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陽がすっかり西へ傾いた。ティセは部屋の広縁に出て暮れていく空を眺めている。たなびく雲は茜色に染まり、夕風は水浴びで湿った髪を涼しく撫でていく。遠くから牛の鳴き声が、やけに哀愁を帯びて聞こえていた。
部屋のほうへちらっと目を遣った。広縁に面した窓越しに、椅子にかけて本を読むリュイの姿が見える。視線に気づかれないうちに目を戻す。こうして広縁に出ているのは夕焼け空を楽しむためではもちろんない、リュイから逃げるためだった。
……こんなこと……いつまでもできるわけじゃないのに……
いかにも阿呆らしい行動だと、自分でも情けなくなるばかりだ。
西側の森の向こうに真っ赤な太陽が落ちる。ややあって、リュイが広縁の出入り口辺りまで出てきた。
「そろそろ、食堂へ降りよう」
陽が落ちるころには夕食の用意ができると聞いていた。ティセは目が合わないように形だけ振り返り、
「うん、そうだね……」
答えたものの、行動は伴わない。
「…………」
いまリュイがそこはかとなくつらそうな顔で黙している様子が、目を逸らしていても眼前に見るように分かる。
……ごめん、リュイ……
心のなかで謝りつつも、すぐそこから自分を見ているその視線に耐えられず、ティセはなんとなく一歩二歩と広縁の柵のほうへ寄っていき、手すりに右手をかけた。ほんの少しばかり寄りかかった、そのとき――――――
腐食していたのだろう、柵の根元がメキリと湿った音を立てて折れ、外に向かってグラリと揺れ動いた。かけた手が急に揺らいだので、
「ひゃ……!」
ティセは少しく体勢を崩して、ひやっとする。
驚いたのはむしろリュイだ。血相を変えたと同時に飛んできて、すぐさまティセの左腕を取ってぐいと引き寄せた。
瞬間、心臓が跳ね上がる。息が止まる。急に柵が壊れたことよりも、腕を取られたことに百倍驚いた。
「――――――……!!」
二の腕に強い握力を感じる。あの嵐の日以来いちども触れていないリュイの手が触れている。引き寄せられて、その気配を間近に感じている。頬に体温が伝わってくるような近さに、リュイがいる――――……。
心臓がドクドクと生々しく鼓を打った。一瞬で息が苦しくなり、身体の隅々まで硬直する。咄嗟に隠れたくなって、ティセはじっとうつむいた。
リュイは外側に向かって崩れかけた柵を驚きの目で見据えたまま、安堵の溜め息をついた。それから、いま初めてティセの腕を取っていることに気づいたように、顔つきをはっとさせた。
「…………」
しまった、とでも言いたげな目をしてティセを見下ろしている。けれど、掴んだ腕を離そうとはしない。ふたりはそのまま無言で広縁に立ちつくした。
じっとうつむくティセの顔はみるみる青ざめて、表情も苦しげになっていく。厭でたまらないようにでも見えるのだろう、リュイは悲嘆に暮れたような眼差しになってその様子を見つめている。どれほど衝撃を受けているか、ティセには手に取るように分かる。拒絶はリュイを最も傷つけるのだと充分に知っている。
ティセは少しだけ顔を上げ、可能なかぎり平静を装って、
「びっくりしたね、この宿ボロいから…………」
引きつった笑みを浮かべつつ、リュイから離れようとした。
ところが、リュイは手を離さない。どころか逆に、腕を取る手に力を込めた。
「――――……!」
ティセの心臓はふたたび跳ね上がった。
わずかにでも触れてしまわないよう、あれだけ用心していたはずなのに、たったいま受けた衝撃がリュイのなかのなにかを変えてしまったのだろうか。にわかに眼差しを厳しくさせて、どこか責めるように問う。
「ティセ、先日にも訊いたけれど…………いったいなにが気に障ったのか、いいかげん教えてくれないか……」
「…………」
「怒っていないと言ったのは嘘だろう?」
「……お……怒ってないよ……」
「嘘だ! 理由を説明してもらえなければ、僕は謝罪も弁解もできない!」
その声には怒りと憎しみが滲み始めていた。不満を露わにティセを凝視する。ティセは狼狽え、怯えた声で小さく返す。
「……ほんとに怒ってない、そうじゃない……」
「ティセ!!」
腕を取る手にさらに力が籠もる。
「……!! いいから離して……!」
ふいに視線を感じて、ふたりは庭へ目を遣った。先ほどティセが見ていた花壇の家庭菜園に、如雨露を手にした下女が立っていた。柵が壊れたことに気づいているのかいないのか、それとも、いまふたりが繰り広げている痴話喧嘩さながらのやりとりのほうが気にかかるのか、好奇の目でこちらを見上げている。
リュイはめずらしくも軽く舌打ちをして、なかば強引にティセの腕を引いていき、室内に連れ込んだ。その思いがけない荒々しさに、
怖い……――――!
