないように言った。


「僕は…………おまえを好きだと言っただろう?」


 瞬間、ティセは雷に打たれた。はっと瞠目し、顔を上げる。声を震わせ、



「…………言わない」



 すると、リュイも目を見開く。


「言わない? まさか!?」

「言わないよ」

「言った……!」

「言わないっ!」


 声に力を戻したティセに圧されたようになって、リュイは呆然とする。けれど……と、急に立場を弱くしたような言葉つきで、


「……応えてくれなくてもいいと、僕は言ったよ」

「それじゃあ意味分かんないよっ!」

「……ほかにどんな意味があるというの……?」

「ちゃんと言ってくれないと……!」

「……それなら、もういちど言おうか」

「いっ……いいよ、いま聞いた!」


 つい先ほどまで悲痛に青ざめていたティセは、いまや頬を桃色に染め、通じた想いに瞳を潤ませる。リュイは信じられない奇跡が起こったかのように……否、まだなかば疑わしそうに眉を寄せている。奇跡に戸惑っている声でつぶやいた。


「……さっきから、僕はもう何度も心臓が止まっている」


 熱を含み湿り気を帯びたティセの瞳は恋をするひとの瞳だ。その一途な瞳を、リュイは愛しさが零れ落ちるような眼差しで見つめている。そして、そっと右手を上げ、ティセの頭に触れようとして、手を止めた。ためらい気味に、


「……触れてもいい?」


 うなずくと、まるで壊れものに触れるときのような慎重さで、栗色の髪に手を触れた。触れた辺りを、ティセは強く意識する。加速度的に増していく想いをしみじみと感じていた。リュイは手を触れたまま、


「…………もう、おしまいかと思った……」


 つぶやいたのち、言わなくていいと言ったのに…………あのときは言わずにティセを散々迷わせたにも拘わらず…………溢れ出す想いをどうしていいのやら、途方に暮れているような声で、リュイは囁いた。



「……とても好き…………応えてくれなくてもいいなんて、嘘だ」



 触れている部分が高熱を発している気がする。どこか奥のほうから熱いものがふくふくと込み上げる、身体がどんどん火照っていく。このままこうしていたら、熱で蕩けてしまいそう――――……ティセは暗緑の瞳を見据えながら、熱い茶の入った湯呑みの底で溶けていく氷砂糖を思っていた。







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