ティセは真剣に背筋を寒くした。
薄暗くなった部屋の中程まで、ぐいぐいとティセを引っ張っていく。
「……離し……」
掴まれた部分に手の跡が赤く残るほど力が強い。部屋の中央に立たせ、取った腕はそのままに、リュイはまっすぐにティセを見下ろした。
「なにが気に障った? さあ教えて!」
激しく動揺してしまい、なにか言おうにも言葉が出ない。リュイはいらだったように声をさらに鋭くする。
「なんでも遠慮なくものを言うおまえが何故言えない!?」
まるで猫に追い詰められた鼠だ、ティセは怯えた目をして狼狽するばかりで、顔も上げられない。どうしようもなさが込み上げて、喉元を塞いでいく。苦しいほどいっぱいになる。
「ティセ!!」
その手にいっそう力が籠もる。
「……痛っ……!」
小さく呻いたそのはずみ、喉元いっぱいに詰まったどうしようもなさが、涙に変わった。
「うっ……うっ……」
下を向いたまま、込み上げるままに泣き始める。リュイはひどく驚いたように顔つきを一変させ、
「………………」
おもむろに手を離した。
こんな有様になったことはいままでいちどもない、ティセは自分でも驚愕していた。なにかを言いたくても泣くしかできない無知な子供か、あるいは、興奮のために分別を欠いた見苦しい女のようだ。心の底からみっともない、けれど、
「うっ……うっ……」
嗚咽が込み上げて止められない。
リュイは顔から怒気をすっかりと消し去って、肩を震わせて泣き続けるティセを呆然と見つめている。こんなふうに泣いていることが、そして思いがけず泣かせてしまったことが、信じられない――――……そんな面持ちで立ちつくす。
いつでも強気でいるティセが、じつは意外なほどよく泣くのだという事実を、リュイは十五のころから充分に知っているだろう。しかし、それは概ねのところ理由の分かる涙であったはずだ。いまこうして泣いているのが何故なのか、リュイには露ほども分からないようで、まるで理解不能な生きものを見るように見つめている。少しずつ暗くなっていく部屋の中央に佇んで、ふたりはしばらくそうしていた。
嗚咽を漏らしながら、ティセは心で喚いていた。
……いま、言わなきゃ……いま、言わなきゃ……――――
この不自然な態度の理由をいま直ちに言わなければ…………いましがたリュイのしていた悲嘆に暮れたような眼差しが脳裏を過ぎる。それを思うと、火の付くような焦燥にかられた。あの眼差しは、リュイに怖ろしいひとことを言わせてしまうかもしれない――――怖ろしいひとことを……――――
――――ナルジャに帰って……旅はおしまいだ――――
そう口にして、かつて開いてくれた心の内側の扉を、自分のせいでふたたび固く閉ざしてしまうかもしれない。
そうなってしまう前に、言わなくちゃ…………!
ティセは右の袖口で涙を拭い、どうにか顔を上げてリュイを見た。もう為す術がないと観念したような面持ちでいる。伏し目になって、哀しげに目を逸らしている。あの……と、ティセが唇を震わせるより早く、リュイは静かに告げた。
「言いたくないのなら、もう尋ねない…………僕は、それでもいい」
「――――……!」
反応を待たずに、リュイはすっと背を向けた。そして、ひとりで食堂へ降りていった。
――――なんてことに…………!!
ティセは涙目を見開いて立ちすくんだ。両手を胸の前に押し重ねて、リュイの言葉をくり返す。
帰ってくれとは言わない、それでもいいと言う。この不自然で居心地の悪い…………すっかりと変わり果ててしまったふたりでもいいと言う……。
「――――いいわけない……」
絞り出すように独りごち、その場にしゃがみ込む。物の陰影が曖昧になってきた暗い部屋で、ふたたび込み上げてきた涙を流す。
「うっ……うっ……」
最悪だ、最悪の状態になってしまった――――……
あの一年の旅の間に築いた最高の関係でいられたのは、初めの数ヶ月、夏までに過ぎない。どこかに狂いが生じて変容し、同じようでいてまるで違う別のものに成り果てる……もとより抱いていた懸念のとおりにことは運び、いまこうして最悪の関係になってしまった。もはやふたりを、このうえない相棒と呼べるだろうか。これではまるで、最高の関係を壊すために旅へ出たようなものだ。
ティセはおおいに嘆き、そして、自分を責めた。こうなってしまったのは、すべて自分に意気地のないせいなのだから。リュイは何故かと二度も尋ねた。そう、リュイは告白の機会を二度も与えてくれたのだ。ティセはそれをことごとく無下にした。告白したとしても困惑させるだけかもしれない、けれど、こんなふうにリュイを悲しませ傷つけることはないはずだ。セレイがぴしゃりと言い切った「兄さんを悲しませないで!」を思い出す。
リュイ……本当にごめんなさい……
先日船の上で一緒になったママラの忠告が胸裏に浮かぶ。
――――勇気を出して時機を逃さないようにしないと、彼、いつのまにか手の届かないひとになっちゃうかもしれないわよ――――
言うとおり、ティセは大切な時機を二度も逃した。そして、それがもういちど訪れるかどうかは分からない。もうすでにリュイに手が届かないように思えて、ますます涙が込み上げた。
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